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六 パナイ号攻撃を綴る

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六 パナイ号攻撃を綴る

                       ノーマン・スーン
            (十二月十七日、オアフ艦上にて、上海発)

 十二月十二日、日曜日、午後一時三〇分、米砲艦パナイ号は南京の上流二八マイルの地点に静かに停泊していた。パナイ号は一九二八年、上海の江南ドックで建造され、揚子江警備の任務を帯ぴた軍艦である。これまで三日間、榴弾をかわしながら航行を続け、今朝八時二五分、最後の停泊地、南京の一ニマイル上流を発ち、背後に榴弾の爆発をやりすごしながら川をのぼってきた。

 パナイ号は、スタンダード石油のタンカー美平(メイビン)、美峡(メイシア)、美安(メイアン)を護衛して川を湖ってきており、美平号にはパナイ号の乗員七名が訪問していた。パナイ号では非番の乗組員、新聞記者、ニュースカメラマン等が、しきりに、その朝の出来事を話していた。

 朝九時四五分、パナイ号は、北の土手で振る日本兵の手旗信号で停止した。すると銃剣を手にした兵士を従えた日本将校が乗りこんできて、へたな英語でヒューズ少佐(J.J.Hughesニューヨーク市出身)に情報を求めた。ヒューズ少佐は、米国は日中双方の友であるので、いかなる情報も提供できない、と丁重に断った。すると日本将校が船のほうから岸に向けて手を動かしたが、

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その意味をめぐって一行の間で議論があり、ヒューズ少佐は首を横に振った。

 午後一時三八分、英国の海軍小艦隊の旗艦ビー号(揚子江守備)の無線士が、パナイ号からの無線を傍受した。それから無線が途切れ、想像を絶する展開の幕開けとなった。

 飛行機のエンジン音がうなり、大音響とともにパナイ号が大揺れしたとき、記者は上甲板にいた。木ぎれ、ガラス、水しぶきがあたりにとび散った。写真ダネになると思い、カメラをとりに走ると、後甲板で、フランク・ロバーツ大尉(FrankN.Roberts南京の米大使館付陸軍武官)が双眼鏡をのぞきながら叫んだ。「おい、くるぞ。両翼に赤い玉がある。」彼は急降下をはじめた飛行機を指した。

 つぎの瞬間パナイ号の乗員はみな、日本の飛行機が爆弾を投下したことを知ったが、それは誤爆であって、日本軍の操縦士たちはパナイ号の七本の星条旗を見たはずであり、ふたたび攻撃してくることはないと考えたが、それはまちがいだった。

 最初の爆弾がパナイ号を直撃し、船首砲は使用不能となり、ヒューズ艦長は艦橋のかじに打ちつけられて右足のつけ根付近を骨折し、無線室の装置はバラバラに散乱した。同じく艦橋にいたジヨン.ラング(JohnLang操舵長)は、艦長を助けガレーに下ろした。また爆弾の破片を肩に受けたJ.ホール・パクストン(J. HallPaxton米大使館付陸軍武官補佐官)と無傷のジョージ・アチソン(GeogeAtchesonJr.米大使館二等書記官)は艦長のかたわらに駆け寄った。

 通信将校バイワース海軍少尉( D. H.Biwerseウィスコンシン州シェボイガン出身)は無線室に続くはしごの途中にいて、服はそっくり吹きとばされたが、身体は無傷で助かった。

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 爆発の勢いで投げ出された船室のファイルキャビネットが当たり、エミール・ギャッシー(EmileGassie)は右足に数ヵ所の骨折を負った。ギャッシーはニューオーリーンズ出身の米大使館書記官である。

 飛行機の急降下続く

 シカゴ出身、パナイ号の補給係エンスミンガー( C.L.Ensminger)は、左舷の前甲板にいて爆弾の破片を腹部にうけて負傷した。

 艦上の全員が事態はただならないと気づきはじめたとき、飛行機三機が続けざまに急降下して爆弾をニ個ずつ投下するや・艦上のあちこちや付近の水中で爆発し、主甲板の上部には破片がつきささり・胴板には穴があき・木やガラスを木端みじんにして、備品は一面に散乱した。

