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リットン調査団を欺く関東軍

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リットン調査団を欺く関東軍


元関東軍特務機関員アムレトー・ヴェスパ

一八八八年にイタリアのアクイーラに生まれたアムレトー・ヴェスパは、二十歳のときメキシコに渡り、フランシスコ・マデラ将軍の革命軍の士官として身を投じ、大尉に昇進した。一九一二年、メキシコを離れたヴェスパはフリーのジャーナリストとして米国・南米・オーストラリア・仏領印度支那・中国、そしてチベットから蒙古、東部シベリアの国境近くまで旅行をしている。

一九一六年、第一次世界大戦が起こると、ヴェスパは中国語の語学力を買われて連合国軍の諜報員に登用され、日本軍と行動をともにする。そして戦後の一九二〇年、彼は満州支配者・張作霖に迎えられ、その諜報員として活躍したが、張作霖が日本軍の謀略によって暗殺された後は、関東軍の特務機関に移った。一九三七年の秋に、日本軍の手から逃れたヴェスパは上海に身を隠し、この『中国侵賂秘史』という関東軍の内幕を暴いた原稿を知人のイギリス人記者に託したという。(編集部)

リットン委員会


五月一日に私はハルビンヘ帰ったが、それはリットン委員会がハルビンに到着する僅か十日前であった。それより一週間前に種々の警察機関は、国際連盟委員会へ
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何かの訴求を提出しようとする「希望を持っている疑いがある」人物を全部逮捕して監禁せよ、という命令を受けた。

日本の警察制度は理解することも信じることも出来ぬものである。満州には次のような司法機関が存在していた。
  1. 日本特務機関、その長官は東京の方から任命され東京に対してのみ責任がある。
  2. 日本憲兵隊、これは日本軍当局に隷属している。
  3. 満州国憲兵隊、これは満州国軍当局に隷属する。
  4. 満州国の国家警察、これは満州国民仲椰大肚の指揮をうける。
  5. 市警察、市当局により支配される。
  6. 日本領事館警察、日本領事館に対し責を負う。
  7. 刑事警察、市当局に隷属するが、市警察とは独立したものである。
  8. 満州国特務機関、満州国軍政部に属する。
  9. 鉄道警察、鉄道総局に隷属する。

以上の警察は各々独立して作用を営む。それらは相互に協力援助する代わりに、しばしば対立的に行動する。彼等の間には信じ得ないほどの憎悪、嫉妬、怨恨が存在している。実際、ある警察機構に属する者の主要な任務は、他の警察機構に属する者をスパイし、あらゆる機会にこれを攻撃することである。危険もしくは疑わしい者だという理由でひとつの警察機構に逮捕された者は、しばしば他の警察機関から模範的市民にして紳士なりと称揚されることがある。例えば、かつては富豪であったカワルスキイを被告とする事件で、国家警察と市警察とは、いずれも彼を何等
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疑うところなき人物だと言って彼に味方したのに反し、憲兵隊と国家の秘密警察とは、彼をどんな犯罪でも犯しかねない悪漢だと主張した。

リットン委員会に事実を知らせようとする「虞(おそ)れあり」と「疑わるる」人物を全部逮捕せよ、という命令は、ハルビンのいろいろな警察機関には、何よりのご馳走であった。

通則に従えば、逮捕は全部夜行われることになっていた。だから暗くなるや否や各種の警察は出動して、一番金持ちの人達を逮捕した。これは逮捕した人達からその財産に比例して身代金を徴集してから放免してやろうという目的があったのだ。これだけでも辛いことであるが、なお一層つらいことには、身代金を、例えば憲兵隊に支払って、自由になったと思う途端、今度は又もや別の警察機関に逮捕され、さらに身代金を支払わねばならないということがあるのだ。若干の富裕な中国人は、このようにして五、六度も逮捕されて最後の金まで巻き上げられ、そして結局、獄舎につながれるのである。

日本軍当局の命令に従えば、逮捕を受けた「被疑者」は皆、国際連盟の委員団が出発してしまうまでは投獄して置かれることになっていた。彼等は盗賊や匪賊や麻薬中毒者と一緒に地下牢に投じられた。大多数の者は委員団が立ち去って後三、四十日間も放免されなかった。

