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桜井よしこ推薦文

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推薦のことば


ジャーナリスト櫻井よしこ

 本書は、一九三七年当時の南京にいた軍人、ジャーナリスト、外交官など関係者の体験談を集めた第一級の資料である。いわゆる「南京事件」は、その呼び方すら今だ定まらないほど議論の分かれる問題だが、まずは、そのとき現地にいた人々の話を実際に聞くのが筋である。従って、本書をまとめた阿羅健一氏の手法は、ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実な誠実なアプローチだといえる。

 一体、日本人は南京で何をしたのか、しなかったのか、そして何を見たのか。虐殺と言われるわれるようなことは本当にあったのか。

 それらの結論は、本書を読めば自ずと見えてくる。

 ここに、もう一つの資料がある。北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)である。この本は、東京裁判で「南京事件」が断罪された際に提出された様々な資料をひとつひとつ見直し、冷静に検証したものだ。その中にこんな話がある。

 当時、南京で中国人の遺体処理にあたったのは、現地の紅卍字会という組織と、崇善堂という慈善団体だったとされている。紅卍字会は四万三千余の遺体を埋めたといい、崇善堂は十一万余を埋めたという。それらの合計が、日本兵による何十万人という虐殺の数の大きな根拠となった。しかし、崇善堂についてはその実在性が疑われた。その疑いに対して中国側が出した証拠は、崇善堂は車を一台所有しており、彼らがその車の部品の補給を要請したという書類だけだった。その資料から浮かびあがるのは、崇善堂という組織がたった一台の車しか持たずに、一九三八年四月のひと月間というごく短期問で十万余もの数
の死体を運び、全て埋葬したという、到底信じ難い事実である。

 崇善堂の主張の信憑性は、中国側が提示した証拠によって逆に疑わしいものになったという。

 一方、本書にも崇善堂は登場する。当時、上海派遣軍参謀で、かつ南京特務機関長だった大西一大尉は、阿羅氏の質問に対し、紅卍字会については、知っている、遺体の埋葬をよくやっていた、と述べ、崇善堂についてはこう述べている。

「当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判ですごい活躍をしたと言っている。当時は全然知らない」

 紅卍字会を遥かに凌ぐ埋葬活動をしたという組織を、全く知らないと言うのである。

 上海派遣軍の大西氏は一九三七年十二月十三日に南京に入り、三八年二月からは特務機関長として一年間、南京にとどまった。南京特務機関長は中国市民への日本側窓口にあたる。大西氏は南京滞在の時期からも、その職責面からも、南京事件と南京市民の実態を最もよく得る立場にあった。その大西氏が崇善堂について、全く知らないというのだ。もちろん、大西氏は崇善堂を貶めようとしている訳ではない。知り得たことを淡々と述べているに過ぎない。しかし、こうした当事者の客鶴的な証言が、学者が調査した結果と見事に一致する。

 真実とは、こうしたところにあるのではないだろうか。

 過去、東京裁判、また朝日新聞や本多勝一氏に代表される「南京大虐殺」キャンペーンなどを経て、「南京イコール大虐殺」のイメージが定着し、日本人白身が、我々はとにかく悪いことをした、残虐なことをしたのだという自縛意識に陥ってしまった。

 しかし、私たちの親や祖父たちは、本当にそんな残虐なことをしたのだろうか。何十万もの人々を虫けらのように殺すような人たちだったのだろうか。私たちは、自分たちを信ずるに足らないような民族なのだろうか。

 歴史は、人問のつながり、そして家族のつながりでもある。家族としての信頼感や民族としての愛情を全面的に否定するのでなく、私たちは歴史を冷静に正しくみつめ直すべきである。

 もちろん、問違いはあっただろう。無謀な戦争に対する責任も、犯した過ちを詫びる心も大切である。しかし、戦後になってつくられた情報によって、観念論のみで歴史を捉え過ぎてはいないか。日本はとにかく悪いことをしたのだと教科書で教えられ、ただひたすらそう思いこんではいないか。

 反省と同時に、白分の頭で考え、実際に何があったのか、物事の真実を見極めることを忘れてはならない。また、過去に国のために戦い亡くなった人々、戦犯として裁かれた人々の犠牲に対しても、彼らの犠牲に、日本人であればこそ、想いを致し、悼み、感謝する心を忘れてはならない。

 歴史には、「資料から見る歴史」、「報道から見る歴史」など様々な側面があるが、現代日本で最も省みられないものが、当事者による「語り継ぎの歴史」である。

 ヨーロッパでもアジアでも、また核家族化が激しいアメリカでさえ、家族や先祖の物語がきちんと語り継がれている。しかし、日本はそれがほとんどなくなってしまった稀有な国だ。白分たちの前の世代、そのまたさらに前の世代が一体どんな暮らしをしていたのか、どんなことを思い、考えていたのかの記憶が断絶されてしまっている。さらに、その傾向は年々強くなっている。多くの日本人が、教科書が教える表面的な歴史しか知らず、歴史が白分の体の一部であるという自覚がないのは、そのためだろう。

 本書にはまさに、その「歴史の語り継ぎ」を補う力がある。父親や母親、また祖父母や曽祖父母に代わって歴史を語り継ぐ重要な記録である。

 既に半世紀以上たって、残念ながら戦争を体験した人々の多くが亡くなっている。阿羅氏は十数年前、本書のために多くの方々を訪ねて話を聞いているが、それからさらに時が過ぎた現在、生存されている方はほんのわずかであるという。

 二十一世紀に入って、世界ではテロ行為や戦争が勃発し、私たちは改めて国とは何か、民族とは何か、宗教とは何かという課題を突きつけられることになった。

 折りしも国内では、教科書問題や靖国神社問題など歴史認識の見直しが図られるような出来事が続いた。私たちの国、そして国際社会を築いていく基本的な価値観をどこに据えるべきか、またその価値観をどう守るべきかという岐路に立たされているのだ。

 本書を読んで、物事の真実を自分の頭で判断してみてほしい。世界が揺れている時だからこそ、自分たちの国や歴史を冷静に見直すことが求められているのである。

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