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満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その1>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第2部 戦争の時代
第1章 満州事変から盧溝橋事件まで

満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その1>

戸部良一: 防衛大学校教授(外部執筆委員)

  • 満洲事変から日中戦争まで 戸部 良一<その2>
    • 2.関係安定化の模索と挫折
      • 4)梅津・何応欽協定
      • 5)広田三原則
    • 3.華北の紛糾
      • 1)幣制改革
      • 2)「北支」工作(華北「自治」運動)
      • 3)多発する事件
      • 4)対ソ戦略と対中政策
      • 5)内蒙工作と綏遠事件
      • 6)西安事件
      • 7)対中政策の再検討
      • 8)盧溝橋事件前夜


1.満洲事変


1)柳条湖事件


1931 年9 月18 日夜、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。関東軍の作戦参謀・石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略によるものであった 1。鉄道守備を任務とする関東軍はこれを中国軍の仕業とし、自衛のためと称して一気に奉天を制圧した。

柳条湖事件発生の数ヵ月前、陸軍では省部(陸軍省と参謀本部)の課長レベルで、在満権益に重大な侵害が加えられた場合には武力を発動する、というコンセンサスが成立していた 2。彼らの構想では、武力発動の前に内外の理解と支持を得るために 1 年ほどの世論工作が必要とされ、したがって柳条湖事件の発生は早すぎたが、関東軍が武力行使に踏み切った以上、それをバック・アップするのは当然と見なされた。発動した武力を背景として、張学良政権の「排日」政策をやめさせ、権益の維持・増進を図ることが目標であった。そのためには、満洲に張学良政権に代わる親日政権を樹立することも視野の中に入っていた。

ただし、首謀者の石原や板垣にとって、武力発動は単なる自衛や権益擁護のためだけではなかった。彼らは北満も含む満洲全土を領有するつもりであった。こうして満洲での武力発動は、政府や陸軍指導部の基本方針に反する行動として開始されたのである。まず第一に、石原や板垣を含む陸軍の急進的な軍人は、ナショナリズムの急進化を背景とした中国の「革命外交」によって日本の在満権益が危機に瀕しているととらえたが、これに対して幣原外相の対中外交はまったく効果的な手を打っていないと見なされた。それゆえ急進的な軍人たちは、謀略によって日中間に衝突事件を引き起こし、満洲の「危機」を強引な武力行使によって一挙に打開しようとしたのである。

第二に、満洲での軍事行動は、満洲の危機打開のためだけではなく、日本の国防のためにも必要であると考えられた。石原らは、1929 年の奉ソ戦争におけるソ連の行動を見て、その軍事的脅威が復活しつつあると判断し、ソ連の軍事的脅威に対抗するためにも、満洲全土を日本の支配下に置こうと計画した。満洲全土を支配下に置けば、対ソ国防上有利な態勢を築くことができ、また、満洲の豊富な資源を確保して日満一体の自給自足圏を構築することができると考えられたのである。自給自足圏の構築は、第 1 次世界大戦の教訓として少壮軍人たちが学んでいた総力戦の前提でもあった。

第三に、武力発動によって日本を取り巻く国際関係が緊張し対外的危機が造出されれば、それをテコにして日本本国の国内政治の改造を促すことができるとも期待された。急進的な軍人は、政党政治が「党利党略」に明け暮れて国防を顧みず、国民の利益や要望にも応えていないと見なした。彼らは、「腐敗堕落」した政党政治を打倒し、総力戦を戦うための国家改造を目指した。満洲における武力発動を、そうした国家改造のきっかけとすることも目論まれたのである。

こうして柳条湖事件は、石原らの周到な計画と目論見に基づいて開始された。事件後、

1 柳条湖事件の謀略については、秦郁彦「柳条溝事件の再検討」『政治経済史学』第183号(1981 年8 月)を参照。
2 「満洲問題解決方策の大綱」小林龍夫・島田俊彦編『現代史資料7・満洲事変』(みすず書房、1964 年)164 頁。


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奉天を制圧した関東軍はさらに進んで安東、営口、長春など満鉄沿線の要地を占領した。居留民保護を名目として、満鉄沿線から遠く離れた吉林にも進出し、そのため手薄となった南満洲の防備を理由に朝鮮軍に援助を要請した。

