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第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(1) 被告らの主張
第3・4(1)イ 座間味島について

第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等





a 「鉄の暴風」(乙2)


(a) (成立と内容)*

「鉄の暴風」は,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版された沖縄最初の戦記であり,沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し,得られた証言をもとに執筆された。

「鉄の暴風」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。

(b) (神戸新聞記事に関して)*

原告らは,執筆者の牧志伸宏が,神戸新聞において,原告梅澤の自決命令にっいて調査不足を認める旨のコメントをしていると主張するが,神戸新聞の記事のとおり牧志伸宏が述ぺたか疑わしいし,沖縄タイムス社は,現在もなお,原告梅澤が自決命令を出したという見解を維持している。


b 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収)


「座間味戦記」は,座間味村が援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。

「座間味戦記」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座聞味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


c 「秘録 沖縄戦史」(乙4)


「秘録 沖縄戦史」は,戦争当時は警察官として軍部と協力すぺき地位にあり,戦後は戦没警察官の調査を行い,その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり,戦争当時の状況について調査を行った山川泰邦が,自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料をもとに執筆したものである。

「秘録 沖縄戦史」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


d 「沖縄戦史」(乙5)


「沖縄戦史」は,沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史が,時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。

「沖縄戦史」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6)


「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」は,座間味島における戦闘で死亡した下谷勝治兵長の兄である下谷修久が,戦後,座間味島に赴き,住民の供述をまとめたものである。

「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


f 「秘録 沖縄戦記」(乙7)


「秘録 沖縄戦記」は,「秘録 沖縄戦史」(乙4)を執筆した山川泰邦が,内容を再検討し,琉球政府の援護課や警察局の資料,米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。

「秘録 沖縄戦記」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


g 「沖縄県史 第8巻」(乙8)


「沖縄県史 第8巻」は,昭和40年から昭和52年にかけて,沖縄の公式な歴史書として,琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集,発行した全23巻中の1巻であり,昭和46年4月28日に琉球政府の編集により発行された。

「沖縄県史 第8巻」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


h 「沖縄県史 第10巻」(乙9)


「沖縄県史 第10巻」は,「沖縄県史 第8巻」と同様の沖縄の公式な歴史書であり,昭和49年3月31日に沖縄県教育委員会の編集により発行された。

「沖縄県史 第10巻」には,第2・2(5)ア記載のとおり・原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。


i 米軍の慶良間列島作戦報告書


平成18年夏,米軍の慶良間列島作戦報告書が,関東学院大学の林博史教授(以下「林教授」という。)によって発見された(乙35)。

上記報告書には,
「尋問された民間人たちは,3月21日に,日本兵が,慶留間の島民に対して,山中に隠れ,米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」
との記述があり,座間味村の状況について,
「明らかに,民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」
との記述がある。

この報告書の記載を原告らの主張のとおりに、
「民間人達は,3月21日に,日本の兵隊達は,慶良間島の島民に対して,米軍が上陸したときは,山に隠れなさい,そして自決しなさい,と繰り返し言っていた。」
と英訳したとしても,日本軍が慶留聞島の住民に自決を指示していたことに変わりはない。


j (住民証言の記録)*


「沖縄県史 第10巻」(乙9)等には,宮里とめ(乙9・738ないし739頁),宮平初子(乙9・746頁),宮里美恵子,(乙9・741頁,乙50・34頁),宮平カメ及び高良律子(乙9・753頁),初枝(甲B5・39,40,46頁,乙6・45頁,乙9・756頁)など,座間味島の集団自決が軍の命令で行われたことを示す手記等が記載さんているほか,宮里育江(乙53及ぴ62),宮川スミ子(乙98),上洲幸子(乙53),宮平春子(乙51,乙71の1及び2),宮村トキ子(乙71の2)らも,近時,新聞の取材に応じて,同趣旨を語るなどしている。

k (小括)*


以上の資料から明らかなように,座聞味島では昭和20年3月25日の夜に,米軍の上陸を目前にして,米軍の艦砲射撃のなか,兵事主任兼防衛隊長である盛秀助役の指示により,防衛隊員が伝令として,軍の玉砕命令がでたので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう軍(隊長)の命令を住民に伝達して回り,その結果集団自決に至つた。

そもそも,軍の絶対的支配下にあった座間味島において,原告梅澤の指揮下の防衛隊長であり,兵事主任であり,軍の命令を住民に伝達する立場にあった盛秀助役が,軍,すなわち原告梅澤の命令なしに,勝手に住民に自決命令を出すなどということはありえず,軍の命令がなけれぼ,幼い我が子を殺すことはなかったはずである。

原告梅澤は,米軍が上陸してくることを認識しながら,住民を他に避難させたり投降させたりするなどの住民の生命を保護する措置をまったく講じていなかったが,このことは原告梅澤が住民を玉砕させることにしていたからにほかならない。原告梅澤は,昭和20年3月25日の夜,助役らに面接した際に住民が自決しようとしていることを認識しながら,これをやめるように指示,命令しなかったのも,あらかじめ住民に玉砕を指示,命令していたからにほかならない。

以上のとおり,座間味島の住民の集団自決は,軍すなわち原告梅澤の自決命令によるものであることが明らかである。



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