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日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その1>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第2部 戦争の時代
第3章 日中戦争と太平洋戦争

日中戦争と太平洋戦争 波多野澄雄<その1>

波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員)



はじめに―開戦と中国戦線


日米開戦時に日本軍は20 個師団、21 独立混成旅団を中国戦線に展開していたが、作戦を積極化させたわけではなかった。開戦直前に政府は米英蘭と開戦の場合には「出来得る限り支那に於ける消耗を避け、以て長期世界戦に対処すべき帝国綜合戦力の確保に資する」ことを確認していた 1。現地軍の再三の要請によって、緒戦期には四川侵攻作戦(五号作戦)などが計画されるものの、後半期の「一号作戦」を除けば、太平洋戦争期を通じて大規模な軍事作戦は抑制されていた。他方、事変の外交的・政治的手段も失われ、軍事的にも政治的にも解決策が見出せないまま精鋭部隊の南方転用が図られる。

一方、蒋介石政府(重慶国民政府)は、12 月9 日、日本に宣戦を布告し、42 年1 月には連合国共同宣言に「4 大国」の一員として署名した。蒋介石は宣戦布告のなかで「今次の戦争は必ず全体として解決されなければならない」と述べたように、中国は米英ソと並ぶ連合国陣営の「4 強」の一つとなった 2。他方、中国共産党も開戦直後の「解放日報」において、抗日のための国際的統一戦線の必要性を訴え、英米との提携強化を主張した 3。しかし、蒋介石が切望していたソ連の対日参戦が拒絶され 4、近代的戦力に不足するなかで対日戦を有利に戦うためには、経済的・軍事的にはアメリカからの援助に頼らざるを得なかった。

アメリカにとって中国戦線の意義は二つであった。第1 は、太平洋における戦いを有利に運ぶため、日本軍の地上戦力を中国戦線に拘束すること、第2 は、重慶政府の支配地域に日本本土と日本の占領地に対する戦略爆撃のための航空基地を設定することであった。第2 の中国における航空基地の建設は、ソ連が対日中立関係を維持しており、沿海州やカムチャッカ半島を対日爆撃基地として米国に提供する可能性が低かったため、とくに重視された。これらの目的を達するため、いかに効果的に中国を支援するかがアメリカの課題であった 5。


第1 節 太平洋戦争下の中国戦場


1)重慶攻略作戦構想の挫折と浙〓作戦

  ※ 〓は

支那派遣軍は、開戦と同時に上海、漢口、広東、天津等の租界に進駐し、英米軍の武装解除、権益接収を実施した。香港攻略を任務とする第23 軍は、12 月8 日に国境を突破し、13 日には九竜半島の掃討を終了した。香港要塞に対する降伏勧告を英軍が拒否したため同軍は、18 日に香港

1 「対米、英、蘭開戦ノ場合ニ於ケル帝国ノ対支方策」(1941 年11 月10 日)外務省記録A7.0.0.9-51「大東亜戦争関係一件 開戦関係重要事項集」。
2 家近亮子「蒋介石と日米開戦」(『東アジア近代史』第12 号、2009 年3 月)。
3 日本国際問題研究所『中国共産党資料集 第10 巻』(資料84、85、87)。
4 U.S.Dept.of State,Foreign Relations of the United States,1941,vol.4.,p.747.
5 等松春夫「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』慶応義塾大学出版会、2006 年)391-92 頁。


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島を占領した。

この香港作戦を支援し、広東方面に移動した中国軍を牽制するための陽動作戦として、武漢地区の第11 軍による第2 次長沙作戦が実施された。第11 軍は、3 個師団約6 万の兵力をもって、12月下旬から攻勢作戦を開始し、第九戦区軍22 個師団約19 万名を擁する中国軍と激闘を展開し42年1 月初旬には長沙に侵入したが、まもなく長沙を放棄して漢口へ撤収した。日本軍の戦死者は約1500 名、戦傷4400 名、中国第九戦区軍は死傷28000 名以上を数えた6。蒋介石は「我が抗戦の、世界に対する貢献の大なることは各国も一致して認めざるをえまい」と自負し、敗北続きの連合国陣営の中にあって唯一日本軍の進攻を撃退した「勝利」として宣伝された 7。

日本軍の東南アジア侵攻が一段落した42 年春、参謀本部は支那派遣軍の要請に応え、中国における大規模作戦の研究に着手した。4 月上旬、杉山元参謀総長は、畑俊六総軍司令官に適当な機会に重慶攻略作戦を実行するよう指示した。

ところが、4 月18 日に米軍機が日本本土を空襲して中国基地中国の浙江占領区に不時着したことから、急遽、浙〓作戦が実行される。本土空襲が国民や兵士の士気の低下をもたらす影響を考慮したものであった。上海の第13 軍は、華中と華北から集めた兵力をもって5 月中旬から浙〓線に沿って西進し、他方、漢口の第11 軍の一部が東進して7 月初旬に両軍の連絡に成功した。しかし、補給計画が充分ではなく、4000 人以上の死傷者を出し、沿線確保は行われることなく撤退した。重慶攻略作戦の準備が優先されたことも撤退の要因であった。いくつかの飛行場の破壊が成果であったが、その後、中国の航空基地は各地に建設されたため作戦の意義は疑問であった8。
  • ※ 〓は

