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日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1>

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日中歴史共同研究
第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次
第1部 近代日中関係の発端と変遷
第3章 日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動

日本の大陸拡張政策と中国国民革命運動 服部龍二<その1>

服部龍二: 中央大学総合政策学部准教授(外部執筆委員)


はじめに


近代の日中関係において、第1 次世界大戦と満州事変が大きな転機であったことに異論はなかろう。第1 次大戦に参戦した日本は、中国に対華21 カ条要求を突きつけた。かつて義和団事件や辛亥革命では列国との関係に配慮した日本だが、21 カ条要求では中国と単独で対峙するに至った。また、満州事変が日中関係を暗転させたことも明らかである。だからといって日中関係が、21 カ条要求から満州事変へと直線的に向かったわけではない。その間には、ワシントン体制と呼ばれる比較的に安定した国際秩序が存在していたし、「東方文化事業」という文化交流の試みもあった。

このため本章では、第1 次世界大戦が勃発した1914 年から満州事変直前の1931 年までをたどり、日中関係の起伏を論じてみたい。この間の日中関係は、4 つの時期区分で変遷してきたといえよう。第1 期は、第1 次世界大戦からパリ講和会議までである。第2 期は、パリ講和会議後からワシントン会議を経てワシントン体制が成立するまでとしたい。第3期は、北京政府の末期から北伐の時期であり、日本では第 1 次幣原外交期となる。第4期は、国民政府の成立から満州事変前までとする。そのころ日本は、田中外交と第 2 次幣原外交の時代だった。

そのような4 つの時期区分に沿いながら、以下では20 年弱の日中関係を跡づけていく。分析の比重は日中間の外交関係に置かれるが、列国の動向についても適宜ふれることにしたい。パリ講和会議やワシントン会議、北京関税特別会議などに示されるように、国際政治のなかで日中関係が規定されたところも多いからである。「おわりに」では、ワシントン体制と呼ばれる1920 年代の国際秩序について、日中関係に即して考察する。

1.第1 次世界大戦


1) 第1 次世界大戦の勃発と対華21 カ条要求

1914 年6 月28 日、サラエボでオーストリア皇位継承者とその妻が暗殺された。このサラエボ事件を契機として、7 月28 日にはオーストリアがセルビアに宣戦布告したため、ドイツ・オーストリアの同盟国側とロシア・フランス・イギリスの協商国側が戦争を開始した。第1 次世界大戦の勃発に際してグリーン(William Conyngham Greene)駐日イギリス大使は、中国近海のドイツ仮装巡洋艦を攻撃するため日本に支援を求め、大隈重信内閣の加藤高明外相に日本海軍の出動を要請した。グリーンの対日要請は、イギリス商船の保護という限定的なものであったが、加藤はこれを手がかりに全面的な参戦を進めた。

日英同盟を根拠として日本は8 月15 日、ドイツ艦艇の即時退去ないし武装解除だけでなく、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に交付するよう求めて、ドイツに最後通牒を発した。通牒の回答期限は1 週間であり、ドイツがこれに応じなかったため、23 日に日本はドイツに宣戦布告した。日本は第1 次世界大戦に参戦したのである。日本海軍の第2 艦隊は27 日、膠州湾を封鎖した。9 月2 日には日本陸軍の久留米第18 師団が山東半島

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北岸の龍口から上陸し始め、山東鉄道を占領した。11 月に日本軍は、青島の要塞を攻略してドイツ軍を投降させた。イギリス軍も小規模ながら青島戦に参加した 1。

1915 年1 月に日本は、中国に対して 5 号 21カ条の要求を行った。この要求は、中国外交部を経ずに日置益駐華公使から袁世凱大総統に対して直接になされた。対華 21カ条要求といわれるものであり、主な内容は次のとおりであった。

第1 号:山東省におけるドイツ権益の対日譲渡(4 カ条)
第2 号:大連・旅順租借期限と南満州・安奉鉄道の期限を99 年延長するなど南満州・東部内蒙古における権益の拡充(7 カ条)
第3 号:漢冶萍公司の日中合弁化(2 カ条)
第4 号:中国沿岸の不割譲(1 カ条)
第5 号:政治財政軍事顧問として日本人を傭聘することなど(7 カ条)

広範な要求ではあるが、加藤外相の力点は第2 号の満蒙に置かれており、その目的は既得権益の存続に対して条約的根拠を与えることにあった。また、対華21 カ条要求の第5号は、「希望条項」として交渉の最終段階で棚上げとされた。それでも日本は、5 月7 日に最後通牒を突きつけた。中国が最後通牒を受諾した5 月9 日は、中国では国恥記念日とされた。5 月25 日には北京で、2 つの条約と13 の交換公文が結ばれた。山東省に関する条約、南満州および東部内蒙古に関する条約、漢冶萍公司に関する交換公文、膠州湾租借地に関する交換公文、福建省に関する交換公文などである 2。

