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九百カ所の改ざん

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pipopipo555jp

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昭和史の謎を追う(上)
第8章 論争史から見た南京虐殺事件

九百カ所の改ざん

南京論争の特徴の第一は、すでに書いたように多くが建前上の論議に終始していること、第二は、その結果ともいえるが、本質から離れいわばリング場外の乱闘に走りがちなことだ。数例をあげてみよう。

渡部昇一は田中正明『“〃南京虐殺”の虚構』に寄せた推薦文で「本書を読んで、今後も南京大虐殺を言い続ける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押してよいだろう」と言い切った人だが、このなかで朝日新聞と本多勝一への批判に及んだのをきっかけとして、両人の問に強烈な応酬が始まった。

渡部が「悪質なヨタ記事を流し・・・・見えるものを見ようとせず、根拠なき悪口雑言を吐き、それがどうしても維持できなくなると沈黙して別の方面で悪口雑言を書き始めるといったタイプの記者」と書けば、本多は「鉄面皮なニセ学者」とやり返す。

田中対本多の「無責任なレポーター」(田中)対「明白なインチキ人間」(本多)となれば、もはやののしり合いといってよい。板倉対本多や洞対田中のやり合いも見ものだが、きりがないから省略することとして、田中にかみつかれた元外交官の法眼晋作が「田中君の行動について我慢ならぬのは、愛国者づらをして廻ることである」と反撃した話を聞くと、南京論争には何か人を狂わせる魔性がひそんでいるように思えてならないのである。

南京論争をめぐって、スキャンダルめいたドラマが次々に派生したのも、この魔性のゆえかも知れないが、ついでに筆者が見聞したいくつかの例を要約的に紹介しておこう。
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1 連続敗訴の教科書訴訟


一九八四年三月十三日、田中正明、畝本正己、水津満など七人は、その年の四月から使用される中学社会科、高校日本史、世界史の教科書に「侵略」の言葉が使われ、「南京大虐殺」の事実が記述されていることなどについて、文部大臣を相手取り、問題部分の墨塗り抹消と七百万円の慰謝料支払いを求める訴えを、東京地裁に起こした。

理由は「いずれも虚偽の風聞に基づくもの。文部省が誤った記述を許したことによって精神的苦痛を受けた」というものである。

その直前の一月十九日に、家永三郎からいわゆる第三次訴訟を起こされたばかりの文部省は、教科書検定について左右両翼かち挟みうちされた恰好になった。

一九六五年から延々とつづいている家永訴訟はあまりにも有名なので詳細は省略するが、この第三次訴訟では「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトローシテイ)とよばれる」とあった原稿本の脚注が、検定官とのやりとりの結果、「合格本」では「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。南京大虐殺(アトローシテイ)とよばれる」に改められた。

一読してどうちがうのかわかりかねる悪文だが、こちらは検定制度自体が違憲との立場から、蒙った「精神的苦痛」に対し、二〇〇万円の賠償を請求している。この訴訟は証人調べが終って地裁判決を待つ段階にあるが、田中訴訟のほうは地裁三年、高裁半年とスピーディに進行、最高裁の判決が近い状況にある。

専門家筋では、当初からこの種の訴訟は訴えの利益がないとの理由で、「門前払い」の全面敗訴になるだろうと予想していたが、結果はその通りになった。

地裁判決文(一九八七年五月二十八日)には「原告らの主張する精神的苦痛は、自己の見解に反する歴史上、政治上の所説が採用されたことに対する不快感、焦燥感などにすぎず、慰謝料支払いをもって救済すべき損害には当らない」とある。なにしろ証人調べにも至らず棄却したのだから、早く進むはずである。

筆者も原告団幹部三人のうち、南京戦の参加者が畝本(軽装甲車隊の小隊長)だけと知って一種の政治訴訟だろうと判断していたが、原告の立場にあれば裁判対策上、まぽろし論を固守せざるをえず、公正な論争に参加する資格を失ったなと感じた。この感想は今も変らない。

(注)田中訴訟は一九八九年十二月十七日、最高裁の棄
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却により地裁判決が確定した。

しかし、田中らは九一年七月四日、中学一年生四二七人(及び親権者)と、現行中学歴史教科書(七社)の南京事件に関する記述を「不当な記述」として文部大臣を相手どり、無効確認を求める訴訟を東京地裁に提起したが、九二年九月二十八日、「原告適格は無い」として却下された。

なお、家永第三次訴訟は一九八九年十月、東京地裁で家永の「敗訴」になったが、直ちに控訴、東京高裁で審理続行中(一九九二年十一月一日記)。

2 田中正明の松日記改ざん事件

一九八五年十一月二十四日付の朝日新聞は、翌日付で発表される雑誌『歴史と人物』(一九八五年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日誌』改竄の怪」(上の写真)の要点を報道した。

陣中日誌の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に
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保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したぱかりのところだった。

雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解説を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われていることが明らかにされた。


板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除したのではない。申し訳ない」と釈明した。

本多は、さっそく翌日の紙面で「松井大将が生きていれぱ、さぞ改ざんを怒り嘆くだろう」と追い討ちをかけ、洞富雄も『赤旗』紙上で「このエセ研究家にあえて一撃を加えた見識に……敬意を表したい」と述べた。さすがの田中も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった。

一年半後に、田中は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りにしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。

すなわち「そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります」と弁解しつつ「字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果し得た」と自賛した。その心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。

教科書紛争で文部省を凹ませた小堀桂一郎東大教授(文学博士)はその一人で、『南京事件の総括』に序文を寄せ「校正刷で拝読し、題名に偽りなく、この難問題に就て文字通りの総決算が提出されているのを見た。そして心から敬服し、感謝し、且つ頼もしく思った。田中氏は耿介(こうかい)たる義の人にして又烈々たる情熱の人」と最大級の賛辞を呈している。校正刷を読んでのちの所感だから、お世辞ではあるまい。

すでに引用した渡部昇一上智大教授も別のひとりだが、この人は出世作の『ドイツ参謀本部』(中公新書、一九七四)で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツの Histry of German General Staff (1953) を大幅借用したぐらいだ
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から、盗用や改ざんには理解があるのかも知れない。

このように強力な支援者に励まされたせいか、田中は「朝日新聞はじめ洞富雄氏ら虐殺派の人びとは、ニセ写真やウソの記述までならべたてて、ありもせぬ二十万、三十万の“大虐殺”がさもあったかのごとく宣伝しています。これこそ歴史の改ざんでなくてなんでしょうか」と開き直っている。

復調して健闘する田中は、次に記す事件にも再登場してくる。



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