事件の報を受けた東京の若槻(礼次郎)内閣は9 月19 日、事態不拡大の方針を決めた。陸軍指導部は関東軍の行動を容認し、朝鮮軍の越境(満洲進出)を政府に要請したが、事態不拡大の方針に反するとして認められなかった。しかし、かねてから関東軍の幕僚との間に援軍派遣の了解があった朝鮮軍は、陸軍指導部が政府の承認と天皇の裁可を得るのに戸惑っていることに痺れを切らして、9 月21 日独断で国境の鴨緑江を越えた。若槻内閣は朝鮮軍増派を追認せざるを得なかった。天皇の裁可を得ない独断越境は、本来、軍法違反で処罰の対象となるはずだったが、柳条湖事件の謀略と同様、有耶無耶に済まされてしまった。そしてこの後、現地軍の一部が突出し、それに東京の陸軍指導部と政府が追随し出先軍の行動を追認してゆくというパターンが繰り返されることになるのである。

マス・メディアも強硬であった。各新聞は、事件が中国側の計画的な行動であるとの関東軍の言い分を鵜呑みにした上で、その背景には度重なる排日行為や権益侵害の積み重ねがあると読者に解説し、関東軍の行動を自衛権の発動であると正当化した。新聞は事変をめぐって活発な報道合戦を繰り広げ、事変を利用して発行部数を伸ばした。そして、その強硬論は国民を煽る方向に作用したのである 3。

関東軍の行動に対する国民の支持は、武力発動が自衛や権益擁護のためであるとの政府による説明に基づいていた。だが、既に述べたように、関東軍の石原らの狙いは自衛や権益擁護を超えており、彼らは満洲全土を領有する計画であった。しかしながら、満洲領有案に対しては陸軍指導部の急進分子ですら同調しなかった。このため石原ら関東軍は独立国家樹立構想に軌道修正したが、これに対しても積極的支持があったわけではない。関東軍の武力発動に対する支持の多くは、自衛もしくは権益擁護という理由に基づいており、陸軍中堅層を含む強硬論者の間でさえ、期待されたのは張学良政権に代わる新しい親日地方政権を樹立することくらいであった。

2)中国の対応と国際連盟


関東軍の軍事行動はほぼ計画どおりに進行した。それを可能にした理由の一つは、中国側が武力抵抗を試みなかったことにある。事変勃発時に張学良は10 万の兵を擁して北平(北京)に滞在していたが、満洲には東北軍20 数万の大軍が存在し、これに対する関東軍の兵力は2 万に満たなかった。しかし事変前から、蒋介石は張学良に対して日本側を刺激しないよう命じ、張学良も奉天の部下に日本との衝突を避けるよう指示していた。

事変勃発直後も張学良が不抵抗方針を継続したのは、日本政府が関東軍に対するコントロールを回復できるだろうと考えたからであった。そこには、張学良の軍閥としての思惑も絡んでいた。もし東北軍が関東軍と戦って兵力を損耗すれば、自分の権力基盤が弱体化すると張学良は懸念した 4。蒋介石も張学良に武力抵抗を命じなかった 5。当初は、中国政

3 池井優「1930 年代のマス・メディア」三輪公忠編『再考太平洋戦争前夜』(創世記、1981年)177-185 頁。
4 宇野重昭「中国の動向(1926~1932 年)」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』第2 巻(朝日新聞社、1962 年)274 頁。


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府も日本政府による関東軍の統制に期待をかけた。9 月19 日、財政部長の宋子文が中国駐在公使の重光葵に対して、日中両国による事件の共同調査を提案したのは、そうした期待がまだあったからである 6。しかし、関東軍が南満の要地を次々と占領するに及んで、中国は日本との直接交渉による解決を断念するに至った。

当時、国民政府は江西省に本拠を置く共産勢力と軍事的に対峙し、この年5 月に成立した広東政権とも対立関係にあり、対日武力抵抗を試みる余裕がなかった。そのため国民政府は二つの方法によって日本の行動を抑制しようとした。排日ボイコットと国際連盟への提訴である。柳条湖事件以後、日貨排斥は反日抵抗運動として、その規模と激しさを増した。しかし関東軍の行動を抑制することはできなかった。

一方、国際連盟は必ずしも中国の期待どおりには動かなかった。英仏等の大国は、国際秩序の動揺を最小限に抑えると同時に、日本の行動が権益擁護の自衛措置と見なされる限りは、日本の立場に配慮しつつ自制を求めようとした。それまで国際秩序の維持に協力してきた幣原外交への期待もあった。幣原は中国との直接交渉による事変解決を主張した。これに対して中国は、関東軍による要地占領の解消つまり鉄道付属地内への撤退が先決であると反論した。9 月30 日、連盟理事会は、日本軍の早期撤退を決議したが、撤退には期限を付けなかった。撤退監視員の派遣という中国側の要求は退けられた。