このうち山東省に関する条約の第1 条では、中国政府がドイツ山東権益の処分を日独間協定にゆだねるとされていた。この条約と同時に交わされた膠州湾租借地に関する交換公文には、膠州湾を商港として開放し日本専管居留地を設置することを条件として、膠州湾租借地を中国に返還することが明記されていた。加えて1918 年9 月24 日にも、済南―順徳間鉄道と高密―徐州間鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が日中間で交
わされた。他方で、イギリス、フランス、ロシア、イタリアは1917 年2 月から3 月、日本の参戦に対する代償として、山東半島や南洋諸島での権益獲得を支持すると相次いで日本に伝えていた。とりわけ山東問題は、のちのパリ講和会議などでも議論になっていく。

加藤外相の後任には石井菊次郎が就任し、一方の中国では袁世凱が皇帝となることを表明した。だが日本は、イギリスやロシアとともに袁世凱に帝政の中止を勧告した。袁世凱に対する大隈内閣の態度は強硬であった。大陸浪人の川島浪速らは、中国の政治結社である宗社党を援助して満蒙独立運動を企てており、日本の参謀本部もこの動きを支えようとした。帝政に反対する第3 革命が広がると、袁世凱は帝政を取り消し、1916 年6 月に急逝した。すると日本は、黎元洪大総統を支援する方針に転じ、満蒙独立運動は収束していった 3。

1 斎藤聖二『秘 大正3 年日独戦史 別巻2 日独青島戦争』(ゆまに書房、2001 年)。
2 外務省編『日本外交年表並主要文書』上巻(原書房、1965 年)404-416 頁、臼井勝美『日本と中国──大正時代』(原書房、1972 年)61-89 頁。
3 北岡伸一『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978 年)181-193 頁、櫻井良樹「第2 巻 解題 大正時代初期の宇都宮太郎──参謀本部第2 部長・師団長時代」(宇都宮太郎関係資料研究会編『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』第2 巻、岩波書店、2007 年)4-5 頁。


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2) 西原借款から新4 国借款団へ


1916 年10 月には、寺内正毅内閣が発足した。寺内首相の意向を受けた西原亀三は、北京で段祺瑞国務総理らと会見し、日本興業銀行、台湾銀行、朝鮮銀行などを通じて対中国借款を行うこととした。西原借款といわれるものであり、段祺瑞政権との間で8 つの契約、総額1 億4500 万円の借款を成立させた。その内訳は、第1 次・第2 次交通銀行借款、有線電信借款、吉会鉄道借款前貸金、吉黒両省森林金鉱借款、満蒙4 鉄道借款前貸金、山東2 鉄道借款前貸金、参戦借款である。

中国側でこれに応じたのは、段祺瑞国務総理のほか、曹汝霖交通総長、陸宗輿中華.業銀行董事長などである。西原借款は、第1 次大戦下で好景気にある日本の外貨を中国に投資し、段祺瑞などの安徽派を軸に親日派を養成しつつ「日中提携」を築こうとするものであった。だが西原借款に対しては、国際協調を重んじる外務省などから批判が高まり、「日中提携」の試みは頓挫した。西原借款の返済については、1 億2000 万円がこげついた 4。

中国は1917 年3 月にドイツと国交を断交し、8 月にはドイツとオーストリアに宣戦布告して第1 次世界大戦に参戦した。このころ日本は、存在感を増していたアメリカと対中国政策の合意を形成しようとした。寺内内閣からは元外相の石井菊次郎がアメリカに特派され、11 月にランシング(Robert Lansing)アメリカ国務長官との間に交換公文を成立させた。この石井・ランシング協定では、アメリカが中国における日本の「特殊利益」を認めるとしながらも、日米両国は主義として門戸開放や機会均等を支持すると規定された 5。

この間にロシアでは革命が起こり、1918 年には革命後のロシアに対する出兵が懸案となった。当初から共同出兵に積極的なのは、イギリスとフランスであった。もともと消極的だったウィルソン政権は、同年7 月にウラジオストクへの共同出兵を日本に提起した。その名目は、チェコ軍の救済であった。8 月からは日米の共同出兵が実行され、出兵された日本軍は7 万3000 名となった。9 月に成立した政友会の原敬内閣は、初の本格的な政党内閣であり、シベリア出兵について兵力の削減と出兵地域の限定を行った 6。

同じころにアメリカのウィルソン政権は、日本、イギリス、フランスに対して新4 国借款団を提起した。アメリカの提案では、日米英仏が共同して中国に借款を行うこととされた。交渉の過程で原内閣は、条約的根拠のある既得権益に限って満蒙除外を行うという「列記主義」を受け入れた。米英側は、満蒙を地域として除外する「概括主義」を日本に許さなかったのである 7。とはいえ、北京政府は新4 国借款団そのものに懐疑的であり、日本も

