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井上清の政治的立場 坂井貴司

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井上清の政治的立場 坂井貴司


http://list.jca.apc.org/public/cml/2010-October/005846.html
[CML 005953] 井上清の政治的立場
donko at ac.csf.ne.jp donko at ac.csf.ne.jp
2010年 10月 13日 (水) 23:38:24 JST

坂井貴司です。
転送・転載歓迎。

尖閣諸島こと釣魚諸島は中国固有の領土であったのを、明治期の日本が軍事力を背景に強奪した、だから中国に返還すべきである、と主張した歴史学者井上清の「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html があります。

 この尖閣諸島領有問題では、このMLの参加者の多くは井上論文を支持しているようです。特に占有論を否定しているところが評価されているようです。


 私は井上論文読んで括弧付きで、「説得力があります」と表しました。[CML:005876]

 帝国主義批判の一つとしての占有論否定は、ある程度共感できます。

 しかし、私は井上清の政治的立場を考えると、この論文には全面的に賛成しかねるのです。

 井上清(1913年~2001年)はご存じの通り、マルクス主義の歴史学者でした。昭和天皇戦争責任を追求した『天皇の戦争責任』(現代評論社、岩波書店)などの著作を多く残しました。そして日本共産党と対立しました。だから、この論文には日本共産党を激しく攻撃している箇所があります。

 さて、この井上論文の日付に注目してください。1972年です。ベトナム戦争の最中でした。沖縄はアメリカの占領下にありました。尖閣諸島もアメリカの支配下にありました。そして、中国は文化大革命の嵐が吹き荒れていました。

 今でこそ、文革は毛沢東が若者を扇動して権力奪取を謀ったことから引き起こされた惨事と位置づけられていますけれど、1972年当時は、文革は新しい潮流としてもてはやされ、支持されていました。当時の日本の左翼知識人の多くは文革を熱烈に支持しました。井上もその一人でした。

 井上は、文革を支持していました。毛沢東思想学院の講師としても活動していました。と、なれば彼が尖閣諸島は中国すなわち、中華人民共和国の領土であると主張するのは当然のことです。

 しかし、現在の中国は1972年当時とは全く違う国家です。建前は社会主義国家でも、実態は金儲けこそすべての新自由主義国家です。井上が蛇蝎のごとく嫌った資本主義国家に向かって突進しています。

 中国が尖閣諸島こと釣魚諸島を返せと言うのは、この近海に埋蔵されているという天然ガス田を開発するためです。エネルギー不足に悩まされている中国のとって、尖閣諸島近辺にあるとされている天然ガス田はなんとしても確保したいのです。(それは日本も同じです)。

 この尖閣諸島問題は結局、天然ガス田の利権を巡る争いなのです。それは押さえておかなければなりません。

 私は、尖閣諸島は中国に返還すべきという論には強い抵抗感を感じます。チベットやウィグル人などの少数民族に対する対するひどい抑圧が行われ、拝金主義が蔓延し、政治的弾圧が行われている今の中国に、私は強い不信感と警戒感を持っています。

 そういった点で私の考えは河内謙作さん[CML:005945]に近いものがあります。

 もう一つ、私が井上論文に違和感を感じるのは「七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった」と、断言しているところです。その箇所を何回読み返しても、それは本当なのかという疑問はわいてきます。

 以上のことから、私は井上論文は全面的に支持できないことを述べます。

坂井貴司
福岡県
E-Mail:donko at ac.csf.ne.jp
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「郵政民営化は構造改革の本丸」(小泉純一郎前首相)
その現実がここに書かれています・
『伝送便』
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http://list.jca.apc.org/public/cml/2010-October/005848.html
[CML 005955] Re: 井上清の政治的立場
吉川ひろし h-yosikawa at jcom.home.ne.jp
2010年 10月 14日 (木) 04:51:45 JST