リットン委員会の到着する一カ月前に、日本軍は著名な中国人、ロシア人多数に、国際連盟代表に対し「訴願」を提出せよ、と命令した。かかる「訴願」はいずれも日本人が作り上げたもので、ロシア人や中国人はこれに署名しさえすればよかったのである。「訴願」に書いてあったことが「満州国」の輝かしい現在と将来とに対す
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る限りなき讃美と渇仰(かつぎょう)とであったことは、今さら言うまでもないであろう。

接待委員会が非常な注意を払って作られた。この委員会の委員全部に対し礼儀作法が教えられた。彼等は何をどう言うべきであるかということを暗記せねばならなかった。もし教えられたことより一言でも多く、または一言でも少なく喋ったら、また、もし言っていることを空にするようなことをちょっとでもしたら、それがために生命を失わねばならぬぞ、と警告された。

リットン委員会は事態の真相を調査、発見するために満州へ来ようとしていたのである……日本人はあらゆる人々から出来るだけ真実を隠蔽(いんぺい)し、すみずみまであらゆる人々を欺こうと努めた。が彼等は余りやりすぎたので、今日ではいたるところで笑いものになっている。

委員会の主要な人々が宿泊することになっていたハルビンのホテル・モデルンは、包囲されてしまった。委員連の占めるはずの部屋の近くには、通常の泊り客を装った政治警察員であるロシア人や日本人が宿泊していた。三名の刑事が事務所に番頭として配置され、その他の連中は中国人の給仕、部屋係、その他となった。三人の日本少女が警察に雇われて、女中となって働いていた。沢山な刑事が食堂にも、読書室にも、その他ホテル中にうろうろしていた。他のホテル、例えばグランド・ホテル、ノヴイ・ミールなど委員会の他の連中が宿泊しそうなところにも、同じような用心がされていたのである。

委員団の連中が立ち寄りそうだと日本人の考えた主要な商店、料理店、一流の劇場には、店員、番頭、給仕、案内人として警察のスパイが全部配置された。

正確な数字をあげると、千三百六十一名の中国人、ロシア人、朝鮮人並びに九名
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の日本人が、リットン委員会に対し満州国に敵意ある宣伝を行う「虞(おそ)れあり」との「嫌疑」をかけられて逮捕され、ハルビンを距(へだた)る六キロの、松花江の対岸にある孫北の収容所に容れられた。同様に、委員会が刑務所を参観したいと申し出ることも考えられたから、すべての政治犯、すべてのソビェト市民、英語または仏語の喋れる囚人は皆、刑務所から孫北の収容所へ移された。

あらゆる病院についても同じ用心がされた。疑わしい患者は全部、委員会の人達が訪問しそうもない日本人本人の病院へ移された。

次は、民衆が全部「満州国」に寄与していると委員会の人々に印象づけるように、民衆の随喜渇仰を捏造することであった。

おびただしい「満州国」の小国旗と執政溥儀の安物の肖像とが、小旗は三銭程、肖像は二銭程で作製され、ハルビン在住の中国人、ロシア人、朝鮮人ばかりでなく、鉄道沿線の住民は全部この小旗と肖像とを各々一円で買わせられた。「小旗と肖像」一組を売り歩く商人隊は、いずれも中国人またはロシア人の商人一人と二人の日本人護衛兵と一人の日本人会計とから出来ていた。この商人隊は、家々を戸別訪問して強制的に一組ずつ買わせ、もし委員会の滞在期間中これを扉や窓に飾って置かぬと全家族を逮捕するぞ、と強迫した。二円の代金も払えないような極貧者は、十五日内に警察へ代命を持参せよと命ぜられた。

私の上官はまるで気が狂ったようであった。いろいろな命令を出すかと思うとまたすぐにその逆の命令を出した。ある人々を逮捕させたかと思うと、数時間後には釈放させた。彼は自分が責任を負わされるような明白な犯罪が犯されはせぬかと思ってビクビクしていた。
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リットン委員会は一九三二年五月十日に着くことになっていた。

四日に上官が私を呼び出した。大至急ということだった。彼の事務室へ入ると、大変に機嫌が悪いことが判った。彼は吐き出すように言った--
「お前は何にも知らん、一体張作霖は貴様の何処が善いと思いおったのか、訳がわからん。彼奴はどうして貴様を昇進させたのだ? 何故高給を払っていたのだ? そもそも貴様を何故雇っていたのだ? まるで謎だ! もし私が作霖だったら、最初の日に貴様を追い出しただろう……一分だって貴様など置いてやりたくない……実に貴様は役に立たん、全然駄目だ……!」