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 爆弾の炸裂音を突き破るように、ダダダという機関銃の音がした。攻撃が故意に、しかも継続的に行われているとみるや、一〇名ほどの乗組員が上甲板に備えつけられている機関砲のところに急いだ。副官のアンダース大尉(A.F.Anders)は爆弾の破片で喉に深手を負い、おびただしい出血をしながら、機関砲のカバーをとりはずすのを手伝い、つぎの攻撃に簿えるため、また飛行機を急降下させないために、発砲するよう指揮した。(中略)

 フォックス映画カメラマン、エリック・メイエル(EricMayell)は攻撃がかけられている右舷の下甲板でカメラを回していた。一方、ユニバーサル映画のニュース.カメラマンのノーマン・アレー(NormanAlley)は砲列甲板でカメラを操作していた。二人とも艦からの退却命令がでるまで居残り、無事であった。次の攻撃では、水兵のシュロイヤー(C.S.Shroyer)が爆弾の破片を頭と両足に受けて機関砲の脇に倒れた。機数も数えられないほどで、猛スピードで飛行機がやってくるようになり、記者が機関室のハッチに逃げこむと、機関室、ボイラー室等に負傷者が横たわり、船医のグレイジャー大尉(C.G. Grazier)の手当を受けていた。

 パナイ号は浸水がすすみ、あらゆる手段を講じても沈没する恐れがでてきた。アンダース大尉は喉の傷でしゃべることができず、二時五分、血ぬられた水路図に艦を放棄せよとの命令をなぐり書きした。

タンカー爆撃

 一方、飛行機は、岸に向かおうとしてパナイ号寄りに旋回したスタンダード石油のタンカー美

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平号をも爆撃した。『コリアーズ』誌のジェームズ・マーシャル(JamesNarshall)はパナイ号から美平号にとび移り、片手で救命ポートをおろそうとしていた。

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 パナイ号の機関砲が砲撃を開始してからは、日本の飛行機はありったけの爆弾を河面に落としたが、爆弾が艦を揺るがし、その破片が水面下の側壁に穴をあけ、主甲板の上部に亀裂が生じただけであった。

 艦の放棄命令が出されみとすぐに、左舷のサンパン(中国の平底ボート)がおろされ、負傷者数人を乗せて、一マイル離れた北岸に向かった。負傷者を乗せて艦から岸へ行く途中のポートめがけ、日本軍の飛行機一機が降下しては機銑掃射するのを艦上に残った者は、爆弾と機関銃に脅かされながらも見つめていた。すでに負傷して船底に横たわる機関係二等水兵A・コザーク(Kozak)の上を弾丸が走った。負傷者の引き移しは続行されていたが、艦は急速に沈降しつつあった。顔は弾薬ですすけ、制服は破れて血まみれのヒューズ艦長は、ついに他の負傷者とともにポートに乗りこむよ

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う説きふせられた。

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 岸についた負傷者は、12フィートの葦が繁る泥地に寝かされた。日本の飛行機は二時一五分ごろ立ち去ったが、まだ過半数の者が、大破して沈みつつあるパナイ号に残っていた。全員が艦を脱出するまで救出作業は続き、その後ボートは医薬晶、寝具、水、食料を調達に、艦に戻った。

 岸のあちこちにかたまって寝かされた負傷者のなかに、サンドロ・サンドリ(SandroSandri)がいた。彼はファシスト党員としてローマ進軍を行った五二名の一人であるが、一年前にジャーナリストに転向し、『スタンパ』紙で中国を担当していた。サンドリは腹部に機関銃の弾丸二発を受けて、もがき苦しんでいた。

 他の負傷者の氏名は、首に負傷したコックのジーグラー(オハイオ州シャスリー出身)、背中に軽傷を負った電気係水兵ライス、(インディアナ州ミシュワカ出身)、監視将校ガイスト大尉、

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足を負傷、(中略)あご、手に負傷のジョン・ラング操舵長、肩に負傷のロイ.スクワイヤーズ(英国木材輸出入会社南京支社のアメリカ人支配人)らである。

日本陸軍偵察艇、発砲する

 沈みつつあるパナイ号から最後の積み荷をおろしたとき、日本の陸軍のパトロール艇が機関銃を放ちながら下流から現れた。日本兵が撃沈の目撃者を「片づける」おそれがあったので、元気な者は負傷者を岸辺から葦のしげみにひきずり入れた。誰もがひどくおびえていた。しかし・日本のボートはパナイ号に向かい、艦に乗りこむと、かんたんな検査をして立ち去った。