ところが、こうした連盟の配慮にもかかわらず、関東軍は突進する。国内では10 月中旬、参謀本部の中堅将校を首謀者とするクーデタ計画が発覚した(十月事件)。クーデタは未発に終ったが、陸軍を抑制しようとする政府にとっては無言の圧力となった。10 月 8日、関東軍は張学良が東三省回復の本拠としていた満洲西南部の錦州を爆撃する。さらに、対ソ刺激を懸念する陸軍指導部によって抑えられてきた北満進出にも踏み切り、11 月19日には要衝チチハルを占領した。新国家擁立への関与を禁じた政府の方針を無視して、満洲各地で国民政府から独立した地方政権の樹立を背後で促進し、新国家の首班に予定する廃帝溥儀を、謀略による騒動に紛れて天津から満洲に連れ出した。

こうして、権益擁護のための自衛行動という日本の主張は説得力を失い始め、国際連盟の対日不信が強まってゆく。10 月24 日、理事会は日本軍の期限付撤兵勧告案を採決したが、日本のみの反対で否決された。結局理事会は日本の同意を得た上で12 月10 日、現地への調査団派遣を決議し、その調査が終了するまで問題の解決を先送りした。調査対象には日本の主張により、満洲の事態だけではなく、中国の全般的状況(排外運動や政府の条約義務履行能力など)も含まれた。


3)事変解決の模索


国際連盟が問題解決を先送りしている間、日中両国の間では直接交渉によって事変解決を目指す試みが潜行する。これには、日中両国の政権交代が関わっていた。

中国では日本に対抗するため、南京の国民政府と広東政権との合流が進み、その合流条件として12 月15 日、蒋介石が国民政府主席・行政院長・陸海軍総司令を辞職し下野した。

5 NHK取材班・臼井勝美『張学良の昭和史 最後の証言』(角川書店、1991 年)123-127頁。
6 柳条湖事件直後の国民政府内の対日直接交渉論については、加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007 年)107-111 頁を参照。


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これに代わって行政院長には孫科が就任し、国民政府の首脳は広東政権要人によって占められることになった。外交部長に就任した陳友仁は広東政権時代から、日中間の直接交渉による事変解決を唱えていた。中国は孫科政権の下で、一時的にではあったが、直接交渉に傾いたのである。

一方日本では、軍部の台頭に対抗するため二大政党による協力内閣を目指す動きが生まれたが、この協力内閣運動をめぐって民政党の若槻内閣は閣内不一致をきたし総辞職した。これに代わって政友会の犬養(毅)内閣が登場する。明治期から孫文や黄興など中国の革命家を支援してきた犬養首相は、中国に密使を派遣して事変解決を図ろうとした。彼の解決構想は、満洲における中国の主権を前提とした上で広汎な権限を持つ地方政権を樹立し、日中対等の条件で経済開発を実施するという内容であった。

密使に起用されたのは、犬養と同じく中国同盟会の同志であった萱野長知である7。孫科政権誕生直前に中国に渡った萱野は、居正、孫科らと会見し、犬養構想に基づく事変解決を模索した。孫科らは、特殊行政組織として東北政務委員会をつくり、日本の商租権を認めて日中対等の経済開発を実現する、という構想を示したが、その狙いは張学良の勢力を駆逐し、国民党の満洲進出を実現することにあったという8。

しかしながら、萱野の工作は犬養内閣の主要閣僚と軍部の厳しい反対にあう。それまで幣原外交を批判してきた政友会であっただけに、犬養内閣には、書記官長の森恪をはじめとして、強硬論者が多かった。彼らの間では、国民政府の統治が満洲に及ぶこと自体に反対が強かった。その反対を受けて1932 年1 月初旬、ついに犬養は萱野に帰国を命じざるを得なくなる。陳友仁は、日本との直接交渉が挫折した上、国内の反日世論に押され、対日断交を主張するようになった。

犬養首相は、中国との秘密交渉を試みると同時に、陸相に荒木貞夫を起用し陸軍の統制を回復しようとした。だが、ここでも犬養の期待は裏切られた。関東軍に対する陸軍指導部の統制は回復されなかった。関東軍は陸軍指導部の了解を得て、反満抗日分子を討伐するためにその策源地を叩くという名目で 1 月 3 日、錦州を占領した。それまで幣原外交に期待してきたアメリカの国務長官スティムソン(Henry L. Stimson)は、錦州占領に反撥して不承認政策を通告してきた。九ヵ国条約や不戦条約に違反しアメリカ国民の権利を侵害するいかなる状態も協定も承認しない、という趣旨の通告であった。2 月 5 日、関東軍はさらに、かつて出兵を禁止されたハルビンを攻撃してその占領に成功した。