この間、重慶攻略作戦構想の本格的準備が進捗し、9 月3 日、杉山参謀総長は「五号作戦」(四川作戦)の準備を派遣軍に指示した。そのねらいは、太平洋方面における英米の反攻に備えるため、大陸方面の兵備を軽減して対英米正面に転用する条件を作り出すことにあった。在満兵備の軽減が対ソ関係上、不可能であったことから中国方面がその対象となり、兵力節減の前提として「重慶政権の抗戦力の源泉を覆滅」をはかることにあった。他方、政略的には、重慶政権の足元である四川省の軍事的圧迫によって、同政権を「屈伏和平」に導くという効果が期待されていた9。

作戦計画では、南方から6 万、内地から12 万、満洲・朝鮮から18 万の兵力を増派し、主力は西安方面から、一部は武漢方面から 四川省に進攻するというものであった。ところが、42 年8月からのガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる激しい攻防戦は、五号作戦に必要な物的基

6 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書47 香港・長沙作戦』〔以下、「戦史叢書」〕朝雲新聞社、1971 年、535 頁。
7 蒋中正『中国之命運』1943 年(日本語翻訳版、96 頁) 。
8 浙.作戦の支作戦であった衢州攻略戦において第13 軍司令部は化学戦資材の使用を奨励し、第22 師団は42 年6 月初旬、大洲鎮付近における遊撃戦で「あか弾」を使用し、大きな効果を挙げたといわれる(第13軍司令部「セ号(浙.)作戦経過概要」、及び「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」陸軍習志野学校案、粟屋健太郎『未決の戦争責任』柏書房、1994 年、122、148 頁)。吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』(不二出版、1989 年)、資料56。
9 「甲谷悦雄大佐回想録」(厚生省引揚援護局調整、1954 年)、伊藤隆ほか編『続・現代史資料(4)陸軍・畑俊六日誌』〔以下、「畑日誌」〕みすず書房、1983 年、1942 年9 月6 日、11 月15 日の条。


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礎を奪って行く。作戦には30 万トンを超える船舶が必要とされ、海軍との折衝が行われるが、太平洋重視の海軍は南太平洋の制空権の確保に全力を挙げることを主張して譲らず、また船舶の消耗も予想を上回るものであった10。かくて、42 年11 月初旬には事実上の中止(43 年内は行わず)が内示される。その理由は「主として輸送に充当すべき船舶の欠乏」にあった11。こうして内地から中国への兵力増派は不可能となり、12 月10 日に中止される。

ガタルカナル攻防戦による国力(船舶)消耗と、それに連動した「5 号作戦」計画の挫折は、日中戦争解決方策の根本的な再検討を促すことになり、大規模軍事作戦はしばらく見合わせ、「政謀略」を重視する方向転換が図られる。戦争指導班長・甲谷悦雄大佐によれば、「戦略的な積極方策は国家戦力の現状から見込薄となり、政略的に積極的方策を講ずることで戦局に一大転換を図らんとする希望が政府、統帥部に表面化」してきたという12。その政略の重要な一環が「対華新政策」(後述)であった。

2)ビルマ攻略作戦とCBI 戦線


開戦当初の中国にとって中国内陸よりも西からの脅威への対処が急務であった。日本軍による香港の占領に加えて、日本軍のビルマからの進撃によるビルマ・ルートの遮断、さらに昆明、重慶への進撃が危惧されたのである。42 年1 月、タイに進駐した日本軍は、ラングーンの攻略によって援助物資の揚陸を阻止するため、1 月20 日、国境を越えてビルマに侵入した。3 月7 日、ラングーンを占領した。

ビルマ駐留のイギリス軍は兵力不足と戦闘意欲の欠如のため、中国に派兵を求めざるを得なかった。国民政府は、在中国米軍最高司令官兼蒋介石の参謀長となったスティルウェル(JosephW.Stilwell)中将の指揮のもとで、雲南省西部に集結していた中国軍をもって遠征軍を編成し、英軍との協同作戦に当たらせた。3 月下旬、日本軍(第15 軍)はトングー〔同古〕の南方で中国軍の精鋭第5 軍と激しい戦火を交え、3 月末にトングーを陥落させ、5 月末までに北部ビルマを占領し、ビルマ・ルートの完全遮断に成功した。一方、中国軍はインド方面と雲南方面に分散退却してしまう。

日本軍が中北部ビルマの占領に成功したことで、中国への補給路遮断は陸のみならず、空においても一定の効果を発揮し始めた。北ビルマのミキナ〔蜜支那〕には第18 師団の師団司令部と哨戒・戦闘用の飛行場を置き、中国への補給路を陸上のみならず航空方面でも大きく制約したため連合軍はヒマラヤ山脈越えの困難な航空輸送ルート(Hump 空輸)を選択せざるを得なくなった13。

42 年3 月、スティルウェル中将は、中国陸軍の近代化計画を中米両政府に提案し、当時300 個以上あった中国軍師団数の整理縮小計画を示すと共に、ビルマ戦敗北後にインドに脱出してラーンガルに逃れた中国軍の再編成、雲南省に集結した中国軍部隊の改編に着手した。これらの計画

