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被告準備書面(1)要旨2005年12月27日その2

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被告準備書面(1)要旨2005年12月27日その2






第3 真実性等


2 渡嘉敷島における「赤松隊長による自決命令」の存在


(1)以下のように、赤松隊長が、住民に自決を命令したとする文献が多数存在する。

ア 『鉄の暴風』(1950年)沖縄タイムス社発行(乙2)
「赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。」(33頁)

「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。」(34頁)

「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」(35頁)

「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食料を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一線を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。」(36頁)

本書は、戦後5年で出版された沖縄で書かれた最初の戦記である。沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し、そこで得られた証言を基に執筆されたものである。

イ 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(1953年)渡嘉敷島遺族会(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛暉編」所収)
「昭和二〇年三月二七日、夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。その夜は物凄い豪雨である。米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ、ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ、ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつつ、子を持つ親は嬰児を背に負い、三ッ子の手を引づりながら、合羽の代りに叺や莚をまとい、老人の足を助けながら、弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた。暗闇の谷間は親兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし全く生地獄の感である。間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか、その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二〇年三月二八日午前一〇時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二、三百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手留弾に二、三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」(12~13頁)

本書は、当時の渡嘉敷村村長や、役所職員、防衛隊長らの協力の下、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。

ウ 『秘録 沖縄戦史』(1958年)山川泰邦著(乙4)
「三月二十七日――『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた。安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。その夜はすさまじい豪雨の夜であった。一寸先もわからない暗闇で、ふだんからハブで恐れられている山道を通らなければならなかった。雨具などあるはずはなく、濡れネズミとなって、親は子を背負い、手を引き、老人は助けられながら、砲弾のうなりの中を、泥濘にころびながら互いに励ましあって目的地に一歩一歩進んだ。見失った子供を呼ぶ親の叫び声も一しお哀れであった。死を意味する軍命になぜこうまで苦労して従わなければならないのだろうか。住民の胸には求むべき光は何もなかった。西山の軍陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。その頃には米軍は既に日本軍陣地北方百米の高地に布陣、迫撃砲を撃ちだしていた。敵の砲弾は的確にこの盆地にも炸裂し始めた。友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた。自信を失い、負け戦を覚悟した軍は、住民を道づれにして一戦を交え花々しく玉砕するつもりだろうか。この期に及んで部落民は誰も命は惜しくはなかった。敵弾で倒れるよりいさぎよく自決したほうがいいと皆思った。場所を求めて、友軍陣地から三〇〇米の地点に約一五〇〇名が集結した。防衛隊員は二個ずつ手榴弾を持つていたのでそれで死ぬことに決めた。一個の手榴弾のまわりに二、三十名が丸くなった。『天皇陛下バンザーイ』『バンザ…』叫びが手榴弾の炸裂でかき消された。肉片がとび散り、谷間の流れが血で彩られていった。中には、死にきれずに鍬や棍棒で相手の頭を撲りつけ、剃刀で自分の喉をかき切って死んでゆくものもあった。こうして三二九名が自決して果した。平和な時代には、美しい琉球鹿が水呑みに姿を現わしたというこの盆地も、恨みの盆地として村民は今でも『玉砕場』と呼んでいる。」(217~219頁)

本書は、戦争当時は警察官として軍部と協力すべき地位にあり、戦後は戦没警察官の調査を行い、その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり、戦争当時の状況について調査を行った著者が、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に執筆したものである。

エ 『沖縄戦史』(1959年)上地一史著(乙5)
「渡嘉敷島の赤松大尉の指揮する部隊は、船舶特攻隊で、舟艇に大型爆弾二個を抱えた人間魚雷であった。そしてその任務はアメリカ船舶に突入することであったが、赤松大尉は舟艇の出撃を中止した。上陸したアメリカ軍を地上において撃滅する戦法に出る、と大尉は宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとつて、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。住民の間に動揺がおこった。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに柔順な住民たちは、一家がひとかたまりになり、赤松部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。なかには、カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者をたおした者もいた。住民が集団自決をとげた場所は渡嘉敷島名物の慶良間鹿の水を飲む恩納河原である。ここで三百二十九名の住民がその生命を断ったのである。」(47~49頁)