4)上海事変と満洲国建国


事変勃発後、日増しに激しくなる反日ボイコットの中心となったのは上海である。それに対する日本人居留民の反撥が高まる中で、衝突事件が発生する。1 月18 日、上海で布教中の日本人僧侶が中国人に襲われ、翌日その報復として今度は日本人が中国人の工場を襲撃した。公使館付陸軍武官補佐官(上海駐在)の田中隆吉が、列国の関心を満洲からそら

7 萱野の和平工作については、時任英人「犬養毅と満州事変」『政治経済史学』第209 号(1983 年12 月)50-55 頁。
8 黄自進「満州事変と中国国民党」中村勝範編『満州事変の衝撃』(勁草書房、1996 年)360-361 頁。


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すために、関東軍の板垣の要請に応じて画策した謀略によるものであったという 9。上海の居留民団はいきり立ち、これを受けて総領事は上海市長に対し、犯人の処罰のほかに抗日団体の即時解散を含む強硬な期限付要求を突きつけた。不穏な空気が流れる中で、日本海軍は居留民保護のため艦船や陸戦隊を上海に増派し、中国側では上海周辺の19 路軍が警備を強化した。1 月28 日、日本海軍陸戦隊と、かつて江西省で共産軍と戦った精強な19 路軍とが衝突、上海事変が始まった10。

海軍は自前の戦力では19 路軍に対抗できず、陸軍の派遣を要請せざるを得なくなる。この上海派兵に対しては犬養首相と高橋(是清)蔵相が強く反対したが、結局、居留民保護を訴える陸海軍の主張に押し切られた。派遣された陸軍部隊も苦戦を強いられ、やがて派遣兵力は3 個師団に及び上海派遣軍が編成された。

日本政府は満洲事変と上海事変とを絡ませず別個のものと取り扱って、事態を必要以上に拡大しない方針をとった。派遣軍は、中国軍に打撃を与えて日本軍の威力を示すことを優先したが、3 月初めの攻撃でそれを達成した後は、国際連盟による牽制もあって、自制的な行動をとるようになった。

一方、中国では 1 月 1 日に正式に発足した孫科政権が一月も持たずに崩壊し、汪精衛が行政院長に就任、蒋介石も政権に復帰した。中国にはまだ日本と戦う実力が備わってはいないと考える蒋介石は、陳友仁の対日断交方針に反対し、直系部隊を上海戦線に投入して19 路軍の抗戦を支えながら、同時に日本との妥協の道を探った11。

積極的に停戦斡旋に動いたのはイギリスである。列国の牽制と斡旋の下で 3 月中旬には事実上の停戦が成立し、5 月5 日に正式に停戦協定が調印された。停戦協定は、日本軍の撤退と、中国軍の駐屯を認めない非武装地帯の設定が眼目であった。中国側には、領土を割譲せず賠償金も支払わないで外国軍を撤退させたのは、アヘン戦争以降初めての大勝利である、との評価もあったという12。

上海での軍事紛争は、関東軍の板垣が狙ったように、列国の注視を満洲から離れさせた。その間、満洲では独立準備が着々と進行し、ついに3 月1 日には溥儀を元首(執政)とする満洲国の建国が宣言された。国際連盟の調査団(リットン調査団)が現地入りする前に、既成事実がつくられた。

現地の事態の急展開に押されて、陸軍指導部は既に新国家樹立を容認していた。犬養首相は満洲国の国家承認に否定的であったが13、同年5 月、海軍青年将校を主体とするテロ(五・一五事件)で暗殺されてしまう。後継首相には海軍長老の斎藤実が起用された。前年に発覚した軍人による未遂のクーデタ(三月事件、十月事件)や相次ぐテロが政党政治を激しく攻撃していたので、天皇から後継首相について諮問を受ける元老西園寺公望は、

9 田中隆吉「上海事変はこうして起された」『別冊知性-秘められた昭和史』(1956 年12月)を参照。
10 上海事変とその停戦交渉については、島田俊彦「満州事変の展開(1931-1932 年)」『太平洋戦争への道』第2 巻、第5 章を参照。
11 黄自進「満州事変前後における国民政府の対日政策」『東アジア近代史』第5 号(2002年3 月)22-24 頁。
12 同上、24-25 頁。
13 時任「犬養毅と満州事変」56-57 頁。


