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1931年9月18日当日及其後 その2

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第四章 1931年9月18日当日及其後に於ける満州に於いて発生せる事件の概要(その2)


その1より続き)

 10月初め、嘗て馬占山、萬福麟と同地位を保有し彼等に代わりて黒龍江主席たらんとせしことあるトウ南守備隊長張海鵬は明らかに強力により省政府を奪取するの目的を以てトウ南―昴々渓鉄道に沿い進出を開始せり。支那側参与員提出文書第三号には、進出が日本側の煽動によるものとなし居れるが中立の方面より得たる情報もこの見解を支持し居れり張海鵬軍の進出を防止せんがため馬占山は漱江橋梁の破壊を命じ両軍は広大且沼沢地たる同河流域を隔てて相対峙せり。

 トウ昴線は南満州鉄道提供の資本により建設せられ右線路は借款の担保とされ居るを以て南満州鉄道当局は北満よりの農産物運搬の特に必要なる時に当り同線の運輸妨害を続くることは許す可からずと感じたり。在齊々哈爾日本総領事は政府の訓令により10月20日齊々哈爾に到着せる馬占山に対し成るべく早く橋梁の修理をなすべきを求めたるが、右請求には期限は付せざりき。日本当局は交通途絶により張海鵬軍を一定距離外に止め得べきを以て馬占山としては出来得る限り橋梁の修理を遷延するものと信じ居りたり。10月20日、トウ昴線及南満州鉄道使用人の一隊は軍の護衛によらず橋梁破損の観察をなさんとしたることろ、予め黒龍江省軍将校に説明し置きたるに係らず射撃せられたり。之が為め事態悪化したるにより10月28日、在齊々哈爾本庄中将代表者林少佐は11月3日迄に橋梁修理の完成を要求し若し同日迄に実行されざるにおいては南満州鉄道修理員が日本軍保護の下に之に当るべき旨を述べたり。支那当局は期限の延長を求めたるも右要求には何等の回答なく、右修理事業遂行保護の目的をもって日本軍四平街より派遣せられたり。

 11月2日迄交渉は進捗せず何等の決定を見ざりき其の日林少佐は馬占山将軍及張海鵬将軍に対して両軍何れも鉄道を作戦上の目的に使用すべからざること及各自の軍隊を河の両側より10kmの地点に撤退せしむべき旨の通牒を手交せり。

 右通牒は若し右両将軍の何れかが南満州鉄道会社の技術員の鉄橋修理を妨害するときは日本軍は之を敵軍と見做すべき旨を表明し11月3日より効力を発生することとなり居りたり。而して日本救援隊は其の峡谷の北側なる大興に11月4日迄に到着すべき命令を受け居りたり。中国参与員(第三号文書)在齊々哈爾日本総領事及第二師団の将校は何れも馬占山将軍は中央政府の訓令有る迄彼の独断を以て仮日本軍の要求に応ずべき旨回答越せりとの意見に一致せり。然れども一方日本側の証人は馬将軍が破壊されたる橋梁を迅速に又は有効に修理することを許す意無きことを明白なりしを以て其の誠意を信ぜざりざきと付言したり。11月4日に於いて日本総領事館代表者林少佐中国将校及官吏を含む共同委員会は2度も敵対行為の開始を防止するため橋梁に赴き且中国代表者は日本軍の前進を延期方依頼せり。右要求は容れられず歩兵第十六連隊長濱本大佐は彼の命令通り其の連隊中の一個大隊、野砲兵二個中隊及一個中隊の技術員を率い日本軍の最後通牒条項に従い修理作業開始のため橋梁に前進せり。技術員は花井大尉の指揮の下に11月4日の朝作業を開始し歩兵一個小隊は同日正午迄に二箇の日本国旗を押し立てて大興駅に向かい前進を開始せり。

 戦闘は実際においては前記共同委員会が再度努力をなし居りたる最中、即ち11月4日の昼過ぎ中国軍を撤退せしむべく最後の努力を試みたるため再度現場に赴きたる際開始せられたり。発砲の開始せらるるや濱本大佐は彼の部下の頗る苦戦の状況に在るを曉り其の用うべき全兵力を率いて之が救援に赴けり。彼は直ちに全面は沼地なる為め正面攻撃は不可能にして此の苦境を脱するには敵の左翼を包囲攻撃するより他に方法なしと信じたり。仍て彼は其の補充中隊を分派して敵の左翼の占拠せる丘陵を攻撃せしめたるも兵力の寡少なると砲の有効射撃距離迄充分接近せしむることを得ざりしたる黄昏迄には右地点を占領するを得ざりき。丘陵は午後8時30分に占領せられたるも同日は夫れ以上の前進不可能なりき。