4 森川正則「寺内内閣期における西原亀三の対中国『援助』政策構想」(『阪大法学』第50 巻第5 号、2001 年)117-146 頁。
5 高原秀介『ウィルソン外交と日本』(創文社、2006 年)61-102 頁。
6 細谷千博『ロシア革命と日本』(原書房、1972 年)85-104 頁。
7 三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成──原敬の政治指導の展開』(東京大学出版会、1995 年)334-344 頁。


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新4 国借款団との合意内容に抵触する南潯鉄道延長借款契約や四.鉄道借款契約を独自に成立させた。


3) パリ講和会議と5.4 運動

第1 次世界大戦が終結すると、1919 年1 月から5 月にかけてパリ講和会議が開催された。原内閣は、パリ講和会議に向けて西園寺公望を首席全権として、牧野伸顕枢密顧問官、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使、伊集院彦吉駐伊大使を全権に任命した。会議の半ばでパリに到着した西園寺に代わって、事実上の首席全権の役割を果たしたのが牧野であった。一方の中国代表団は、陸徴祥外交総長を首席全権として、これに顧維鈞駐米公使、施肇基駐英公使、王正廷の各全権が加わった。

原内閣は、パリ講和会議でイギリスとの協調による旧ドイツ権益の継承を主眼とし、そのほかの問題では大勢に順応した。日中関係で最大の問題は、山東懸案であった。すでに述べたように、対華21 カ条要求後の1915 年5 月には、山東権益に関する条約が日中間で締結されていた。これによって中国政府は、ドイツの保有する山東権益の処分を日独間協定にゆだねると規定されたのである。1918 年9 月にも日中間では、山東鉄道を日本の借款によって建設するという交換公文が成立していた。

そこで牧野全権は1919 年1 月27 日、日米英仏伊各国によって構成される5 大国会議において旧ドイツ権益の無条件譲渡を要求した。一方の中国代表団は、旧ドイツ権益の対日譲渡に強く反発した。中国側からこの問題を主導していた顧維鈞は、翌28 日の5 大国会議で発言を認められた。このとき顧維鈞は、大戦中の山東問題関連協定は「暫定措置にすぎない」との持論を披露して、山東権益の直接返還を要求した。山東問題をめぐる日中双方の見解は、このように相容れないものであった。2 月以降の会議では国際連盟創設についての討議が中心となり、山東問題は4 月下旬まで棚上げとされた 8。

結局のところパリ講和会議では、日本の要求がヴェルサイユ条約の第156 条から第158条に山東条項として盛り込まれた。これによってドイツは、鉄道や鉱山、海底電線などの山東権益を日本に譲渡した。そのことを不服として中国代表団は、6 月28 日のヴェルサイユ条約調印式に欠席した。ただし、中国は対オーストリア講和のサン・ジェルマン条約に調印しており、その批准によって中国は国際連盟に加盟し、アジア枠を利用することで国際連盟の非常任理事国に何度か当選した 9。

この間に中国では、民衆を主体とする5.4 運動が起こっていた。そこで北京政府は、運動の標的となっていた曹汝霖交通総長、章宗祥駐日公使、陸宗輿幣制局総裁を6 月10 日に罷免した。さらに13 日には、銭能訓国務総理が引責辞職を発表した。にもかかわらず、山東問題に端を発する日貨排斥運動は、それから1 年近く途絶えなかった。対日不信をぬぐえない中国は、単独での対日交渉を不利とみなし、パリ講和会議後も山東問題をめぐって日本との直接交渉を拒んだため、その解決はワシントン会議に持ち越された。

8 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001 年)20-46頁。
9 川島真『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004 年)249-265 頁のほか、唐啓華『北京政府與国際聯盟(1919-1928)』(台北:東大図書公司、1998 年)も参照。


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このころ満州では、張作霖が念願の東三省制覇を果たしていた。張作霖は、安直戦争と呼ばれる1920 年7 月の北洋軍閥間紛争で直隷派に加担し、その地位を高めた。この内乱で没落した安徽派に代わって張作霖が北京政府に発言力を得るようになり、原内閣は張作霖に接近する姿勢を示した。原内閣は1921 年5 月に東方会議を開催し、東三省内における張作霖への支援という方針を確認した。それでも、奉天派と直隷派が1922 年春に第1次奉直戦争と呼ばれる内紛に陥ると、日本陸軍の出先は張作霖を支持すべきだと主張したものの、高橋是清内閣の内田康哉外相らは武器供給や財政支援を拒んだ。