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政党内閣を当面見合わせ、「中間内閣」と呼ばれる非政党内閣によって危機を乗り切り、政治に対する陸軍の圧力を緩和しようと考えたのである。

だが、強硬であったのは陸軍だけではない。例えば満洲国の承認については、政府よりも議会やマス・メディアのほうが積極的であった。6 月、衆議院は満洲国承認決議案を可決した。柳条湖事件時の満鉄総裁で関東軍に協力し、斎藤内閣の外相に就任した内田康哉は、議会での答弁で、日本は「国ヲ焦土ニシテモ」主張を貫くと述べ、満洲国承認を強く示唆した。9 月15 日、日本は日満議定書を調印して満洲国を正式に承認した。国際連盟から派遣されたリットン調査団が、現地調査を終え北京で報告書を作成した直後であった。

10 月2 日に公表されたリットン報告書は、柳条湖事件後の関東軍の行動を自衛の範囲内にあるものとは認めず、満洲国が住民の自発的な独立運動によって生まれたものとも認定しなかった。ただし報告書は、事変前への原状復帰が望ましいとも論じなかった。そこで提案されたのは、中国の主権と領土保全の原則を前提としながら、軍閥を排し、満洲における日本の権益と歴史的な関わりを考慮した自治的地方政府を形成することであった。満洲という地域の特殊事情に配慮した妥当な解決構想であり、事変前であったならば日本でもそれなりの評価を得たであろう。しかし、事変後1 年を経て、もはや日本ではほとんど見向きもされなかったのである。

5)満洲国の実態


満洲国は「王道楽土」「民族協和」という新国家建設の理念を謳った。居留民の中にはこの理念に共鳴し、奉天軍閥の圧政と苛斂誅求から満洲住民を救い、理想的な国家をつくることに情熱を燃やす者もあった。満洲の地方有力者や中小軍閥の中には、張学良に対する反感や自己保身から、新国家に同調する者も出てきた14。

むろん積極的に新国家建設に参加する住民は少なかった。反満抗日のゲリラ活動もなかなか下火とはならず、これに対しては満洲国の国防と治安の維持を担当する関東軍が徹底的かつ厳しい弾圧を加え、1932 年9 月の平頂山事件のように、ゲリラに通じたとされる住民の虐殺に至るケースもあった。

満洲国の統治実績の例として挙げられるものに幣制改革による通貨の統一がある。事変以前から満洲の地域金融システムは通貨統一の方向に向かっていたが、満洲国はこの方向を継承して強力に実現を図った15。通貨の統一は満洲経済の近代化を促し、1934 年までに満洲は中国の中で最も工業化された地域となった16。満洲国は経済のインフラストラクチャ整備にも力を入れた。鉄道では1933 年から44 年までにおよそ6,350 ㎞の新線が建設され、道路では32 年から39 年までに総延長15,480 ㎞の国道が竣工した17。鉱工業の面で

14 満洲国建国に関わった中国人については、浜口裕子『日本統治と東アジア社会』(勁草書房、1996 年)第2 章、第3 章を参照。
15 安富歩「「満洲国」経済開発と国内資金流動」山本有造編『「満洲国」の研究』(緑蔭書房、1995 年)239-246 頁。
16 Nakagane Katsuji, “Manchukuo and Economic Development,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Informal Empire in China, 1895-1937 (Princeton University Press, 1989), p.134.
17 西澤泰彦「「満洲国」の建設事業」山本編『「満洲国」の研究』392 頁、407 頁。


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は石炭、電力、鉄鋼、アルミニウム等の生産が大きく伸びた18。

しかしながら、こうした産業基盤や鉱工業の発展は住民の生活水準の向上を目指すものではなかった。多くの場合、開発や近代化は軍事的な考慮に促され、鉱工業の発展も軍需関連部門に傾斜していた。特に日中戦争の拡大以後はその傾向が強まり、満洲は日本の兵站基地化していった。太平洋戦争期に入ると満洲国も戦時体制を強化し、日本の戦争遂行の要求に応じることを最優先した。戦争末期には経済・金融のバランスが崩れ住民に多大の苦痛を与えた19。満洲国は「王道楽土」にはなり得なかった。

