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和田さんスペース

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和田さんスペース


12月1日記(※)
和田さんの為に2回限定でスペースを提供します。おそらく、1回で1000字×10回分以上は有ると思います。その2回分です。誰かに議論を吹っかけたり、余所へ行って呼び込みをなさるのは困ります。管理上のコメントがある場合は、投稿欄の外に書きますのでご了承ください。
(何度も申上げていますが、ご自分のサイトを設けてご持論を発表するのが最善です。そのための準備の一環として御使いいただければ幸いです。)

※日付のみ追記

和田さんへ
1月29日

 よくよく考えて、私やKさんへのカラミの部分を削除させていただいて、再掲載することにしました。
 カラミは、ここをご提供する主旨に反するからです。ここをご提供するということは不特定多数への発表ですから読者は私と和田さんとの論争の経緯など、知るよしもありません。読者にわからないだけでなく、ただただ紛糾だけが印象に残るものは避けねばなりません。
 重複投稿が繰り返されていましたので、1つにしました。不具合がありましたらお知らせください。原稿の差し替えご希望もおしらせください。

和田さんの論稿


  • 石田四郎の手記も私にとっては赤松等の嘘の証拠でしかなかった。戦史叢書は大町大佐一行の構成を隠している、恐らく目的も隠しているに違いない、この期に及んで出撃準備をしない船舶特攻隊のトップなどあるのか-それが石田手記を最初に読んだ率直な感想だった。 石田手記では大町大佐が阿嘉島から渡嘉敷ではなく沖縄本島へ帰還を目指していたと記述されていることは、曽野綾子のいう「視察」は嘘で慶良間の出撃に失敗したので沖縄で出撃を目指した証拠と考えた。当初、橇船の橇の字は判読出来なかった。赤松が、大町大佐は丸木舟で渡嘉敷に来たとの記述は当然嘘と思ったので、嘘を突き通すという意味においては、橇船も丸木船(クリ船)でなければならないと単純に思った。 赤松自身が一方で大町大佐はクリ船で来島したといいながら、赤松隊が別の資料で大町大佐はマルレで来島したと語るのはあまりにも不用意ではないかと思った。  しかし、これについても考えを変えた。 転機は赤松版「戦闘の概要」での5月下旬以後の爆雷訓練とか、クリ船訓練の記述が沖縄本島でマルレ消耗後のクリ船出撃命令に連動していると考えてからであった。

    赤松隊は破壊されなかった無線や稲垣隊からの情報により、沖縄本島で司令部が無理を承知でマルレ全壊後もクリ船で出撃させる意向を知ることが出来る立場にいた。 もともと、赤松隊は軍に媚びへつらい、自ら戦闘準備に抜かりがなかったようにアリバイ作りをすることに懸命だったことが「戦闘の概要」から伝わってくる。  阿波連から皆本中隊が爆雷を運んだとの記述があるが、「戻った」との記述から運んだ場所は本部の近くであり、要するに地雷として利用したことが透けてみえる。防衛省が保有する陣中日誌類にははっきり戦後調整したと書かれているものがある。それはそうだろう。 降伏した日本軍の陣中日誌は米軍が取り上げる可能性が高い。 全滅を覚悟した部隊なら(米軍に機密情報を渡さないために)陣中日誌などの書類を焼却する。赤松の書いた書類とて自ら1946/3月に記載したと語っているものもある。  元の日本軍組織に陣中日誌を復元調整して渡すのであれば、口述者の軍への思惑により書かれる内容が変わるのは当然のことである。  で、私は防衛省に保管されている陣中日誌類は戦後書き直されたものが多く、全部が信用出来るものとは思っていない。http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305202