2.ワシントン体制の成立


1) ワシントン会議と9 カ国条約


パリ講和会議後から1920 年にかけて小幡酉吉駐華公使は、山東問題の交渉を中国に呼びかけつつ、排日運動の取り締まりを申し入れた。だが北京政府は1920 年5 月、山東問題の直接交渉を拒否すると回答した。日本は山東問題解決の条件を示したものの、中国は一国で日本と交渉することを不利と判断し、直接交渉に同意しなかった。1921 年1 月には、日中共同防敵軍事協定を廃止する公文が交換された。

アメリカでは1921 年3 月に、共和党のハーディング(Warren G. Harding)政権が誕生した。ハーディング政権は「平常への復帰(Return to Normalcy)」を唱えて、戦時体制からの転換を図った。そのハーディング政権の呼びかけによって、ワシントン会議が同年11 月に開幕した。ワシントン会議の直前には原敬首相が暗殺され、原と同じく政友会総裁の高橋是清を首班とする内閣が成立した。高橋内閣は原内閣の全閣僚を留任させており、対外的には原内閣の路線を継承したが、内政的には軍縮に移行しようとしていた。

ワシントン会議は、1921 年11 月から翌年2 月にかけて開催された。ワシントン会議の主な成果としては、中国をめぐる9 カ国条約、海軍軍備制限に関する5 カ国条約、太平洋問題についての4 カ国条約が挙げられる。日中関係では、9 カ国条約が重要な位置を占めることになった。9 カ国条約とは、1922 年2 月に結ばれた中国関係の条約であり、日本と中国のほか、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガルの9 カ国がこれに調印した。ソヴィエトは会議に呼ばれていなかった。また、日本、アメリカ、イギリス、フランスは4 カ国条約を締結し、その第4 条に日英同盟の廃棄が明文化された。

日本の首席全権は加藤友三郎海相であったが、中国関係については駐米大使の幣原喜重郎全権が担当した。一方の北京政府は、会議に際して国内から意見を求めるとともに、代表団に各派を含めることで統一の体裁を整えようとした。極東問題について中国首席全権の施肇基駐米公使は、1921 年11 月に10 原則を提起した。施肇基の10 原則には、中国の領土保全、門戸開放、機会均等などが盛り込まれていた 10。

これに対してアメリカ全権のルート(Elihu Root)が、現状維持的な「ルート4 原則」を提起した。その4 項目とは、主権の独立と領土的行政的保全、安定政権の樹立、機会均等、友好国の権利などを害する行為を慎むこと、であった。このルート4 原則が採択され

10 川島真『中国近代外交の形成』266-318 頁。


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たため、中国の主権を尊重しつつも、各国の既得権益を原則的に維持することで列国は合意したのである。ルートの路線は、現状維持的対日協調策ともいうべきものであった。「ルート4 原則」は、9 カ国条約の第1 条に盛り込まれた。このため、9 カ国条約の第3 条は門戸開放と機会均等を規定しているものの、第1 条には現状維持的な規定が採用されていた 11。

これと関連してヒューズ(Charles Evans Hughes)国務長官は、門戸開放原則について決議案を提示した。門戸開放原則に関する調査機関として、「諮議会」の設立を盛り込もうとしたのである。ヒューズ案によると「諮議会」は、諸外国の既得権益も門戸開放原則の観点から審議できるという。したがって、既得権益への門戸開放原則の適用という問題を再燃しかねなかった。だが、全権で駐米大使の幣原喜重郎は、既得権益までもが「諮議会」の審査対象となることに異論を唱えた。このため、既得権益については審議の対象外とされたのであり、門戸開放原則についての決議案は採択されたものの、具体的な成果には乏しいといえよう。


2) 山東問題と対華21 カ条要求関連条約の改廃問題


ワシントン会議では、山東問題についても協議された。日本と中国は1922 年2 月、山東懸案に関する条約に調印したのである。この条約では、15 年賦の国庫証券によって鉄道財産を日本に償却し、国庫証券の償還期間中は運輸主任と会計主任に日本人各1名を任用して、鉱山経営は日中合弁とすることが盛り込まれた。山東問題をめぐる日中交渉では、米英からマクマリー(John Van Antwerp MacMurray)とランプソン(Miles Wedderburn Lampson)がオブザーバーとして参加し、停滞しかけていた日中交渉を打開した。そのことは、中国を調印拒否に追い込んだパリ講和会議と大きく異なっていた。

ワシントン会議では、中国の関税をめぐる条約も締結された。中国に増徴を認める内容の条約が成立したことは、のちの北京関税特別会議につながっていく。さらには、シベリア撤兵問題や東支鉄道問題なども議論されたが、中国の関税自主権回復や治外法権の撤廃については合意されなかった。