10 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。戦史叢書63『大本営陸軍部(5)』朝雲新聞社、1973 年、76-80、185-92、419-27 頁。
11 『畑日誌』1942 年9 月23 日、10 月5 日、11 月9 日、12 月13 日の条。
12 前掲「甲谷悦雄大佐回想録」。
13 バンプ空輸量はビルマ公路のそれを大きく上回り、1945 年まで在華米空軍の活動を支えた(西澤敦「対中軍事援助とヒラマヤ越え空輸作戦」(軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年)275-95 頁。


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遂行とビルマ奪還に必要な軍需物資を恒常的に中国の輸送するためにはインドから中国までの補給路が必要であったが日本軍よって遮断されていた。そこで雲南省・北ビルマからインドまでの陸路を打通するために形成されたのがCBI(中国・ビルマ・インド)戦線であった。

ビルマ奪還はイギリスの分担であったが、そのイギリスはヨーロッパ、中東戦線とインド防衛を優先せざるをえず、ビルマ奪還に貴重な戦力を割くことはできなかった。アメリカも太平洋における反攻準備および英ソ支援を優先してCBI 戦線(ビルマ奪還)を低位においていた。また、蒋介石もビルマの奪回作戦に消極的で、代わりに蒋介石の顧問として中国空軍の育成に従事してきた米空軍シェンノート(Claire L. Chennault)少将の中国空軍強化プランを支持し、スティルウェルとの間に軋轢をひきおこし、両者の関係は42 年半ばから悪化した。

しかし、スティルウエルは中国やイギリスの反対をおして、42 年夏、北ビルマを通るレド公路の開発のため、インドのランガルーで米式の装備と訓練を施された中国新軍の建設に着手し、同年秋からは雲南から中国軍3 万2000 名が空輸によって合流し、訓練に加わった。43 年4 月からは、雲南省昆明において陳誠将軍の指揮下に新軍の訓練に着手し、8 月までに5 個軍15 個師団の改編が完成した。

この間、アメリカは中国戦線における対日戦略を陸軍近代化から戦略爆撃へと重点を移動させていったが、この背景には高性能ボーイングB29 爆撃機の実用化がある。高性能のB29 による日本本土の生産中枢への組織的爆撃は、日本の抗戦能力を破壊するもっとも能率的な戦略と考えられた。43 年5 月のワシントンにおける米英合同参謀会議(トライデント)での論議を経て、同年11 月の米英中首脳のカイロ会談において、中国戦線における連合軍の対日戦略の重点を戦略爆撃におくことが決定された。蒋介石自身は当初、陸軍の近代化にも熱意を持っていたが、やがてローズヴェルト大統領の説得もあって中国を基地とする対日戦略爆撃を支持するようになる。中国戦線の米軍のみならず中国軍の指揮権をも要求するスティルウェルとの関係悪化、さらに、中国陸軍の大幅な整理縮小に対する軍閥系勢力からの頑強な抵抗なども蒋が陸軍近代化に消極的になった要因であった14。

カイロ会談ではビルマ作戦が対日戦略において優先権が与えられ、蒋介石もランガルーと雲南の中国遠征軍を北ビルマに進攻させことを約束した。しかし、43 年11 月のテヘラン会談におけるスターリンの対日参戦の約束はビルマ作戦の意義を弱めた。蒋介石はテヘラン会談の情報から、雲南の新軍のビルマ作戦使用を拒否し、その代償としてスティルウエルにランガルーの中国軍に対する指揮権を与えた。スティルウェルは前年の浙.作戦に鑑み、強力な中国地上軍なしには、航空基地が日本軍の地上攻撃で失われる危険を説いたが、太平洋戦線で苦戦する日本が中国戦線で新たな大攻勢を行う可能性は低い、と顧みられなかった15。

43 年12 月、スティルウエルは中国新軍を率いてインドから北ビルマ入口のフーコン河谷に侵入していたが、44 年5 月上旬、連合軍は、インパール作戦の発動によって防備が手薄となった北ビルマ、雲南に総反攻を開始した。日本軍第18 師団を優勢な火力によって粉砕し、7 月までにフー

14 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」396-400 頁。
15 Tang Tsou, American Failure in China (Chicago: University of Chicago Press, 1963), p. 82.


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コンを占領した。また、北ビルマの要地ミチナ(蜜支那)を急襲し、8 月にはミチナ飛行場を奪回した。中国軍も同じころ、ビルマ国境のサルウイン河(怒江)の強行渡河を開始した。こうして北ビルマ・雲南方面で米軍により近代的軍隊に改編された中国軍が戦果を挙げているとき、中国本部では日本軍の大陸打通作戦(一号作戦、後述)によって国民政府軍は苦戦を強いられていた16。

