15年戦争資料 @wiki内検索 / 「太田良博」で検索した結果

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  • 集団自決などをめぐって
    集団自決などをめぐって太田良博氏遺稿より 「ある神話の背景」論争at沖縄タイムズ1985「沖縄戦に“神話”はない」太田良博 「沖縄戦」から未来へ向って・曽野綾子 「土俵をまちがえた人」太田良博 「沖縄の証言」(上)より 宮城晴美氏 読谷村史5上 沖縄県公文書館サイト 沖縄戦関係資料閲覧室 集団自決の再検討 集団自決などをめぐって 太田良博氏遺稿より 『鉄の暴風』取材ノートを中心に 「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」琉球新報1973.7.11~7.25 「ある神話の背景」論争at沖縄タイムズ1985 論争史ガイド 「沖縄戦神話論争」の時系列 「沖縄戦に“神話”はない」太田良博 太田良博氏の曽野批判:1985年4月8日から10回連載 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1) 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(2) 「沖縄戦...
  • 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(1)」
    ...ういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。 目次へ | 次へ
  • 「大江・岩波訴訟高裁判決に思う」
    ...論には言論で勝負を 太田良博氏の名誉回復必要 クリックすると拡大 太田良博関連ファイル 読める控訴審判決「集団自決」
  • 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(2)」
    ...背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。 太田氏は次のような書き方もしたのだ。 「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」 こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。  古波蔵村長の言葉 太田氏は、...
  • 第4・5(4)ア 「鉄の暴風」について
    ...暴風」の執筆者である太田良博は,沖縄タイムスに掲載された「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論〈1〉」, 「同〈3〉」(甲B40の1)において,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと,「鉄の暴風」が証言集ではなく,沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため,証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。 (イ)(初版の誤記)* 原告らは,「鉄の暴風」の初版には, 「隊長梅澤のごときは,のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」 との記述があり,「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は,風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し,確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば,第10版で訂正されていることが認められる。)。 しか...
  • 論争史ガイド
    ...団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日~4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。 「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけ...
  • (原)ア 鉄の暴風について
    ...暴風」の執筆者である太田良博は,沖縄タイムスに掲載された「沖縄戦に神話はない-「ある神話の背景」反論〈1〉」, 「同〈3〉」(甲B40の1)において,「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと,「鉄の暴風」が証言集ではなく,沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため,証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。 (イ)(初版の誤記)*   控訴人らは,「鉄の暴風」の初版には, 「隊長梅澤のごときは,のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」 との記述があり,「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は,風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し,確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば,第10版で訂正されていることが認められる。)。 ...
  • 「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」
    「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」―曽野綾子氏に反論する― 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p167-215 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か1疑惑の転進命令。誰が赤松を「告発」する資格があるかということではなく、どうして、赤松に住民を殺す資格があったのか、ということが問題であり、赤松を告発するのは特定の個人ではなく、社会のルールである。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か2なぜ、戦闘必須の兵器である手榴弾が多数住民の手に渡っていたか。もし防衛隊員(正規兵といえない)の手から流れたというなら、一人の防衛隊員が妻に会いに行ったぐらいで処刑するような軍隊が、兵器の管理をなぜ怠ったか。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か3ただ自己弁護する赤松――罰なくして罪を悟れない人間の弱さを痛感する。一方、「反省を強いることのできるのは神だけだ」...
  • 「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。
    太田良博 『すべてのうしろには"菊"がある』―「日の丸」と沖縄戦―より 太田良博著作集3、p337-339 「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。 沖縄戦で悲惨な事件の数々を聞かされているが、これほど悲惨な話を私は知らない。沖縄戦に関しては、これまで二百冊前後の記録が出ているが、その中でたった一つ、この事件にふれているとおもわれるのがあるが、それも、それらしい事件があったことを臭わせているだけで、その真相は記されていない。つまり、この事件の真相は、これまで、私の知る限りでは、どの戦記にも書かれていない。この事件をにおわせた唯一の記録というのは、第三十二軍(沖縄守備軍)の高級参謀だった八原博通大佐の『沖縄決戦』である。それには以下のように記されている。 戦闘開始後間もないある日、司令部勤務のある女の子が、私の許に駆けて来て報告した。「今女スパ...