 関東軍司令部は状況の報告を受くるや直ちに強力なる増援部隊を派遣し歩兵1個大隊はその夜の裡に到着したるを以て同大佐は11月5日未明攻撃を再開するを得たり。数時間後支那軍の第一線に到着せる時においても依然として約七十余挺の自動機関銃及機関銃を以て防禦せる塹壕に拠る頑強なる敵兵に遭遇せることは同大佐自身の委員会に対して陳述せる所なり。彼の攻撃は阻止され中国軍の歩兵、騎兵の包囲逆襲に遭い彼の部隊は多大の損害を蒙りたり。日本軍は已む無く退却し夜に入る迄その陣地を支えるほかなかりき。11月5日より6日に亘る夜間において新に二個大隊到着せるを以て日本軍は苦境を脱するを得、6日中国軍の全線に亘り攻撃を再び開始し、同日正午迄に大興停車場は日本軍の掌中に帰したり。

 濱本大佐の使命は橋梁修理援護の為大興駅を占領するに在りたるを以て退却する中国軍を追撃せざりしも日本軍は停車場付近に留まれり。中国参与員は前記第3号文書中に林少佐は11月6日黒龍江省政府に対して新に(1)馬占山将軍は張海鵬将軍のために省主席を辞職すること(2)治安維持委員会を組織すべきことを要求せる旨を主張し居れり。林少佐の是等要求を含める書簡の真贋は聯盟調査委員に呈示せられたり尚右文書は11月7日、日本軍は黒龍江省の回答を待たずして当時大興の北方約20哩の三軒房に駐屯せる同省軍に対して新に攻撃を開始せること及11月8日、林少佐は再応書簡を送り馬占山は張海鵬に代わるため黒龍江省政府主席を辞職すべく之に対しては同日夜半迄に回答すべき旨の要求を繰り返したることを述べ居れり。更に中国側の報告に依れば11月11日、本庄将軍自ら電報を以て馬占山将軍は辞職の上齊々哈爾を撤退すべきこと、日本軍の昴々渓前進の権利有ることを要求し、之に対する回答も同様同日迄に回答すべき旨を要求したり。11月13日、林少佐は第三回要求中に日本軍は昴々渓のみならず齊々哈爾停車場をも占領すべしとの一項を増加せり。馬占山将軍は其の回答中に齊々哈爾停車場はトウ昴鉄道と何等無関係なる旨を指摘せり。

 11月14日及15日、日本混成部隊は飛行機四機の援護の下に攻撃を再開せり。11月16日、本庄将軍は馬占山将軍は齊々哈爾の北方に退却すること、中国軍隊は東支鉄道以北に撤退すること、如何なる方法に依るを問わずトウ昴鉄道の交通運輸を阻害せざることを保証すること、是等の要求は同月15日より十日間に実行せらるべきこと、右に対する回答は在哈爾賓日本特務機関に送付すべきことを要求せり。馬占山将軍が右要求を容るるを拒むや多門将軍は11月18日、新に総攻撃を開始せり。馬占山将軍は最初齊々哈爾に退却せるが同地は省政府行政官署を移転せり。現場において指揮せる日本軍諸将の証言に拠れば、右新軍事行動は11月12日以前に於いては開始せられたること無しとの趣なり。当時馬占山将軍は既に麾下軍隊二万を三軒房の西方に集中し黒龍江省屯墾軍及丁超将軍の軍隊も集めたり。益々威嚇的態度を示せる之等大部隊に対して日本軍は天野、長谷部両将軍麾下の二個旅団より成る近々漸く集中せる多門師団のみを以て対抗し得るのみなりき。此の緊張せる事態を救う為11月12日、本庄将軍は全黒龍江省軍は齊々哈爾の北方へ撤退し日本軍をして北進しトウ昴鉄道を守備するを得せしむべき旨を要求せり。11月17日、支那軍が其の騎兵部隊をして日本軍の右側を包囲攻撃せしむるまで日本軍は前進を開始せざりき。多門将軍は委員会に対し彼の部隊は歩兵三千、野砲二十四門より成る小部隊に過ぎざりしも敢えて支那軍を攻撃し11月18日、完全に之を撃滅したる結果、同19日朝、齊々哈爾を占領したりと述べたり。一週間後第二師団は馬占山軍に対抗し齊々哈爾を防守せしむる為天野将軍を歩兵一個連隊、砲兵一個大隊と共に同地に残し原駐地に帰還せり。此の小部隊は後に新に編成せられたる「満州国」軍隊の増援を得たるも吾人が1932年5月、齊々哈爾を訪問せる当時は未だ馬占山将軍の軍隊に対抗し得と認むるを得ざりき。