3)華北の戦い


40 年後半の百団大戦によって、日本軍は華北の抗日根拠地を基盤とする共産軍の実力と脅威を認識することになり、華北の治安粛正作戦において国民政府軍に対しては「帰順」を求めるが、「警戒監視にとどめ攻撃せず」とされ、共産軍対策が重点目標となる17。41 年3 月から42 年末にかけて、北支那方面軍は、華北全域を治安区(占領区)、准治安区(遊撃区)、未治安区(抗日根拠地)に区分し、未治安区に対して組織的な「掃蕩」作戦を展開するとともに、王克敏ら旧軍閥の有力者を指導者として樹立させた華北政務委員会(40 年3 月成立)と協力して組織的な「治安強化運動」を展開した。治安区では、華北政務委員会を利用した宣伝など清郷工作、遊撃隊の活動する地域の住民を「治安区」に強制的に移住させ、遮断壕を構築する「無人区」の設定、「未治安区に対しては、経済封鎖、商品流通の分断などを実施した。「准治安区」でも共産党支配地域への経済的締め付けが強化され、遮断戦を越えて「未治安区」の市場を襲い、農産物の収奪や没収、強制買い上げ等、その規模は大きくなっていった。

こうした治安強化運動や掃蕩作戦の強化は、抗日根拠地に大きな打撃を与え、根拠地は縮小を余儀なくされる。しかし、この未曾有の根拠地の危機は、共産党の指導による、農民大衆の経済的基盤の確立のための「減租減息」(小作料と利子の減額)運動の全面的展開や「大生産運動」などによって克服され、43 年以降、根拠地は徐々に再生・拡大をたどることになる18。

他方、北支那方面軍は華北への共産勢力の伸長を食い止めるために、43 年9 月、対ゲリラ戦専門部隊として北支那特別警備隊(北特警)を設置したが、結局、都市部でしか目立った戦果を挙げることができなかった。北特警の戦闘詳報によれば、43 年後半には、共産党軍が「治安地区」にも浸透し、「治安地区」の拡大という当初の方面軍の計画とは逆の結果を招いてしまっていた19。こうした情勢のなかで、共産軍は勢力を盛り返し、根拠地は44 年末までには40 年の状態まで回復し、45 年6 月、共産軍は河北省で一斉に攻勢に出るのである。

ところで、42 年初頭、北支那方面軍参謀は政務将校の会同で、食糧と物資確保の緊急性を説き、「討伐作戦に伴ひ大規模なる物資獲得の手段を講ずるか、或は更に物資獲得の為に討伐を実施する」等の「創意工夫を要すべし」と説いている20。現地軍の「現地自活」という要求が強まるなかで、

16 一号作戦と北ビルマ・雲南作戦の関係については、浅野豊美「北ビルマ・雲南作戦と日中戦争」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)、297-338 頁。
17「第1 軍作戦経過の概要」第1 軍参謀部(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(38) 太平洋戦争4』みすず書房、1974 年)〔以下『現代史資料』〕177 頁。馬場毅「華北における中共の軍事活動、1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)232-34 頁。
18西村茂雄『20 世紀中国の政治空間』青木書店、2004 年、135-77 頁。
19 山本昌弘「華北の対ゲリラ戦、1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)209-11頁。
20 「政務関係将校会同席上方面軍参謀副長口演要旨」(1942 年1 月15 日)(『現代史資料(13) 日中戦争5』みすず書房、1966 年、524 頁)。


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物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦は、中国側が「三光作戦」と呼ぶ非違行為の背景となっていた21。すでに、40 年秋には、百団大戦に対する報復的な山西省中部での反撃作戦として、共産軍の根拠地とみなされた村落を焼き払う、という「燼滅(じんめつ)作戦」が強行されていた22。「燼滅」の一つの手段が化学弾薬(毒ガス)の使用であり、北支那方面軍司令部が各部隊に配布した『粛正討伐ノ参考』(1943 年5 月)によれば、化学弾薬は遊撃戦法をとる共産軍に対抗するために有効であるとして推奨されている。こうした「未治安区」における非違行為は、他の戦線への兵力抽出や部隊の改編によって補充兵の比率が増し、兵士の質が低下していたことが主な原因であった23。

また、満洲や日本への労働力の提供のため、華北において強制的な労働力の動員が42 年から実施され、その業務は日本軍と華北政務委員会の統制下にあった華北労工協会が一元的に請け負っていた。200 万人を超える労働者が華北から満洲、蒙彊に提供された。44 年以降は華北政務委員会が表面に乗り出し、重要労力緊急動員の秘密命のもとに日本軍が出動して「浮浪遊民」を逮捕徴発して日本や満洲に送り込んだ。日本全土への強制連行は43 年9 月から試行的に始まり、45年5 月までに約3 万9000 人の中国人が移送され、過酷な労働に従事し、秋田県の花岡鉱山事件のように中国人労働者の大規模な蜂起事件も起こっている24。

4)一号作戦(豫湘桂戦役)


南東太平洋戦線で大きく戦力を消耗した日本軍は、43 年9 月、戦略の転換を図り、ビルマ、蘭印、西部ニューギニア、マリアナ諸島、千島列島、満州を結ぶ防衛ラインの内側を「絶対国防圏」と定めた。この「絶対国防圏」の防備強化のため、中国戦線から10 個師団の兵力(1.5 万-ママ)、馬1.5万頭、自動車2000 両などを絶対防衛圏の防備強化に転用する計画が策定されるが、一号作戦(「大陸打通作戦」)計画の浮上はこの転用計画を大幅に縮小させる25。