「そんなに感じられるのなら、何故追い出して下さらんのです? やめさせてもらえるなら、決して不足は言いませんよ」と私は答えた。

「黙れ!特務機関長に話しているんだ、ということを忘れるな! 私は何でも好きなことを言えるが、貴様は口答えする権利はないのだ……さあ、よく聞くのだ!……張分廷と莫文黄とを知ってるな?」

私は知っていた。張は富豪でハルビンの取引所の理事長で二十余の金融機関の頭取でもあった。しかも大変な金持ちで、敦発倫百貨店の持ち主であった。

「この二人は請願書に他の豪商達の署名を貰っているのだ……。此奴等は連盟委員会へ秘かにこれを提出しようとしている。請願書は満州国に有利でないと思われるふしがある。日本人の某機関員が二、三時間前にこの情報を持って来たのだ。ところで……お前に与える命令というのは、如何なる手段によってでも、富豪連中が署名したこの請願書を奪い取る、ということだ。請願書が手に入りさえすれば、この匪賊のような連中を一人残らず軍法会議にかけて、叛逆罪を宣告することが出来る。
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これは、もちろん、彼奴等の財産を没収することになるのだ、そして財産は数百万弗以上に達している……日本軍が非常に有難く使える金額だ。この請願書をぜひ手に入れるようにしてもらいたい。この連中を監視させるのだ……連中の家も、連中を訪問する外国人も皆監視させるのだ……。私にはどうも連中が請願書を外国人の手を通じて提出するような気がするのだ」

「よろしい、皆を監視しましょう。しかし事実私の部下は昼も夜も働いていて、この仕事に使用出来る人間がいないのです」

「私もそれは考えていた。が警察は皆多忙だから、この金持ちの中国人連中の監視には影の部下を使うことにきめた。憲兵隊は彼等を短期間臨時機関員に任命することにするはずだ」

「あの連中を信用出来るとお考えですか?」と私は訊いた。「彼等は匪賊ですよ、一旦権力を与えられたら、あの連中はそれを濫用するでしょう。それに、ご承知のように連中は随分ひどい襤褸(らんる)を着ています。特務機関員というような好い恰好は出来ません」

「その用意はしてある。満州国軍の制服五百着を影の自由にすることになっている。それで問題は解決されるだろう。匪賊共がどんなことをするかということは、私には少しも関係のないことだ。私にとって大事なことは、委員会の連中に我々の是認せぬ人間が一人でも近づいてはならぬ、ということだ」と彼は答えた。

万事手落ちなく実行された。三日後には、軍服を着た四、五人の「特務機関員」が富裕な中国人達の家々に特別な護衛として配置され、残余の「特務機関員」はその付近を巡回して、護衛付きの家を訪れた人を尾行した。
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影の部下の匪賊たちが、自己に与えられた権力を濫用しなかったのは、うれしいことだった。彼等は厳格に義務を遂行した。また立派な特務機関員であることを立証し、且つ信用されたことを誇りとしていた。彼等は非難さるべき行為をするのを慎んだのみならず、そのうち多数の者は、リットン委員会の人達が立ち去った後も匪賊稼業に戻るのを厭い、永久に警察官にして置いてほしいと申し出た。

国際連盟委員会の人々がハルビンに到着したのは、一九三二年五月九日午後四時であった。その日正午頃までには、委員達が通過する予定になっていた駅と街々とは、「満州国」の中国人並びにロシア人の警官達で一杯になった。いっもはハルビンの街々に目立っていた数千人の日本人警官や兵卒達は完全に姿を消していた。日本軍参謀部は日本人の制服姿を一人も街上に見せてはならのという命令を出していた。と言うのは、リットン委員会が、「満州国」という新国家は満州の民衆の自発的な意思によって出来たもので日本人は全然関係していない、と信じさせられるに相違ないと思ったからである。