 項中の付属軍事状況地図第三号は、聯盟理事会第一回決議当時に於ける双方の正規軍の配置を示す。当時特に遼河東西及間島地方に出没せる武装解除兵及匪賊に関し叙述せられ居らず双方互いに匪賊を使嗾せる旨を非難し合い居れり。即ち日本側は支那側において満州の失地の秩序を擾乱せんとする動機より之を使嗾すと言い支那側が支那の国土を占領し益々其の軍事行動を拡大すべき口実を発見せんため之を使嗾せりと言う。是等無頼の徒の勢力及其の軍事的価値は頗る漠然活不定なるを以て右軍事状況図解の中に其の重要性の正確なる評価を記入することは不可能なるべし。同地図は東北軍の指揮官が遼寧省の東西地方において著しく強力なる部隊を組織したるを示し居れり。此の部隊は日本軍の最前線に間近き大凌河の右岸に強力なる塹壕陣地を建設するを得たり。斯かる形勢が日本軍当局をして右部隊の正規軍の全兵力は三万五千人或は当時日本が満州に於て有すと認められたる兵力の約二倍なりと評価し、相当の不安を感ぜしめたるは無理からざることならん。

 本事変は11月中、天津に於いて惹起せる或事件の結果執られたる行動に依り発生せるなり。紛争の発端に関する報告は非常に相異なり居れり。

 11月8日及同26日の再度の擾乱ありたるが事件全体が極めて曖昧なり。「ヘラルド。オフ・エシヤ」所載の日本側の説明に拠れば天津の支那住民が張学良元帥の支持者及其の反対者に分れ後者が11月8日、支那街において武装団体を組織し公安保持当局を攻撃し、政治的示威運動を為したりとの趣なり。右支那人両派間の紛争において日本軍司令官は最初より厳密に中立を守りたるも日本租界付近の支那警衛隊が日本租界に向けて矢鱈に発砲するに至るや已む無く日本側も砲火を開始せり。同司令官は交戦中の支那軍に対し日本租界より300ヤード外に離るべき旨要求せるが事態は緩和せず極度に緊張したるを以て11月11日又は12日、一切の外国軍隊警備を整うに至れり。


 天津市政府の陳述は右と頗る異なれり。彼らは日本側が支那人無頼漢及便衣隊を傭いたるものにして是等は支那街に於いて事件を惹起せしむるため日本租界内において軍事行動を為す暴力団に編成せられたりと主張し居り幸いにして警察当局が其の諜報者より此の形勢の報告を受けたるを以て右無秩序なる暴徒が日本租界より闖入するを撃退せるが右暴徒中逮捕されたるものの自白により暴徒は日本租界において編成せられ日本製の銃器及弾薬を以て武装せることを証明するを得と述べ居れり。彼らは9日朝、日本軍司令官が其の部下数名流弾に依り負傷せるに対し抗議し300ヤード外に撤退すべき旨要求せることは認めたるも支那側において右諸条件を受諾せるにも拘らず日本正規軍隊は支那街を装甲自動車を以て攻撃し且砲撃を加えたりと主張し居れり。天津市政府側は11月17日、300ヤード外に撤退することに関する詳細なる付則を有する協定成立せる旨を述べ日本側は協定による義務を履行せざりしため事態は益々悪化せりと主張し居れり。

 11月26日、凄まじき爆破聞こえ次いで直ちに大砲機関銃及小銃の発射起こりたり。日本租界の電燈は消され、同租界より便衣隊現れ付近の公安局を襲撃せり。

 其の後起こりたる本擾乱に関する「ヘラルド・オブ・エシア」所載の日本側の報告によれば、26日事態頗る好転せるを以て日本義勇隊を解散したる処、同日夕刻支那側は日本兵営に向けて発砲を開始し抗議せるにも拘らず27日正午に至るも発砲を中止せざりしが故に挑戦に応じ支那軍と戦うより他無かりきとあり。戦闘は27日の午後和平交渉開催迄継続せり。其の際、日本側は戦闘の即時停止及支那軍隊並びに警察隊をして外国軍隊の駐屯する凡ての地点より20華里外に撤退すべきことを要求せり。支那側は、その軍隊の撤退に同意するも同地方の外国人の安全に対する唯一の責任者たる警察隊の撤退には肯ぜざりき。日本側の言によれば11月29日、支那軍側より日本租界付近より警察隊を撤退すべき旨申越したるを以て之を容れたるが、支那武装巡警に29日朝撤退し30日防禦工事を除去せる由なり。

 26日の天津における緊張せる状態は関東軍参謀をして司令官に対し危機に瀕する天津の小部隊に対して錦州及山海関を経て直ちに増援部隊を派遣すべしと提議せしむるに至れり。単に輸送上の問題としては増援隊を大連を経て海路派遣する方、一層容易且迅速なりしならん。然れども戦略上より考慮せんに右経路によれば前進部隊をして途中錦州付近に集中せる邪魔になる支那軍隊を片付けるを得せしむる利益ありたり。此の経路を執るも支那軍の抵抗は皆無又は殆ど無しと想像し得るを以て左程延着すとは思われざりき。右定義は容れられ、11月27日、一連の装甲列車、二機の飛行機遼河を越え支那国軍の前線を攻撃せるのみにて塹壕に拠る支那軍の撤退を開始せしむるに充分なりき。