44 年4 月中旬から翌年の2 月上旬の間、派遣軍総兵力の約8 割にあたる約50 万人(延20 個師団)を動員し、一号作戦と呼ばれる日本陸軍史上最大の作戦が京漢・粤漢・湘桂の各沿線地域で

21 前掲、山本「華北の対ゲリラ戦、1939-1945」204-05 頁。なお、「三光」は、殺光(殺し尽くす)・焼光(焼き尽くす)・槍光(奪い尽くす)の意味。
22 晉中第一期作戦(1940 年8 月30 日~9 月8 日)では、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」方針のもと、「敵性ありと認むる住民中15 才以上、60 才までの男子」は「殺戮」の対象となり、「敵性部落」は徹底的に焼き払われた(独立混成第4 旅団「第一期晉中作戦戦闘詳報」)(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』、資料53、54)。
23例えば、第36 師団司令部「昭和十七年度粛正建設計画」(1942 年4 月15 日)(『現代史資料(13)』572-88頁)、前掲、山本「華北のゲリラ戦、1937-1945」209-11 頁。
24 各事業場の「華人労務者就労顛末報告書」に基づく研究として、西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会、2002 年)がある。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、207-10 頁。花岡事件については西成田『中国人強制連行』、363-402 頁を参照。
25 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』朝雲新聞社、1973 年、179-215 頁。中国戦線からの兵力抽出について同545-48 頁。


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実行された。河南省黄河から広東・仏印国境まで約1500 粁にわたる大作戦の目的は、日本本土空襲の恐れがある西南地区(桂林、柳州)に散在する航空基地の奪取、インド、ビルマ、雲南方面からの反攻阻止、南方資源の輸送のための仏印から中国、朝鮮にいたる交通路の確保であった26。一号作戦の決定と遂行には、真田穣一郎少将と服部卓四郎大佐が最も重要な役割を果たした。

真田は42 年12 月に作戦課長、43 年10 月には作戦部長となっている。ガダルカナル島からの撤退決定に中心的役割を果たした真田大佐は、太平洋戦線における軍事的劣勢を補い、長期戦に耐える戦略体制を築くため、中国大陸の派遣軍と東南アジアの南方軍を連携させることが必要と考えた。服部は41 年7 月に作戦課長として開戦を迎え、前述の5 号作戦の立案の中心となったが、作戦が中止されたことから中国における攻勢作戦の機会をねらっていた27。服部は42 年12 月に陸相秘書官に転出し、43 年10 月に再び作戦課長となると真田作戦部長とともに本格的に一号作戦計画を実行に移そうとした。「太平洋における頽勢を大陸作戦によって補おうとする狙い」が両者に共通していた28。

作戦部が起案した最初の作戦計画は、敵航空基地の覆滅、南方軍との陸上連絡通路の確保、重慶政権の壊滅などを列挙していた。この作戦計画について、東条陸相は作戦目的を航空基地の覆滅一本に徹底することを条件にこの案に同意し、天皇も作戦目的を敵の航空基地覆滅に絞った作戦の実施について裁可した29。

しかし、44 年1 月24 日、杉山参謀総長から支那派遣軍に指示された「一号作戦要網」では、南方軍との連絡や重慶政権の継戦企図の破砕といった目的も含まれていた30。真田や服部の強い意思と派遣軍の積極的姿勢が反映したものと考えられる。一号作戦計画を参謀本部が積極的に取り上げたことは士気が沈滞気味であった派遣軍の幕僚たちを活気づけていた31。

一号作戦の前段である湘桂作戦は順調に進展したが、衡陽の攻略に際しては重慶軍の抵抗が激しくなり、しかも補給ラインが米軍機の攻撃を受けて日本軍は苦戦に陥ったが8 月初旬、衡陽を占領した。この衡陽占領は、一号作戦の重要な転機であった。

太平洋の戦局も重大な転機にさしかかっていた。44 年6 月末、中部太平洋のサイパン島の陥落によって「絶対国防圏」の一角が崩された日本軍は、太平洋戦線で劣勢に立たされ、さらに、北部ビルマからインド進攻をねらったインパール作戦でも敗退していた。こうした戦局の悪化は、近衛文麿ら重臣を中心に国内の「反東條勢力」の結集を促し、7 月の東條内閣総辞職の要因となった。

参謀本部は全般的な戦略を見直し、日本本土、沖縄、台湾、フィリピンを連ねる線を防衛し、

26 原剛「一号作戦―実施に至る経緯とその成果」(前掲『日中戦争の軍事的展開』)283-95 頁。
27 戦史叢書67『大本営陸軍部(7)』548-53 頁。
28 井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』芙蓉書房、1978 年、499 頁。
29 前掲、原「一号作戦」287-88 頁。
30 この「要綱」によれば、「近き将来に於て米英が化学戦を行使するの公算大」と判断され、米英の毒ガス攻撃を恐れ、桂林、柳州など米軍基地付近での米軍に対する化学兵器の使用を避けるよう命じている。実際、中国戦線では44 年半ばから毒ガスなど化学兵器の実戦使用が禁じられ(前掲、吉見・松野編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』(不二出版、1989 年、30-31 頁)、使用回数は減少したものの使用を放棄したわけではなかった。
31 戦史叢書4『一号作戦(1)河南会戦』朝雲新聞社、1967 年、16-39 頁。