他方で顧維鈞全権は1921 年12 月、中国における租借地の回収を提議していた。これについて埴原正直全権は、南満東蒙条約によって関東州租借権を99 年間延長したという立場を堅持した。つまり埴原は、原内閣期の新四国借款団交渉によって日本の特殊権益がアメリカ、イギリス、フランスに承認されたと解釈し、さらに在華権益の現状維持的規定としてルート4 原則を援用したのであった。イギリスも日本の立場に理解を示し、関東州をイギリスの九龍租借地になぞらえて埴原の主張を擁護した。

それでも王寵恵全権は、21 カ条要求に関連する条約の改廃を要求した。しかしこれには、日本が批判的であったことはもとより、アメリカとイギリスも冷ややかであった。イギリス代表団は日本の立場を支持し、既成条約の効力を論議するのは不条理であるとした。さらにアメリカのヒューズは、21 カ条要求関連条約の改廃問題を山東問題と密接な関係にあるとみなし、山東問題の解決までその審議を延期した。

11 麻田貞雄『両大戦間の日米関係──海軍と政策決定過程』(東京大学出版会、1993 年)128-132 頁。



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このため、21 カ条要求関連条約改廃問題が初めて審議されたのは、閉会間際の1922 年2 月2 日であった。日本側からは幣原が、中国側の主張を批判しつつも3 項目で譲歩した。その譲歩とは、「列記主義」的南満特殊権益の範囲を除いて南満東蒙の借款優先権を新借款団に提供し、南満での外国人顧問傭聘における優先権を放棄したうえで、留保していた対華21 カ条要求の第5 号を撤回するというものであった。もっとも、これらの譲歩は1921年10 月の原内閣閣議決定で形式的な譲歩として予定されていたものにすぎない。ヒューズも、王寵恵の提起を支持しなかった 12。

なお、ジャーナリストの石橋湛山は、ワシントン会議に際して「一切を棄てる覚悟」を主張していた。つまり、日本は満州権益を放棄し、台湾や朝鮮に独立を認めて中国と提携すべきだと石橋は考えた。石橋は東洋経済新報社に太平洋問題研究会を設置し、国民党代議士の鈴木梅四郎、田川大吉郎、植原悦二郎、さらには知識人などもこれに参加した 13。


3) ワシントン体制の成立とその後


日本の学界では、1920 年代の国際秩序をワシントン体制という概念で論じることが通例になっている。すなわち、ワシントン体制とは日米英3 国による協調外交の体系であり、中国はそのもとに位置づけられており、ソヴィエトは体制から排除されていた。その起点となるのが、1921 年から翌年にかけて開催されたワシントン会議にほかならない。

ワシントン会議の9 カ国条約に即していうなら、北京関税特別会議や北伐、1929 年の中ソ紛争、中国「革命外交」などへの対応が試金石となり、ワシントン体制は1931 年の満州事変で崩壊したといえよう。もう1 つの支柱である5 カ国条約に関しては、1930 年の第1 次ロンドン海軍軍縮会議で、補助艦などについて軍備制限が補強された。だが日本は、1936 年1 月に第2 次ロンドン海軍軍縮会議に脱退を通告し、海軍軍縮について無条約となった。

日中間では王正廷外交総長と小幡酉吉駐華公使が、1922 年12 月に山東懸案細目協定や山東懸案鉄道細目協定を結んだ。山東鉄道については、4000 万円の中国国庫証券と引き換えに返還することとされた。青島には日本総領事館が同月に設置され、青島守備軍は撤退した14。

それでも中国では、国権回収運動が高まりつつあった。なかでも、日本の租借地であった旅順・大連をはじめ、教育権や商租権、鉄道権益などに対して回収運動がなされた。このうちの商租権とは南満州における土地貸借権であり、1915 年に日中間で締結された南満東蒙条約に基づいていた。とりわけ重要なのが、中国の旅順・大連回収運動であった。対華21 カ条要求の関連条約を無効とみなす北京政府は、関東州租借地の期限が1923 年3 月で満期になると日本に主張したのである。しかし、中国側の主張は日本に認められなかったため、示威行動や日貨排斥が中国の各地で行われた。

このころ日本は、中国に対して「対支文化事業」という文化的アプローチを打ち出して

12 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』89-112 頁。
13 増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995 年)73-81 頁。
14 本庄比佐子編『日本の青島占領と山東の社会経済 1914-22 年』(財団法人東洋文庫、2006 年)。


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いた。第1 次世界大戦後に中国人の日本留学は2、3 千人に低迷しており、中国の留学先はアメリカが主流になっていた。義和団事件賠償金を中国への文化事業に還元する構想は、寺内内閣が中国の第1 次大戦参戦に伴って賠償金の支払いに猶予を与えたころから存在していた。1922 年6 月に顔恵慶外交総長が小幡駐華公使を通じて義和団事件賠償金支払いの2 年延期を要請すると、日本政府は文化事業構想を具体化していった。