数千人の日本憲兵と日本兵とは「満州国」軍の制服を着用していたのである。

日本軍司令部の命令に従って、「満州国」軍の当局者並びに州及び市の当局者は、接待委員達と一緒に全部駅に出ていた。

列車は到着した。リットン卿は委員一行を従えて降り立ち、公式の紹介の後、一行は出ロヘ歩み出した。その途端、日本憲兵隊の一員で「満州国」の警官の制服を着用しプラットホームに並んでいた非常警戒線の一部を形成していた一朝鮮人が、前へ飛び出して委員団の一人に文書を手渡そうとした。が三歩も歩まぬうちに「満州国」警官の制服を着用していた一団の日本人が彼を取り抑えて非常警戒線の後方
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へ押し戻した。

気の毒な、愛国心に燃えていた朝鮮人は逮捕されて、私の上官の面前へ連れ出された。

キム・クォクというのが彼の名であった。彼は七年間日本憲兵隊に勤務していたが、朝鮮人を圧迫した民族に対する憎悪は年とともに大きくなった。彼は極めて単純に、国際連盟の委員会は何かしら非常に偉いものだ、と信じ、また委員会は今非常に圧迫され虐げられている愛する朝鮮に自由を与える力を持っている、とも信じた。彼が朝鮮語で書いた文書の中で、彼は僅か数カ月日本に支配されたにすぎない満州を自由にするために何故連盟はそれ程までに関心を持つのか、また連盟は何時になったら永年の間苦しめられてきた朝鮮を解放することに関心を持つことになるのか? と訊ねていた。

その夜の九時頃、連盟委員達がハルビンで最初の宴会を楽しんでいる頃には、可哀相にキム・クオクは拷問を加えられていた。

私の上官は自分で訊問をしようとした。けだし彼はキムに共犯があるに違いないと確信したのである。

しかしキムは誠の英雄であった。かりに共犯者があったとしても、彼は決してこれを自白しなかった。最初のうちは、上官はキムに好きなように話をさせた。だが望んでいる通りに共犯があると自白しないということが判ると、上官は野獣になった。彼は可哀相な犠牲者に身の毛もよだつような拷問を加えた。彼等はキムの足指の爪を剥がし、手の指の爪を剥がし、腕の関節を挫き、足の裏をアルコール・ランプで焼き、遂には上官はちょうど手にしていたペンでキムの左眼を快り出すというよ
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うな悪鬼の如き所業までやった。それでもキムは終始変わらずに「共犯などはありません。手紙は私が自分で書いたのです。私は国際連盟に日本人を朝鮮から追い払ってほしいと思ったのです」と言うだけであった。

二時間後に彼等は半死半生のキムを付近の墓場へ連れて行き、頭に一発射ちこんで殺してしまった。

委員の一人々々に日本軍は四人の刑事をつけ、彼等は交代して委員の動静を監視し、その行動を全部記録し、委員が話しかけた人物または委員に話しかけた人物の名を記録し、且つ何とかして彼に近づこうとした。

このようにひどい警戒をする口実として、日本人は委員団に対し、かかる警戒手段は連盟委員を攻撃しようとするのみならず委員会の中国代表を暗殺しようとする共産主義者や満州の独立を望む中国人に対して取られた手段である、と説明した。

だがこの申し立ては、事実に基づいていなかったから、委員団を承服させるはずがなかった。

委員会が実状を知ったならば共産主義者は幸福だったろう、ということは子供でも容易に理解し得たであろう。満州を独立させたいと考える中国人について言えば、その連中が面倒を起こす可能性は少しもなかった、何故ならそんな中国人は、以前も存在していなかったし、今だって存在しないからである。委員会に対するこのような監視やスパイ行為の目的は、ただひとつ、委員会をあらゆる人から遠ざける、ということであった。それは委員達に暗殺を免れさせたが、しかしその暗殺とは日本の手先の行う暗殺に他ならなかったのである。

けれどもこの監視やスパイ行為は何の役にも立たなかった。スパイの仕事に割り
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当てられていた満州国人、ロシア人、中国人、朝鮮人の移しい警吏達が、「満州国」の計画に反対して委員会に出来るだけの援助を与え、真実を発見させようとした。日本憲兵隊の面前で、彼等は秘密の会合や会見を世話し、数百通の文書の交付に便宜を与えた。

