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虐殺は嘘17に対して

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pipopipo555jp

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虐殺は嘘17 誰も知らなかった虐殺3 2006/ 7/18 0:33 [ No.11107 / 12177 ]
投稿者 :
deliciousicecoffee


1938年3月に開かれた国民党の臨時大会で何応欽参謀総長の軍事報告がなされたがその中で南京事件については一言も触れていない。

攻防戦でおびただしい死者が生じたがそれは戦闘行為によるもので虐殺は無かったとするのが当時の誰もが認める解釈であった。

傍証としては南京のイギリス領事も、日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官も虐殺には全くふれていない。38年4月東京のアメリカ大使館付き武官、コーヴィルが南京に来て欧米人と情報交換を行ったが非難は全くあがらなかった。

注目すべきは3ヶ月前に4万人虐殺を唱えたベイツがこの同国人外交官の前で沈黙していた事だ。【注】

5月には、国際連盟理事会(今日の国連・安保理事会相当)が中国の要請を共感的に考慮した決議を出したが「虐殺」非難の文言は一切ない。

支那事変一周年目の7月7日蒋介石は「友好国への声明」と「日本国民への声明」を英文で発表したがそのどちらの戦時宣伝のなかにも「虐殺」は書かれていなかった。

(これまた先の別資料だがこの中で蒋介石は日本軍の大量殺戮として広東空襲を挙げたが南京事件については何の言及もしていない)。

同時期上海の各種英文雑誌が、次々に特集号を出したがどこにも「虐殺」にはふれてない。

そのほかの教授の論点は、

i)上記一周年記念声明も含め、蒋介石も毛沢東も南京虐殺を国際世論にに一度も訴えなかった。毛沢東に至っては38年5月延安の抗日戦争研究会で「持久戦について」という有名な講演をした時、虐殺に触れるどころか日本軍の欠点は「包囲は多いが殲滅は少ない」として日本軍の甘さを指摘している。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/nankin.htm

【注】 実はベイツとスマイスの二人はコーヴィルに対しアトロシティーズを宣伝したようだ。しかし、勿論コーヴィルは聞いただけで何の行動も起こさなかった。ベイツとスマイスの宣伝工作については後述。


反論・指摘

1938年3月に開かれた国民党の臨時大会で何応欽参謀総長の軍事報告がなされたがその中で南京事件については一言も触れていない。



何応欽の年次報告書に虐殺被害が見られないと言っても、報告書には目的がある。

中国軍の行動と、損失をまとめた報告に、戦闘外での被害が記載されていないということは別に不思議ではない。


攻防戦でおびただしい死者が生じたがそれは戦闘行為によるもので虐殺は無かったとするのが当時の誰もが認める解釈であった。



ではなぜ中国でもアメリカでも大量の「虐殺・暴行」報道がなされたのか。




傍証としては南京のイギリス領事も、日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官も虐殺には全くふれていない。



ドイツ外務省に大量に残る「日本軍の暴行」の報告書はいったい何なのかだろうか。

「日本嫌いで有名なドイツ大使館の書記官」とは一体誰のことなのだろうか。

「南京入城のさいの日本軍の所業については、語らぬに越したことはない。チンギス・ハーンを思い出さずにはいられないほどの徹底した破壊ぶりであった。」と書いたシャルフェンベルクのことなのか、

それとも「南京における日本軍の残虐行為に関する記録フィルム」(マギーフィルム)を本国宛に発送し,

「総統閣下には、このフィルムを解説の正確な訳文とともに御覧いただきたいと所望する。さて私は、先の日曜日に日本軍が引き起こした「英雄的行為」の現場とその四人の犠牲者をこの目で見た。そこでは二脚の椅子を運んでいた老人が、日本兵にいとも簡単に銃で撃たれた。」と書いたローゼンのことなのか。





38年4月東京のアメリカ大使館付き武官、コーヴィルが南京に来て欧米人と情報交換を行ったが非難は全くあがらなかった。



コーヴィルの報告には次のような記述が見られる、確かに淡々と書かれており、「非難」と言うよりは単に事実の記録にとどまっている。

「庭に日本人名、日付(昭和十二年十二月十二日)と戦闘で死亡の銘のある墓がある。使用人の死骸数体(首のないものが、少なくも一体)が庭で野晒しとなっている。」

「日本は暴虐な行為をもって、中国人に確固たる反抗心を植えつけ、それによって自らを滅ぼしている。」

「日本は南京陥落にあたり、冷静な、規律ある日本軍という神話に恥じない態度で日本の名をあげる絶好の機会を失ってしまった。」

「これとは別のそちこちで見つけた雑多な中国人グループ二〇〇名は、暫く倉庫に拘留されていたが、連れ出されて銃殺された。彼らは陸で銃殺されるか、河に飛び込んでから水中で機関銃で撃たれるか、選択の余地があったという。ごくわずかではあったが泳いで逃げ延びたものがいた。」



