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(原)オ(宮村幸延「証言」について)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(3) 援護法の適用問題について

オ(宮村幸延「証言」について)*

(判決本文p194~)

  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。


(ア)(「証言」の記述)*


  盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)には, 
証言 座間味村遺族会長 宮村幸延 昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。 之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した, ためのものであります  右当時援護係 宮村幸延 [印] 梅沢裕殿 昭和六二年三月二八日
との記載がある。


(イ)(経緯から真意かどうかの疑問)*

  しかしながら,宮村幸延は,
「別紙証言書は,私し(宮村幸延)が書いた文面でわありません」
との書面(乙17)を残しているほか, 証拠(甲B5, 33, 85, 乙18, 41, 宮城証人及び控訴人梅澤本人)によれば,昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した控訴人梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと, 宮村幸延は, 控訴人梅澤から, 昭和62年3月26日,
「この紙に印鑑を押してくれ。 これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」
と迫られたが,これを拒否したこと,同月27日, 控訴人梅澤が同行した戦友という2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となったこと,その際,控訴人梅澤は,その翌朝, 朝から飲酒していた宮村幸延を控訴人梅澤が訪れ, 宮村幸延に対し,自らが作成した
「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助役盛秀の命令であった。 之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。 右証言します。 昭和六十二年三月二十八日 元座間味村役場 事務局長 宮村幸延 梅沢裕殿
と記載された文書(甲B85はその拡大写真)を示したこと, 宮村幸延は, これを真似て前記昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8 以下この項で, これを「証言」と略称する。)を作成したことが,それぞれ認められる。こうした事実によれば,宮村幸延の昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)が,その真意を表しているのかは疑問である。


(ウ)(証言間で異なる梅澤証言は措信しがたい)*


  (被控訴人らは, 「証言」は宮村幸延が飲酒酩酊させられたうえで書かされたもので, 同人の意思に基づくものではないと主張する。しかし, 「証言」の筆跡は比較的しっかりしておリ, 控訴人梅澤に示された書面を機械的に写しただけものではなく, 宮村幸延が判断カを失うほどに酪酊していたとは到底認められないから, 被控訴人らの主張は採用できない。

  他方,控訴人梅澤は,その陳述書(甲B33)で,宮村幸延が前記「証言」と題する親書(甲B8)を,その意思で作成したとして,次のように記載する。 そして, 控訴人梅澤の陳述書(甲B33)では,控訴人梅澤は慰霊祭の終わった28日座間味村役場に田中村長を訪ねたが, 補償問題を担当していた幸延氏に聞いて<れといわれて,その足で幸延氏を1人で訪れ, 訪問の理由をお話しすると, 
「幸延氏は突然私に謝罪したうえで, それまで一人で抱え続けてきた胸のつかえを一気に取リ去るように, 集団自決者の遺族や孤児に援護法を適用するために軍命令という事実を作リ出さなけれぼならなかった経緯を切々と語って下さいました。
『村中の者もそのことは知っています。』
とも仰いました。
『こんなに村が裕福になったのは,梅澤さんのお陰です。 貴方がこの島の隊長であったことを誇りとしています。 しかし, 無断で勝手にやったこと, 本当に済みませんでした。』
と頭を垂れて再び謝罪されました。」

「私は宮村幸延氏に,是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願いした。 宮村幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので,私は,お任せします,ただ,隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしましたたのです。」

「大手の清水建設に勤務され,その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの宮村幸延氏は,私の目の前で,一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりました。」
と記載され, その後, 語り終わって共に杯を酌み交わし, 義兄弟を約したと記載されている。

  しかし,そのような作成状況であれば,前記「証言」と題する親書(甲B8)と酷似する文書「証言」の案文であったとみられる梅澤が作成した前記文書(甲B85)が存すること自体不自然あり得ないことで, 控訴人梅澤の陳述書(甲B33)は, この部分で措信し難いし, 控訴人梅澤が沖縄タイムスの新川明に前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況として語った内容(乙43の1及び2・5頁)とも異なり,措信し難い。 すなわち,控訴人梅澤は,新川明に対しては,
「今度,忠魂碑を,部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。 その時に聞いたら,彼はまあ,酔ってないとは言いませんが,彼がそういう風に私に
『本当に梅澤さん,ありがとうございました。 申し訳ございません』
とこうやってね,手をこうやってね,謝りながら書いたんですよ。
『一筆書いてくれんか』
って。
『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』
と。
『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。 わかるだろう』
と。
『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』
と言うから,
『そうか』
と,
『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』
と私は2,3行鉛筆で書いてあげました。 そしたら彼は
『あ,分かった分かった,もういい。 あとは私が書く』
と言って,全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。まあ,よく聞いてくださいよ。それで結局私は
『ありがとう』
と。
『ついでに判を押してもらえたらなあ』
と言ったら,彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して
『これでいいですか』
と。
『ありがとう』
と。
『これはしかし梅澤さん,公表せんでほしい』
と言った。
『公表せんと約束してくれと』
と。 私はそれについては
『これは私にとっては大事なもんだと。 家族や親戚,知人には見せると。 しかし公表ということについては,一遍私も考えてみよう』
と。 公表しないなんて私は言っておりませんよ。 やっぱりこれはですね,沖縄の人に公表したら大変だろうけれども,内地の人に見せるぐらいは,しらせたいというのが私の気持ちだから。 そういうふうなことで別れた。」