皆様へ

私も、坂井貴司さんや河内謙作さんの意見に近いです。
そのポイントは、本MLで読んだ井上清氏の
「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)
においては、文中の①~⑧のいくつかの疑問を感じた点です。
     2010年10月14日 吉川ひろし(千葉県議)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《井上氏の論文中の記載(1)》
○私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、1895年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、1900年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。

中国側は、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。

《吉川の論点(1)》

井上氏は、1895年に日本が領有したものであるということを認めている。しかし、中国側はそのことを本当に知らなかったのか?ということも調査・確認しなくてはいけない。同様に、古賀辰四郎氏が釣魚島で1885年に事業をおこなっていたことも中国側は知らなかったのであろうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(2)》
1968年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。

そして日本政府は本年(1972年)5月15日ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく12キロ、面積やく367へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。

《吉川の論点(2)》

これは、日本だけでなく中国側にも言えること。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(3)》

1970年8月31日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。

《吉川の論点(3)》

公的にその領有を主張したのは1970年に琉球政府立法院が行なった。」と述べているが、古賀商店は1885年に釣魚島で事業をおこなっていたので、日本政府の実効支配は、1885年にあったということが言えるのではないか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(4)》
これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。

《吉川の論点(4)》

林子平氏の三国通覧図説の付図 ↓ ↓
http://www.library.tohoku.ac.jp/kikaku/spec1/doc/ki4-5-2.html

この付図だけを見れば、井上氏の述べていることは、地図上の色分けで釣魚島は中国になっているという主張は理解できるが、そもそも「三国通覧図説」は当時の蝦夷地を中心にしているものであり南の琉球諸島については正確性に欠けている。

但し、ペリー提督との小笠原諸島領有に関するに日米交渉の際には、この林氏の地図は日本の領有権を示す証拠となった。・・・ということで軽視はできない地図である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(5)》
「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法Ⅰ』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」。この「合理的なルール」とは、「無主地の先占の法理」において顕著である。・・・(途中略)・・・先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった。

「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。明・清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。                   ↓ ↓
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/chukai.htm

《吉川の論点(5)》

現在の国際法に照らしてみれば、この『籌海図編』は井上氏の主張に有利な材料といえるが、それでは歴史上、大帝国を作った国々が、その当時の地図に記載した領土を以って、自国の領有権を現在も国際法上主張できるのだろうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(6)》

朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(1972年3月20日)は、もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、このさい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなかろうか」という。しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。

《吉川の論点(6)》

古賀辰四郎(1856~1918)は主に魚釣島の2箇所の地点を開発しました。島の北西部と島中央南部の岬です。前者では堀割を開き、石垣塀を積上げ、塀の中には鰹節の加工場や労働者の住居等を建設、尖閣諸島開発の拠点としました。日本側からみればこのような実効支配あるいは中国側からみれば外国人の不法占拠について中国は何故、当時、異議を申立なかったのか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(7)》
釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あるいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成立していない。

《吉川の論点(7)》

領土の「先占」とは、「誰もいない土地を発見し、領有の宣言をして占有する事をいいます。」ということからすれば国際法上は「公示」をしないことには、「先占」にならないのでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《井上氏の論文の記載(8)》
釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなかった。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあいには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。

《吉川の論点(8)》

井上氏が引用している「国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法Ⅱ』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」ということを了した場合、名前をつけたのが

中国であるという程度では、国際法では通じなのでは?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

吉川ひろし(千葉県議・無所属市民の会)
千葉県柏市高田754-24
電話・FAX 04-7144-0073
メール h-yosikawa at jcom.home.ne.jp
ブログ http://yoshikawahiroshi.blog61.fc2.com/


http://list.jca.apc.org/public/cml/2010-October/005856.html
[CML 005963] Re: 井上清の政治的立場
higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2010年 10月 14日 (木) 14:11:11 JST

坂井さん

私も歴史学者の故井上清教授の政治的立場を知らないわけではありません。しかし、井上論文の評価と彼の政治的立場は無関係ではありませんが切り離して考えるべきだと思います。そうしないと正しい論文評価はできません。論は論自体として読むのが正統な読み方だと思います。