「民族協和」もスローガンだけに終始した。実質的に満洲国をコントロールしたのは関東軍であった。中央政府と地方(省)政府の実権は日本人官僚(日系官吏)によって掌握され、中央政府機関に占める日系官吏の比率も1934 年の53 パーセントから1940 年の69パーセントに増えた20。日本人の権力独占は強まるばかりであった。様々の面で日本人と他の満洲国人との格差が拡大した。当初から大きかった建国の理念と現実の乖離は、ますます広がっていったのである。

6)熱河事件と国際連盟脱退


満洲国は、奉天、吉林、黒竜江の東三省に加え熱河省を合わせて、その版図とした。だが、熱河省長の湯玉麟は、華北に蟠踞する張学良軍から強く牽制され、曖昧な態度をとり続けた。熱河は、張学良が満洲国の動揺を狙ってゲリラ部隊を浸透させる主要なルートであった。このため関東軍は湯玉麟を排して、実力で熱河を掌握することを計画した21。しかし1933 年に入り熱河への実力行使が日程に上ると、斎藤首相・内田外相と天皇がこれに強い懸念を示すようになる。それは、その頃国際連盟がリットン報告書に基づく事変解決勧告案を審議中だったからである。

満洲国を承認した日本としては、もはや報告書に基づく勧告案を受け容れることはあり得なかった。ただし連盟規約によれば、紛争当事国を除く全会一致の勧告を当事国の一方が受諾し、他方がそれを不服として新たに戦争を始める場合には、連盟はその国に対して制裁を発動するものとされていた。そのため政府首脳や天皇は、連盟の勧告案採決後に日本が熱河に武力を行使し華北にそれが波及すれば、連盟が制裁を発動するのではないかと憂慮していたのである。結局、政府は2 月20 日、勧告案可決の場合は連盟を脱退すると決定した。連盟の一員でなくなれば、制裁を受ける法的根拠はなくなるはずであった22。2月24 日、連盟総会は勧告案を可決し、3 月27 日、日本は連盟脱退を通告した。連盟によ

18 Ramon H. Myers, “Creating a Modern Enclave Economy: The Economic Integration of Japan, Manchuria, and North China, 1932-1945,” in Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie, eds., The Japanese Wartime Empire, 1931-1945 (Princeton University Press, 1996) を参照。
19 塚瀬進『満洲国』(吉川弘文館、1998 年)190-198 頁、同「満洲国の実験」山室建徳編『日本の時代史25 大日本帝国の崩壊』(吉川弘文館、2005 年)130-132 頁。
20 塚瀬『満洲国』44 頁。
21 熱河作戦については、内田尚孝『華北事変の研究』(汲古書院、2006 年)第1 章、第2章を参照。
22 国際連盟と熱河作戦との関係については、井上寿一『危機のなかの協調外交』(山川出版社、1994 年)第1 章を参照。


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る制裁を危惧して熱河「討伐」を躊躇する意味はなくなった。

一方、中国側では、熱河はいわゆる満洲の東三省とは異なる地域と認識され、したがって関東軍が軍事力を用いて熱河を完全に掌握しようとすれば、それは日本の新たな「侵略」と見なされることになった。関東軍の熱河進出の動きに対し、国民政府が湯玉麟と張学良に熱河防衛を厳命したのは、このためである。張学良は20 万を超える東北軍を熱河に入れたが、1933 年2 月、関東軍2 個師団が熱河作戦を開始すると、2 週間足らずで潰走した。剿共戦を指揮していた蒋介石は事態の急変に驚き、華北の東北軍と西北軍25 万の大軍を長城の防衛戦に投入した。

長城線に達した関東軍は中国軍の頑強な抵抗に遭い激戦を交えた。同年4 月、ようやくそれを排除し、長城線を越えて関内に侵入した関東軍は、陸軍指導部の反対にあって一旦は長城線外に撤退したものの、5 月、あらためてこれを突破して関内に入った。満洲国防衛のためには、それを脅かす華北の張学良の権力基盤を壊滅させねばならない、というのが関内進出の理由であった。

中国にとって、張学良軍が敗走した「熱河の惨敗」は大きな衝撃であった。上海での対日抗戦を成功と見る傾向があっただけに、その衝撃は大きかった。しかも、共産勢力との戦いは依然として決着がつかなかった。蒋介石は、外敵を撃ち払う前に国内の敵を平らげるという「安内攘外」の方針に基づき、日本との妥協に向かう。北平近郊にまで迫った日本軍に抵抗を続けて、さらに失地を広げるよりも、一時的に屈して妥協を図り、将来の失地回復に備えようと考えたのである23。

