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山城盛治『私は後ろからささえる役だった』

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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3月31日出版) P399

集団自決…私は後ろからささえる役だった

渡嘉敷 山城盛治(当時十四歳)
  • (引用者注)本文記述から当時は阿波連の人と思われる
  • (引用者注)括弧つき小見出しは引用者が付したもので原文にはありません

(10.10空襲)


 昭和十九年一〇月一〇日、学校に行く時から那覇で高射砲を、ドカンドカンと射つ音が聞えていたが、友軍(日本軍の事)の演習だと思っていた。

 授業中に飛行機が低空してきた。もう友軍の演習だとぱかり思っているから、飛行機のマークなど、全然、目に入らなくて、みんなで外にとび出して、「ガンバレー、バンザーイ、バンザーイ」と、手を振ったりして、阿波連の東側の山を越えたあたりで、パラバラー、機銃掃射の音がして、あそこの海に渡嘉敷の船がいたのですね。その船をねらった爆弾が、部落(阿波連)に落ぢて、はじめて、本物の空襲とわかったのです。

 それからみんな騒ぎ出して、壕に隠れたり、山に逃げこんだり、その時は、部落には、ほとんど被害はなかったが、船は、全部やられました。

 僕らは、島に帰っていた中学生や、青年団の指示で避難しました。

(壕掘り)


 もう、その時から学校はなくなって(日本軍の兵舎代用にされ、閉鎖)川の向こう側に、高学年は壕掘りさせられましたね。

 まだ子どもだから、やわらかい砂のところを掘って、もっこに入れ、担いで運ぶ仕事なのです。

 そうした仕事をLている間、兵隊が一人、見張り役でついていて、ときどき「敵機来襲」と叫ぶと、避難して、解除になると、また壕掘り、私たちが掘った壕も、特攻艇を入れるといっていました。

 一〇・一〇空襲の時は、慌てたというか、怖いというのか、体のふるえが止まらたかったけど、後は、なれてきて、あまり慌てる事もたかったですね。

 家の庭に、とっさの時に隠れる"たこつぽ"の様な壕と、山の中、ここはですね、飛行機が低空して爆弾を落とせそうにもない谷間を選んで、避難小屋と壕を造ってですね、米やら鰹節やら、食糧と家具など隠して、家には、当座の生活が出来るだけの物しかおかなかったです。

(玉砕前夜)


 阿波連の都落がやられたのは、次の年の空襲ですよ。敵が上陸する前の、三月二三日ですか、その時、全部やられて、山暮しがはじまったのです。

 最初は、部落の山に隠れていたのですが、アメリカーが上陸するというものだから、渡嘉敷のウビガーラか、オンナガーラに移動して、そこに居た時、明日あたり、玉砕だという話が伝わって、私、その時十四歳でした。

 今まで持って来た食糧を、どうせ残してもなんにもならんから、全部食べなさいといわれ、黒砂糖の大きな塊りを渡され、ガリガリかじったり、煙草も吸えといわれ、吸ってみたが、煙にむせておいしくなかった。

 そして、いろいろな想い出話、楽しかった事、嬉しかった事など話し合いましたね。


(玉砕場)


 それから今の玉砕場といわれている処に行きました。

 翌日の朝九時頃、"集合"と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がポロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で仕末しよう、といった。

 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。

 僕らは、親父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。

 そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。

 私は十四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。

 行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。

 それで(ゴポウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。

 そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッバイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。


(少年の役割)


 私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。

 私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。

 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊るすのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのですが、死んだと思って降ろしたら、まだ生きていて、もう一ぺん吊り下げたり、喉を刺して殺したり、死んだ人を並べたら、もう、こんなに長い列が出来ていた。

 私も、いつやられたか、また、爆風で吹きとばされたのか、死んでいる人の側にころがって、目も脹れて、見えにくくなって、死んでいる人もいるし、死にきれずに呻いているものもいるし、怖くなって、その場をどうやって逃げたか、意識がもどったら、全然関係のないというか、別の場所でした。

 動けないほど腹がすいて、何か食べ物はないか、とはいずりまわって、また、玉砕場に行ったのです。


(おばさんに逢う)


