- イ 渡嘉敷島について
- (ア)(赤松命令説記載文献)*
g 前記「沖縄県史 第8巻」(ha)
「沖縄県史 第8巻」には,
「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕刻,駐在巡査安里喜順を通じ,住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するように命じられた。その夜は物凄い豪雨で,住民たちは,ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつつ,老幼婦女子の全員が西山にたどりついた。ところが赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を,さらに北方盆地に移動集結しなければならなかった。いよいよ,敵の攻撃が熾烈になったころ,赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。約千五百人の住民は,二,三○人が一発の手榴弾を囲んで自決をはかった。互いに,クワや根棒で殺し合ったりした。あるいは剃刀で喉を切った。ここに自決したもの,三二九人を数える。」
として,赤松大尉が住民に対して集団自決を命じたとする記述がある(乙8・410頁)。