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4 台湾人と日本語

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植民地支配と日本語
第一章 台湾における日本語普及政策

4 台湾人と日本語


日本の諸植民地および占領地域のなかで、台湾は日本語の普及率がもっとも高かった。それは、
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日本語普及政策のもとで、長期問にわたって強制的に日本語教育が推しすすめられたためであり、くわえて、台湾の特殊な環境、政治、歴史条件などもあった。台湾総督府文教局長を担当していた島田昌勢は、こうした台湾での言語政策の「成功」に自惚れ、さらにほかの植民地や占領地域への「台湾経験」の役割を強調して次のように述べている。

台湾における国語問題は、本島統治に殊に皇民化の根蒂にして教育教化の生命なり。されば領台以来当局並に教育教化の任にある者は、誠心を傾倒して国語の普及徹底に不断の努力を続け、……今や我が国語は国運の伸張に適従し、興亜の大使命を帯びて大陸に進出するの雄雄しき態勢にあり。外地台湾における国語教育多年の経験は大いに国策遂行に貢献とする会心の秋に際会せり。(山崎睦雄『二言語併用地における国語問題の解決』序文、一九三九)

しかし、被統治民族にとって、民族のアイデンティティーと言語、伝統、文化の喪失は、民族の消減を意味する。また個人にとっても奴隷的で、屈辱に満ちた過程である。統治者の意志により植民地の民族からその歴史や伝統、文化、生活習慣、言語ないし姓名までを奪ってしまおうとする台湾総督府の政策は、もっとも深刻な意味においての暴政である。この暴政下の言語政策は、はじめから根づよい抵抗に直面しなければならなかった。

そもそも樺山総督の台湾上陸前からも激しい抵抗があった。「台湾民主国」の宣言、劉永福らの抵抗などが失敗したあとでも、台湾人は、当時七個師団を有した日本陸軍の三分の一以上の兵力と、海軍連合艦隊の大部を相手に、刀折れ矢尽きるまで抵抗をつづけた。簡大獅をはじめ、度重なる人民の蜂起や暴動
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があり、武力抗争は一九一五年頃まで、約二〇年もつづいた。一八九六年(明治二九年)一月一日に、芝山巖学堂で、伊沢の部下である六人の学務官僚が簡大獅の率いた現地人(匪賊と呼ばれた)の蜂起部隊に殺される事件があつた。伊沢と総督府はそれを利用して、いわゆる「芝山巖精神」を提唱し、植民地での日本語教育のシンボルにまつりあげ、以後毎年華々しく祭典を行つた。しかしそれはむしろ、その日本語教育と植民地人民との敵対関係を証明したものであった。

一方において、台湾人は自分の母語を必死に守ろうとして、日本語を勉強させられながらも、その「常用化」を最後まで拒んでいた。たとえば一九三九年出版の上田光輝著『皇民読本』でも次のように認めさるをえなかった。

現今、台湾で発行する新聞の記事を見て居りますると毎日の様に国語講習会の終了式の記事があり各方面で相当の成績を挙げて居る事は誠に嬉しい事と思ふが、ただ本島民諸君の家庭に入って見ると、市と云はず街、庄と至る所の家庭では、殆ど国語を聞くことが出来ない。公学校では全生徒が国語に依つて毎日勉強して居るが校門を出たらばすべてが国語を忘れた如く、台湾語を平気で使用して居るその事実を見て私は悲しまざるを得ない。(上田光輝『皇民読本』一九三九)

このように、統計数字からみた日本語の普及率と実際上の使用状況とは、非常にかけはなれていたことがわかる。これについて、公学校教員として台湾に赴任した南眞穂という人も、「皇民化の掛け声と実際との喰い違いはどこから来たのであろう」といつて、児童が日々つかっている「国語」の汚さと先生がいないとき、すぐ台湾語をつかいだす事実を嘆いている。その書き記しているところによれば、国語演習会
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に選ばれた「国語選手たち」が壇上で立派な国語を話すのを「愉しい心一杯で傍聴してゐた」が、「休憩で小用に立った時、何といふ皮肉だった今、私を喜ばした……数人が便所で話し合ってゐる言葉は……」という状態であって、「国語を舞台上の玩具にしてゐるのではないか」と憤慨している(南眞穂「残された国語問題」『台湾教育』四三九号、一九三九)。しかし、せめて最後に残った自分の言語と民族意識を守ろうとする民衆側は、直接なり間接なり日本語の強制に、最後まで抵抗するのが自然であり、またそれよりほかに道はなかった。

「国語を習わぬものから過怠金をとれ」、「公務執行中に台湾語を使用したものはクビにしろ」、「台湾語や漢文は絶対に禁止せよ。それが不満なら支那へ行け」などと繰り返し叫ばれた。さまざまな締めつけ策も案出されたが、民衆の抵抗は根づよく、母語の消滅はそう簡単にはできないことだった。いかにして日本語の普及を徹底することができるか、その対策がさまざまに論議された。一九二九年、『台湾教育』という雑誌に発表されたある論文では、「国語」使用の徹底しない原因として、本島人教員(すなわち台湾人教員)が率先して「国語」常用を励行しないこと、校長訓話などに台湾語の通訳をつけること、児童の台湾語取り締まりが不十分であること、学校給仕、小使、商人が公然と台湾語を使用することなどが指摘されている。また、漢文を教える際に台湾語を使用することも、一つの重大な原因とされた。