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この防衛ラインで敵の進攻を迎え撃つという基本戦略を決定した。これを「捷号」作戦と名づけた。問題はこの「捷号」作戦構想との関連で、継続中の一号作戦をどのように位置付けるかにあった。具体的には、一号作戦を計画通りに進め、桂林、柳州攻略を実施するか、あるいは中止するかという選択であった32。

陸軍省首脳部や参謀総長は、桂林、柳州への進攻についてインパール作戦のように補給物資が続かないことを恐れて中止すべきとの意見であったが、作戦部は一号作戦を計画通り実行する方針であった。派遣軍も作戦部の続行方針を支持していた。とくに真田作戦部長と服部作戦課長は、フィリピン作戦と一号作戦とは表裏一体であり、日本本土と東南アジアの交通連絡が遮断されないためには作戦の続行が必要と説いた33。この間、44 年9 月には、陸軍次官・柴山兼四郎中将が陸軍上層部を代表して、粤漢打通作戦のみを実施したうえ中止するよう畑総司令官に意見具申したが、畑は補給の検討は約束したものの中止には同意しなかった34。

こうして一号作戦は続行され、44 年11 月までに桂林、柳州の航空基地を占領し、45 年1 月には大陸縦貫交通路の確保をほぼ達成したが、すでに当初の戦略構想は意味をなくしていた。すなわち、重爆撃機B-29 は四川省の成都に集結して九州爆撃を開始しており、またマリアナ基地の完成に伴い、44 年末から同基地から東京など本土全域への戦略爆撃が始まっていたからである。アメリカのアジア太平洋にとって中国戦線の意味は低下して行くが、米軍指導部は、中国戦線の危機を憂慮した蒋介石やスティルウエルの要求に応じ、主要都市爆撃を許可し、44 年12 月18 日、B-29 によって華中の日本軍拠点であった漢口爆撃が実施され、市街の9 割が灰燼となり、派遣軍に大きな打撃を与えた。

一号作戦における国民政府軍の敗退の原因は、兵士に対する劣悪な処遇、将校の腐敗などによって戦意が著しく低下していたこと、命令系統の混乱、情報不足などであった。中国側の損害はきわめて大きく、60~70 万の兵士が犠牲となり、河南、胡南、広西、広東、福建の各省の大部分の領土を失った。他方、国民政府軍の敗退は、共産軍の対日反抗に有利な条件を作り出した。すでに44 年から、共産党軍は華北、華中の抗日根拠地を中心に活動が活発化していたが、日本軍が一号作戦で大兵力を動員したため、華北の治安警備能力が大幅に低下したことによって、共産勢力の反攻を助長し、日本軍の占拠地域を侵食していった35。

44 年末、新たに派遣軍総司令官に就任した岡村寧次大将は、一号作戦の余勢をかって重慶進攻を参謀本部に進言したが、太平洋戦線の戦局悪化から承認されなかった36。その代替案として浮上したのが、老河口と〓江作戦である(〓は草かんむりに止)。一号作戦の結果、航空基地を喪失した在華米空軍は老河口、〓江(〓は草かんむりに止)に戦闘機、中型爆撃機用の基地を造成した。派遣軍は、45 年3 月から4 月にかけて第12 軍は

32 前掲、井本『作戦日誌で綴る大東亜戦争』570-72 頁。
33 前掲、原「一号作戦」290-91 頁。『畑日誌』1944 年10 月6 日の条。
34 前掲、『畑日誌』1944 年9 月13 日の条。
35 石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1983 年、182-85 頁。
36 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(下)』錦正社、1998 年〔以下『機密戦争日誌』〕、643-44 頁。


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3 個師団など6 万名を投入して、老河口基地の破壊に成功した37。他方、〓江(〓は草かんむりに止)をめざした第20 軍約5 万に対し、中国軍約60 万と米空軍機が迎え撃った。中国軍には、スティルウェルの後任者ウェデマイヤー中将による陸軍近代化計画によって育成された近代化師団が加わっていた。この最後の大作戦は日本軍の惨憺たる敗北に終わり、第20 軍は45 年5 月下旬に撤収した38。


第2節 日本占領地域の状況


1)汪政権下の政治と経済


重慶を脱出した汪兆銘は、40 年3 月、重慶からの遷都という形をとって南京に中華民国国民政府を樹立し、40 年11 月、日本は満州国地域を除く中国全土に統治権を有する中央政府として承認した。しかし、汪の意思に反して多数の日本人顧問が就任し、満州国の経験を生かした「内面指導」方式が貫かれ、日本の実質的な統制下におかれ、その統制は戦後も継続することが想定され、畑総司令官と会見した汪は「第二の満洲国となること」を憂いた39。こうした汪政権に国民党の有力な反蒋介石勢力が参加することはなく、基礎となる軍事力を欠き、和平陣営に参加した軍隊は「名ばかりで寧ろ土匪団」であった40。