 そこで、おばさんに逢ってね、おばさんは、避難中にお産をLたげど、赤ちゃんは死んで、一人ボーッと座りこんでいたようでした。

 玉砕場では、最後に生き残った人が、首吊って木にぶら下っていましたね。

 そのおぽさんと玉砕場で一晩いっしょにいました。死んでいるのもいるし、生きているのもいるし、怪我して呻いている人たちで助かりそうな人は、アメリカーが連れて行きよったですね。

 真っ暗闇で雨も降っているし、歩くたびにぶつかるものがあるので、さわって見ると死体だったり、踏みつけて、ウーと、声を出すのもいて、僕が踏みつけた為に生きかえった人もいます。

 日本軍の陣地近くにいた人たちは、自決してなかったですね。

(弟と逢う)


 弟と逢ったのは、玉砕場を降りて、おばさんと別れた後だったと思いますよ。

 弟は、親戚のおじーが、一人びとり家族を殺しているのを見て、怖くなって逃げ出したわけですよ。

 このおじーは、日露戦争に行って、戦(イクサ)の経験があってね、僕より一つ年上の子が首しめられて殺されるのを見て、弟は逃げたといっていましたね。

 弟といっしょに、姉の嫁ぎ先の避難場所を捜して、一緒に山暮ししてね。


(おばさんの壕で)


 おぱさんは、家族とめぐり会ってね、子どもたちや、防衛隊に行っていた親父なんかも、時どき顔みせるようになって、ちょっとした壕で暮していたのですがね。

 ある日、バーンと音がしたので、急いでおぱさんの壕に行って見たら、家族中ひっくりかえっているのですよ。

 おばさんの家族の内、一人だけ僕より一つ年下の男、当時十三歳でね。彼の話を聞くと、親父は最初、棒ぎれで家族をメッタ打ちにして、彼は、頭を殴られて、ひっくり返ったおかげて助かったらしいですね。

 今でも頭は、傷だらけでね、私たちの避難小屋に来た頃は、頭にウジがわいていましたね。

(水産組合長さん)


 あヽ、憶い出しました、僕が最初に意識をとりもどしたとき、そばに渡嘉敷の水産組合長さんが居ました。組合長さんは、頭に怪我をしていました。

 二人で岩陰に隠れていたのですが、組合長さんが、もう、此処で死のうか、といって、石を積みあげ、出入口を小さくあけて、二人で入っていたのです。

 僕は、人が通るのを見て、組合長さんと別れて、その人たちについて行ったのです。

(古波蔵さん)


 この人たちが、その晩一緒に岩陰で休んだ古波蔵さん一家だったか、どうかはっきりしないのです。

 次の朝、古波蔵さんたちは、別の場所に移動するので僕を起こしてくれたらしいが、いくら呼んでも、ゆり動かしても、僕が起きないものだから、とうとう、僕だけ残して出て行ったらしいです。

 途中、阿波連の人に出合った古波蔵さんたちが、山城の誰それは、向こうの岩の下で眠っているから、と伝えたら、それが、おばさんと弟だったようです。

 遠くの方で、かすかた声で僕の名前が呼ぼれたような気がするので、誰だろうと、目をあげると、弟が心配そうな顔で、僕を見つめているのです。

(玉砕場で寝る)


 弟に起こされたのが夕方だったので、その晩は、玉砕場で寝ました。死んだ人、生き残っている人、ごっちゃまぜで一つの布団かぶって、そのなかに僕や弟も、もぐり込ませてもらって一晩ねました。

 もう、あの時は、一日の出来事が、二、三日に思えたり、一週間も前の事が、昨日か、今朝の感じで、なにしろ、失神しては、生き返り、しぱらくすると意識がなくたったりで、今もって日にちがはっきりしません。

 次の日の朝(玉砕場で寝た)、死んだ人たちが持っていた米や鰹節、鍋、釜を捜し出して、玉砕場から移動しました。

 途中で、何度かアメリカーに見つかりそうになったりしましたが、阿波連からやって来て、自分らで作った竹やぶのなかの小屋までたどりつきました。

 その後ですね、おばさん一家が手榴弾で自殺したのは、二、三日後ですかね。

(阿波連へ)


