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いわば馥郁たる優しさ

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PHP文庫
1992年6月15日
ある神話の背景
沖縄・渡嘉敷島の集団自決
第1版第1刷

解説

―いわば馥郁たる優しさ―

田村隆一

  赤松嘉次大尉、海上挺進第三戦隊長、陸士五三期卒。

  彼はオキナワ戦史の「神話的悪人」として記録されている。彼の任務は○レと呼ばれるベニヤ板製の特攻舟艇でアメリカ軍の艦船を攻撃することであった。しかし、沖縄・渡嘉敷島に上陸した彼とその部下は、圧倒的なアメリカ軍の攻撃にあって、島の二三四・二高地(西山)に複廓陣地をきずいてたてこもることを余儀なくされた。そこで赤松大尉は、渡嘉敷村の住民から戦いの遂行のためと称して食糧を強制的に徴発した。さらに駐在巡査・安里喜順(当時二十九歳)と村長古波蔵惟好を通じて住民を西山の恩納河原に集めた。住民は軍の保護下にはいったと考えたのだが、攻撃がはげしくなると、赤松大尉は、住民に自決の命令を出した。住民は二十人、三十人と手榴弾をかこみ、次々に死んでいった。手榴弾の正確な使いかたがわからず、不発も多かったが、そのときは強い者が弱い者をなぐり殺したり、しめ殺したりし、三百数十名の人々が。死んだ。それでも死ぬことのできない者が救いを求めると、赤松大尉は白刃を抜きはなって陣地に入ることを拒んだ。

  やがて終戦。アメリカ軍に投降した赤松大尉は愛人をつれており、デブデブに食い肥えていた。さらに現在、兵庫県加古川で肥料店をいとなんでいる……。

  この胸クソわるくなるような人物を告発する者はたくさんいる。責任をとれと叫ぶ書物もたくさんある。しかし、曽野さんは、まずこの胸クソわるさをおさえる。
「一人の子供が道で転んだ。なぜ転んだか。石がそこにあったからだ、と簡単に答えることが、私にはできない。石がなぜそこにあったか。なぜその子の母親は、その子が転ぶように手を放していたか、ということに始まって、凡そ、考えられる限りの、深い、思いがけない物ごとの関係と、異なった立場の洞察をなし得るのが、人間理解というものなのだと私は考えて来たのである」

  こうした立場から、曽野さんは、住民を一か所に集める命令はたしかに出されたか? 食糧をたしかに強制的に徴発したか? 自決命令は出されたか? その死体はどのような状態であったか? などなど……ごく基本的な疑間から「赤松神話」を洗いなおし、分析し、検討し、再構成してゆくのである。

正確に、より正確にこの事件を見つめようとする曽野さんには、いつも、
「人間は誰か一人を殺して、その苦しみの血潮に手を濡らしたとき、実は最も正確に人間問の正体を見極められるようになるのではないだろうか、それ以外の観念的な捉え方は総て虚偽的なのではないだろうかという不安」がある。また、これだけではない。

「もし私がその場にいたなら、私はもっと利己的な卑怯者になりそうであった」という深い自覚がある。これはおそらくキリスト者としての曽野さんのいつわらざる告白でもあるのだろうけれども、このまっとうさ、この正直さ、この率直さが、事件をすなおに見つめる視点を定めているのである。

  曽野さんのまなざしによって、事実は次々にくつがえされてゆく。まったく意想外な方向へと進展しはじめる。食糧を徴発した事実はない。住民を一か所に集合させようとした命令も出されていない。自決命令もなかった。集団自決したという、死体のかたまりを目撃した者もいない。くりかえすが、曽野さんは正確に、より正確に事実のつみかさねの上にひとつの真実を見つけ出そうとする。その真実に一歩でも肉薄したいという意思をもって書きすすめてゆく。しかし、真実に近づこうとすればするほど、ワケがワカらなくなるのである。あるいは、ワケがワカらなくなることがワカってくると言いなおすべきかもしれない。ワケがどうワカらないのかワカってくると。そして、ワケがワカらなくなることがワカってきたり、ワケがどうワカらないのかワカってくると、読む者として、「自分は罪を犯していないという意識があるからこそ、ひとは他人を告発できるのだ」とか、「殺されようとして生き残ったほうは、根本に於て心は安らかであった。人問の究極を味わったのは、愛をもって人を殺してしかも自分は生き残ってしまった人々であった」等々の曽野さんのことぱや、金城重明牧師の、思わずエリをたださずにはいられない手紙の文章(一五九~一六三ぺージ、二八八~二八九べージ)、さらには、兵隊たち一人一人の会話が、絵空事ではないものとしてハダに実感することができるのである。つまり、書き手の曽野さんとともに、ぽくら読者も、真実に向って近づいてゆくことができるのだ。

  來雑物がとりのぞかれ、虚飾が剥がれおち、誤った記憶が訂正され、しだいに裸の真実に近づくにつれ、「責任」ということぱが気になりはじめる。

  いったい、こんなバカげたことが起らなければならなかったのは、なぜか。その責任はどこにあるのか。曽野さんはこう書く。
「あの事件に、多かれ少かれ、戦争責任の雛形を感じたものは、誰に問い詰められなくても、それぞれに内面でその答を出して行くのである。そして、或る人間の戦後が、かりにどのように厚顔で破廉恥で鈍感で無感動で貧しく利己的な精神風土を持っていようとも、それを他の人間が裁くことは不可能である。彼はその貧しさの故に、人生を深く感じる恩恵をも得なかった、ということで、既に自ら罰せられていると思うほかはない」

  だれがウソを言い、だれがまちがい、だれが正直に過去を白状し、だれが逃げようとしてしるか――そんなことは問題ではないのである。

  この本の最初の一行から、最後の一行にいたるまで、ぽくは、馥郁たる、としか形容できない優しさを感じとることができた。そしてその優しさのなかに思い出したコトバもあった。アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスの告白遺録のなかの数行である。

「だが、私は、いささかの感情をしめすことも許されていない。私は、全部をこの目でみなければならなかったのだ。私は、昼となく夜となく、屍体の造成と焼却を見なければならず、抜歯、毛髪切断と、残虐無比の悪業のすべてを何時間にもわたって監督しなければならなかったのだ」(片岡啓治訳)

  その通りだ。ぽくたち生き残った者は、すべてルドルフ・ヘスなのだ。曽野さんの馥郁たる優しさは、すべてのルドルフ・ヘスに向げられているのだ。ぽくたちは、全部をこの目で見なければならない。


  昨夜は、夜を徹して本書を一気に読んだ。この、太平洋戦争末期に起った沖縄の一小島、渡嘉敷島の惨劇が、ぽくにとって、真の意味の「悲劇」に転化するためには、まだ多くの「時」を要することだろう。しかし、著者のエネルギッシュな行動と、あくまでも理性的で、真蟄な態度は、惨劇のファクターと多元的な諸事実の地模様を、あざやかに描き出し、その過程で、相対的な世界に生きなければならない人間存在の悲劇の核心を、読むものに経験させるだろう。ここでも「神話」は、感情の集団化と、思考の政治化によって支えられていたにすぎない。ぼくらは、この「惨劇」に直面したとき、何を措いても理性的でなければならぬ。そして、その道だけが、感傷と自己絶対化を排して、深い沈黙の声に達し得るのだ。沖縄の一小島の「惨劇」の今日的なバリエーションは、依然として現代日本のいたるところにある。何も終ってはいないのだ。
(詩人)
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