  • 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2
    ...。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)についてア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について (5)「ある神話の背景」の信用性についてア まず、「ある神話の背景」によれば、 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 ウ なお、「ある神話の背景」は、 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 6 同6(自決命令の言い換え)について(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について (...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か6
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―6 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p188-192 目次 6 【引用者註】渡嘉敷島の日本軍と住民との関係 『ある神話の背景』の作者は、「赤松令嬢」の立場にひどく同情しているようだが、その場合、赤松に処刑された人たちの遺族の、戦後の苦しみにも思いを到すべきであろう。 『ある神話の背景』で、いわゆる「遊泳許可事件」に関して、知念元少尉は、「米軍がもし渡嘉敷島の海岸で海水浴をしようと思ったら、そんな協定を結ばなくても、全く自由にできましたな」と証言する。 188 それは自ら渡嘉敷島の日本軍が無力化していたこと、同島が米軍の完全支配下にあったことを問わず語りに語ったものである。かかる状態で、赤松のいう「島の死守」とは何を意味して...
  • 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2
    ...は、 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について (3) 同3(富山証言の信用性について)について 第4 百人斬り競争事件上告審決定について 第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論 1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について (1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、 従来からの軍命の伝達方法に従い、防衛隊長である助役から指示された伝令役の防衛隊員が、 「忠魂碑前で玉砕するから集まるように」 との指示を座間味島の村民に伝え、村民はこれを軍の玉砕(自決)命令であると受け止めたことを認めるに至った。また、この指示は「軍の命令」ととれるかのような形で村内に伝えられたことも認めるに至った(以上、原告準備書面(5)5~7頁)。 ただし、原告らは、上記指示は助役ら座間味村幹部が行ったも...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か3
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―3 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p175-179 目次 3 【引用者註】天皇の旗の下、敗残兵が強いた住民の死 「赤松氏には反省がないという言い方もあるが、軍人として過ちはおかしてないという赤松氏の発言にも妥当性がある」と、作者はいう。しかし、問題なのは、「軍服をぬいだ現在の彼」が二十数年をへて、なお「軍人としてまちがっていなかった」としかいえない貧弱な精神内容である。 日本の社会では、いま、どんな殺人魔でも死刑執行できない状態である。大久保清のような男でも死刑の判決をうけただけである。かかる社会事情の中で、戦争で死んだ行った 175 人たちを考えるとまことに気の毒である。妻に会いに行ったとか、降伏勧告をしたというだけで...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か5
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―5 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p184-188 目次 5 【引用者註】欺瞞的な「抗戦」と「降伏」の苦しい弁護 防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』中の「海上挺進第三戦隊(渡嘉敷島の)戦闘」に、左の記述がある。 「八月十六日米軍から終戦の放送があったので、戦隊長は十七日木村明中尉以下四名を米軍に派遣して確認させた。 翌十八日戦隊長は米軍指揮官と会見し、終戦処理について協議し、まず停戦を協定し、八月二十四日、一〇〇〇部隊全員武装解除を受けた」と。 右は赤松元戦隊長提供の資料に基づくものである。 赤松戦隊長は、部下本隊(八月二十四日降伏)より約一週間早く、米軍の保護下にはいっていることになる。終戦...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か11
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―11 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p211-215 目次 11 【引用者註】トーマス・マンの誤読と利用 赤松隊の皆本少尉の話というのがある。 隊員の兵隊二人が、あるとき逃亡した。そのとき、赤松は「去る者を追うのはよそう」と言った。「赤穂も最後は四十七人しか残らなかった」とも言ったとある。兵隊の逃亡を黙認した赤松の態度は、まことに寛大といわざるをえない。陣地をはなれたという理由だけで、防召兵に「逃亡」の罪をきせ、どこまでも追いかけてさがし出し、陣地に連れもどして処刑した赤松、これが同一人の態度かとうたがわざるを得ないほど隊員に対しては寛大であったことがわかる。島の住民や、住民出身の防召兵を、同じ種類の人間とみていなかった歴然たる証拠...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か7