経済面でも日本による物流支配と経済封鎖は深刻な産業不振と物価の騰貴をもたらした。汪政権のもとで中支那振興会社傘下の基幹産業は、形式の上では中国側の出資比率を51%とする日中合弁企業なったが、実権は日本側が握り続けた。たとえば汪は、上海、南京地区を含む江蘇省など三省で200 を超える軍管理工場の返還を要求して日本軍と交渉するが、日本軍は、小規模な工場の返還には同意したが、その他は買収ないし日中合弁を強要した。周仏海によれば「原則のうえでは統制権を放棄しているが、制限を無限に加えているので返還していないに等しい」状況であった41。軍用とは無関係な商品についても「厳格な制限を受け、その結果、和平地区内の商工業は疲弊し、物価は暴騰し政府の財源また枯渇に瀕する」状況であった。41 年8 月、日本は中央、地方に物資統制委員会を設置し、占領地域内の物資の移動制限緩和に乗り出したが、効果はなかった。

2)通貨戦争


日本は日中戦争期間を通じて、物資の安定的獲得を目的として、占領地に中国聯合準備銀行、中央儲備銀行(41 年1 月発足)などを設立し聯銀券や儲備券を発行し、国民政府の旧法幣と通貨戦争を展開した。また陸軍は39 年には「杉機関」によって通貨謀略や法幣の偽造を行い、物資取得に投入し、軍票は国民政府の法幣を追いつめて行く。太平洋戦争の勃発と租界占領によって上海の法幣は弱体化し、汪政権は軍票の新規発行を停止し、旧法幣の流通禁止、43 年には儲備券による統一を実現した。儲備銀行は東京を含め38 支店をもつ大銀行となった。

37 前掲、等松「日中戦争と太平洋戦争の戦略的関係」406-07 頁。戦史叢書64『昭和二十年の支那派遣軍(2)』朝雲新聞社、1973 年、379-432 頁。
38 前掲、『昭和二十年の支那派遣軍(2)』353-78 頁。
39 前掲、『畑日誌』1941 年4 月19 日の条。
40 前掲、『現代史資料(13)』39 頁。
41 蔡徳金編(村田忠禮訳)『周仏海日記』みすず書房、1992 年(1940 年5 月5 日の条)。


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しかし、旧法幣が急落する一方で、蒋政権の発行する統一公債は、開戦後も相変わらず上海で取引され、42 年1 月には開戦前の相場を上回り、新旧法幣の交換によって新法幣建てに改定されるとさらに高騰した。占領地で重慶政権の公債が流通し、額面を上回る価格で取引される事実は、中国国民の蒋介石政権に対する信頼が揺らいでいないことを示している。

元来、日本側通貨の流通範囲は都市と鉄道沿線の占領地に限られていたが、共産軍が「日本軍が重慶軍を放逐したる跡を占領し、所謂廉潔政治を行ひて華北華中方面に着々地歩を固め来り」という状況となると、聯銀券や儲備券の流通範囲はさらに縮小した。さらに通貨を増発して悪性インフレに見舞われた。占領地における物価騰貴は物資取得のために通貨を乱発した結果であり、それは軍票価格の下落を意味した。こうして「在支60 万の日本人社会の外に於ては全然別の価格体系が存在する」状況となる42。

南京政府治下の華中・華北では、南京政府の発行する儲備券(新法幣)が旧法幣に対し弱体性を克服できなかったこと、日本軍による軍票の乱発などが原因で、通貨の混乱、物価高騰、激しい物資不足に見舞われ、日本側の要請に応えることは不可能な状況にあった。インフレの進行を抑えて通貨価値を中国側通貨(旧法幣)より優位に維持し、購買手段として通貨機能の安定は最後まで実現できなかった。


3)「対華新政策」とその破綻


ガダルカナル島(南東太平洋方面)をめぐる攻防戦が重大局面に差しかかっていた42 年12 月、御前会議は新たな中国政策(「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」)を決定した。その骨子は、南京国民政府の「自発的活動」の促進、蒙疆・華北などの「特殊地域化」方針の是正、治外法権や租界の撤廃、日華基本条約(1940 年11 月)の修正、経済施策における「日本側の独占」の抑制などを通じて、「国民政府の政治力を強化」をはかるというものであった43。それまで汪政府に対する基本政策であった「支那事変処理要綱」(40 年11 月)の根本的改定であった。

この「新政策」を浮上させた背景は、42 年後半の太平洋戦線における激しい消耗戦が経済力の低下を招いたため、日本側の関与を緩め、中国側の自発的活動に委ねて中国における統治の負担を軽減することにあった。もう一つの背景は、双十節(42 年10 月10 日)における重慶政権に対する英米の治外法権撤廃の声明であった。英米は戦後に治外法権の撤廃を行う意思を表明していたが、アジア太平洋の軍事情勢の改善や重慶政権の強い希望によって、実施を早めたものである44。中国共産党も、中国人民の100 年来の独立と解放のための闘争の結果であり、「中英、中米間の新たな関係と新たな団結」として歓迎した45。中国の「民心把握」と「協力強化」という観点では、治外法権の撤廃など不平等条約の廃棄が有効な手段と考えられたことは、連合国側も日本側も同様であり、両者は競うように租界返還・治外法権撤廃の具体化を急いだ。

