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日中戦争の開始

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南京大虐殺の研究
晩聲社1992

もくじ
上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭
  • 一、日中戦争の開始
  • 二、上海戦と南京戦
  • 三、南京進撃
  • 四、大虐殺の序章
  • 五、『南京戦史』批判
  • 脚注



上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章

江口圭

一、日中戦争の開始


南京戦と南京大虐殺は上海戦(第二次上海事変)と密接に関連している。上海戦の問題を抜きにして、南京戦・南京大虐殺を論ずることはできない。そして上海戦を考察するためには、まず日中戦争そのものがどのようにして起こされたかを明らかにする必要がある。

日中戦争は一九三七(昭和一ニ)年七月七日の蘆溝橋事件を発端として発生した。盧溝橋事件そのものは偶発的な衝突であって、満州事変の発端となった柳条湖事件のように意図的.計画的に仕組まれたものではない(1)。現地では七月一一日になって一応の停戦協定が結ばれた。ところが同じ一一日に、近衛文麿内閣は「重大決意」のもとに華北への派兵を決定し、事態を「北支事変」と命名した。事変とは宣戦布告をともなわない戦争状態のことである。

柳条湖事件の際は現地軍が謀略によって強引に戦争を仕掛けたのにたいして、中央政府は一応なりと事態不拡大の方針をとったのであるが、蘆溝橋事件では現地での停戦にもかかわらず、中央
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政府が事態の拡大を招かざるをえないような積極的な対応をしたのである。これは、日本の戦争指導者が盧溝橋事件を好機として中国を一撃のもとに屈服させ、かねて追求してきた華北五省―河北・山東・山西・チャハル・綏遠―を日本の支配下に取り込むという目的を達成しようとしたからである。

一九三三(昭和八)年五月の塘沽(タンクー)停戦協定によって、柳条湖事件以来の軍事行動は一応停止されたが、それは日本の膨張政策の停止を意味したのではなかった。塘沽停戦協定は華北分離工作という新たな膨張政策の第一歩でもあった(2)。日本は満州事変と国際連盟脱退によって列強との緊張を強め、「一九三五、六年の危機」が声高く叫ばれるようになったが、これに対処するためには「満州国」の育成とともに、華北を国民政府の支配下から分離し、日本の支配下に編入して、いわば「華北国」「蒙古国」化することが必要であるとされた。

華北分離・支配の目的は、軍事的・政治的には「満州国」の西側の安全を確保するとともに対ソ戦争に有利な地歩を築き、またソ連・外モンゴル・中国共産党――中共軍(紅軍)は三三年一〇月以降の第五次掃共戦によって華中の根拠地を失ない、三四年一〇月長征をはじめ、三五年一〇月陝西省北部に到達し、新根拠地とした――の連携を分断することにあり、これは「赤化防止」とか「防共」とかと称された。経済的には国家総力戦を遂行するうえで不可欠な鉄・石炭などについて、「満州国」のみでは充足させることができず、またアメリカ・イギリスからの輸入を成り立たせるべき日本の輸出がブロック経済の壁に阻まれだしたため、華北の豊富な資源と人口欄密な市場を独占的に確保しようというのが華北分離・支配の目的であった。
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すでに三三年九月参謀本部は華北要域の軍事占領に備えて『支那占領地統治綱領案」と題する詳細な文書をまとめ・支那駐屯軍も三四年三月「北支那占領地統治計画」を作成していた(3)。陸軍の依頼で満鉄は華北の経済調査・経済計画を推進した。そして三五年六月、支那駐屯軍と関東軍はあいついで行動をおこし、梅津-何応欽協定、土肥原-秦徳純協定によって、河北省東部とチャハル省東辺部を事実上「満州国」に編入してしまった。冀東特殊貿易と称する密貿易によって、日本商品が華北から華中にまで氾濫した。さらに三六年一一月、関東軍は内モンゴルの傀儡部隊をけしかけて、綏遠省に侵攻させる綏遠事件をおこした。

しかし、このような日本の膨張政策は中国に深刻な民族的危機感を呼びおこさずにはおかなかった。紅軍が長征途上にあった三五年八月、中共は「抗日救国のために全同胞に告げる書(4)」いわゆる八一宣言を発表し「国家・民族の滅亡とい大過が目前に迫つている」として、内戦停止・一致抗日を呼びかけた。三五年末の一二九運動は抗日救国運動の出発点となり三六年綏遠事件をへて、一二月の西安事件によって、国共内戦から第二次国共合作=抗日民族統一戦線結成への大転換が進行した。

こうした中国の民族的低抗に直面して、日本の華北分離工作が行き詰り状態になっていたときに、蘆溝橋事件が突発したのである。事件は、日本の戦争指導者にとって、中国の抗日を粉砕し、年来の華北分離・支配の目的を達成する絶好の機会とされた。