「あの人はね,まあ言うたらやね,毎日,朝起きてから寝るまで酒を続けています。」
と語っており,この「証言」作成後2年足らずの時点で新川明に語った作成状況と控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)の前記記載内容は異なっており,控訴人梅澤の陳述書(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお,控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)には,沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もあるところ,{原審第9回口頭弁論期日に提出された]この陳述書(甲B33)が被控訴人らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭),前記新川明との対談の経緯等は,乙第43号証の1及び2の録音内容に照らして措信しがたく,この陳述書(2)(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。

  また,前記のとおり,証拠(乙43の1及び2)によれば,控訴人梅澤が沖縄タイムスの新川明に語った前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況では,宮村幸延がこれを酔余作成したものであることを認めている(乙43の2・5頁)。


(エ)(梅澤は作成経緯を隠している)*


  控訴人梅澤は, 前記のように「証言」に対する被控訴人らの反論を踏まえてもう一度詳しく説明するとして作成した前記陳述讐(2)(甲B33)でも, 1人で訪れた最初の日(28日)に来意を告げるとすぐ謝られたといい「証言」を書いてもらうについて案文を提示したことを否定し, 昭和63年の沖縄タイムスの新川明との対談でも書き出しを尋ねられて2, 3行鉛筆で書いてあげたら, わかった, もういい, 後は自分で書くとして全然違った文書を書いたと具体的なやリ取リを詳細に述ぺている。 しかし, 宮村幸延のところに残されていた文書(甲B85)は, 控訴人梅澤の自筆と認められるところ(控訴人梅澤も本人尋問で認めている。), その内容は, 前掲のとおりであり, 右証言しますという本文の内容, 作成の日付, 作成者宮村幸延の肩書きと氏名, 梅澤裕殿という宛先まで書かれて体裁を整えた書面であリ, 押印すれぱいいだけの完成された文書である。 宮村幸延は, あらかじめ用意されていたと考えられるこのような文書を示されて押印あるいはこれを手本に自書しての署名押印を求められたものと認められるが, それは先に(イ)で認定したような26日からの経緯に副ったもので, 控訴人梅澤は意識的にそのような作成経緯を隠しているものと解さざるを得ず, 同文書作成の経緯に関する控訴人梅澤の上記陳述書(2)(甲B33)やこれに副った本人尋問の結果は到底採用できない。


(オ)(宮村幸延はなぜ作成に応じたのか)*


  それではなぜ宮村幸延は「証言」の作成に応じたのか, また, 作成経緯はともかく「証言jの肉容自体は事実に合っているのかが次に問題となる。 宮村幸延が判断カを失うほど酩酊していたとば認められないことは前記のとおリであるが, 「証言」の文章は, 手本とされた控訴人梅澤作成の完全な文書に比ぺて文脈や体裁がやや乱れており, 座間味村遺族会長の立場を初行に打ち出し, 助役とある盛秀の肩書きに兵事主任を先にして兼助役とし, 「役揚当局がとった手段」というのを「弟である自分が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したもの」と改め, 自分の肩書きの役場事務局長を当時援護係としている。 他方, その当時の事情として, 宮村幸延は, 既に初枝から, 昭和20年3月25日の本部壕で控訴人梅澤は兵事主任であった助役らが自決用の弾薬の提供を求めたのに断ったという話を聞いており, 控訴人梅澤が直接自決命令を出してはいないと理解していたこと, そして援護法適用の際の調査の時に初枝はそのことを述ぺず控訴人梅澤がマスコミの標的にされたことに深い罪悪感を感じていることを知っていたこと, 援護事務においては座間味戦記に書かれた梅澤命令説が前提とされておリ後に初枝の話を聞いてからはそれが事実と異なると知り自分自身も担当者としてやや負い目を感じていたであろうこと, 初枝と同様に控訴人梅澤がマスコミの標的となり家庭崩壊等極めて苦しい立場におかれていると聞いて深く同情していたであろうことなどが推認できる。 そうだとすると, 宮村幸延は, 最初の日は控訴人梅澤の文書への押印依頼を断ってはいたものの, 控訴人梅澤やその戦友たちと酒を酌み交わすうちに, 控訴人梅澤の立場に一層同情するようになリ, 家族に見せて納得させるだけだといわれて, 初江から聞いていた話を前提として, 自分の責任を前に出すようなニュアンスで「証言」を作成して控訴人梅澤の求めに応じたことが, 十分考えられ, このような推論を左右するような事情はなく, 後述の座間味村への同人の釈明や妻文子の陳述(乙41), 宮城晴美の調査(乙18)とも一致している。 そして, その上で, 控訴人梅澤も新川明との対談では認めていたように, 宮村幸延は, 改めて,
「これはしかし梅薄さん, 公表世んで欲しい」「公表せんと約東してくれ」
と明確に求めていたものと認められる。 控訴人悔澤は, そのような経緯を十分自覚しているからこそ, 本件訴訟においては, 反論を踏まえ更に詳しく説明するとして提出した陳述書(2)や本人尋問においても, その様な作成経過を意識的に隠そうとしたものと考えざるを寄ない。