  • たとえば、上記にもおかしな記述が掲載されている。3月27日大町大佐のマルレ出航は乗船全員の氏名と共に記載されているが、三池少佐のマルレ出航の記載がない。陣中日誌なら、夜間戦闘や夜間行軍が無い限り、その日の夜までに記載されてしかるべきだがそのような記述はない。  4月7日 土肥技術伍長那覇転進  3月27日転進し死んだはずの人物がこんな時期に記載されている。  4月14日 渡嘉敷に於て本15日午前中の爆雷運搬に赴きし第三中隊木村候補生は作戦中敵弾の為戦死す。 15日の出来事が14日に書けるはずもない。 渡嘉敷に爆雷を運搬するというのが軍に対するアリバイ作りではないのか。渡嘉敷に爆雷を集積していたとすればマルレ出撃に支障をきたす重大な手抜かりである。おそらく、早い時期から儀志布島方面へ爆雷を移動させようとしたというアリバイ作りをあせったため、日付を誤るミスを犯したものと思われる。他にも記載されていない日があまりにも多い。とても当初の陣中日誌とはいえないだろう。わずかに、第二中隊の陣中日誌は記載された日が多く時間も細かく記入されていることから陣中日誌の原型を留めている可能性が強い。 それはともかく、「ある神話の背景」での1945/3/20までの記述は異様である。まるで何の前触れもなく突然沖縄地域が戦場になるような錯覚を起こさせる記述である。事実として、米軍は九州・四国・台湾の基地航空隊を攻撃し続け、20日になって台湾爆撃が沈静化する。この時点で大本営首脳も米軍の侵攻地域は沖縄方面で早ければ4月1日にも上陸があり得ると判断したのだ。当然前線の第32軍首脳は大きな危機感に駆られたに違いない。それを察するからこそ「戦史叢書」の選者も3月20日に船舶部隊などの編成命令が出されたと推定したのだ。 現地司令部はマルレ出撃後の手配をした。 このような時期にマルレ出撃準備がなされず、視察だけを実行するというのは矛盾であり、現地司令部と大町大佐の戦術的無能を示すものでしかない。  軍事的にこの期に及んで出撃準備をしないということなどありえない。

    これだけはいえるが、赤松はもちろんのこと、曽野綾子・石田四郎は大町大佐が出撃準備計画などなかったように証言・記載することによって、大町大佐の軍人としての能力をおとしめた。 赤松等が準備を怠り、出撃に失敗したことを隠すためである。1944/10/17米軍はレイテ島上陸に先立ち(3日前)、レイテ島から数十キロ離れたスルワン島に上陸した。スルワン島は渡嘉敷島と同じくらいの面積である。 その前例からして沖縄本島に上陸する前に慶良間に上陸しても不思議でもなんでもなかった。 これは軍首脳が無能だったせいだが、3月24日になっても出撃準備を進めていない赤松には「出撃したくない」という気持ちがあったのかもしれない。 当初、キー坊さんのそのような主張に賛成する気はなかったが、震洋の豊廣隊長の言動を知ればそれもあるかなと思う。クリ船に関する当初の関心は「そのころ船団長の大町大佐という指揮官が島に渡ってきていて、この人が島からクリ船で脱出する計画がからまったりしていたので、赤松大尉に出撃中止の司令軍令が下ったらしい。」という大城良平の発言が青い海に掲載された赤松や曽野綾子の会合で赤松隊の行動を正当化するため話し合われた内容ではなかろうかという推定である。 これはすごく簡便だった。赤松隊周辺にクリ船ではなく漁船という記述が複数存在した。慶良間で漁船といえば、鰹船で鰹船は早々と前年10/10米軍の爆撃で破壊されていることが判明し、さらに大城良平の証言(潮1971/11月号)より後の「ある神話の背景」連載にクリ船の話が出てくる。やはり、大城良平は曽野・赤松会談に参加していた。 赤松の関心は自決などではなかったと思う。 第三戦隊が可能な範囲で出撃しようとした、その後も爆雷運搬やクリ船訓練で出撃をあきらめなかったと軍関係者に認められたかったに過ぎない。 当初はそうしないと、敗戦のほとぼりが覚めれば旧軍関係から処罰されるかもしれないという恐怖感が支配しただろう。 しかし、60年代以降は、自分たちは靖国思想に殉じてきたと旧軍の仲間達から評価されたいためであったろう。 そのためには、事実を改竄し大町大佐の軍事的無能を浮き彫りにすることも厭わなかったわけである。