日本政府は「対支文化事業」の基礎となる特別会計法を1923 年3 月に制定し、岡部長景外務省対支文化事務局事務官や入沢達吉外務省嘱託東大教授による現地視察を経て、対日留学の奨励、研究所や図書館の設置、および東亜同文会による中国での教育といった事業を推進しようとしたのである。その財源には、義和団事件賠償金残額のほか、山東懸案解決時の山東鉄道補償金も繰り入れられた。同年4 月には、北京政府から朱念祖江西教育庁長らが日本に派遣された。

1923 年12 月に再来日した朱念祖は、汪栄宝駐日公使とともに出淵勝次対支文化事務局長などと交渉した末に、その成果を1924 年2 月の覚書として結実させた。この出淵・汪覚書は、北京に図書館と人文科学研究所を設立し、上海に自然科学研究所を設立したうえで、博物館、医科大学、および病院の設立を検討し、日中同数の評議員会を設置して会長は中国人とすることを内容とした。したがって、中国側の意向をかなり反映していた。名称も、「対支文化事業」から「東方文化事業」と改められた。にもかかわらず、その後も東三省を中心とする教育権回収運動と呼応して、「東方文化事業」は文化的侵略であるとの批判が中国側から相次ぎ、1928 年の済南事件後には中国の委員が脱退するに至った15。


3.北京政府「修約外交」と第1 次幣原外交


1) 5.30 事件

出淵・汪覚書が1924 年2 月に成立したころ、日本の首相は清浦奎吾であった。清浦は山県有朋直系の官僚であり、主な閣僚の母体を貴族院の研究会などとする清浦内閣は、政党との関係では政友本党のみを与党とした。この清浦内閣に対して、憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派は時代錯誤と批判した。その護憲三派が総選挙に圧勝したため、憲政会総裁の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が6 月に誕生した。外交面ではソ連との国交を樹立するなどした加藤内閣は、男子普通選挙法を成立させてもおり、政党内閣は1932年の5.15 事件まで続いていく。

加藤内閣の外相が幣原喜重郎であった。1924 年7 月の議会で幣原は、中国に対する不干渉を堅持し、機会均等主義のもとに両国民の経済的な関係を深めることで、ワシントン会議の精神に依拠した国際秩序を形成すると公言した。幣原は、加藤内閣のほか第1 次若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣、第2 次若槻内閣という憲政会─民政党系の内閣において、通算5 年以上も外相を務めた。

幣原は、第2 次奉直戦争や郭松齢事件などの中国内乱において不干渉の立場を貫いたが、

15 阿部洋『「対支文化事業」の研究──戦前期日中教育文化交流の展開と挫折』(汲古書院、2004 年)、山根幸夫『東方文化事業の歴史──昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005 年)。


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日本陸軍の上層部や中堅層のみならず外務省出先からも無策と批判されがちであった。第2 次奉直戦争で日本陸軍の出先は、裏面工作によって馮玉祥のクーデターをもたらした。

クーデター後には張作霖、馮玉祥、段祺瑞の会談が開かれ、段が臨時執政となった。郭松齢事件では関東軍が、満鉄付属地30 キロ以内での戦闘禁止を独断で通告している。このとき関東軍は、ソ連に操縦された馮玉祥と国民党が郭松齢に接近して東三省の赤化を企てていると認識したのである。これによって馮玉祥がソ連への亡命に追い込まれたのに対して、張作霖は関内での影響力を強め、大元帥として北京に君臨するに至った。

このころ中国には、日本の綿業資本によって紡績工場が設立されていた。中国にある日系の紡績工場は、在華紡と呼ばれた。もともと在華紡の中心は上海であったが、第1 次世界大戦後には青島や天津にも在華紡が進出した。日本の対中綿糸輸出は1914 年を頂点に減少しており、賃金高騰などによって日本紡績業の競争力が低下するなかで、中国の綿糸市場を掌握するためには現地に進出して紡績業を経営する必要があった16。だが1925 年2月上旬には、内外綿株式会社や大日本紡績、および日華紡績といった上海の主要な在華紡でストライキが行われた。ストライキは青島の在華紡にも波及し、4 月には大日本紡績の職工約2500 人が賃上げや労働条件の改善を要求してストライキに入った。ストライキに対して日本側は、沈瑞麟北京政府外交総長に取り締まりを要請した。

すでにドイツやソ連と対等な条約を締結していた北京政府は、中国外交史上初の賠償をドイツから獲得することに成功しており、列国との間でも不平等条約の改廃を目標とする「修約外交」の機会をうかがっていた。この「修約外交」とは、狭義には不平等条約の期限が到来した際に改廃を求めるものであり、広義には1912 年以来の北京政府による不平等条約改正外交全般を含んでいる。