注目すべきは3ヶ月前に4万人虐殺を唱えたベイツがこの同国人外交官の前で沈黙していた事だ。注】



コーヴィルの記録には「沈黙していた」という記述はない。

「私は二人の南京での一連の経験を話し合ったが、これらはアリソンの全報告を十分に網羅し、さらに個人の経験が加味されて話をもりあげた。

    • 秩序と規律正しい日本軍、私利私欲のない軍政当局という伝説は、中国人民の心を深くえぐりとったアトロシティーズや過ちによって、台無しとなったので、日本側の支配は中国人にとって何ら意味を成さないことに中国人自身が気づくであろうこと、そして、彼らの悲痛な思いは、日本軍を追い出すまで不断の攻撃となって続くだろうことを、ベイツとスマイス両者は確信している。 」

とある。

5月には、国際連盟理事会(今日の国連・安保理事会相当)が中国の要請を共感的に考慮した決議を出したが「虐殺」非難の文言は一切ない。



南京の次は徐州攻略、その次は武官攻略と戦火は拡大の途上であり、どんどん人命が失われていく状況を前にしていた。

いまだ全貌が明らかでない、起きてしまった「虐殺」よりも、今行われ、拡大されつつある戦争を阻止することが緊急かつ重要だったのであろう。


支那事変一周年目の7月7日蒋介石は「友好国への声明」と「日本国民への声明」を英文で発表したがそのどちらの戦時宣伝のなかにも「虐殺」は書かれていなかった。



「虐殺」は書かれている。

「告日本国民書」には

「且つ一地區占據後、貴國軍隊は奪掠焚焼を肆にし、無辜の良民及負傷兵士を大規模に殺戮す。或は千百人を廣場に縛し機銃を以て掃射し、或は敷十人を一室に集め油火を以て焚焼す。甚しきは殺人の多寡を競ひて矜持と爲す。」(且於每一地區被佔之後,焚燒擄掠之餘,對我不及遠避之無辜人民及負傷兵士,輒施以大規模之屠殺,或縛千百人於廣場,以機槍掃射;或聚數十人於一室,以油火焚燒;甚或以殺人多寡為競賽) 

と書かれており、「虐殺」が書かれていないと読むのは無理。

あえて言えば、「南京」という言葉は使われていないのだが、対日戦一周年を期して出された声明の中の、「占領された一地区」に、南京地区が入っていないという読み方が出来るわけもない。

「虐殺」が書かれていないというのは事実に反する。


(これまた先の別資料だがこの中で蒋介石は日本軍の大量殺戮として広東空襲を挙げたが南京事件については何の言及もしていない)。

同時期上海の各種英文雑誌が、次々に特集号を出したがどこにも「虐殺」にはふれてない。



例えば「チャイナ・ウィークリー・レビュ-1/1」「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト3/16」「ハンカオ・ヘラルド2/15」

など、虐殺・暴行に触れた中国の英文紙の存在が知られる。

(雑誌の例の追加が必要)




そのほかの教授の論点は、



まー、あの「教授」の論点ですから (--;

専門分野でこれやったらとっくに学者生命終わりだったのだけど、専攻ではないからね。

本の売れ行きだけの問題なわけです、センセの問題は。



i)上記一周年記念声明も含め、蒋介石も毛沢東も南京虐殺を国際世論にに一度も訴えなかった。毛沢東に至っては38年5月延安の抗日戦争研究会で「持久戦について」という有名な講演をした時、虐殺に触れるどころか日本軍の欠点は「包囲は多いが殲滅は少ない」として日本軍の甘さを指摘している。 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/nankin.htm



その「殲滅は少ない」の中に、南京攻略戦が入っているのかどうかは、私はまだ確認していない。

毛沢東自身は「南京事件」の安全区委員会資料を掲載した、延安時事問題研究会編の『中国占領区の日本帝国主義』に序文を書いている。

毛沢東自らが南京事件について書いたものが見あたらないということと、知らなかったということは別だ。
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/gunshu.html


【注】 実はベイツとスマイスの二人はコーヴィルに対しアトロシティーズを宣伝したようだ。しかし、勿論コーヴィルは聞いただけで何の行動も起こさなかった。ベイツとスマイスの宣伝工作については後述。

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