 装甲自動車隊も、亦陣地を変更せり。日本軍は抵抗のために装甲列車、歩兵列車及砲兵列車の数を増し兵力増強を為すに至れり。又日本軍はしばしば錦州に爆弾を投下せるも天津の事態好転せる報道達するや直ちに出動は本来の目的を失い、11月29日、日本軍隊は新民屯へ撤退し、支那軍をして大いに驚異せしめたり。

 当省の天津事件の他の結果は日本租界に居住し居りし前清皇帝が土肥原大佐と会談の後、1月13日旅順より安全なる避難所を求められたることなり。

 日本国の撤退せる地方は支那軍に依り再び占領せられ此の事実は広く宣伝せられたり。支那軍の士気稍々昴り、不正規兵及匪賊活動増大せり。彼等は冬期を利用し氷結せる遼河の諸所を渡り奉天付近地方を襲いたり。日本軍当局は現在の位置を維持するにさえも増援軍必要なることを語り是等援軍を以て錦州に支那軍の集合する危険を除かんことを希望するに至れり。

 其の間、満州に於ける事態はジュネーブにおいても猶も論争の議題なりき。12月10日の決議を承認したるとき日本代表は「本項第二は日本軍が日本臣民の生命財産を満州各地において跳梁し居れる匪賊及無法なる徒輩の活動に対して直接保護を為すに必要なる行動を執ることを妨ぐる意図に出でたるに非ずとの了解」に基づき受諾するものにして斯かる行動は明らかに「満州に於て頻発し居れる特殊の事態のため必要なる例外的手段」にして同地方が「常態に復す時は不必要となるならん」と声明せり。之に対し支那代表は「紛争当事国に対して事態を拡大すべからずとの命令は満州に於ける現状に依り惹起せる無秩序状態の存在を口実として違反すべからず」と応答し、右討論に列席し居りたる数名の理事は「日本臣民の生命財産に危険を及ぼすが如き事態発生すること有り得べく斯かる緊急の場合には其の付近の日本軍が行動するは已むを得ざるべきこと」を容認したり。


 日本将校が本問題に関して委員に対し証言を提供したる際、該将校は常に12月10日の決議は「日本に対し」満州に於て「其の軍隊を維持するの権利を賦与し」若は日本軍をして同地方に於ける馬賊討伐の責に任ぜしめたりと主張せり。爾後の軍事行動を説述するに当り、日本将校は遼河付近において土匪軍に対し叙上権利を行使するに際し同時に錦州付近に残留せる支那軍隊と衝突し其の結果支那軍隊は関内に撤退せられたりと主張す。即ちジュネーブにおいて保留を為したる後日本が其の計画に拠り引続き満州の形勢を処理せんとしたるは事実存す。

 齊々哈爾守備隊を除き第2師団は奉天西方に集中せられたり。援軍は相次いで速やかに来着し第八師団の第四旅団は(茲に記載せる日本軍の部隊の番号及兵力は総て日本側の公報に依る)12月10日より15日の間に到着せり。更に12月27日朝鮮より第二十師団司令部並びに一個旅団派遣の御裁可を得たり。又長春並びに吉林は差当り独立鉄道守備隊に依りてのみ保護せられたり。

 錦州に対する日本軍進撃が切迫せる為め支那外交部長は、三乃至四個師団が錦州北方及南方に中立地帯維持を保障するの意あるに於いては支那軍隊の関内撤退を提議し以て戦争の進展を阻止せんことを企図したるも、この提議は何等効果を収めざりき。一方北平において張学良と日本代理公使との間に交渉行われたるも之亦諸般の理由に依り失敗に終われり。支那側は其の調書第三号付属書「ホ」中に12月7日、25日、及29日に於ける訪問の度毎に日本代理公使は支那軍隊の退却に関する其の要求を増大し且つ日本軍の抑制に関する其の約束は益曖昧となれりと主張し居れるに対し、他方日本は支那の撤退に関する約束は決して真摯なるものに非ざりしと論難す。

 日本軍の集団的攻撃は12月23日を以て開始せられ而シテ支那第19旅団は其の陣地を放棄するの已む無しに至れり。支那軍司令官は総退却の命令を発したるに依り、其の日より日本軍の進撃は整然として行われ殆ど何等抵抗を受けざりき。斯くて錦州は1月3日朝占領せられ、日本軍は山海関即ち長城直下に至るまで進撃を続け、同地に於ける日本守備隊と恒久的接触を遂げたり。

 張学良軍の完全なる満州撤退殊に相手に対し殆ど一撃をも加えずして撤退せるは長城以南の内部的情態と関係なかりしものに非ず。相拮抗する諸将領間に幡まれる確執に就きては前章に記述せる所なるが此の確執が当時終息せざりしことを記憶するを要す。