リットン卿は連盟への報告中「満州の住民の意見」という章に次のように記している

「満州の住民の新『国家』に対する態度を確かめるのが委員会の目的の一つであった……、けれども、証拠の蒐集には若干の困難があった。匪賊や朝鮮人や共産主義者やその他、中国人の補佐官が新制度を批判したためにその補佐官がいるので憤慨することあるべき新政府の支持者のために、委員団に危険が生ずる虞れがある、若しくは現実に危険が及ぶというのが、特別な保護手段を採る理由を供した。その地方の動乱状態中には偶発的な真の危険が存することは疑いない。……けれども採用された警成の効果は、証人を近づけないということに存し、また多くの中国人は委員会の人々に会見することすら恐怖していたのである。公の許可なくして委員に面会することは何人にも許されていない……ということを、吾人はあるところで聞かされた。それ故会見は通常著しい困難と秘密のうちに行われ、而も多数の人々は、此の如き方法によってすら吾人と会見することが彼等にとり極めて危険である、と語った」

「かくの如き諸種の困難にも拘わらず、吾人は『満州国』官吏、日本領事、軍人等との公式会見に加うるに、実業家、銀行家、教師、医師、警察官、小売商人その他の者との私的会見をも行うことを得た。吾人は千五百通以上の手紙をも受領した、
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その若干は手交され、大多数は種々の宛先へ郵送されたものである……」

「公共の団体並びに組合を代表する多数の委員と会合し、通常彼等から文書を受領した。大抵の委員連は日本又は『満州国』の当局より紹介され、而して吾人は、彼等が吾人の許に差出した文書は事前に日本の承認を得ていたものだと信ずべき有力な理由を有していた。事実、若干の場合には、かかる文書を提出した人々が、後に至って、それらは日本人が書き又は根本的に修正を施したものであり、従って之を以て彼等の真意を表明せるものと考えるべきではない、と吾人に語ったのである。これらの文書の著しい特徴は、『満州国』の行政の樹立乃至維持に日本人が関与せることに対する論評を、好意的にせよ然らざるにせよ、一切行っていない、というこ
とである。概してこれらの文書は、嘗つての支那の行政に対する不服に関して居り、また新『国家』の将来に対する希望と確信とを述べていた」

「受領された手紙は農民、小商人、都市労働者、学生が出したもので、差出人の感情並びに経験を述べていた。六月に北平へ委員会が帰った後に、この多数の手紙は特にそのために選ばれた専門家の手によって翻訳、分析並びに整理が行われた。これら千五百通の手紙は、二通を除いて、全部新『満州国政府』と日本人とに激しい敵意を抱いているものであった。それらの手紙は真面目で自発的な意見の表明であるように思われた」

「『満州国』政府の中国人高官達は種々の理由で在職しているのである。彼等の多くはかつては前政権に仕えていたもので、勧誘を受けたり脅迫を受けたりして職に留まったものである。そのうち若干の者は、委員会に使を寄越し、脅迫されて余儀なく職にあること、凡ゆる権力が日本人の手中にあること、自己が中国に忠実であり、
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日本人の面前で委員会と会見した際に述べたことは必ずしも信用さるべきではないとのこと、を伝言して来た」

「吾人が会見した中国人の実業家と銀行家とは『満州国』に敵意を抱いていた。彼等は日本人を嫌悪した。彼等は自己の生命財産を気遣い、しばしば『私たちは朝鮮人のようにはなりたくない・・・』と述べた。自由職業者の階級、教師や医師は『満州国』に敵意を抱いていた。彼等はスパイされたり脅迫されたりしていると主張した。教育への干渉、大学やその他若干の学校の閉鎖、学校の教科書の改変は、愛国的理由のために既に多大であった彼等の敵意を増大させたのである。新聞、郵便並びに言論の検閲が怨みを買っている。中国で発行される新聞を『満州国』内へ入れるのを禁止することも、亦同様に怨まれている」

「『満州国政府』並びに地方行政の各長官は全部中国人である。日本人は『顧問』の地位を保持している。その制度は、技術的助言を与える機会のみならず現実に行政を指導し支配する機会をもかかる官吏兼『顧問』に有せしめんとする制度なのである」

「公式並びに私的の諾会見や手紙並びに文書の中で呈示された証拠を注意深く検討した後、吾人は次の結論に到達した。即ち『満州国』政府に対する中国人の支持は皆無であり、それはその地方の中国人から日本人の手段だと看做されている、という結論である」

