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赤松元戦隊長の認識と態度

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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度

by やっしゃん(dj19)さん「美しい壺日記」より

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-date-20071010.html
2007/10/10/Wed
渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度

■「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭(晩聲社・1989年)から該当箇所を抜き出してみました。本書は*第三次教科書訴訟で家永氏が取り上げた沖縄戦に関連する裁判記録が収められたものです。

※第三次教科書訴訟
1988年2月9日・10日に那覇地方裁判所で行なわれた原告・家永側(安仁屋政昭氏、金城重明氏など)の証人調べに対して、被告・国側(曽野綾子氏など)の証人調べは同年4月5日と5月13日に東京地裁にて行なわれた。


P118 曽野綾子証人調書より
曽野綾子
「赤松さんは、村の人のことというのは、正直言って、あまり頭になかったとおっしゃっていました。こちらは戦闘部隊なのであって、特攻舟艇の出撃はだめになったのだけれども、いずれは死ぬけですから、だれかが村の人のことはやるだろうということ、それから、集団自決に関しては、本当にみんなよくわからなくて、赤松さんは、ふとんがずぶぬれになって、女の子の髪が泥の中に見えましたと、そして、自決した場所というのはどこでしょうか、どこでしょうねと、しきりに言っておられました。」


手榴弾が使われた集団自決に関して、よくわからなかったというのはありえないと思うんですがねぇ。

P297.298 金城重明証人調書より 
……曽野さんが赤松隊長に取材して、赤松隊長は「恩納河原で三百何十人が自決を遂げて、累々と血が河原を染めていた、そういう状況は見てない。」ということを言ってますが、一体真実はどうなんですか。

金城重明
「見てないとか見たとかについては、私は赤松さんと一緒にいたわけじゃありませんからわかりませんけれども、ただいえることは島は一部しか緑は残っていないんです。全部焼き払われて。日本軍は直接知ってますけれども、どの時点から一個中隊くらい上陸した、と。米軍がどこで何をしてるということを、全部日本軍は双眼鏡におさめているわけです。一挙手一投足、全部わかるんです。しかし、陣地のすぐ近くで300名以上の人がものすごいうめき声を挙げながら手榴弾を爆破させながら死んで行ったということを、全く知りませんでしたということは不思議でしょうがない。米軍ですら『恐ろしいうめき声。これは何かある。』と言って、その日の夕方からそこを調べに行こうとしたという状況の中で、日本軍が全く知らなかったということは、私は不思議でしょうがない。そいう思いが致します。」


当時、ニューヨーク・タイムズは、「渡嘉敷島の集団自決」という見出しで次のように報じている。

P344.345.346 集団自決の惨事より 
(NYタイムズ 1945年3月29日付け、ウオーレン・モスコウ記者の報告)
三月二十九日、昨夜、われわれ第七七師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の厳しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、一マイル程離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、うめき声が聞こえてきた。手榴弾が六発から八発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐもの達の修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供達の泣き声だけであった。

そこには200人ほど、(註・G2リポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中には六人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。(中略)

小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。その中に、二人の日本兵負傷者がいた。担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。

生き残った人々は、アメリカ兵から食糧を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げ「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていてことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指揮者への怒りが生まれた。そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向って激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった。なんとも哀れだったのは、自分の子供を殺し、自らは生き残った父母である。彼らは後悔の念から泣き崩れた。(以下略)
(上原正稔訳編「沖縄アメリカ軍戦時記録」20.21頁)


うわぁ……、日本軍は負傷者を救護しないばかりか、救護していたアメリカ兵を機関銃で撃ってますね。住民を守るという姿勢はまったくなかったようです。
そして、アメリカ軍の救護施設で住民が日本兵に対しこれほど激しく怒ったということからも、みずからの意思でなく日本軍から死を強制され「集団自決」に追い込まれていたということが見えてきます。

ここでいう「強制」とは、なにも赤松元戦隊長が直接「軍命」を出したか出していないかという一部分の問題ではなく、例えば、それまで陣地構築と漁労班に従事していた16歳~45歳までの男子は防衛隊に編制され、女子青年団は炊事班などに配属され、漁船も軍の指揮下に置かれ渡航も許可制になり、村役場なども軍の施設となり、秘密基地ということことで住民は日本軍の厳しい統制下におかれていたこと。

こうした「軍官民共生共死」の一体化体制のもと、渡嘉敷島では住民に米軍への恐怖を植え付け、「軍事機密漏洩防止」のため、住民の敵への降伏を許さない方針をとり、住民虐殺も行なわれていること。住民に事前に「これで死になさい」と手榴弾が配られていること。こうした降伏しないで死を選ぶよう軍が関与し強制していたということです。