日本の戦争指導者の一部には、中国での武力発動に慎重な者もいた。その代表は参謀本部第一(作戦)部長石原莞爾少将である。石原は満州事変の首謀者であるが、三五年八月参謀本部作戦課長
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に就任してからは、対ソ戦争準備を完成することが最急務であるとし、また中国の抗日の成長をそれなりに認識する立場から、当面は中国との戦争を回避しなげればならないと判断していた。このような石原の判断もあって、三七年四月林銑十郎内閣が決定した「北支指導方策」は、従来の「北支分治」という方針を取り下げ、「経済工作の遂行に主力を注ぐものとす」としていた(5)。盧溝橋事件をめぐって、石原を中心とする軍中央のいわゆる不拡大派は最初は武力発動に消極的な態度を示した。

しかし、その石原も華北を防共・資源・市場のために日本の支配下に取り込むこと自体に反対していたのではない。林内閣の「北支指導方策」にしても、華北を「実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ併せて国防資源の獲得並に交通施設の拡充に資」すという華北にたいする根本目的そのものはなんら変更しておらず、露骨な「北支分治」方策を「経済工作」にかえることで、国民政府に「実質上北支の特殊的地位を確認」させるというものであった。石原が第一部長心得であった三七年一月の参謀本部「陸軍省に対し対支政策に関する意志表示」は、中国にたいして「互助共栄を目的とする経済的文化的工作に主力をそそぎ、其の統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み北支分治工作は行わず」としつつ、これでも「日支関係調整せられず更に悪化し真に己むを得ざるに立到るが如き場合は、十分隠忍したる後、徹底的痛撃を与ふる」としていた(6)。

また不拡大派の参謀本部戦争指導課長河辺虎四郎大佐は、「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」として拡大派の姑息な用兵を批判し(7)、戦争指導課の案として一五個師団同時動員・作戦期間約半年・戦費五五億円という大用兵を構想していた。
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不拡大派といっても、武力発動に原理的に反対していたわけではなく、単に相対的に慎重であったというのにすぎない。したがって、現地から国民政府直系の中央軍が大挙して北上中であるという誇大な情報が伝えられ、また皮肉にも石原莞爾自身が助長してきた下剋上の風潮によって、血気盛んな下からの突きあげをくらうと、たまたま参謀総長が皇族(閑院宮載仁親王元帥)で、しかも参謀次長今井清中将・第二(情報)部長渡久雄中将がいずれも病床にあったため、事実上の統帥の最高責任者の立場におかれていた石原は、持論を維持することができず、不拡大派の慎重論は拡大派の一撃論によってたちまち押し切られてしまった。

偶発的衝突を全面戦争へ導いた日本陸軍の軍事思想は、中国の抗日の力量をみくびった一撃論であった。華北を日本の支配下に編入しようという欲望をつのらせていたからといって、それにふさわしい戦争計画が準備されていたわけではない。陸軍は、前述したような華北占領地統治計画に対応する華北での局地限定的な作戦計画は準備していたが、「華北でひとたび軍事力を行使すれぼ、戦争を局地限定にとどめることは不可能であり、全面戦争を必然化するものであるという戦略的認識が決定的に不足していた。その欠陥が何に由来するかといえば、それは中国抗日ナシヨナリズムの真の力にたいするまったくの認識不足にほかならない(8)」。

河辺虎四郎はのちに回想して、「交渉が纏まらぬとなっても三箇師団か四箇師団を現地に出して一撃を喰はして手を挙げさせる、そうしてぱっと戈を収めて北支を我が意の如くする…多少長びくとしても一部の兵力を北支に留めて置けぽ大体北支から内蒙は我が思うようになり、他へ飛火しないで済む」という判断のもとに、華北への派兵が決定されたと述べている。また参謀本部作戦班
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員であった西村敏雄(当時少佐)は、「当時参謀本部の誰人と難も今日(昭和)十二、十三年の如き大作戦を導く事を希望した者はなく、又斯様な大作戦になる事を怖れ予想した人もなかった---多くの人は斯様な大作戦迄進展しない以前にある限界に達すれば支那側が屈服するものであらうと漠然たる想像に支配されて居った」と回想している(10)。

しかし大作戦が予定されておらず、大戦争が予期されていなかったからといって、この戦争の侵略性がなんら薄められるわけではない。華北を分離・支配したいという欲望をつのらせながら、中国を軽悔していたことから、せいぜい華北での局地限定戦争でけりをつけることができると、たかをくくり、安易に武力を発動し、予想外に強固な中国の低抗に直面して、ずるずると深みにはまっていったのである。

日中戦争は、本来は防共・資源・市場のために華北制圧をめざして遂行された武力侵略戦争であった。その戦争相手が満州事変段階とは隔絶して、断固として民族的低抗に起ちあがった中国であったこと、それにもかかわらず一撃で片をつけることができると思いあがり、安直に武力を行使したことが、戦争の全面化をもたらしたのであった。
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