国際連盟のリットン調査委員会は、委員会が十四日間ハルビンに滞在していた間に、中国人五名とロシア人二名が委員会へ抗議状を手渡そうとした廉(かど)で日本側に逮捕されて銃殺されたことを、全然知らなかったのだ。
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年若いロシア人の工業学校生徒が、一九三二年五月士二日の午後九時三十分にホテル・モデルンの二階--そこには数名の連盟委員が宿泊していたのだが--で、日本人のために殺されたことも、リットン委員会は全然知らなかったのだ。しかも彼が殺されたのは、学業を続けたいと希望していた学校が閉鎖されたことに抗議する手紙をリットン卿に渡そうとした、というだけの理由によるのである。

百五十名以上の中国人と五十名以上のロシア人とが、ホテル・モデルンの付近をうろうろしていたというだけの理由で逮捕された。

逮捕するぞと脅迫されて、親達は子供達を示威運動や行列に参加するために外へ出してやらねばならなかったし、子供達は行列に加わって熱狂的な万歳を叫び、「満州国」の旗を振らねばならなかったのである。

政府に傭われている中国人も、事務員も工場労働者も起つことの出来る者は皆、中国人であろうとロシア人であろうと、「満州国」の旗を無理やりに買わされ、行列に参加させられた、そして、誰も彼も、あらん限りの声を張り上げて「満州国万歳」を絶叫せねばならなかったのである。

***賞讃と余輿
委員会が出発した翌日、上官が私を呼んだ。今度は彼は上機嫌のようであった。彼は手を差し出して、腰をかけるようにと言った。以下は私の記憶している彼の話である--

上官「やっと楽になったよ! あの委員会という馬鹿者共は帰りおった。彼奴等がジュネーヴに何を報告しようとするか、それは誰にも判らん。もし連盟が『満州
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国』を承認するなら一層結構……もし承認せんなら……我々は連盟を承認すまいよ。売り言葉に買い言葉というものさ。我々は満州を軍事力で征服したのだ。連盟がどんな空論を吐こうと、我々に満州を放棄させることにはならん。何故世界は満州のことでそんなに大騒ぎするのだ? 馬鹿者共が! 我々が中国、シベリア、フィリピン、印度支那を占領したら、一体彼等は何を言うだろう?……今に、どれ程日本が世界を驚かせるか、判ることだろうよ……誰にも彼にも、ロシアにも……米国にも……フランスにも……オランダにも……そして親愛なる英国さんにも……どれ程素晴らしい驚きを与えるか、判るだろう……。連盟には沢山な仕事が出来るぞ……連盟は、我々が占領しようとする地方へ調査団を派遣することで天手古舞いをするだろう」

彼は極めて真面目であった。彼はちょっと話をやめて微笑したが、自分の雄弁に満足しているように見えた。それからまた言葉を続けた

「私は委員達がハルビンに滞在している間に君がやってくれた立派な仕事に感謝している。何も彼も私が計画した通りに行った、だから君の成功を祝うのは当然のことだ。時々不愉快なことや気に入らぬことを私が言っても気にしてはいけない……私は神経質なたちで、物事がうまくゆかぬと誰であろうと最初に私の前に来た人間に文句を言うことがあるのだよ。だから二、三日前に少々ひどいことを君に言ったとしても怨まないようにしてほしい。私は大変神経質になっていたのだ、お詫びして置く」

「調査委員会の訪問について作成中の報告の中で、この報告は東京へ送るのだが、私は君の立派な仕事や、私の命令や指図を実にキチンと君がやってくれたことを必
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ず報告するつもりだ」

「時に君は満州国の国民になる気はないかね? 中国人は何の値打ちもない民族だ……日本が統治すれば別だがね……」

私「考えて見ましょう。ご承知のように国籍を変更することは映画の番組を変更することとは違います。このようなことを決める前には真面目に考えねばなりません。今後、もし日本官憲が私を信頼し、人質だと看做さなくなったら、家族とも相談してご忠告に従いましょう」