 山海関に至る進撃が比較的容易に遂行せられたることは日本をして其の軍隊を原駐地より移動し之を他方面の進撃に使用するを得せしめたり。乃ち従来殆ど戦闘の全局を担当せる第2師団の主力は休養の為め遼陽、奉天並びに長春の駐屯地に復帰したり。一方随所において受くる虞ある馬賊の襲撃に対し保護を加うべき鉄道線路の延長は多数の軍隊使用を必要とせるが、該軍隊は斯くの如き広範なる地域に分駐せしむる為め其の戦闘力は殺減せられたり。第二十師団司令部の隷下に在る二個旅団は此の目的に対し新占領地帯に残留せしめられ、而して第八師団の第四旅団は更に北方に於いて両旅団と連結したり。日本軍憲は此等の守備完全なる地域内においては安寧秩序は速やかに確立せられ而して爾後数週間に馬賊は遼河の両岸において殆ど其の影を潜むるに至れりと確言せり。此の声明は6月に余等に対し為されたるが而も本報告書を記述しつつある際に当り余等は義勇軍が営口並びに海城を盛んに侵攻し奉天及錦州をさえ襲撃せんと威嚇しつつある報道に接したり。


 本年初頭に於いて最も紛乱を来たせるは哈爾賓の北方並びに東北地方にして該地方に於いては予て旧吉林及黒龍江政府当局の残存せる追従者が移動したり。該北方地域に於ける支那将領等は北平の本拠と若干の接触を保持し居たりしものの如く、北平より随時或る支援を受けたり。曩に齊々哈爾に対し行われたる如く、哈爾賓進撃は支那両軍間の遭遇戦を以て開始せられたり。1月初旬、熙哈将軍は哈爾賓占領を目的とし北方に遠征軍派遣の準備を為せり。当時、吉林と哈爾賓間には反吉林軍と称せられたる軍隊を率いる丁張、李杜両将軍幡距したり。我々の仮報告書が討議に付せられつつありし際、日本参余員より北平当局の声援だに莫かりせば両当事者間の交渉に依り満足なる条件を設定し得べしとの情報を与えられたり。事実交渉は開始され而して交渉進行中熙哈将軍は麾下の軍隊を率いて双城子に進撃し1月25日、同市を占領せるも翌朝同市南方隣接郊外において激戦を交えるに及んで右進撃は忽ち阻止せられたり。斯くして発生せる形勢は在哈爾賓多数日本居留民並びに鮮人にとり大いに危険なるものと日本人をして思惟せしめたり。蓋し同市隣接地域における多少とも不正規なる二個の支那軍隊の間の戦闘は敗退せる軍隊が同市に向け退却するの結果となりしならん。而して其の結果幾多の惨事を惹起したるべきは支那近世史上多くの実例を見るなり。故に至急救援の要請は関東軍に向け発せられ、日本人の確言する所に拠れば支那証人等すら其の財産の刧掠せらるべきを恐れ此の要請に賛同したりと言う。