本書は、沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史氏が、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。

オ 『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』(1968年)下谷修久発行(乙6)
「赤松少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自決せよと命令した。谷底に追い込まれた住民達は『さあ、みんな、笑って死のう』という古波蔵村長の悲壮な訣別の言葉が終わると一発の手榴弾の周囲に集まった。手榴弾はあちらこちらで炸裂し、男や女の肉を散らした。死ねない者はお互いに根棒で殴り合い、カミソリで頸を切り、子を絞め、鍬で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃弾が炸裂した。思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者三三〇、戦死者三〇余名を除いて、三三六名が未遂に終わった。」(107頁)

本書は、下谷勝治兵長の兄である下谷修久氏が、住民の証言をまとめたものである。

カ 『秘録 沖縄戦記』(1969年)山川泰邦著(乙7)
「三月二十七日―赤松大尉の『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』という命令が、駐在巡査の安里喜順を通じて下達された。住民たちは盆地に集合することは、砲火に身をさらすことになるので、何とかして堅固な軍の壕にはいりたいと思っていた。その夜は豪雨で、一寸先も見えない暗夜だった。住民は恐ろしいハブの出る山道を、ぬれねずみのようになって、親は子を背負い、老人は手を引かれ、砲弾のうなる中をぬかるみに足をとられながら歩きつづけた。子を見失ったらしい母親の、必死に子供を呼び求める声が、暗い豪雨の中でひとしお哀れであった。西山の陣地にやっとたどり着くと、ほっとする間もなく、赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との厳命が出され、三月二十八日午前十時ごろ、村民は泣くにも泣けない気持ちで軍の陣地を去って、北方の盆地へ向かって歩いていった。このとき米軍は、日本軍陣地の北方百メートルの高地に進出してすでに砲撃を開始していた。米軍の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期におよんで、だれも命など惜しいとは思わなかった。敵弾に倒れ、醜い屍をさらすよりは、いさぎよく自決したほうがいいと思い立つと、最後の死に場所を求めて、友軍陣地から三百メートルほどの地点に、約千五百人の島民が集まってきた。防衛隊員が二個ずつ手榴弾を持っていたので、それで死ぬことに決めた。一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった。『天皇陛下バンザーイ』の叫びが、手榴弾の炸裂音でかき消された。肉片が飛び散り、谷間はたちまち血潮でいろどられた。なかには、クワやこん棒で互いに頭をなぐりつけたり、かみそりで自分ののどをかき切って死んでいく者もあった。こうして三月二十八日午後三時、三百二十九人の島民が悲惨な自決を遂げた。村民はこの盆地を、いまでも『玉砕場』と呼んでいる。」(147~149頁)

本書は、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料を基に「秘録 沖縄戦史」(1958年)(乙4)を執筆した著者が、内容を再検討し、琉球政府の掩護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。

キ 『沖縄県史 第8巻』(1971年)琉球政府編集(乙8)
「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕刻、駐在巡査安里喜順を通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するよう命じられた。その夜は物凄い豪雨で、住民たちは、ハブの棲む真暗な山道を豪雨と闘いつつ、老幼婦女子の全員が西山にたどりついた。ところが赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆地に移動集結しなければならなかった。いよいよ、敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。約千五百人の住民は、二、三十人が一発の手榴弾を囲んで自決をはかった。互に鍬や根棒で殺し合ったりした。あるいは剃刀で喉を切った。」(410頁)

本書は、1965年(昭和40年)から1977年(昭和52年)にかけて、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した全23巻(別巻1)中の1巻であり、1971年(昭和46年)4月28日に琉球政府の編集により原本が発行されたものである。

ク 『沖縄県史 第10巻』(1974年)沖縄県教育委員会編集(乙9)
「上陸に先だち、赤松隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりの安里喜順巡査を通じて命令した。安里巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地に村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。」(689頁)「その時、陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾を配りだした。自決をしようというのである。」「村長、校長、兵事主任ら村のリーダーらが集って、相談ごとをしていた。そこで誰云うとなしに、『天皇陛下万才』を三唱したり、『海行かば』を斉唱したりして、それがこだまするのだが、すぐ砲撃にかき消されていた。その時、渡嘉敷の人たちの間から炸裂音がした。それにつられて、村民らは一斉に手榴弾のピンを抜いて、信管をパカパカたたいていた。」(690頁)。

「恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空には飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。」(765頁、郵便局長徳平秀雄氏の証言)

「安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。『貴方も一緒に……この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません』といっていた。私の意識ははっきりしていた。」「二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。」(768~769頁 元渡嘉敷村長米田惟好氏の証言)。

本書は、上記『沖縄県史第8巻』と同様に、沖縄の公式な歴史書として1974年(昭和49年)3月31日、沖縄県教育委員会の編集により原本が発行されたものである。本書中、『沖縄編、慶良間諸島』の章(685頁以下)は、大城将保氏による解説部分と複数の住民の証言部分とで構成されている。

ケ 『家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明 証言』(昭和63年2月9日)(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編』所収)
「実は、三月二七日がこの場所へ移動した日ですけれども、もうその日から、つまり『集団自決』が起こる前から、いよいよ住民は日本軍と運命を共にしなくちゃいけないと、そういう思いがにわかに起こってきたと。これはよく考えて見ますと、自主的にというよりも、米軍が上陸したと。そして、日本軍がいると、これはあくまでも日本軍の政策と申しますか、住民は軍とやはり運命を共にすると、そのような思いは、軍からのそういう形で、この内面に生じたというふうに覚えております。」(285頁)

「もういよいよここまで追い詰められて、自分たちは軍とこの運命を共にして、最後を遂げると、自決命令が出る前から、そのような思いで満たされていたという記憶が強烈に残っております。」(286頁)

「みんなは、軍からの自決命令がいつ出るかと、そんな思いをして待つという状況でした。それは当時、村の指導者を通して、軍から命令が出たというふうな達しがありまして、配られた手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであります。」(286~287頁)

「当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を始めたわけであります。」(287頁)

「(直接その自決命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか。)はい、直接聞きました。」(288頁)

本証言は、証言当時は沖縄キリスト教短期大学学長であり、戦争当時渡嘉敷島において、自ら集団自決を体験した金城重明氏が、家永第3次教科書訴訟第1審において、自決命令について証言したものである。

コ 『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭 証言』(昭和63年2月10日)(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編』)所収)
「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは、『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」(54頁)

「結論的な言い方をすると、日本軍の圧倒的な力による押しつけと誘導がなければ起きる事柄ではないということをまず総括的に申しあげたいと思います。」(55頁)

「兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。」(69頁)

本証言は、証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴をもち、渡嘉敷村史の編集にも携わった安仁屋政昭氏が、家永第3次教科書訴訟第1審において、自決命令について証言したものである。

サ 『朝日新聞記事』(1988年6月16日付夕刊)(乙12)
「当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、『集団自決』の際に生き残った人が『日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた』と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。」

「(当時兵事主任であった富山真順村議の話として)『島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た』。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、と富山さんは回想する。『中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ』 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは、証言をそうしめくくった。三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』とはいうものの、今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができる限り伝えて回ったこと、『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近く』という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は"軍指示"通り、食糧、衣類など洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。"指示"は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。『集団自決』は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」

本記事は、座間味島における集団自決について、当時渡嘉敷村役場の兵事主任であった富山真順氏(戦争当時新城姓)が、赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨を具体的に証言したものである。

シ 『渡嘉敷村史』(1990年)渡嘉敷村史編集委員会編集(乙13)
「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。①一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。②そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉③三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。④三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」(197~198頁)

「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(198頁)

本書は、渡嘉敷村の公式な歴史書として、1990年(平成2年)3月31日、渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものであり、渡嘉敷村役場の兵事主任であった富山真順氏(戦争当時新城姓)による具体的証言等を内容とするものである。

(2)以上のように、赤松大尉が住民に対して「自決せよ」
との命令を出したことを内容とする文献が多数存在しており、赤松大尉による自決命令があったことは真実であり、虚偽ではないことが明らかである。


以上



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