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第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(1) 被告らの主張
第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について

第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等




a 「鉄の暴風」(乙2)


「鉄の暴風」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。

「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は,山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており,太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり,「鉄の暴風」は,沖縄タイムス社が体験者を集め,その人たちの話を記録して文章化したものである。


b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収)


(a) (内容)*

「戦闘概要」は,当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下,渡嘉敷村遺族会が編集したものである。

「戦闘概要」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。

(b) (「戦争の様相」との関係)*

「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3,以下「戦争の様相」という。)との関係についての原告ら主張は根拠のない憶測にすぎない。

「戦閾概要」と「戦争の様相」の順序については,伊敷清太郎が詳細に分析しているとおり,「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語,表現等)を直したと思われる箇所が見受けられること,当時の村長の姪が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているのに対し「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから,「戦争の様相」が先に書かれたものであり,これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25,「『ある神話の背景』における『様相』と「概要』の成立順序について」)。

したがって,「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたものであり。「戦闘概要」に赤松大尉の自決命令が明記されたとみることができる。


c 「秘録 沖縄戦史」(乙4)


「秘録 沖縄戦史」には,
「三月二十七日-『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた。安全地帯は,もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」

「西山の軍陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃,泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。」
との記述があり,その後には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙4・217,218頁)。


d 「沖縄戦史」(乙5)


「沖縄戦史」には,
「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し,さらに住民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとって,いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ,西山A高地へ集合したのである。」
との記述があり,その後には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙5・48頁)。


e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6)


「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。


f 「秘録 沖縄戦記」(乙7)


「秘録沖縄戦記」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。


g 「沖縄県史 第8巻」(乙8)


「沖縄県史 第8巻」には,
「昭和二十年(一九四四ママ:一九四五 )三月二十七日夕刻,駐在巡査安里喜順を通じ,住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するよう命じられた。」「赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を,さらに北方盆地に移動集結しなけれぱならなかった。」
との記述があり,その後には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙8・410頁)。


h 「沖縄県史第 10巻」(乙9)


「沖縄県史 第10巻」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙9・689,690頁)。


i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11「裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)


証人金城重明(以下「金城証人」という。)は,家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時,沖縄キリスト教短期大学学長であり,戦争当時渡嘉敷島において,自ら集団自決を体験した者である。

「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・286ないし288頁)。


j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編」所収)


安仁屋政昭は,家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり,沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち,渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。

「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・54,55,69頁)。


k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付けタ刊)」(乙12)


「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」は,渡嘉敷村役場の富山兵事主任の,赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨の供述を記載した新聞記事である。それには,
「『島がやられる二,三日前だったから,恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ,と近くの国民学校にいた軍から命令が来た』。自転車も通れない山道を四キロの阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年,とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて,残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が,定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか,と富山さんは回想する。『中隊にいる,俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ』すでにない旧役場の見取り図を描きながら,富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅ニメートルほどの道へ並んだ少年たちへ,一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか,敵に遭遇したら,一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは,残る一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない,と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは,証言をそうしめくくった。三月二十七日,渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では,谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ,島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三○)が,日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』とはいうものの,今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができる限り伝えて回ったこと,『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近く』という形で,赤松大尉から直接出たことなどを,認めている。その夜,豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示"通り,食糧,衣類など洞穴に残し,日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示"は当然ながら命令として,口伝えに阿波連へも届く。『集団自決』は,この渓流わきで,翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると,渡嘉敷地区民の輪の中では,次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」
との記述がある。


l 「渡嘉敷村史」(乙13)


「渡嘉敷村史」は,渡嘉敷村の公式な歴史書として,平成2年3月31日,渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものである。そして,「渡嘉敷村史」には,渡嘉敷村役場の富山兵事主任による供述を主な内容とする次のような記載がある。すなわち,
「すでに米軍上陸前に,村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり,戦場においては,軍の命令を住民に伝える童要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であつた新城真腹氏(戦後改姓して富山)は,日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。
  • (1)一九四五年三月二○日,赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し,渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は,軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。
  • (2)そのとき,兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっママ 二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ,捕虜になるおそれのあるときは,残りの一発で自決せよ。〉
  • (3)三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日),兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は,<住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
  • (4)三月二八日,恩納河原の上流フィジガーで,住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき,防衛隊員が手榴弾を持ちこみ,住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が,住民の手こ渡るということは,本来ありえないことである。」
「渡嘉敷島においては,赤松嘉次大尉が全権限を握り,村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(乙1.3・197,198頁)。


m 米軍の慶良間列島作戦報告書


米軍の「慶良間列島作戦報告書」については,前4(1)イ(ア)i記載のとおりである。



n (小括)*


以上の文献等からも,渡嘉敷島の集団自決の経緯が次のとおりであることは明らかである、すなわち,渡嘉敷島においては,米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日,赤松隊から伝令が来て,富山兵事主任に対し,住民を役場に集めるよう命令した。富山兵事主任が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると,兵器軍曹と呼ぱれていた下士官が,部下に手榴弾を2箱持ってこさせ,集まった20数名の住民に対し手榴弾を2個ずつ配り,
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ,捕虜になるおそれのあるときは残りの1発で自決せよ。」
と訓示した。そして,米軍が渡嘉敷島に上陸した昭和20年3月27日,赤松大尉から兵事主任に対し
「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ。」
との命令が伝えられ,安里喜順巡査(以下「安里巡査」という。)らにより,集結命令が住民に伝えられた。さらに,同日の夜,住民が命令に従って,各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり,同月28日,村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ,軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り。集団自決が行われた。

渡嘉敷島において,軍を統率する最高責任者は赤松大尉であり,陣中日誌(甲B19)から明らかなように,弾薬である手榴弾は,軍の厳重な管理の下に置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松大尉の意思と関係なく,手榴弾を配布し,自決命令を発するなどということはあり得ないし,証人皆本義博(以下「皆本証人」という。)も,
「軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない」
旨証言している(皆本証人調書25頁)。したがって,手榴弾配布の時点で,あらかじめ赤松大尉による自決命令があったのである。なお,この点について,原告らは,小峰園枝の
「義兄が,防衛隊だつたけど,隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持つてきた」
との供述(甲B39・374頁)を挙げて反論するが,わずか1人の,しかも、盗んだとされる者とは別の人間の供述にすぎないし,また,盗んだとされる者は防衛隊員という手榴弾を正式に入手できる立場にあったから,手榴弾が軍の厳軍な管理の下に置かれていなかったことの根拠とはならない。

赤松大尉が具体的にどのように自決命令を発したかは必ずしも明確でないが,前記第3・4(1)のとおり,軍は,住民に対し,軍官民共生共死の一体化の方針のもと,いざというときには捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ指示していたから,この点からも,軍の自決命令すなわち赤松大尉の自決命令があったことは明らかである。


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