■次に、「死者たちは、いまだ眠れず」大田昌秀(新泉社・2006年)から赤松元戦隊長について書かれた箇所を抜き出してみます。

P68.69.70より
赤松元戦隊長は、1968年4月「琉球新報」の記者の質問に答え、住民は軍の任務を知らないから、「集団自決」を軍命によるものと考えたのだろう、と言い、自分は「絶対に命令したのではない」とこう反論しました。

「(集団)自決のあったあと報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬようにという気持ちだったと思う……。軍の壕といってもお粗末なもので住民が入れるような所ではなかった。同じようなケースの自決は沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば、自決した人達も靖国に祀られたはずだ。」(琉球新報 1968年4月8日付)

また、スパイ容疑で殺された人たちについて彼は、
「私が処刑したのは、大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、当時の状況からやむをえなかった」
と一部は認めています。

彼自身が住民から悪評をかっていることについては、特攻隊のような花々しい戦闘を住民は期待したのだろうが第三挺進戦隊にはそれができなかったこと、それに(渡嘉敷島が)小さい共同体のことだから当時の隊長であった彼を悪人に仕立てた方が都合がよかったからではないか、とも述べています。

なお戦後の心境については
「私のとった措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから、現在の感覚と尺度では、はかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか不徳のいたすところなどと私が言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ」
と言うとともに、
「防衛庁の記録にも私の処置が正しかったことが書かれている」
と開きなおる態度も見せたようです。

これに対し、戦争当時渡嘉敷島の村長をしていた米田惟好(よねだいこう)旧姓・古波倉は
「……反省しているだろうと思い、いまさら彼一人を責めるのはよそうと思っていたのに、このシラを切った態度は、常識では考えられない。これでは自決を強いられて亡くなった人達の霊も浮かぶまい」
と批判しています。
(山川「秘録 沖縄戦史」読売新聞社・1969年)


http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-148.html
2007/10/12/Fri
渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度(2)


渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度の続編です。

1970年3月に渡嘉敷島の慰霊祭に赤松元戦隊長と元隊員が25年ぶりに参列しようとしたことがきっかけになって、赤松元戦隊長への糾弾と激しい渡島阻止行動が行なわれたことから、沖縄戦の記憶を呼び起こし大きな議論になった。

この事件とほとんど同時期に、那覇に滞在していた元海軍大尉・島尾敏雄が書いた「那覇に感ず」という文がある。約200名の海上挺進隊を指揮した赤松嘉次元戦隊長と同じ琉球列島の加計呂麻島で、約180名の海上特攻隊の指揮官だった元海軍大尉・島尾敏雄は戦時中の環境があまりにも似すぎているため、地元の新聞が報じた記事を目にしたとき、
「思わず身の凍りつく思いに襲われた」
「ある理解が体を電撃のように通過したのは、沖縄の離れ島で起こった住民の集団自決の事実のことだ」

として、自分が彼と同じ状況に陥った時どんな事態が生まれるだろうか、と考え暗澹たる気持ちに襲われ、慄然としたことを告白している。そして、
「彼とのかかわりあいでのなかで非戦闘員が三百人余りも自決したその場所にでかけて行こうとするのだろう。ふとそこに死にに行くのではないか、と先走って不吉な考えを私は起こしてしまった。」
という。だが、島尾敏雄の「不吉な考え」は思い違いに終る。
「でもいったい彼は本当になんの告発を受けることもなく、渡嘉敷島に渡れて、慰霊祭に参列できると考えていたのだろうか、本心からそう思っていたのだろうか。私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗い裂け目に落ち込んでしまった。しかしなんとしてもへんてこな羞恥で体がほてり、自分への黒い嫌悪でぐじゃぐじゃになってくるのをどうにもできなかった。何かが醜くてやりきれない。彼の立場だったら、私にどんなことができるかと思うとよけい絶望的になるし、しかしまたこの状況は醜い、と思うことからものがれられなかったのだ。」
と結ぶ。
(「世界」2007年7月号 P101.102)


この事件の翌年に赤松元戦隊長は月刊誌「青い海」に「私達を信じてほしい」というタイトルで寄稿しています。「集団自決の真相」とうたわれた手記にしては、凄惨を極めた集団自決とスパイ容疑での住民虐殺、そして朝鮮人軍夫や慰安婦のことは書かれていないそうです。この書かなかったというより書けなかった部分にこそ本当の真相があるのでは?と、思うのはオレだけか?


前回のエントリーで紹介した「裁かれた沖縄戦」のP68~71をテキスト化してもう1つのブログにアップしました。
■[沖縄戦][集団自決]「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071012
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