 此の危急時に当り日本特務機関事務局管理引継ぎの為め26日哈爾賓に派遣せられたる土肥原大佐(現時少将)は委員会に対し同市付近に於ける支那両軍の戦闘は約十日間継続し、而して脅威せららたる地区に主として居住せる四千の日本居留民及哈市郊外普家甸の支那街にありて虐殺の危険に曝され居りたる一千六百の鮮人に付多大の脅威存したりと述べたり。尤も反吉林軍は戦争の続行せられたる10日間、同市を保持せるも日鮮居留民の死傷数は比較的僅少なりき。其の際日本居留民は義勇隊を組織し、同胞の郊外支那街より脱出し来ることを助けたり。同所を脱出せんとするに当り日本人一名、鮮人三名が虐殺されたりと云う。加之此の危急なる形勢偵察の為め派遣せられたる日本軍飛行機中の一機は、機関の故障の為め着陸を余儀なくせられ而して搭乗者は丁張軍の為めに虐殺せられたりと云う。叙上の事件は日本軍憲をして戦闘に干渉するの決意を為さしめるに至り、第二師団は再び危険に瀕せる同胞救助の任務を帯ぶることとなれり。然るに其の際長春以北の鉄道が露支合併たる関係上如何にして軍隊を輸送すべきか、戦闘よりも重要なる問題なりしなり。東支鉄道の南部線における車輌は大いに減少し居たるを以て第二師団司令官は第一着手として僅かに長谷部将軍の率いる歩兵二個大隊を派遣するに決し鉄道当局と交渉を開始せるも該交渉遷延すべしと見るや日本将校は軍隊輸送を強行するに決したり。鉄道当局は之に対し抗議し列車の運転を拒絶したるも、其の反対に拘らず1月28日夜、日本軍憲は三個の軍用列車の仕立てに成功せり。右列車は松花江の第二鉄橋迄北上し、同所において同鉄橋が支那軍により破壊せられたるを発見したり。其の修理は翌29日に行われたるを以て日本軍は30日双城子に達したり。翌払暁、天未だ明けざる時、此の少数の日本軍隊は闇に乗じて来襲せる丁張軍の攻撃する所となり、激戦の結果、支那軍隊は撃退せられたるも、其の日は前進すること能わざりき。此の間、露支鉄道当局は日本軍隊が単に在哈爾賓日本居留民保護の目的を以て前進しつつありとの諒解の下に、東支鉄道に依る日本軍隊輸送を許可する同意したり。是に於いて其の乗車賃は現金を以て支払われ、2月1日、日本軍隊は続々到着し第二師団の主力は2月3日朝、双城子付近に集結せられたり。更に援軍は既説の如く11月19日以来第二師団の一部が駐屯せる齊々哈爾よりも亦招致せられたり。而も哈爾賓齊々哈爾間の鉄道は支那軍の為に破壊せられたるが故に猶幾多の困難を克服せるを要せり。支那軍は又同時に各処に於いて東支鉄道南部線沿線の独立鉄道守備隊を攻撃したり。是れより先、2月3日、今や砲16門を有し其の総兵力一万三千乃至一万四千と算せられたる友吉林軍は同市南方境界に沿いて塹壕陣地を構築したり。同日、第二師団は此の陣地に対し前進を開始し3日夜より4日に至る間に双城子の北方約20哩の南城子河に達し、翌朝戦闘は開始せられたり。4日夕、支那軍陣地の一部は日本軍の占領する所となり越えて5日正午迄に最後の始末を告げたり。哈爾賓は同日正午占領され、支那軍は三姓に向け退却したり。


 第二師団の攻撃成功に依り哈爾賓市は日本軍憲の手に帰したるも右攻撃に次ぐに直ちに敗退支那軍の以て追撃を以てせざりし為め全局的には北支の形勢には何等し変化を齎さざりき。哈爾賓北方及東方の鉄道並びに松花江の重要なる水路は依然反吉林軍及馬占山軍の支配に委せられたり。故に占領地域が北に於いては海倫、東に於いては方正、海林地方に拡大せらるる迄援軍の増派、当方並びに北方に向けての遠征軍の反復的派遣及6箇月に亙る戦闘は行われたり。日本側の公表に依れば馬占山軍と合わせる反吉林軍は全く撃破せられたりと伝えらるるも支那側の公報に依れば同軍は今猶存在すと云う。其の戦闘力は減殺せられたりと雖も反吉林軍は絶えず日本軍の行動を妨げ同時に戦場に於ける実際的会戦を回避しつつあり。新聞報道に拠れば東支鉄道東部、西部両支線依然哈爾賓海林間の各所に於いて襲撃を受け破壊せらるるの現状なり。

 2月初頭以来の日本軍の行動は次の如く略説するを得べし。

 3月末頃第2師団の主力は丁張及李杜の反吉林軍討伐の為め方正方面に向け哈爾賓を出発せり。同師団は三姓地方迄前進したる後4月初旬哈爾賓に帰還せり。此の部隊は約1ヶ月間その主力を以て三姓付近において又その小支隊を以て海林方面に於いて東支鉄道東部線に沿い反吉林軍と不断の戦闘に従いたり。

 5月初旬、北満の日本軍は更に第14師団の増援を受けたり。同師団の一支隊は反吉林軍との戦闘に参加し三姓の南方牡丹江渓谷に進出し敵対軍をして吉林省の最北方隅に退却するの余儀なきに至らしめたり。而も5月下旬に開始されたる第14師団の主要行動は哈爾賓の東方地方に行われ馬占山軍攻撃を目的としたり。同師団は呼蘭―海林鉄道に沿いて哈爾賓の北方まで主要なる攻撃を遂行し又小部隊を以て齊々哈爾―克山鉄道の終点たるべき克山より東方に向かいて攻撃をなせり。日本側は8月初旬、馬占山軍は再び有効に撃破せられ且つ馬占山が死亡せる確証を有すと主張するも、支那側は馬占山は今猶生存せりと確言す。此の戦闘に於いては日本より新に到着せる騎兵部隊も亦参加したり。

 8月中、数回の小規模なる戦闘は奉天熱河両省の境界主として鉄道に依り熱河に至る唯一の途たる(京奉鉄道の)錦州―北票支線付近に於いて行われたり。支那に於いては此等の戦闘は単に日本分の熱河占領を目的とする一層大規模なる軍事行動の序幕に過ぎずとの危惧広く行なわる。今も猶支那本部と満州に於ける支那軍との間に存する主要交通路は熱河を貫通するを以て、既に満州国領土の一部と主張せらるる熱河省に対する日本軍攻撃の危惧は強ち兵稽の事に非ず。右攻撃の切迫せるは日本新聞の公然論議する所なり。