上官「結構だ! 決心がついたら何時でもやって来給え。すぐ君の帰化を推薦するよ。ところで、非常に君を信頼していることを実際に見せることにしよう……。よく聞き給え……。匪賊共が日本兵五百以上を捕虜にしているのだ、そしてその中には三十名程の士官も混じっている。彼等は二、三の集団に分かれているが、一番大きなのはハルビンとポグラニチナヤの線にいる。それらの匪賊団の頭目連から、我々の捕虜にしている匪賊と日本人捕虜との交換交渉に応ずると申し入れて来たのだ、日本人一名に匪賊二名の割合でね……。彼奴等は数千弗の金も要求している。我々は、捕虜は交換したいが、金は一文だって支払わない。さらに、何処で如何な方法で交換をするかということについても種々の困難があるのだ。そこで私は、二力月以上も何の効果もなかった交渉をうまく締結し得る人間として、君のことを考えついたわけだ。匪賊の頭目連中は殆ど全部が元中国軍の将校だった連中だ。君はこの連中を知っているかもしれない……もしそれなら、君は楽に有利な条件を得られるだろう。私が君に特に要求することは、事を絶対秘密にして置くことだ。日本兵が匪賊の捕虜になっていることは、何人にも絶対に公に知れてはならぬ。匪賊や
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中国人やロシア人がそんなことを言っても、我々が強く否定すれば、誰一人として信用はせぬだろう。だが、もし君が言うとすると、事態は異なる。君が極秘を守らねばならぬのもそのためだ」

「二、三日のうちに匪賊は使者を寄越すだろう。君はその使者と同道して匪賊の宿営へ行き、頭目と取り引きするのだ。それから、それ程多くの日本人捕虜が本当にいるかどうか、ということをも確かめて貰いたい」

私「失礼ですが、もし匪賊共が元の将校連中ならば、彼等は私の国籍が中国にあるということを知っているに相違ありません。また永年の間私が満州政府の仕事をしていたことも知っているに相違ありません。彼等が私を自由に出来る立場にあることを知ったなら、私を裏切者として簡単に射殺してしまうとはお考えになりませんか?」

上官「その点については、君は少しも心配する必要がない。使者を彼奴等のところへ遣るのは最初ではないのだ。彼奴等は何時でも使者を丁寧に取り扱っている」

明らかに中国の匪賊は日本将校よりも几張面に名誉をかけた約束を守る、と私は独り考えた。海拉爾の某日本軍少佐が、日本兵に盗まれた牛数頭を所有者へ返還されたいとの要請を提出しようとしたソビェト・ロシアの使者二名にソ満国境を越えることを許可した後に、その二人の使者を拷問して殺したことを、私は上官に話した。

「ソビエト・ロシア人はペストと一緒だ」と彼は答えた。「彼等は皆殺さなくてはならぬ・・・。ところでもう一つの問題をとり上げることにしよう。私は君に張と莫という二人の中国人の富豪を監視するように命令して置いたね。それは彼奴等がリッ
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トン委員会に通信したがっているという情報があったからだ。探索の結果は如何だったね?」

「何の結果もありませんでした」と私は言った。「私の考えでは、この二人は他の中国人と同様に『満州国』に反対しています。しかし彼等は非常に賢明ですから、自分の財産を奪われたくないという当然の理由から、公然とは反対をしていません。貴方達日本軍が彼等の財産を我が物にしようと決心されたのなら、こんな騒ぎをしないで、他の多くの場合と同様に、彼等の財産を没収しさえすれば好いのです。この紳士連中が公然と『満州国』の組織に反対するだろう、と考えるのは無理です」

上官は私の率直さが気に入ったようだった。彼は笑って、
「確かにその通りだ。が、この二人の中国人は中国にも外国にも友人を沢山持っている。正当な法律上の手続きなしに彼等の財産を没収したりすると、世人の憤慨は非常なものだろう。が、もし彼等が『満州国』に対し謀叛を企てたことを立証し得るならば、何も彼も正規の法律手続きでやれることになるのだ。とにかく、それはまたもう少し論ずることにしよう。
もう帰って宜しい。匪賊の使者が到着次第通知をすることにしよう」

上官の許を去って帰宅すると第一号の部下が扉口で私を待っていた。私は彼を伴って、日本軍が部下と面会するための部屋として私に割り当てて置いた部屋へ入った。

室内へ入るとすぐ彼は扉を閉めて、第四号の部下が行方不明となったこと、並びにこの二日間探し回ったが無駄だったことを話した。私は第四号が止宿していたホテルへ行って見たが、三日前に所有品全部を持って彼がホテルを立ち去ったことが
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判った。大連、山海関へかけた長距離電話も効果がなかった。彼の姿を見た者は一人もなかった。