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―7 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p193-197 目次 7 【引用者註】「必死兵器」と「決死兵器」、「死のエリート」たちの凶暴な「生」へのもがき ほんとに死を諦観した人は幼心に帰るのではないか。豪州のシドニー湾内に潜行した特殊潜航艇員が出撃前に童謡を歌っていたという話を聞いたことがある。 神風特攻隊員が出撃の前晩、静かに寝ている写真をみても、普通の軍隊内務班の就寝状況と何ら変わらない。 死はあくまで自己との戦いなのである。死には他人の問題が介在してこない。死と直面する人は、むしろ人なつこくなるのではないだろうか。他人に対して狂暴となるのは、生死の境にあって、生を求めるもがきがあるからであるとおもわれる。 慶良間列...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か8
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―8 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p197-202 目次 8 【引用者註】二重弁護に依って防召兵殺害は擁護できない 加害者を告発することは誰にもできない、と曽野氏はいう。そして、告発者を告発する 197 形で、加害者を弁護している。 明治以来の沖縄における軍国主義教育(教育や言論の指導者たちによる)が、渡嘉敷島民の集団自決の遠因となっている、と曽野氏はいう。また、カール・メニンジャの精神分析に関する論文を引用して、集団自決者の心理分析を試みようとする。 その中で、「人間は殺されたいという意識下の願望がある」「自分自身を死刑という形で処罰されたい願い」「家族成員各人の死の願望の満足」「死への恐怖を持たなくて済むこと...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か4
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―4 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p179-183 目次 4 【引用者註】言動が信用できない赤松に信をおく 赤松隊「陣中日誌」に、「三月二十九日も曇雨。昨夜より自決したるもの約二百名。首を縛つた者、手榴弾で一団となって爆発したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断した者、戦いとは言え、言葉に表し尽し得ない情景であった」と、あたかも目撃したように記録してある。 ところが、『ある神話の背景』では、「集団自決の情景」をみたものは、赤松隊には誰もいなかったことになっている。 179 赤松の話では、第三戦隊陣中日誌は主に谷本候補生(伍長)が書いたという。 陣中日誌に関しては、作戦要務令第三〇八条から第三一七条の各条で...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か2
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―2 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p171-175 目次 2 【引用者註】自決命令と住民処刑について 『ある神話の背景』では、渡嘉敷島に関するいくつかの戦記がほとんど『鉄の暴風』の中の第二章「集団自決」のひき写しであることが念入りに例証されている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記の部分が、直接体験者でない人から取材した伝聞証拠によるものである点をあげ、その信憑性が疑われている。だが、この場合、逆の見方も成り立つ。たとえば、直接体験者(遺族会)の記録である『渡嘉敷島の戦闘概要』が『鉄の暴風』をまねているというなら、それは表現を借用したというだけの話で、『鉄の暴風』の記述が大体においてまちがいないことの有力な証拠にさえなりうる。 問題は軍が自...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か10
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―10 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p206-210 目次 10 【引用者註】『ある神話の背景』は「非政治的」か? 『ある神話の背景』に、「勤務隊第三小隊所属の曽根元一等兵のように、彼ら軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曽根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である」というくだりがある。 206 『ある神話の背景』の取材中に私は作者と二度あった。私が曽根一等兵の話を、作者から聞いたのは、那覇港に近いシーメンス・クラブで会ったときだったとおぼえている。 そのとき、朝鮮人軍夫の話がでて、ついでに曽根一等兵のことを作者が話した。 曽根一等兵は元共産党員だが、渡嘉敷島...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か1
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―1 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p167- 171 目次 1 【引用者註】赤松擁護と、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護 曽野綾子氏(以下、作者と略す)の『ある神話の背景』で、赤松神話のバイブルとされているのが『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記である。その「神話部分」の執筆者として、意見をのべざるをえない。 『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言で構成され、同時に、人間の問題を掘り下げたものである。ただ、「証言」そのものの検討が、十分になされているとは思えない。証言の中に、もし「ウソ」がまじっていたら、全体の構成がぐらつく。ことに、加害者側の証言(厳密な意味では証言とはいえない)は、ふつう信憑性がうすく、都合のよい自己弁護になりがちである...