 最近の事件に関し日本参与員が委員会に提出したる日本側の説明は左の如し。

 石本と呼ぶ関東軍付官吏は7月17日、支那「義勇軍」の為め熱河省内に於いて北票錦州間に運転せらるる一列車より拉致せられたり。軽砲を有する日本軍の歩兵小部隊は直ちに同氏救出を企てたるも其の目的を達する能わず。其の結果、日本軍は熱河省境の一村落を占領せり。

 7月下旬並びに8月中、日本軍の飛行機は熱河の同地方上空を数回飛行し数個の爆弾を投下したるも而も慎重に「諸村落外の無住地域」をば選びたり。次いで8月19日、日本参謀将校1名石本氏釈放交渉のため北票と省境間に位する小都邑南嶺に派遣されたるが少数の歩兵部隊を随へて帰還の途中、同将校は射撃されたるを以て自衛上応戦し他の歩兵部隊の到着と共に南嶺を占領せるが翌日同地を撤退せり。支那参与員は熱河省長湯玉麟の報告中より摘録せるものを委員会に提出せるが右報告は叙上戦闘は遥かに大規模に行われ而して鉄道守備隊の支那兵一個大隊は装甲列車に支持せられたる優秀の日本軍歩兵部隊と交戦したること並びに日本側の謂う所の爆撃は同地方大都邑の一つたる朝陽を目標とせること並びに其の結果、軍隊及住民間に三十名の死傷を出せることを主張す。8月19日、日本軍の攻撃は一装甲列車の南嶺攻撃と共に再び開始されたり。

 日本参与員の提供せる情報の末尾に於いて熱河に於ける秩序の維持は「満州国国内政策の一事項たりと雖も日本は満蒙に於ける平和と秩序の維持に関し其の重要なる責務を有するに鑑み同地方の形勢に無関心なる能わず、且つ熱河に於ける如何なる紛乱も直ちに満蒙全体に重大なる反響を惹起すべき」ことを説叙す。

 一方、湯玉麟は其の報告の末尾に於いて日本軍の攻撃再開せらるる場合は有効なる抵抗を為すべく、あらゆる可能的方法を採用しつつありと述ぶ。

 此等の報告に顧みれば此の地方に於ける戦闘地域の拡大は正に考慮せざるべからざる事項なり。


 支那軍の主要部隊は、1931年末、関内に撤退せられたるも日本軍は満州各地において絶えず不規則的なる抵抗に遭遇せり。会て嫩江に於て行われしが如き戦闘は最早起らざりしも戦闘は不断にして且広汎なる地方に亘りて諸所に之を見たり。日本人は現今自己に反抗するあらゆる部隊をば無差別に「匪賊」と称するを常とせり。事実に於いては匪賊の他日本軍隊若しくは「満州国」軍隊に対する組織ある抵抗をなすものに截然たる2種別あり。即ち支那正規軍隊並不正規軍隊是なり。

 右両軍隊の兵数を概算するは至難にして、委員一行は依然戦闘に従事しつつある何れの支那将領とも会見するを得ざりしを以て下記情報の確実性に就き留保を為すの必要あり。支那当局は満州に於て今猶日本軍に対する抵抗を持続しつつある軍隊に関する正確なる情報を与えるを欲せざるは当然なり。他方日本当局は自己に抵抗を続けるある軍隊の戦闘価値を最小限度に局量せんとする傾向あり。

 旧東北軍の残党は全く吉林黒龍江両省においてのみ之を看る。1931年末、錦州を繞りて行われし軍隊の改編は是等の全ての部隊が其の後関内に撤退せられたるを以て永続せざりき。而も1931年9月以前松花江地方並びに東支鉄道沿線に駐屯せられたる支那正規軍隊は未だ嘗て日本軍と激戦を交えたることなく、従来日本軍隊並に「満州国」軍隊に対し多大の困惑を与え今猶与えつつある奇襲戦を継続す。馬占山、丁張、李杜の三将領は此等軍隊の指揮者として支那全土を通して盛名を博したり。右三将領は曩に北満に於ける護路軍若は駐屯軍の司令たりし旅長なり。恐らく其の麾下に在りし軍隊の大半は各其の指揮者及張学良政府破壊後の支那の主張に忠誠を尽くしたるならん。馬占山の勢力は同将軍が其の忠誠を改変せるを以て容易に測定するを得ず。黒龍江省長として馬占山は省軍隊全部を統率したるが余等に提示せられたる兵数は合計7個旅団を算せり。4月以降彼は日本並びに「満州国」に対し明らかに反対の立場を執れり。呼蘭河、海倫、大平河間に在りて馬占山の有せし兵力は日本当局の概算に依れば六個連隊即ち七千乃至八千なり。丁張並びに李杜は旧張学良軍の六個旅団を支配し且爾来同地方に於いて更に三個旅団を徴募し、仮報告作成当時は其の総兵力を約三万と概算したり。然れども馬占山軍及丁張、李杜軍は4月以来著しく其の兵数を減じ、現今叙上概算数以下に在りと看るは恐らく妥当ならん。