 三時五四分、艦は右舷に傾き、翻る軍艦旗とともに沈むパナイ号を生存者たちは見守った。ヒューズ艦長のかたわらの者が、濁った揚子江に船尾が消えるまで逐一報告していた。

 そちこちにいた生存者たちは、葦をかきわけながら膝までつかる冷たい沼を進み、負傷者を寝かせる乾いた場所を探し始めた。服や靴を身につけていない者もいた。四時に、日本の飛行機一機が葦の上空を旋回したときは、日本軍が目撃者を一掃しようとしているのかと一瞬緊張したが、飛行機はやがて川のほうに去っていくと、スタンダード石油のタンカー美峡に向けて低空から、ゆっくり、整然と爆弾を落とした。そして何本もの火柱と大波のような煙が立ちのぼった。

 夕暮れて不安がつのるなかで、生存者はアンダース大尉とロバーツ大尉の指揮に従い、規律をとりもどしていった。日本のパトロール船が生存者を探しでもするかのように、岸辺近くをゆっくり通過していったときには緊張感が高まった。

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 一方、一行が隠れている現場から一マイルのところに、中国人の農家があるとパクストン氏の報告があった。サンパンと近くに棄てられていたスタンダード石油のボートに負傷者を乗せて、ロープで土手沿いに引っぱることにした。

 その間にもパクストン氏は、なんとかことの次第を告げて援助を求めようと、和県の町をめざして進んで行った。

中国人の一行出発

 その日の夜九時、奇妙な中国人の(身なりの)一行が出発した。戸板、竹の長椅子、寝台、間に合わせの担架に負傷者十三名を乗せて、時折り崩壌する土手の危険を冒して、和県まで五マイルの道のりを疲労困憊のていで歩いていた。暗闇のなかを、歩ける者は歩いてあとに続いて行った。

 和県の知事、王廷清(音訳)(シラキュース大学出身)は、あらゆる手だてを尽くしてくれて、午前四時、アチソン氏は安慶のテーラー博士と電話連絡をとることができた。博士は漢口にいるネルソン・T・ジョンソン大使に直接事件をとり継いでくれた。しかしながら、パナイ号爆撃事件の模様が町民に知れわたると、周囲の空気は緊張した。アメリカ人生存者を庇護したことを理由に、日本軍が報復することを恐れたためであった。

 負傷者は町の病院に入れられ、ここでエンスミンガー氏が午前二時に亡くなった。(中略)

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 ジヨンソン大使の伝言がテーラー博士により伝えられ、一行は、つぎの通告があるまで和県に留まること、また、イギリス艦、レディーバード号が川を下ってきていることが知らされた。サンドリは月曜日正午すぎに死亡した。

 月曜日の午後、日本軍の飛行機が病院の上を幾度も低空でとび、一行を縮みあがらせ、負傷者に恐怖がつのった。というのも、わらぷきの病院は、一発の弾丸で燃えあがる恐れが十分で、なかには担架につながれた身動きのとれない負傷者がいるのである。狩の獲物にされるような気分は、過敏になった神経には耐え切れないもので、ただただ揚子江からできるだけ速やかに、できるだけ遠くへ逃れるのを願った。その晩のうちにジャンク船で川から二〇マイル離れた含山に移動することが決まった。エンスミンガーとサンドリの遺体は埋葬のため現地に標識をつけて残されることになった。王知事はエンスミンガーの遺体にアメリカの国旗をかけて、一行の出発前に別れを告げさせてくれた。

イギリス艦の到着

 運河行は暗くなってから開始された。われわれ一行は含山の郊外に、火曜日の朝七時に到着した。負傷者は町のほうに一マイル行ったところに運ばれ、そこではまた、中国当局の手厚い援助を受けた。しばらくして、ホルト提督率いる英国の揚子江下流域警備艇が・和県を発った旗艦ビー号とともに、日本船のエスコートでやってくるという知らせが入った。それに一行は、救援隊が待ちうける和県に逆もどりするということであった。知らせを聞いたとき、誰

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にも安堵は見えたが、その喜びを表せないほど皆疲れきっていた。そして、中国風の粗末な食事ではあったが、爆撃以未初めての食事らしい食事にありついた。火曜日の正午すぎ、一行は和県へ引き返しはじめた。和県ではホルト提督に迎えられ、イギリス艦船レディーバード号、同ビー号、アメリカ艦船オアフ号に分乗して一夜を過ごした。