一九一〇年代から、学校教育では、教育用語の日本語化が推しすすめられ、日本語の授業では母語の使用が禁止された。そして、漢文の時間がどんどん減らされていったのである。しかしこれに対抗して、台湾の一部の知識層が伝統的書房教育の堅持と、学校教育での漢文教育の保存を繰り返し要求した。そのなかで、台湾からの日本留学生や知識人が一九一九年に東京で結成した台湾青年会と啓発会(のちに新民会に改称)などの活動が目立つ。かれらは『台湾青年』という機関紙を編集し(のちに『台湾』に改称、さらに週刊『台湾民報』となり、昭和に入ってから台湾での発行が許され、一九二九年日刊新聞『台湾新民報』にあらためた)、また、一九二一年か
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ら一九三四年まで一五回におよぶ請願運動をつづけていた。政治的目標としては、台湾議会の設置、台湾と「内地」との権利を同等にすること、「台湾は帝国の台湾である同時に我等台湾人の台湾である」などを掲げていた。それは、板垣退助が一九一三年台湾にきて同化会の結成を呼びかけて以来、林献堂、蔡培火※らがいいつづけてきたことである。なお一九二一年に、林献堂、蔡培火、蒋渭水らによって台湾文化協会が創立された。かれらが要求したのは、まず学校教育における漢文の授業の保留、民族文化の保存であった。『台湾青年』第一巻二号(一九二〇年八月)では、漢文と漢民族との関係を論じ、次のように書いている。

一国の文化の精粋を表すべき符牒即ち文章は、その国の人によってのみ創造し改廃せられるべきもので他国人の容喙を許さぬ性質のものである。和文が大和民族の発意によって造られたり改められたりすると同様に、英文は英吉利人の意志で処理せられるものである。豈独り四千余年の歴史を有する漢民族の漢文がこの常識から逸するの理があらうか。(『台湾青年』第一巻二号、一九二〇)

それと並行して、蔡培火はヨーロッパの伝教士たちが中国での布教のためにつかっていた、いわゆる教会ローマ字を利用して、台湾語を書き記すための台湾語のローマ字表記を考案した。一九二四年にそれを普及するための講習会をはじめて申請して、一九二九年再び申請をしたが、二回とも不認可となった。不認可の理由は、ローマ字は「国語教育と連絡なく国語教育の普及を妨げる」というものであった。このため、かれはおもに日本の片仮名(一九字)をつかい、民国の注音符号(六字)と新作字(三字)をくわえて、いわゆる「台湾白話字」の字母を作りだして、一九三一年に願いでた。しかしまたもや総督府に却下された。

※近藤純子が「蔡培火のローマ字運動――台湾日本語教育史の一研究」で蔡培火について詳しく論じている。参照

台湾総督府が教育のための「台湾白話字」などを押しつぶそうとしたのは、その「台湾白話字」
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や台湾ローマ字などが、日本語の普及と敵対関係にあることを敏感に読みとったからである。当時の総督府文教局長の次のよう証言は、その思惑を明白に表しているだけでなく、そこからは、総督府の言語政策をささえる言語観の一端をもうかがえる。

台湾人には白話字の方が親しみ易いかも知れんがそれでは白話字が普及されたら国語普及の努力を怠るやうな結果になり易いと思はれる。さらにわが国語には字語そのものに国体精神を宿してゐる。例へばヤマト魂とは無限の真の心であり、ヤサカニの曲玉は無限に映える曲玉の意である。文字そのものに尊い精神がある。これをローマ字や白話字などで表示してもその精神は死減してゐるのだ。われらは飽くまで国語一本槍で進みたい。さうでないと台湾統治の伝統的主張たる同化政策の徹底を期する事が出来ない。(近藤純子「蔡培火のローマ字運動」一九八五より重引)

植民地人民から言語と文字をことごとく剥奪することと、日本語の音声から文字まで(のちに、とくに歴史的仮名遣いが強調されるようになる)を国体精神の現れとして植民地人民に押しつけることは、その統治政策の基礎であり、また日本帝国の政治的要求でもあった。そこに植民地での言語政策の根本的原則が如実に現れている。伊沢の打ちたてた混合主義やら彼我相学やらその理念はもはや少しも痕跡を残していなかった。

しかしそれでも蔡培火らはあきらめず、一九三四年に「台湾白話字普及の趣旨及び台湾島内賛成者氏名」や「台湾白話字普及に就き内地人氏に訴ふ」を発表し、翌年また日本の元総理斎藤実ほか知名人五〇名の署名をえて、「中川総督に最後的言明」を願いでたが、結局受け入れられなかった。「台湾白話字普及」の運動は、あくまで日本帝国の植民地統治の枠内で文盲の一掃や台湾の教育をはかるためのものであり、
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正面から同化政策に反対し、民族の自立などを求めるものではもちろんなかった。ここに当然その限界もあるのだろう。また、この運動の正当性を訴えるため、かれらは、伊沢が一八九四年に書いた『日清字音鑑』で、すでにローマ字の綴りを試みたことなどを繰り返し強調している。日本国内各界の名士の支持を求めながら、合法的にすすめられていたところに、この運動の特徴があった。しかし、それでも台湾総督府の強硬な同化主義のもとでの言語政策は、それとの共存の余地さえまったくなかったのである。


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