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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1)

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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1)

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


1 赤松命令説の問題の所在


渡嘉敷島において発生した住民の集団自決については、かつて赤松隊長から発せられた《部隊の行動を妨げないため、また、部隊に食糧を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ》との無慈悲な命令によるものだとする《赤松命令説》が定説とされていた。

かかる《赤松命令説》の記述は、『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)(以下『戦闘概要』と呼ぶ)、『秘録沖縄戦史』
(昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史8巻』(昭和46年)(乙8)に認められる。

《赤松命令説》に対し、赤松隊長自ら『私は自決を命令していない』(昭和46年)(甲B2)と題する手記を発表して異議を唱えている。


2 赤松命令説の成立


(1)『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)の記載

「翌26日の午前6時ころ米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。―中略―住民に対する赤松大尉の伝言として〈米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう〉ということも駐在巡査から伝えられた。」(乙2p33)。

「同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けない自決命令が赤松からもたらされた。〈こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、軍に出血を強いてから、全員玉砕する〉というのである。」(同p 34)。

「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍は最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、自給態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉〈沖縄出身〉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」(同p36)。

(2) 『戦闘概要』(昭和28年)(乙10)の記載

「昭和20年3月26日、敵は海空援護の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始したが、赤松隊は西山陣地に引っ込んだ。」「27日夕刻、駐在巡査安里喜順を通じて住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」(同p12)。

「昭和20年3月28日午前10時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地に集まったが、―中略―住民の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。」「危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた」「老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p12,13)

(3) 『慶良間島・座間味村及び渡嘉敷村「戦況報告書」戦争の様相』 と呼ぶ(乙3)の記載

「3月27日夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された」(同p 22)。

「28日午前10時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集まった。―中略―瞬時にして老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された」(同p23) 。

しかし、『戦争の様相』には赤松隊長の自決命令は記載されていない。

(4) その後の出版物の類似性

その後に出版された『秘録 沖縄戦史』(昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』(昭和34年)(乙5)、『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(昭和43年)(乙6)、『沖縄県史 8巻』(昭和46年)(乙8)の記載は、同様に『鉄の暴風』『戦闘概要』や『戦争の様相』を下敷きにして記述された。

(5)

本件で問題になる『太平洋戦争』『沖縄問題二十年』『沖縄ノート』もこれらの記載をもとに作成されたものである。


3 赤松隊長の反論


(1) 『私は自決を命令していない』

自決命令をだしたとされる赤松隊長は、『私は自決を命令していない』と題する手記を執筆し、自決命令を出していないと明言する(甲B2・『潮』昭和46年11月号)。

「〈昭和20年3月〉26日夜、私たちは寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が上陸は多分明日だと伝えると〈では住民は?住民はどうなるんですか〉という。正直な話26日に特攻する覚悟だった私には住民の処置は頭になかった。そこで〈部隊は西山の方に移るから、住民も終結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう〉と示唆した。これが軍命令を出した、自決命令を下したと曲解される原因だったかも知れない」(同p216下段末尾からp217上段) 。

「27日、米軍の上陸開始、28日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれ陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。」29日になって(住民が)自決したことが分かった(同p217 中、下段) 。

(2) 赤松隊長の「血の叫び」

赤松隊長は、「村当局がまとめた戦記がマスコミの目にとまるや次々と刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになった。戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。かれらの書物を孫引きして、得々として良心的な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。

そして、「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか〉とみずから「血の叫び」を訴えている(同p221)。


4 赤松命令説の破綻


(1) 『ある神話の背景』の内容

曽野綾子は『ある神話の背景』(昭和48年)(甲B18)で赤松命令説の疑問点を明らかにした。

『鉄の暴風』、『戦闘概要』に赤松隊長の集団自決命令は記載され、これらが、その後の書物に子引き、孫引きの形でそのまま引用された。

軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのが沖縄タイムスの『鉄の暴風』、これを基に作成したのが『戦闘概要』である。

『戦闘概要』に『鉄の暴風』と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が『戦闘概要』に見られることなどをその理由としてあげる。さらにこれらをもとに作成されたものが『戦争の様相』(乙3)であるとする(甲B18p48) 。---『ある神話の背景』からの引用

そして、『戦闘概要』に記載のある自決命令が『戦争の様相』に記載されていないことについて、村が作成した資料にこれほど重大な事実が、不注意で欠落することはありえない。『戦争の様相』作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものである(甲B18p48) 。---『ある神話の背景』からの引用

そうすると渡嘉敷村でも隊長命令がなかったことは認めていることになる。 

さらに曽野は米軍上陸の期日昭和20年3月27日をこれら3つの資料は3つとも同じく3月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18p49)。米軍上陸という重大な日を間違えるようでは戦史としての信頼性は全くない。---『ある神話の背景』からの引用

最初の資料『鉄の暴風』は太田良博が当時座間味村の助役の山城安次郎と南方から復員した宮平栄治の2人から取材して作成した。宮平は事件当時南方にあり、現場を見ていない。また山城が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である(甲B18p50,51 ) 。---『ある神話の背景』からの引用

事情は聞いたとしても、しょせんは伝聞証拠である。しかも太田はこれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷の集団自決を含む沖縄全体の戦史を3ケ月調べ、3ケ月で作成したのである(甲B18p51)。---『ある神話の背景』からの引用その結果、沖縄タイムス社の役員牧志伸宏みずからが、調査不足があったことを認めている程である(甲B10)。

決定的なのは赤松元隊長の副官知念元少尉の話である。『鉄の暴風』に隊長命令説を裏付けるくだりとして「3月27日に地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は〈持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している〉とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」と記載する(乙2p36) 。

しかし、曽野が昭和47年7 月に那覇で会った際、知念元少尉は「地下壕はなく、将校会議が開かれた事実もない」と否定した。加えて知念元少尉は「昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切インタビューを受けたことがない」と明言した(甲B18p112,113)。---『ある神話の背景』からの引用尚、知念元少尉は法廷においても同旨の証言をしている(知念調書p6,9)。

結局、『鉄の暴風』は知念元少尉に取材せずに知念元少尉の内面的経験を記載したことになる。これでは隊長命令を決定的に裏付ける事実が存在しないことになり、赤松命令説が虚偽であるといわれても仕方がない。

また自決に失敗した村民に赤松部隊が治療をしている事実がある。古波藏(米田)村長もこの事実を認めるし、若山元衛生軍曹は治療が「軍医や隊長の意向であった」ことを認めている(甲B18p121)。---『ある神話の背景』からの引用

自決命令が出ていたならば、治療をするはずがないのであり、赤松部隊が負傷者の治療をしたことは、自決命令が出されていない何よりの証拠である。


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