 翌朝、エンスミンガーとサンドリの遺体がオアフ号に運ばれた。これといっしょにボストン出身カールソンの遺体も運びこまれた。彼はスタンダード石油のタンカー美安号の船長で、パナイ号爆撃中に船橋に落ちた爆弾で命を失った。水曜日午後二時、日本船と同行して上海に向け出発したオアフ号とレディーバード号は、半旗を掲げながら航行を続けた。

 後になって生存者の耳に入ったことだが、日曜日に、パナイ号のはるか下流に停泊していたイギリス艦スカラブ号、同クリケット号およぴイギリスの商船数隻も、三回にわたり日本軍の飛行機による爆撃をうけたということである。

さらに救助者

 ホルト提督のビー号は、和県を月曜日(十三日)午後三時に発ち、生存者を探したが、手がかりがなく、艦は川を少し下った。そこで、南の土手にいたピッカリング(南京のスタンダード・バキューム石油会社支配人代理)とパケット(テキサス州コルシカーナ出身、バナイ号乗組員、パナイ号爆撃当時は、他の乗組員六名といっしょにタンカー美平号を訪間中であった)を見つけた。

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 六名のうち、消防係水兵ホッジ(アラバマ州バーミングハム出身)を除く五名はその後発見された。ホッジは、首に負傷したジム・マーシャルに付添い、蕪湖に病院探しに行っていた。

 同日(十三日)午後、日本の軍艦「保津(ほづ)」が現場にやってきた。夕方には近藤司令官の旗艦「安宅(あたか)」がホルト提督に対し礼砲をうちながら到着した。提督は返礼を余儀なくされたが、これは周辺の中国人を縮みあがらせた。

 近藤司令官は、その晩、日本兵を上陸させてパナイ号の生存者の捜索をさせたがったが、ホルト提督は、救助ではなく妨害となるので、いかなる日本部隊も上陸は行わないという約束をとりつけた。ホルト提督は右腕を吊って上陸した。これは日曜日に、蕪湖から放たれた日本軍の大砲によりレディーバード号が爆撃を受けたときの傷であった。提督には兵士が一名、白旗を持って同行した。

 このとき、日本のボートに銃を持った兵士が大勢乗込んでいるのをホルト提督は見咎めた。日本の軍隊は上陸させないという近藤司令官との合意を楯に、武装のわけを尋ねると、ただの河川用ボートだと兵士たちは返答し、所属の船に戻ると約束した。ところが提督は、あとにもこのようなボートを二隻も発見している。

 ホルト提督の船がさらに航行を続けると、中国人の発砲も引き続き行われた。あとでわかったのだが日本軍とまちがえられたのである。赤十字の旗と日本国旗をなびかせたボートに乗って近辺を航行しながら日本軍は生存者を探していたのだそうである。中国人と日本人のこぜり合いは

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統いていた。

 ホルト提督の一行は、ようやく和県に着き、火曜日の朝、含山にいるパナイ号の生存者と電話で接触することができた。

 イギリスの砲艦に乗船したパナイ号とスタンダード石油のタンカーの生存者たちは、手厚いもてなしを受けた。スタンダードの生存者のなかには、ピッカリング氏と美平号にいて無事であったニューヨーク・マクグロウ社の南京副支配人シャーウッド、美平号のエストニア人船長ピー夕ー・メンダー、美平号のイタリア人主任技師ブラジーナ、美峡号のノルウェー人船長ヤーゲンソンらがいた。レディーバード号、ビー号、オアフ号の乗組員全員が、着がえや毛布を持ちよっているところで交歓の情景がみられた。

 入院患者はパナイ号の姉妹船であるオアフ号に運びこまれた。依然重態の者も数人いたが、全員恢復が著しく、休息をとっていた。

 ヒューズ司令官の病状は痛々しかったが、快方に向かっていた。ギャッシー氏は数ヵ月間の入院が必要のようである。

 パクストン氏は救助を探し求めて歩く間に膝に打撲傷を負っていて長期の休暇が必要となるかもしれない。アチソン氏は一週問以内に大使館再開のため南京に戻れるものと思われる。(『N・T』37・12・18)」

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