1925 年5 月30 日にはイギリスを中心とする租界警察が、上海でデモに発砲して多数の死傷者を出した。このため、6 月からは大規模なストライキやデモが中国の主要都市で行われた。6 月1 日から3 回にわたって沈瑞麟北京政府外交総長は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ各国の公使などで構成されていた駐華公使団に対して、逮捕された学生などの釈放や事件の再発防止を強く要請した。さらに北京政府外交部は6 月24 日、不平等条約によって諸外国との友好関係が阻害されていることを5.30 事件の一因とみなし、中国の国際的地位は第1 次世界大戦の敗戦国にも劣っているとして、領事裁判権や租借地での改善を駐華公使団に提起した。このため5.30 事件は、不平等条約の改正問題につながった。

5.30 事件について中国の世論は、弾圧を主導したイギリスに最も批判的であった。しか

16 高村直助『近代日本綿業と中国』(東京大学出版会、1982 年)107-132 頁。商工省貿易局「日華貿易ノ概況」1931 年5 月、11-13 頁によると、日本の対中貿易額は次のように推移していた(単位円)。
90,037,354(1910 年)、
88,152,792(1911 年)、
114,823,727(1912年)、
154,660,428(1913 年)、
162,370,924(1914 年)、
141,125,586(1915 年)、
192,712,626(1916 年)、
318,380,530(1917 年)、
359,150,818(1918 年)、
447,049,267(1919 年)、
410,270,497(1920 年)、
287,227,081(1921 年)、
333,520,262(1922 年)、
272,190,662(1923 年)、
348,398,787(1924 年)、
468,438,956(1925 年)、
421,861,235(1926 年)、
334,183,608(1927 年)、
373,141,991(1928 年)、
346,652,450(1929 年)。


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し、「日英米三国協力」を基調とする幣原外相は、警察責任者の処分や犠牲者への救恤による5.30 事件自体の解決を優先し、直接関係のない条約改正は審議すべきでないという方針であった。北京政府外交部の派遣した交渉員と矢田七太郎駐上海総領事の間で、ストライキ解決の条件が交渉された。労働組合法に基づく工会の承認、ストライキ中の賃金支給、賃上げ、理由なき解雇を行わないことなどをめぐって協議が行われた末に、日中間で妥協が成立した。

2) 北京関税特別会議


ワシントン会議で1922 年2 月に調印された中国関税条約は、関税率を速やかに5%に改定して、地方政府の課す通行税である釐金を廃止するために特別会議を条約実施後3 月以内に開催し、その特別会議においては2.5%の増徴を行うと規定していた。つまり、合計で7.5%の付加税を承認する方向が打ち出されたのである。その後に中国の関税率は5%に改定されたものの、フランスの批准が遅れたため関税会議は長らく開催されなかった。ようやくフランスが1925 年8 月にこれを批准すると、北京政府は関税会議を10 月に開催すべく各国に呼びかけた。政権基盤の脆弱な北京政府は、会議の成功によって財政を確保し、正統性を高めることに努めた。

北京関税特別会議は1925 年10 月26 日に開幕した。中国はこの会議に沈瑞麟、顔恵慶、王正廷、黄郛、蔡廷幹の各全権らを送った。日本代表団は日置益を首席とし、次席の芳沢謙吉に加えて佐分利貞男、重光葵、堀内干城、および日高信六郎らが随員となった。会議は、沈瑞麟外交総長の開会宣言と段祺瑞執政の歓迎挨拶によって開幕した。王正廷全権は、関税自主権の回復を要求し、5%から30%の差等税率を暫定措置とすることを提起した。これに対して日置全権は、関税自主権を原則的に承認する用意があると演説した。この原則的承認案が合意を得ると、関税自主権獲得までの暫定措置が最大の焦点となった。

2.5 から22.5%の差等税率という日米英共同の妥協案が1926 年3 月に採用されると、焦点は増収分を債務整理に充当させるか否かという問題に移った。イギリスが2.5%付加税の無条件承認を打ち出したため、充当問題を未決のままに付加税を先行させることで合意が成立するかに思われた。だが、債務整理などを重んじた幣原は、この付加税先行案に賛同しなかった。そのため、会議はこれといった成果のないままに、7 月に無期延期となった。幣原の秩序構想とは、概してワシントン会議における決議の枠内にとどまろうとするものであった17。

北京関税特別会議が不毛な結果に終わったためもあり、北京政府の外交に対する一般的な評価は高くない。しかしながら、北京政府の「修約外交」に具体的な成果がなかったわけではない。国務総理兼外交総長の顧維鈞は、1926 年11 月に臨時弁法と呼ばれる暫定協定を導入することで、中比和好通商行船条約を強引に失効せしめている。そのほか北京政府は、1920 年代前半までにドイツ、オーストリア、ソ連の天津租界を回収していた。さらに1927 年に北京政府は、ベルギーとの新条約交渉において天津租界を回収する合意を取りつけた。このため天津租界の保有国は、日本、イギリス、フランス、イタリアだけとな