さて、井上論文で指摘されている尖閣諸島の領有権の帰属の問題、また「先占」取得の問題を読み込むにあたって、私の中にあった第一の問題意識は、「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません」(赤旗論評「日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」と捉える赤旗の論評は正確なものといえるかどうかという点にありました。

この点について井上論文は以下の論証をしています。

■「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

第1。『使琉球録』(陳侃 1534年)に記述のある「乃属琉球者」(乃チ琉球ニ属スル者ナリ)の解釈と『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)に記述のある「界琉球地方山也」(琉球地方ヲ界スル山ナリ)の解釈について

以下、井上論文の該当部分を少し長いですが論証に必要な範囲内で要約します。

(1)『使琉球録』(陳侃 1534年)には次のような記述がある。「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ」。

(2)『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)には次のような記述がある。「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久
米島)ヲ望ムベシ」。

(3)上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

(4)なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

(5)こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

(6)政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。/陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。/たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

上記の故井上教授の論証に私は「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであ」るという赤旗論評以上の説得力を感じます。郭汝霖のいう「界」が赤旗論評にいう「航路の目標」以上の当時の中国人の領有意識を示している記述であることは明らかというべきであろう、と井上教授ならずとも私も思います。

このまま故井上教授の論を引用していると本メールはあまりにも長くなりすぎますのでこれ以上の井上論文からの引用は避けたいと思います。各自におかれて先のメールで私が挙げた井上論文の5つの論点のうちの残された論点、すなわち、

(3)『籌海図編(胡宗憲が編纂した1561年の序文のある巻一「沿海山沙図」の「福七」~「福八」)にまたがって地図として示されている「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が西から東へ連なっている事実の解釈。
(4)『使琉球雑録』巻五(1683に入琉清朝の第2回目の冊封使汪楫の使録)の「中外ノ界ナリ」(中国と外国の界という意味)の解釈
(5)『中山傳信録』(1719年に入琉した使節徐葆光の著)の姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と記されている「鎮」(国境いや村境いを鎮めるの意。「鎮守」の鎮)の解釈

の論点を熟読していただければ私としても幸いに思います。

ただ、坂井さんが「もう一つ、私が井上論文に違和感を感じるのは『七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった』と、断言しているところです。その箇所を何回読み返しても、それは本当なのかという疑問はわいてきます」という疑問を述べられていますので、この点について故井上教授の論をもう少し引用させていただこうと思います。この点について井上教授は次のように言っています。

「琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(略)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。/また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。」

上記から釣魚諸島(尖閣諸島)に関する中国の文献に比して琉球人の文献は圧倒的に少ないこと、と言うよりも2冊しかないこと。琉球人による同地に関する文献が少ないということは、琉球人の同地との関係も少なかったこと、「琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった」ことをも客観的に推察させるものです。

さらに井上教授は琉球人の口碑伝説である『地学雑誌』や琉球学の大家である東恩納寛惇の『南島風土記』、さらには石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」などなどの著作も探索し、釣魚諸島に関する琉球名称に混乱があることを指摘し次のように述べます。

「この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。/現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。」

上記の井上論文の推定は学術的な資料探索に基づく根拠を持つ推定というべきであり、そこに琉球人を差別するなどの意図は微塵も感じられません。妥当な推定だと私は思います。

また、井上論文は、尖閣諸島を「明治期の日本が軍事力を背景に強奪した」(坂井さん)「無主地先占の法理」なる国際法上の法理を「近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした『法理』」でしかない、と強く批判していますが、これも学術的検討に基づく研究者の自由な意見表明と見るべきであって、そこに故井上教授の政治的立場やましてや井上論文の発表された日付と政治情勢との符合性などを重ね合わせるべきではない。はじめにも述べましたが、論は論自体として評価されるべきものだ、と私は思います。


東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi


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