  そうだとすると, 「証言」は, 控訴人梅澤が家族に見せて納得させるだけのものであることを前提に, アルコールの影響も考えられる状況のもとに, 控訴人梅澤の求めに応じて交付されたものにすぎないと考えるのが相当である。 宮村幸延が, 前記のように, 同文書は
「私し(宮村)が書いた文面でわありません」(乙17)
としているのも, 言われて書かされた文面であリ自分の考えを示すものではないという趣旨を言わんとしたものと解される。 そして, 「証言」の内容は, 初枝の話を前提としたものにすぎず, 座間味戦記に記述されるような梅澤命令それ自体(梅澤命令説が補償問題以前から村で言われており, 住民がそのように認識していたことは既に示したとおリである。)が遺族補償のために捏造されたものであることを証するようなものとは評価できないというべきである。

  現にそして,控訴人梅澤も沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり(乙43の1及び2),宮村幸延は,座間味島で集団自決が発生した際には,座間味島にいなかったのであって,前記「証言」と題する親書(甲B8)にあるように,「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行われたとか, 座間味戦記にいわれている梅澤命令が実際にはなかったなどと語れる立場になかったことは明らかで,この点でも前記「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容には疑問がある。

  沖縄タイムスが,昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎が,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは,第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。 座間味村長宮里正太郎は,前記回答書(乙21の1)で
「…証言した宮村幸延氏は, 当時はひどく酩酊の時で梅澤氏が原稿を書いて来ていろいろ説得され又, 強要されたので仕方なく自筆で捺印した様である。しかし, これは決して公表しないこと堅く約束したので書いたもので又, 宮村幸延氏も戦争当時座間味村に在住しておらずなく,本土の山口県で軍務にあった。」
として,その記載に疑義を呈するとともに,
「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。 遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し,又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い,「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく,住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」
とも記載している。 また, 同文書に添えられた田中村長の県援護課等への回答には, 宮村幸延の証言として
「その日は投宿中の旧日本兵二人と朝六時頃から酒を飲んでいた, 午前10時頃に問題の梅沢氏が入り込んできて
「私も年だ, 妻子に肩身のせまい思いを一生させたくない。 茲に原稿を書いてきてある, 私の字体は判るので書き直して捺印を頼む」
と強要され, しかもこれは家族だけに見せるもので絶対に公表しない事を堅く約東するとの事で仕方なく応じ, これはなんの証拠にもならないことを申し添えたと本人は証言し且つ新聞記載のことで怒ったら確かに酒をのんでいた人に申し訳ないと詫ぴていた由」
とされている。 さらに, 参考資料として, 
「村長田中登は, 梅沢海上挺進第一戦隊の座間味島進駐時には, 主任書記で軍との渉外係も兼ねていた。 この特攻隊受け入れで, 当時の模様を簡単に記して参考にしたい。 座間味村は人口約500名の小さな島であったがその小さな島に人口の約倍の1000人余の日本部隊が進駐してきたので村も島も騒ぐのは当然であった, しかも同部隊は有名な海上特攻隊とその支援部隊であれぱなおさらだ。」

「太平洋戦争では南方輸送路の中継の基地として利用され, 続いて昭和19年9月の始めには沖縄防衛の海上特攻隊の約5割がケラマに配備される等軍事一色に塗りつぷされた村となって, 軍政下の村政といった感が大きくされ, この特攻隊が良<言われた秘密兵団でその訓練は「見るな」という事だったが生活は山との関わりが多く畑も山の段ヽ畑で家畜の草も薪取リも皆, 山だった, 従って山に登れば彼等の訓練を見るなといっても見える訳で見たからにば軍事機密の漏洩防止の上から住民の村外えの移動は腫しく規制された。本土から親面会に来た者が戦後まで婦れなかった例や租界(ママ)まかりならぬという厳しい規制が行われ軍事至上主義がつくられた社会環境になった。 その様な中での悲惨な上陸戦闘を迎え, 助役の命令では住民は動かなかったと思う, 軍命だと聴いて自決に動いたと皆が話している。」
と当時の実惰を記載している。 宮村幸延は, 当時のこのような事情を知らず, 日本軍と村の関係や集団自決の背景には通じていないのであり, 座問味村からすれば, まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。


(カ)(小括)*


  こうした事実に照らして考えると, 宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容は, 「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」との部分も含めて措信し初枝の話を前提とするものという以上の意味を持つものとはいいがたく,併せて,これに関連する控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)も措信し難い。



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