  • 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か9
    渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―9 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p202-206 目次 9 【引用者註】住民を日本国民として扱ったか 集団自決命令の有無に関して、状況証拠となりそうな参考事実に、一寸、ふれておきたい。 集団自決という事実は、厳としてあったのである。それは赤松第三戦隊長のいた渡嘉敷島だけでなく、第一戦隊(梅沢裕少佐)のいた座間味でもあったし、第二戦隊(野田義彦少佐)の守備配下にあった慶留間島でもあったようだ。これらの事実は符節を合わしたような偶然の出来事だったのだろうか。 各個別々におきた事件だろうか。それに、集団自決は慶良間列島の住民だけに起こった出来事である。沖縄本島にもその例はなく、本島周辺の他の島々でも起きていない。たとえば、最大...
  • a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(ha)
    ...(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの) を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。語ってくれた人数も多いが,話の内容は水々しく,且つほっとであった。もっと時間が経過すれば,人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。戦争体験は,昨日のように生まなましく,別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「座間味島駐屯の将兵は約一千人余,一九四四年九月二十日に来島したもので,その中には,十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて,隊長は梅沢少佐,守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は,座間味島に十二隻,阿嘉島に七,八隻あったが,いずれも遂に出撃しなかった。その他に,島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(2)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」2回目 赤松大尉の暴状 まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。 宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた証言者」ではなく、向こうからやってきた情報提供者であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単...
  • a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行(2ha)
    ...(牧港篤三のこと)は太田良博記着と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。 語ってくれた人数も多いが, 話の内容は水々しく, 且つほっとであった。 もっと時間が経過すれば, 人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。 戦争体験は, 昨日のように生まなましく, 別の観念の這入りこむ余地はなかった。」 と記載されている。 (b)(座間味島の記述)* 「鉄の暴風」には, 「  座間味島駐屯の将兵は約一千人余, 一九四四年九月二十日に来島したもので, その中には, 十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて, 隊長は梅沢少佐, 守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。 海上特攻用の舟艇は, 座間味島に十二隻, 阿嘉島に七, 八隻あったが, いずれも遂に出撃しなかった。 その他に, 島の...
  • 第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等
    ...暴風」の執筆者である太田良博は,山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており,太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり,「鉄の暴風」は,沖縄タイムス社が体験者を集め,その人たちの話を記録して文章化したものである。 b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収) (a) (内容)* 「戦闘概要」は,当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下,渡嘉敷村遺族会が編集したものである。 「戦闘概要」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 (b) (「戦争の様相」との関係)* 「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3,以下「戦争の様相」という。)との関係に...
  • (原)第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等
    ...暴風」の執筆者である太田良博は, 山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており, 太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり, 「鉄の暴風」は, 沖縄タイムス社が体験者を集め, その人たちの話を記録して文章化したものである。 b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収) (a) (内容)*   「戦闘概要」は, 当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下, 渡嘉敷村遺族会が編集したものである。   「戦闘概要」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 (b) (「戦争の様相」との関係)*   「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3, 以下「...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(7)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載7回目 初め壕や洞穴に 米軍上陸と同時に住民は追われるように陣地付近に逃げてきたと『ある神話の背景』では説明する。砲撃と米軍上陸、この事実に直面した住民たちはとっさに、それぞれ安全とおもわれる場所、つまり壕や洞穴にかくれたようだ。それが当然である。いきなり猛攻をうけたときの反射的な初動である。『鉄の暴風』には「住民はいち早く各部落の待避壕に避難し…」と書いたが、実際はあわてふためいた本能的な行動だったと思う。そして、住民たちは各個に孤立し、そこには統一された意思はなかった。軍の意思により駐在巡査がかり集めたというのが真相であろう。その理由は「住民は捕虜になるおそれがある。軍が保護してやる」というのである。 米軍上陸が三月二十六日で、その翌日、赤松隊は西山A高地に陣地を移動している。その陣地の位置がまた問題である。赤松隊長...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(8)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載8回目 信頼どこにおくか 将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。 ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、そ...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)