17 Akira Iriye, After Imperialism: The Search for a New Order in the Far East, 1921-1931 (Cambridge: Harvard University Press, 1965), pp. 57-88;臼井勝美『日本と中国』196-254 頁。


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った18。

3) 北伐と南京事件


その間に広州では、1924 年1 月に国民党第1 回全国代表大会で連ソ・連共・労農扶助の3 大政策が決定され、第1 次国共合作が成立していた19。さらに広州の国民政府では、蒋介石が1926 年6 月に国民革命軍の総司令となった。その国民革命軍が、中国の再統一に向けて北方へ軍事行動を展開した。北伐の進展に伴って、1927 年1 月には国民政府が武漢に移された。さらに国民革命軍は、同年3 月に上海や南京を占領した。日本では1926年1 月に加藤首相が死去し、同じく憲政会の若槻礼次郎内閣が成立していた。若槻内閣には幣原外相が留任しており、元大蔵官僚の若槻は外交を幣原に任せた

1927 年3 月24 日に南京が国民革命軍によって占領されたとき、南京では、日英の領事館や外国人などが中国の国民革命軍によって襲われた。アメリカ系の金陵大学も被害にあった。これに対してイギリスとアメリカは、南京の城内を軍艦で砲撃した。しかし日本は、居留民の要請もあって報復しなかった。若槻内閣の幣原外相は、この件で中国への制裁に反対であった。むしろ幣原は、蒋介石を評価してこれを交渉相手にしようとした。このため幣原は、軟弱外交として非難された。

南京事件翌日の3 月25 日には、第6 軍第17 師団長の楊杰が南京領事の森岡正平を訪れた。ここで楊は、南京事件について遺憾の意を表したうえで、「掠奪ハ在南京共産党部員カ悪兵ヲ煽動案内セルニヨルモノニシテ即時徹底的ニ取締ヲ為シ外交部ノ設置ト共ニ賠償ノ交渉ニ応ス」と述べた。このように楊が南京事件の責任を共産党に帰したことは、森岡の電報を通じて幣原の中国観にも影響した。のみならず、黄郛を介して蒋介石も、南京事件が共産党によるものだという見解を日本側に示し始めた。

そこで幣原は、蒋介石らに「深甚ナル反省ト決意トヲ促サムコト」を矢田上海総領事に訓令した。つまり、蒋介石に対して幣原は、「共産派」への断固たる措置を暗に求めたのである。中国の秩序形成を支援するという観点から「外交的平和的方法」を用いつつ、「蒋介石ノ如キ中心人物」によって時局を収束させるべきだと幣原は考えた。このような判断の根底には、経済的利益を重視する国益観があった。蒋介石は4 月12 日、上海で反共クーデターに至った。

蒋介石を交渉相手とすることに加えて、幣原の方針にはもう1 つの特徴があった。すなわち、イギリスやアメリカと歩調を合わせることである。南京事件において日本は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアとともに一度は共同通牒を行った。しかし、その後は列国との調整が難航した。とりわけ、イギリスが中国への再通告を主張したのに対して、アメリカはそれに批判的であった。このため、中国との交渉は各国別となった20。

18 服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』156-169 頁。
19 その前後の孫文に関する最近の研究として、田嶋信雄「孫文の『中独ソ3 国連合』構想と日本 1917-1924 年──『連ソ』路線および『大アジア主義』再考」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007 年)3-52 頁。
20 服部龍二『幣原喜重郎と二十世紀の日本──外交と民主主義』(有斐閣、2006 年)110-112 頁。ただし、南京事件の原因について現在の学界では、「共産派」に断定されているわけではなく、北軍陰謀説などもある。この点については、栃木利夫・坂野良吉『中国国民革命──戦間期東アジアの地殻変動』(法政大学出版局、1997 年)259-262 頁を参照。


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そのほか同年4 月3 日には、漢口事件が発生した。日本外務省の調書によるとその契機は、漢口の日本租界において日本人水兵2 名が、中国人の群衆によって暴行を受けたことであった。このとき日本は、海軍陸戦隊を上陸させることで租界を確保したが、それでも幣原を軟弱外交とする世論は高まっていた。他方、反共クーデターを起こした蒋介石は、南京に国民政府を成立させた。汪兆銘の率いる武漢国民政府も、9 月に南京の国民政府と合流した21。

21 外務省編『日本外交文書』昭和期Ⅰ、第1 部、第1 巻(外務省、1989 年)660-666 頁、家近亮子『蒋介石と南京国民政府──中国国民党の権力浸透に関する分析』(慶應義塾大学出版会、2002 年)55-136 頁。




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