 下段に記す如く此等両軍は哈爾賓占領以来日本正規軍の集中攻撃に依り大損害を被れり。現在両軍は日本軍の如何なる行動をも阻む能わずして努めて公然日本軍と会戦するを回避す。日本軍の飛行機を使用するに反し支那軍が全然此の武器を欠如せることは従来支那軍の被りたる損害の大半の原因をなすものなり。


 不正規軍を考慮するに当りては丁張李杜軍と協力したる吉林省各種義勇軍を区別すること必要なり。1932年4月29日の調査団仮報告に於いては調査団は第5項に義勇軍なる題下に三種義勇軍及七種の小集団を掲げたるが後者の一つは敦化及萬寶山間にありて丁張李杜軍隊と連絡を保ちつつあるものなり。右集団は之等地域における鉄道及其他交通機関の欠如に依り今尚其地位を保持しつつあり。其の長たる王徳林は各種反満州国軍を集め之を堅く其の支配下に置き居れり。本集団は日本軍(日本軍は敦化以東においては何等活動を示し居らざるが)に比し其の重要さ僅少なるやも知らざるも満州国軍には対抗し得るが如く見え、吉林省の広き地域において其の地位を維保し居れり。

 王徳林と連絡を有し間島地方において相当妨害をなせる大刀会の現在の活動については何等確証を得られず。他方、日本軍は大刀会に対し何等重要なる軍事行動を執らざりき。

 多数の所謂路軍及他の支那軍を掲記せる日本側の一公式文書、調査団に提出せられたり。右路軍及支那軍は各々2百乃至4百名より成り。右は義勇軍の小単位をなすものなり。之等支那軍の活動区域は奉天及安奉線付近の地区、錦州、奉天、熱河省境、東支鉄道西部線及新民屯奉天間の地方に及ぶ。斯くの如く義勇軍及反吉林軍連合の占拠し居る地域は満州の大部分を含む。

 8月中旬奉天近郊、南満州鉄道の南段各地殊に海城及営口において交戦行われたり。数度日本軍は苦戦せるが義勇軍は何れの地においても何等重要なる勝利を得る能わざりき。満州の一般状態が近き将来に於いて何等か変更を見ること予想せらるべきや否やは疑わしきが如きも本報告完成の際には交戦は広汎なる地域に亙り継続せられ居れり。

 支那に於けると同様満州に於ても匪賊は常に存在したりき。職業的匪賊は政府の強弱に応じ其数或は大となり或は小となりて東三省の凡ゆる地域に存し、政治的目的の為め各党派に依り用いられたり。支那政府は調査団に対し最近二十年又は三十年の間に日本側の手先が其の政治的目的を遂ぐる為め非常に匪賊を使嗾せる旨述べたる書類を提出せり。右書類には南満州鉄道出版の「1930年に於ける満州開発に関する第2階報告」の一節引用せられあるが右に依れば付属地内においてすら匪賊の数は1906年の9件より1929年の368件に増加したる由なり。上述支那側書類に依れば匪賊は大連及関東州よりの大規模の武器密輸に依り奨励せられたる由。例えば有名なる馬賊頭目蔆印情は去年11月所謂独立自衛軍組織の為武器弾薬其他供給せられたる旨述べられあり。右自衛軍は三人の日本側手先の助力に依り組織せられ且錦州攻撃を目的とせるものなり。右企てが失敗せる後他の匪賊頭目が同様の目的の為日本側の助力を得たるが日本製品の材料と共に支那軍の手に捕われたり。

 勿論日本官憲は満州匪賊に関し別種の見方をなし居れり。日本官憲に依れば匪賊の存在は全然支那政府の無能に基づくものなり。日本官憲は又張作霖は或程度迄其領土内に匪賊の存するを支持したりと称す。何となれば張作霖は非常時には匪賊は容易に兵卒に改編せられ得べしと思考したればなり。日本官憲は張学良政府及其の軍の完全なる打倒が大いに満州匪賊数を増加せしめたる事実を肯定する一方日本軍が満州に在る結果、2,3年間に主要匪賊団は掃討せられ得べき旨主張す。日本官憲は満州国警察及各部族に於ける自衛団の組織が匪賊を消滅せしむるに役立つべきことを望み居れり。現在の匪賊の多くは元来良民にして其の財産を凡て失いたる為め現在の職業に投ずるに至れるものと信ぜられ居れり。農工の業を再び営む機会あらば之等匪賊は従前の平和的生活に復帰すべきこと望まれ居れり。


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