    ...の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載) はじめに 沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。 この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。 曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項 「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。 実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(6)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載6回目 赤松大尉の言葉 赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である。それ以外のことは考えられない。 曽野綾子氏は軍隊の組織を知らないから単純に赤松の言葉を信ずるのである。軍の指揮官は、武器の所在と実数を確実に掌握していなければならない。武器の取り扱いについては、指揮官の命令(注:原文傍点)が絶対に必要である。防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。敵前歩哨が居眠りをするだけで、死刑、ときめられている陸軍刑法のなかで、軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかっ...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(3)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載3回目。 実は『鉄の暴風』は伝聞証拠によって書かれたものではないのである。それを明らかにする前に一言ことわっておきたいことがある。私は、曽野綾子氏に、取材した相手をはっきりおぼえていないと答えた。事実、そのときは、そうであった。取材相手をおぼえていないというのは、取材者としては、うかつのように聞こえるかもしれないが、それにはそれなりの理由があった。  記録は取材の一部 一つの理由は、『鉄の暴風』を書くに当たっては、あまりにたくさんの人と会ったので、話を聞いた、それらの人たちがいちいちだれであったか、おぼえていないということである。一つの座談会に、多いときは二十人近くも集まる。座談会だけでもいくらやったかわからない。それも沖縄戦全般にわたっての取材で、渡嘉敷島の記録は、そのごく一部である。取材期間三ヵ月、まったく突貫工事で...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(4)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目 体験者の証言記録 『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。 直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録のなかで、具体的に名前が出てくるのは、住民の生存者では、当時の「古波蔵村長」と「渡嘉敷国民学校の宇久眞成校長」の二人だけ...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(9)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載9回目 任務放棄に失望 赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。 この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。 沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博道大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃して...
  • 第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論
    ...暴風」の執筆者である太田良博は、自らは渡嘉敷島に行かず,座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。 さらに,「鉄の暴風」には,その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は,米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが,防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば,3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され,その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても,米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。※ ※沖縄第32軍や大本営自身が米軍上陸日時を誤報している。壕の中にこもっていた住人の証言が「26日上陸」であっても不思議ではない。「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)の上陸日時「3月27日...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(5)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載5回目 『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録は、伝聞証拠によるもので、そのまま信ずることはできないという前提で、『ある神話の背景』は、集団自決の問題をもち出す。 渡嘉敷島住民の集団自決に関し、赤松大尉は命令を下したおぼえはないという。この“赤松証言”に曽野綾子は重点を置いている。しかし、その言葉の信憑(ぴょう)性をどう検証できるだろうか。もし、これが検証できないとすれば、『鉄の暴風』の記述を崩す根拠とはならないわけだが、『ある神話の背景』で、「赤松証言」の客観的真実性が証明されてはいない。たとえ赤松の命令があったとしても、赤松本人が「私が命令した」というはずはないのである。自分に不利な証言となるからである。命令は、あったとしても、おそらく口頭命令であったはずで、そうであれば、「命令された」「いや、命令しなかった」と、結局は...
  • 「土俵をまちがえた人」(4)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(4) 侮辱した言葉 曽野綾子さんは、さる五月三日の本紙面で、「太田氏という人は分裂症なのだろうか」と書いてある。しかも、そう思わせる文脈の中で、そう書いてあるのである。これは、たんに言論の自由のワクをふみはずしたという程度では、すまされない言葉である。論争の相手に、そういう言葉を投げるのは、品がよくないだけでなく、読者公衆の面前で、相手を侮辱し、相手の名誉を毀損したことになる。しかも、新聞に書かれたものは、いつまでも残るのである。私の近親者に「綾子」という名の娘がいる。その母親の話によると、「曽野綾子さんにあやかってつけた名前」らしい。その娘は、いま、東京の両国高校(旧府立三中)の三年生である。私の身近にも、曽野さんのファンがいたわけだ。言葉はつつしむべきである。 知念少尉について、「鉄の暴風」では、同情的なことを書いた私が、こ...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(10)
    「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目 終戦直後、日本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。 大城訓導は民間人 また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処...