翌日、ホテル・モデルンヘ行くと、応接室付のボーイが封をした手紙を私に渡した。開いて見て私は唖然となった。その手紙はホテル・モデルンの書翰箋にロシア語で書いてあり、第四号から私に宛てたものだった。私はそれを未だに所持している。翻訳すると次の通りである

親愛なるヴェスパ様

種々の重大な理由のため私は満州を立ち去らねばならなくなりました。日本の豚共は、無理やりに私に忌わしい行為の手助けをさせておいて、私を殺してしまおうとしました。けれども、私に対して何時も正しくして下さった貴方に対しては、私の行為を弁明せずに退去することは出来ません。私を退去させる真の動機は次の通りであります。先月のこと、奉天で私と一緒に働いたことのある二人の憲兵大尉が伝家甸(ハルビンから五分行程のところにある中国人街)の交通銀行の中国人取締役を誘拐する計画を語りました。

彼は充分に護衛をつけていましたから、私達は彼を逮捕することに決めました。憲兵隊の手先をしているナイプという名のロシア人と、一人の軍曹と二人の憲兵と私自身とが彼の家へ行って逮捕し、伝家甸憲兵屯所の近くにある空家へ連行しました。そこに二人の大尉が待っていたのです。

その銀行取締役は両脚を縛って吊り下げられ、それから二人の大尉は彼の妻を逮捕して連れて来いと命令しました。妻が来ると、彼等は夫を見せて、彼女が三十万弗持参するまではそのままに吊り下げて置く、持参すれば放免してやる、と言いま
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した。妻は二時間後に戻って来て十八万弗の現金を大尉に渡し、時間がなかったので全額を調達出来なかったが、もし夫を自由にしてくれたら十五日以内に残金を渡す、と約束しました。

取締役は放免されました。そして彼が立ち去るや否や大尉等はナイプと私とに各一万弗を与え、事件について一言も他言しないように誓わせました。

今朝日本領事館警察の長官が私を召喚し、交通銀行取締役誘拐事件を聞いたと述べ、八千弗与えろ、さもなければ私を逮捕させるぞと命じました。

私は日本人を非常によく知っているので、万事休すと悟りました。金を払ったとしても、やはり彼等は私を殺すことでしょう……。少しばかりの金を持って消え失せ、何処かで新しい生活を始める方が好い、と考えたのはこのためです。

私の失錯を許して下さるように願います。   敬具
                      副長第四号生

鉛筆で書いてある追伸には「私はこの手紙を三日たってから貴方に渡すようにとボーイに頼みました。ボーイを叱らないで下さい」とあった。

右の手紙を読んでから私はホテルを出て上官の許へ直行した。そして私は彼にその愉快な伝言の手紙を見せた。彼が激怒するだろうと思った予想は当たらなかった。事実彼はこれを素敵な冗談だと思って大笑いをした。笑い終わってから彼は言った--

「すばしこい仕事だな! 二時間で十八万弗か……。立派な悪党だよ……この二人の大尉はね! その金を安らかに所有させてやりたい位だ……だが大金すぎる。この二人は、私がその話を皆知っていることや、自分のものと信じている金を大部分
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軍の金庫へ納めないといけないってことなどを知ると、不快になることだろう。けれども、私が驚くのは、一方で彼等は悪党のように行動しながら他方で白痴のような所業をしていることだ。二万弗をロシア人二人に呉れてやるとは……、考えられないことだ!」

時を移さずに彼は憲兵隊に電話をかけ、即刻ナイプを逮捕して彼が訊問するまで誰にも会わせずに独房に監禁するように命令した。

二人の憲兵大尉は上官に十四万弗渡さねばならなかった。そして上官は彼等に二万弗所持することを許した。ナイプは四十三日間収監され、その間絶えず恐ろしい打擲をうけ、受領した一万弗の残金九千六百弗を隠して置いたところを遂に白状させられた。その金を取り戻すと、大尉達は彼を憲兵隊へ連れ戻って、何事も起こらなかったかのように彼を勤務させたのである。
(『中国侵略秘史・或る特務機関員の手記』/山村一郎訳S・21大雅堂刊)

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