しかし、中国における多くの権益を失うことになる「新政策」の決定とその実施には、強力な

42 『続・現代史資料(11) 占領地通貨工作』、みすず書房、1983 年、937、836 頁。
43 参謀本部編『杉山メモ(下)』原書房、1989 年、321-23 頁。
44 Christopher Thorne,Allies of a Kind: The United States,Britain,and the War against Japan,1941-1945(New York;Oxford University Press,1978.),pp.178-79.,195-97.
45 前掲、『中国共産党史資料集 第11 巻』資料46。


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推進力が必要であったが、その中心となったのが重光葵(42 年1 月汪政府大使、43 年4 月外相)であった。重光にとって「新政策」は、日本の対中国政策の「根本的更正」や「誤れる方向に指導した軍部の策謀を矯正」して、日本民族の「公正なる精神を支那民族に明瞭に示す」という意味があり46、日華基本条約の根本的改定による中国の主権回復の必要性を天皇や政軍指導者に懸命に説き、軍の反対を抑えた。

新政策の決定により、政治面では、治外法権の撤廃、租界の返還などが順次実施され、43 年8月には日華基本条約に代わって日華同盟条約が新たに締結され、汪政権は日本との関係においては、形式的にせよ平等な関係を築いた。

しかし、新政策には元来、戦争遂行上の必要物資の獲得という主目標が含まれ、経済面では、「上は日本軍人に牛耳られ、下は日本商人に独占されたまま、特殊化は日本の敗戦まで続けられた」47 というのが実情であった。南京政府治下の人民にとって、物価高騰による経済的逼迫の解決こそが切実な問題であり、「新政策」を歓迎する雰囲気にはなかった48。日本側はこうした経済的逼迫を打開するために、軍票の新規発行停止と儲備銀行券への移行、さらに、日本軍による物流統制システムを廃止し、南京政府側の一元的な物資統制機関として43 年3 月に設立された全国商業統制総会(商統総会)に移行などの措置をとる。これらの措置は、南京政権の自立化促進の一環とされたが、現実的なねらいは、重要物資の内地送還-対日供給物資の確保のためであった49。

南京政府側にも、「商統会」(全国商業統制総会)を結成して統制権を中国側の手にとりもどし、統制を緩和させるならば、物価の高騰は抑制できるという見通しが存在したが、商統総会の機能は弱体であり、上海を中心に重要物資の隠匿が横行し始め、43 年夏には物価高は「破局的様相」となった。その原因は、南京政権と日本に対する人民の信頼が動揺し、儲備券の価値に疑念が生まれてきたことにあった。南京政府は「隠匿取締に関する国民政府令」(43 年4 月)などを公布して対応したが、成果は挙がらなかった50。

こうした破局的状況を日本政府も放置しえず、43 年7 月の大本営政府連絡会議は「対支経済施策に関する件」を審議し、金塊25 トンを華中、華北に現送し、これを市場に売却して通貨回収に充てるとともに隠遁の激しかった綿糸布の強制買い上げに用いる緊急措置を決定した。この措置は物資隠遁の風潮と物価高騰を一時的に抑制する効果があったが長くは続かなかった51。

開戦後、大蔵省の上海財務官室に勤務していた渡辺誠は、43 年12 月、新政策の混迷を打開する方策として、
1)「経済問題に関しては国民政府に頼らず支那経済人を相手とすべし」、
2)「官治統制」の廃止、
3)「軍官は経済問題に関しては表面に立つべからず」
と3 点を指摘する大胆な意見を提出している。渡辺によれば、上海財界と中国民衆の信頼を失っている汪政府に新政策の実施

46 重光葵『昭和の動乱(下)』中央公論社、1952 年、167、172 頁。
47 陳公博(岡田酉次訳)『中国国民党秘史―苦笑録・八年来の回顧』1980 年、講談社、334 頁。
48 前掲、『周仏海日記』、1943 年2 月23 日の条。
49 古厩忠夫「日中戦争と占領地経済」(中央大学人文科学研究所編『日中戦争―日本・中国・アメリカ』中央大学出版会、1993 年)344-59 頁。
50 岡田酉次『日中戦争裏方記』東洋経済新報社、1974 年、261-67 頁。
51 同上、267-68 頁。


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を期待するのではなく、「〔上海〕経済人の自主的活動」を直接支援すべきであった。さらに、渡辺によれば、新経済政策の真のねらいは、「日華両経済圏を融合」することで「新しき自給自足的新経済秩序を建設」することにあるが、日本側の軍需物資の調達のための「便宜手段」と化している点に混迷の真の原因があった。汪政権と日本の関係の本質を見抜いた渡辺の提案が考慮されることはなかった52。

日本軍の侵略に対する抗戦を通じて、中国はナショナリズムを農村や奥地まで浸透させ、戦後の国家建設にむけ社会変革と民族的統合の基盤を築いた。一方、日本は戦争を通じて日中提携協力や「新秩序建設」を目標にかかげ、経済的な先進地域を占領し、新興政権を樹立したが、軍事優先の「新政策」が住民の信頼を得ることも、戦時中国の建設に寄与することもなかった。

52 「対華新政策の経済面に関する管見」(1943 年12 月20 日)『続・現代史資料(11)』829-37 頁。





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