  • 1968~1973の関係者経緯
    ...8.8琉球新報』は「太田良博著作集Ⅲ」によるが、国会図書館マイクロフィルムで確認したら『4.8琉球新報』、週刊新潮の緊急フォロー記事で琉球新報記者が赤松商店を訪ねている。 ※3 阪神氏投稿http //d.hatena.ne.jp/yama31517/20081024による ※4 富村順一氏は、著書『隠された沖縄戦史』の中で、作品「切りとられた時間」によって赤松を擁護した曽野を、筆舌に尽くせぬ勢いで糾弾している。冨村氏は『ある神話の背景』と混同したか? ちなみに富村順一氏はいま中村粲氏「昭和史研究会会報」に寄稿している ※5 曽野綾子 『沖縄女性との記録 生贄の島』単行本のあとがき 文春文庫(1995.8.10)より http //keybow49okinawan.web.fc2.com/sono/ikenieatogaki.html ※6 沖縄との...
  • 控訴人準備書面(3)
    ...の執筆者の1人である太田良博が、「自分は誰から取材したか覚えていない」と述べていることについて、「ハッキリ言って、誰から話を聞いたか記録をとっていないということは、新聞記者に限らず私たち聞き取り調査をする人間にとっては致命的なことであり、そういう証言はもはや資料的価値がない。使えないはずなんです。聞き取り調査というものは、話者の名前や職業、社会的地位だけでなく、経歴その他、そして、誰がどんな状況でどんな訊き方をしたのかまでが問われる。もちろん、そこまで記事に書くわけではないのですが、裏付けとしてそういう記録は何より大切なはず。それを、開き直って堂々と『忘れた』とか記録がないとか言える神経が私には全くわからない」と酷評している(甲B139p186)。 研究者の種稲秀司も、宮城教授と同様の見解を述べている(甲B141)。「『鉄の暴風』は、証言者たる住民の氏名が記載されていないため...
  • (原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論
    ...暴風」の執筆者である太田良博は、 自らは渡嘉敷島に行かず, 座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。   さらに, 「鉄の暴風」には, その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は, 米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが, 防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば, 3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され, その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても, 米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。※ ※ 沖縄第32軍や大本営自身が米軍上陸日時を誤報している。壕の中にこもっていた住人の証言が「26日上陸」であっても不思議ではない。「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年...
  • 「土俵をまちがえた人」(3)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(3) 「限定した事柄」 曽野綾子さんの「お答え」に答えることにする。まず、曽野さんのジャーナリズム批判から始めよう。「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と私は書いたのである。この文章をよく読んでみたらわかる。この文章の分析はしないことにするが、私は、一つの条件を前提として、限定した事柄について言っているのである。新聞社があやまちをおかすことはないなどとは言っていない。 曽野さんは、この文章にとびついてきた。そして、世の主婦をバカにしたような文言をはさみながら、「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」と、見下したようなことを言う。「鉄の暴風」で、私の書いたものが、伝聞証拠によるものだ、と曽野さんが「ある神話の背景」のなかで言うから、そ...
  • 「土俵をまちがえた人」(2)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(2) 一日分の弾量で ▼「沖縄方面陸軍作戦」という防衛庁から出た本がある。それに、赤松隊が所持していた銃器弾薬の数量が記載されている。その数量は、赤松大尉あたりが提供した資料にもとづいたものであるはずである。また、たしか、そう書いてあったようにおぼえている。この数量をみて、いまさらのように、ああ、そうだったのかと思った。それは、一日の激戦で射ちつくせるだけの弾量でしかなかった。 その中での、住民に渡された五十何発かの手榴弾のもつ重みもわかった。住民とともに玉砕するだけの弾量しかもっていなかったのだ。それで、住民が玉砕したあと、赤松隊は「持久戦」に転じたというわけである。「持久戦」というのは、それによって、敵に軍事的な損害をあたえるための兵法の一ツの型である。たくさんの米艦船にとり囲まれた小さな渡嘉敷島で、わずかな銃弾しかもたない...
  • 「土俵をまちがえた人」(1)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(1) 手榴弾への疑問 曽野綾子さんの「お答え」を呼んで、一面、非常に満足している。渡嘉敷島の赤松問題については、だいたい白黒がはっきりしたと思うからである。というのは、私が出した、いちばん重要な問題――手榴弾が、なぜ、住民に渡されたか、同一行動(降伏勧告、逃亡)について、住民は殺され、兵隊は見逃されている事実――に関しては、なんの回答もないからである。この論争は、これでケリがついたようなものだ。他の面では、曽野さんの「お答え」には、がっかりした。もっと期待していたが、その調子が低いのには拍子抜けである。曽野さんの「お答え」にたいする答えは、あと回しにする。 まず、根本的な問題、手榴弾が住民に渡されたこと、その他について補足説明、または言及しておきたい。 ▼弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六...