こうして1933 年5 月31 日、天津郊外の塘沽で日中両国の軍事当局の間に停戦協定が調印された24。関東軍が長城線以北に引き揚げる代わりに、その南に広大な非武装地帯(戦区)が設定され、そこには中国軍は駐留できず、警察部隊(保安隊)が治安の維持にあたることになった。蒋介石と汪精衛が合作した国民政府は、塘沽停戦協定が中国側にとって不利であることを承知しつつ、満洲国の承認につながることを避け、これ以上の失地拡大を防ぎ、特に平津(北平と天津)を確保し、関東軍を長城線以北に撤退させることを、より重視したのである。


2.関係安定化の模索と挫折


1)戦区接収と実務協定


塘沽停戦協定によって満洲事変には一応のピリオドが打たれた。だが、華北の事態はまだ流動的であった。中国にとっては、満洲国を承認しないことは当然としても、当面その実在をどのように取り扱うかに苦慮しなければならなかった。この困難な問題に取り組んだのは黄郛(行政院駐平政務整理委員会委員長)である。彼を中心とした華北の地方機関が、南京の中央政府の指示を受けつつ、満洲国を代表する関東軍との交渉に臨んだ。

交渉の最初の案件は、関東軍の関内撤退と中国側による戦区接収であった。関東軍によ

23 鹿錫俊『中国国民政府の対日政策 1931-1933』(東京大学出版会、2001 年)第6 章、第7 章。
24 塘沽停戦協定の交渉については、内田『華北事変の研究』第3 章を参照。


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る長城線の確保など不完全さは残ったが、中国側による戦区の行政権回収には一応の決着が付いた。次に交渉の対象となったのは中国と満洲国との連絡に関わる諸問題である。まず鉄道連絡については、日中合弁の民間会社を設立し、その会社が奉天・北平間の列車を行するという通車に関する合意が1934 年6 月に成立した。難しかったのは、国家承認関わる郵便の交換であったが、これについては国際連盟が、郵政機関の間で関係を持つことは満洲国の国家承認を意味しないと決議し、それを受けて同年12 月、通郵に関する申し合わせができた。その直後には、長城線を境界として税関を設置する協議も妥結した。

このような実務に関する交渉の過程で、華北当局は国民政府の指示を受け、満洲国承認に関わる事項を一貫して拒否し、関東軍との合意覚書の作成には同意したが、それを協定とは認めず調印することも回避した25。この点で中国側は日本に対して一方的に屈服したわけではない。しかし、多くの場合、中国側は日本の要求を受け容れざるを得なかった。黄郛は、塘沽停戦協定の枠内で交渉する限り中国側の不利を脱却することができないので、同協定を解消し、華北問題を華北当局と関東軍との折衝ではなく、中央政府間の交渉に載せる必要があると考えるようになった26。

一方、日本政府は、戦区の交渉をほとんど関東軍の手に委ねた。満洲国の実在を既成事実とし、地方としての華北の現地交渉を軍事に関わる問題として関東軍に委ねながら、政府・外務省は、全体としての中国との関係修復・安定化に取り組もうとしたのである27。

2)広田・重光外交


1933 年9 月に内田に代わって広田弘毅が外相に就任してから彼の首相時代も含め1937年2 月までは、一般に広田外交の時代と呼ばれる。ただし対中政策に関しては、広田の了解の下で、次官の重光が主導的役割を果たした。重光は、親日的と見られた蒋汪合作政権との提携を通じて日中関係を安定化させようとする。その際、彼は欧米列国の中国に対する関与を制限ないし排除し、列国の権益を犠牲にすることによって中国の対日協力を引き出そうとした28。

1934 年4 月のいわゆる天羽声明には、このような重光の構想が示されている29。天羽声明とは、外務省情報部長の天羽英二が新聞記者との会見で行った非公式の談話であり、それが内外に報じられて国際問題化した。声明の趣旨は次のようなものである30。中国問題に関して日本は列国とその主張・立場を異にし、それゆえ国際連盟を脱退したのだが、東アジアの平和と秩序の維持は日本の使命であり、中国とともにその責任を全うする決意である。これに対して、列国の中国に対する共同動作は、たとえ名目は経済的あるいは技術

