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II-05<慰安婦はいたか>

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし

II-05<慰安婦はいたか>


(奥)そういう壕のね、中にその、慰安婦も一緒にいるということはありえないでしょ*27

(伊波)絶対にない。もうあの方がね、雨宮閣下殿と交代*28する時からね、こっちにはね、慰安ちゅうとね絶対に許さないちゅうてね*29、ないです。医務室ね、看護の関係とかね。

(奥)じゃあ今度ね、沖縄県がその、慰安婦も一緒に住んでた、と、

(伊波)こりゃ絶対に

(奥)許さないと

(伊波)許さない。私はね、閣下殿の写真はね、こんなにいつも持ってね、こうしてね、沖縄のね、皆様、いまお守りしてますからね、いつも肌から離しませんですよ。こうして、慰安ちゅうのはね、絶対にありません。それ書く人はね、バチが当たるよ。何十万人の人がね、お命をなくしてね、お天にね、こうしてみんな守ってる、それのね、そんな悪いことを書くちゅうことは、絶対に許しません。私もね、からだ中みんな神様が付いてますよ、閣下殿の。閣下殿のね、お別れす_?_だけどね、コチラ様も良く考えてくださるから、牛島閣下殿がチビ子を守りなさいと、通じているんですよ。ハイ

(奥)そうです、そうです

(伊波)本部には慰安ちゅうこと絶対に許しません。(11 05)


  • *27 問題になっているのは、摩文仁の地下司令部ではなく首里の地下司令部なのだが…

  • *28 雨宮巽中将は24師団の師団長、牛島の前任の32軍司令官は渡辺正夫中将。物覚えがいい伊波さんの珍しい勘違いか?

  • *29 長勇参謀長は「英雄色を好む」の典型。それにたいして牛島満司令官は「教師然とした」堅物だと評判。しかし「堅物」の牛島司令官といえども、「慰安ちゅうことは絶対に許さなかった」はなかった。軍の各部隊が競って慰安所をつくったのは、32軍の政策そのものであり、責任は司令官牛島満にある。32軍隷下の部隊が設置した慰安所の数は、軍の移動により途中で廃止されたものを含めれば、延べ143箇所とも145箇所ともいわる(『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』VI-B-43、『沖縄県史 各論編8 女性史』VI-B-44)。

    なお、首里の32軍地下司令部のなかに「○○慰安所」という看板が掛かった慰安所はなかったと思われるが、大きなガマに設置された地下陣地の中には、堂々と「慰安所」を設けたところもあった。現・南城市にある「糸数アブチラガマ」である。http://abuchiragama.com/

    このガマは後にひめゆり部隊も働いた病院壕になったが、まだ陣地壕だった頃、大きな洞窟内には兵舎が建てられ、そのそばに萱葺き木造二階建ての慰安所があり(地上にあった民家をガマの中に移設)、5、6人の朝鮮人慰安婦がいたという。証言がいくつかある。

    • 「ガマの中での電気は、南風原(はえばる)陸軍病院から重症患者がくる前に、製糖場にあった発動機で、ガマの中に電線をひいて、佐藤少尉が1ヶ月位発電して明るくしていた。またガマの中には現在の出口の下の明るい所に朝鮮の慰安婦が居ったが、この方々も部隊の移動によって他の場所へ移ったであろう」(久保田さん23歳、女性・旧姓知念、『糸数アブチラガマ(糸数壕)』 (玉城村))

    • 「4月に米軍が上陸して、アブチラガマからも戦闘に出かけて行きました。生き残って戦闘から戻ってきた兵士らは慰安婦を抱いて、半日過ごしたらまた戦闘に出かけていきました。少ない慰安婦でたくさんの兵隊を相手にするのだから可哀相でした」(壕の掘削に携わった元日本兵の長浜さん、沖縄北部今帰仁村出身の証言、VI-B資料48p31)

    • 「糸数城跡の南側崖下の洞穴は弾薬倉庫であった。首里戦線に弾薬を届けるため洞穴から糸数部落はずれまでは主に女性が箱詰めの弾薬を背負い、糸数から首里や浦添の戦線には糸数区民や防衛隊、義勇隊が弾運びに従事した。女性の中には朝鮮出身の慰安婦もいて声を上げて泣いたりしていた」(糸数地区の住民、知念ウミさん、当時35歳、南城市公式サイト「糸数アブチラガマ」)

    • 慰安所は5月1日以降は、兵舎・糧秣倉庫として利用されていたトタン屋根の建物の北はずれ、軍事機密書類保管室へ移された。ひめゆり学徒がその一帯への立ち入りを固く禁止された理由は、慰安所が設置されていたためと推測される。学徒のひとりだった富村都代子さんは、5月1日に、A地区出入り口から初めてこの壕に入ってきたとき、その直前まで慰安所だった建物付近で青地に真っ白の服を着けた朝鮮人女性が白米をより分けていた姿が目に焼きついている。地獄のような南風原陸軍病院から移動してきた直後だったので、余りに派手な服が目に映ったのである。(VI-B資料48p67)

    • 「6月に米軍のガソリン攻撃をうけて、もはやこれまで、みんなでひと思いに死のうと決めたとき、慰安所には朝鮮人慰安婦の綺麗な服がいっぱいあるから、その服を手にしながら自爆しようとピーヤ(朝鮮人女性の慰安所のこと)に集まりました」(当時24歳の糸数住民の女性の証言、VI-B資料48p67)










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