  • 「土俵をまちがえた人」(6)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(6) 議論にならない ▼曽野さんは、沖縄の社会、教育、新聞なども批判している。皮相的な、困った偏見である。たとえば、「沖縄の社会は閉鎖的である」という。その理由は、なにも述べていないから、答えようがない。もし私が「本土は沖縄よりも閉鎖社会である。日本の地方の中で、沖縄ほど世界に開かれたところはない」と言ったとする。それだけでは議論になるまい。私なら、その理由を述べる。 今度の論争で、私は根本問題を踏まえて、土俵の真ん中に立っているのに、曽野さんは、枝葉末節のことや論点からはずれたことばかり言って、土俵のまわりを逃げまわっていたような気がする。 ▼住民処刑の明確な不当性を、私は証明した。これについては、いかなる人も反論できないはずだ。曽野さんも、沈黙して、曽野点は避けている。そうとわかれば、エチオピアの話をもち出す前に、不...
  • 「土俵をまちがえた人」(5)
    「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(5) 現在の世情を憂う 面倒だから簡略に答える。 ▼エチオピアその他の悲劇は、世界平和体制の中の局地的な悲劇である。悲劇が世界的に拡がったのが第二次大戦である。その最後の本格的地上戦闘があった沖縄で、物を考えるということは、大戦を二度とあらしめないための営みであるという意味で、今日的であり、未来的でもある。沖縄からも開発青年隊の若者たちがアフリカ各地で二年、三年と活し、彼と彼女たちは帰ってくると沖縄で静かに活している。一週間そこらのエチオピア体験で、いきなり、地球的視野から、沖縄戦が四十年過去のものとしてかすんだり、責任をもつべき自著をめぐる論議がとるに足らないものになったり、戦争賛成平和反対に反対する運動が無意味に見えたりするとは、どういうことか。現在のことなら、心配すべきは、日本の世情である。まるで末世の状態ではないか。何日か前に、...
  • 原告最終準備書面・目次
    ...‥‥‥‥ 73 6 太田良博の反論の顛末 ‥‥‥‥‥‥ 76  7 手榴弾交付=自決命令説について ‥‥‥‥‥‥ 77  (第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(3)) http //osj.jugem.jp/?eid=20 8 隊長命令不在説の定着 ‥‥‥‥‥‥ 84 (第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(4)) http //osj.jugem.jp/?eid=21 http //osj.jugem.jp/?eid=22 http //osj.jugem.jp/?eid=23 9 金城重明の証言にみる虚偽と責任転嫁 ‥‥‥‥‥‥ 95 10 知念証言について ‥‥‥‥‥‥ 100 11 皆本証言について ‥‥‥‥‥‥ 103 12 総括 ‥‥‥‥‥‥ 104  第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」 ‥‥‥‥‥‥ 105   http //osj.jug...
  • 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(3)」
    「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(3) ジャーナリストか 太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。 太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。 もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、お...
  • 「「沖縄戦」から未来へ向って(太田良博氏へのお答え)(4)」
    「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4) 多数の島民が証言 つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。 それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。 これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、 「総(すべ)て戦争がやったものであ...
  • 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)
    ...(昭和62年) 6 太田良博の反論の顛末 7 手榴弾交付=自決命令説について(1) はじめに (2) 富山真順の証言の変遷ア イ ウ エ (3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日) イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日) ウ 曽野綾子の反論(昭和63年4月5日)(ア) (イ) (ウ) (4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日) (5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説ア はじめに イ ウ エ (6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実ア イ ウ エ オ (7) 3月20日時点での赤松隊の状況ア はじめに イ ウ エ (8) 手榴弾交付説の破綻ア はじめに イ 金城重明の証言(ア) (イ) (ウ) 5 赤松命令説の削除と訂正 『ある神話の背景』の出版(昭和48年)は、決定的な影響を及ぼし、赤松命令説を記載し...
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