25 光田剛「華北「地方外交」に関する考察」『近代中国研究彙報』第22 号(2000 年)53-54 頁。
26 光田剛『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』(お茶の水書房、2007 年)206 頁。
27 臼井勝美『日中外交史研究』(吉川弘文館、1998 年)126 頁。
28 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊』(東京大学出版会、1992 年)58-62 頁。
29 重光と天羽声明との関係については、冨塚一彦「1933、4 年における重光外務次官の対中国外交路線」『外交史料館報』第13 号(1999 年6 月)を参照。
30 「天羽英二情報部長の非公式声明」島田俊彦・稲葉正夫編『現代史資料8・日中戦争1』(みすず書房、1964 年)25-26 頁。


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的なものであっても政治的な意味を帯びることは避けられず、結果として中国の国際管理や勢力範囲の設定を招きかねない。したがって、そのような列国の援助は、東アジアの平和と秩序を乱すものとして日本は反対せざるを得ない。

このような趣旨の天羽声明は、直接的には、中国の欧米派と呼ばれるグループが日本を除外したかたちで欧米列国との経済提携を画策していることに対する警告であった。前年に財政部長の宋子文は、日中関税協定の特例措置が期限切れになると、据え置かれていた日本商品に高率関税を課し、アメリカとの間に5000 万ドルの信用供与(棉麦借款)を成立させた後、列国から技術・経済援助を得ようと画策していた。宋子文のアドヴァイザーとして対中援助を具体化させていたのは、国際連盟の元事務次長(後のヨーロッパ統合の父)ジャン・モネ(Jean Monnet)である31。

欧米のメディアは天羽声明を、日本が「東亜モンロー主義」を表明し侵略主義的な意図を示したものと非難した。しかし、各国の政府レベルでは、門戸開放・機会均等の原則を尊重するとの広田外相の釈明を受け容れた。中国でもメディアの反応は厳しかったが、政府の対応は冷静であった32。

3)日中提携の試み


天羽声明のつまずきにもかかわらず、広田・重光の対中関係安定化の試みは継続された。中国側でも、日本側の試みに応じる条件が整いつつあった。1933 年11 月、福建に移駐させられた19 路軍と反蒋勢力が手を結んで福建人民政府を樹立したが、翌年1 月の国民政府中央軍の総攻撃で同政府は壊滅した。江西省の共産軍に対する第5 次剿共戦も順調に進み、1934 年11 月には瑞金が陥落、共産軍は「長征」という名の逃避行に移った。こうして蒋汪合作政権の基盤強化により、対日関係安定化のための前提が形成されたのである。

1935 年1 月、蒋介石は徐道鄰の名を借りて、『外交評論』に「敵か?友か?-中日関係の検討」という論文を発表した。この中で蒋介石は、日中関係悪化について日本だけでなく中国にも責任があることを認め、日中提携の必要性を訴えた33。同年1 月22 日、広田外相は帝国議会の演説で中国に対する不脅威・不侵略を唱え、日中親善を論じた。広田演説に応えるかのように同年2 月、国民政府は全国の新聞社に排日言論の掲載禁止を命じた34。3 月には、各省市の教育部に反日的な教科書の使用禁止を命令した。

日中の親善ムードがピークに達したのは同年5 月17 日の大使交換である。中国に対する常駐使節を公使から大使に昇格させる方針は、既に1924 年に閣議決定されていたが、1934 年から翌年にかけての関係安定化と親善ムードの中で、ようやく実現の運びとなった。日本は列国(英・米・独・仏)にも中国との大使交換を働きかけ、その賛同を得た。1935年6 月には、国民政府が邦交敦睦令を公布し、排日運動を禁止した。

31 濱口學「ジャン・モネの中国建設銀公司構想」『外交史料館報』第15 号(2001 年6 月)を参照。
32 光田剛は、天羽声明によって蒋介石が日本を主敵と見なすようになった、と解釈している。光田『中国国民政府期の華北政治 1928-1937 年』202-204 頁。
33 宇野重昭「中国の動向(1933 年~1939 年)」『太平洋戦争への道』第3 巻(朝日新聞社、1962 年)281-282 頁。
34 この間の日中間の動きについては、臼井『日中外交史研究』133-137 頁。


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このような親善ムードを背景に、日中経済提携の動きも本格化した35。同年10 月、中国実業界の経済視察団が来日し、同時期には日本実業界の経済視察団が訪中した。翌1936年1 月には東京に日華貿易協会、上海に中日貿易協会が設立された。

35 家近亮子『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002 年)182-185 頁、小林英夫「幣制改革をめぐる日本と中国」野沢豊編『中国の幣制改革と国際関係』(東京大学出版会、1981 年)242-243 頁。




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