 敵も山を降りたようだし、日本軍も応戦しないので、自分たちの部落に帰ろうと、阿波連にむかったのは大雨のなか、夜半の十一時頃出発して、次の日の明げ方阿波連のウフダーラに着き、そこから、また山を越えて東海岸のウキガーラに行き、そこのヌラクール、という処でしばらく暮らしていました。

 その頃になると"米軍の捕虜になったら、飯も腹一杯食べられる"という噂なども、ときどき聞きました。

阿波連には、収容所があって、大人はよく往き来していました。

 あの時の食事といったら、朝、小さな握り飯を一つか二つ食べると、もう昼までなにもない、隠した米があったから、僕らは良い方でしょうね。

 また、日本軍の粉味噌の缶を探し出してあったから、それで味付けして、


(海岸の食糧)


 夜はね、海岸に行くと、特攻機に、やられて沈んだ船があるでしょう、これからいろいろた物が流れてくるんです。

 日本軍が先に拾って、その後、民間が拾うのです、いっぺん、缶詰を沢山ひろってね、ヤヅターと思って、急いで避難小屋に担いで帰って、開けてみたら……全部、コーヒーの粉、インスタントじゃなく、煎じて飲むのがあるでしょう、あれですよ。

 腹は空いているし、口に入れてかむと、苦くて苦くてすててしまいました。

 粉ミルク、アイスクリーム缶、ビスケットの箱、メリケン粉、べーコンのかたまりなども流れてきよったです。

 ウキガーラには、日本軍の通信隊もいて、兵隊に"敵と闘う意志があるか"ときかれ"あります"と答えたら手榴弾を二個渡されました。

 それをポケットに入れて部落に行ったら、大人に見つけられて"そんな物は捨てろ、今からは、自分の命が一番大切だ"といわれ、通信隊に返してきました。

(豚追って一斉射撃受ける)


 阿波連の部落は、もう半年も人が住んでいないでしょう。カポチャ、瓜、トマトなど、勝手気ままにのびひろがって、実も沢山つけて、また、豚や山羊も小屋から逃げ出して、そいつらを捕まえた時は、大変な御馳走でしたよ。

 避難小屋から阿波連には、夕方行く時もあるし、夜の明けないうちに出かけるときもありましたね。

 部落内にアメリカーが居るか、居ないかで、出かける時間が変るのです。

 あの時は、豚を捕まえようと、青年団や大人も大勢行って、豚を追い馳けまわして、屋敷から道から、ワワワーして、アメリカーのパトロールが入って来るのを誰も気付かなかったですよ。

 アメリカーは、部落のあちこちで、ワワー大声あげて走り廻っている人たちを、日本軍と思って、機関銃の一斉射撃ですよ。

 先輩が二人捕まって、そのまま帰ってこなかったです。私は、石垣の隅に隠れていました、その日、阿波連の人たち、半分以上殺されましたね。


(捕虜になる)


 もう、こんな生活をするより、早く捕まってしまった方がよいのかなーと、考えたりしましたね。

 アメリカーの陣地は、船越しにあってね、避難小屋から阿波連の畑に通っていた小母さんが、捕まえられて、この人が、私たちの隠れている処にアメリカー連れて来て、一時は、大騒ぎしたげど、もう、捕虜も同じだと、みんな昼から海に行って、沖にアメリカーの舟艇がいたげど、貝とったり、魚釣ったり、泳いだりしていたら、どこからか、一発バーンと射ってきて、みんな逃げ出したら、私たち目がけて、艦砲射撃ですよ。

 それからまた、あの山、この谷逃げ廻って、捕虜になったのは、七月半ぱでしたかね。

 阿波連で捕まって、座間味に連れて行かれ、一晩泊まって、次の日、渡嘉敷の収容所で伊江島の人たちと一緒に暮していました。

 収容所にいるとき、米軍に使われて、白旗もって日本軍のところに行く人たぢを何度も見ましたね。

 この人たちは、誰一人帰って来てないですよ。

 私たちが、捕虜になって、一月ほどすると終戦になりました。
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