    しかし、自衛隊皆本などの尽力でその企みが一応戦史叢書の記述として成功した後、赤松等の標的は自決と第三戦隊は無関係だという評価を得ることに変わった。 赤松等は住民に何らの同情も抱いてはいないが、曽野綾子が富野をして語らせるように自決を島民の殉国美談として「靖国に殉じた清らかな死」に変換しようとした。 しかし、これは二重に誤っており、第三戦隊の本心でもない。 沖縄県史「女子青年団匿名座談会」ではK即ち赤松派の古波藏蓉子がこんなことを語っている。  「K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納河原を出て玉砕場へ向かっている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずがないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。」赤松に近い立場の島民にとっても、自決とは人情も何もない醜い出来事に過ぎない。 次に、「ある神話の背景」の中で元第三戦隊隊員の谷本は元兵事主任に「渡嘉敷島の多くの島民に勲章が出た」ことをなじっている。勲章の癒し効果については実は島民も靖国思想に敗北していることは指摘しておく必要があるがそれはともかく、谷本と富野の心情に相違はないと思う。 赤松に追従する元第三戦隊の隊員にとって島民はただ、軍隊に忍従し靖国に殉ずべき土民にすぎない。 従って、軍人と同様に援護金や勲章をもらうことはけしからん、彼らの本心はその程度なのだ。 だから、狼魔人の金魚の糞のようにうろつく者達にとって原告を尊敬しない沖縄の人は見下されるべき化外の民ということになる。 だから、現在の曽野にとっても皆本・知念にとっても米軍に投降しようとした島民はスパイであり、許せないということになる。 清らかな死などというおだては、再び靖国の動物的忠誠心を要求するアメに過ぎない。

    ただ、応援団の中にはそうでない者もいる。 さしずめ、徳永弁護士などはその筆頭である。彼は、レヴィ・ストロースの構造主義を引用したつもりで集団自決を「民族の叙事詩」に仕立て上げようとしている。 しかしながら、徳永の構造主義はストロースのものではない。実は徳永の構造主義はユングの集合的無意識に置き換えられている。 ユングにとって集合的無意識は生理的なものでもあり、しかもそれは遺伝するという。 神話が生成する一つの契機に生理現象があったことは確かである。 オウムの松本が継承した酸欠ヨーガは以下のようなものである。もともと、人間は臨死状態になると生理的に何とか覚醒させようと脳内物質を出す。その麻薬効果により、臨死体験をした者は一様に川叉は狭いトンネルを渡って花園に到着するという幻覚を見ることになる。 三途の川と天国だ。 もっと複雑な幻覚を見させる物質として麻薬と毒キノコがある。 代表的な毒キノコはベニテングダケで文化人類学者ワトソンによれば中央アジアに自生していたベニテングダケをソーマ酒と名づけていた。シベリアのシャーマンはベニテングタケを引用して他界に飛翔する幻覚を見ることが出来る。インド亜大陸でベニテングタケを見つけることが出来ないアーリア民族が同じ効果を持つ酸欠ヨーガを発明した。ベニテングダケやヨーガによる幻覚、他界での幻覚経験が神話形成の材料になったことは、オウム死刑囚の経験談やマックスウェーバのヨーガ分析から断言出来る。ユングはそのような生理的幻覚から生じた集合的無意識を、さらに集団的に遺伝するものとして、遺伝と文化を同一視することさえした。   ユングのオカルトに過ぎない集合的無意識の解釈に飛びついたのが日本主義者達である。 徳永その他日本のユング流構造主義者 ?にとって集合的無意識は、柳田民俗学における常民の氏神信仰のように先験的に尊重すべき、暖かい眼差しを向けるべき伝統・歴史・文化というわけである。

    実際、レヴィ・ストロースは「野生の思考」の中でユングの意味の結びついた祖型が生理的根拠をもつとする考え方を厳しく批判する。 ストロースの構造とは数学的・言語的・記号的・分類的なもので行列が基本である。 そして、神話は断片的行列の再構築である。  ユングや徳永にとって神話とは、民族の使命・運命の顕現なのであろう。 ストロースにとって神話とはある種のバランス感覚から生まれる。中南米の生け贄も、自然と社会のバランス回復と考えられた。 特定の神話に普遍性・絶対性を与えることは非科学的で全人類に加害と忍従(自虐)をもたらすことになる。歴史・伝統・文化という言葉に溺れる民族的エゴイズムの残虐性(靖国思想が典型的)には常に目を光らせなくてはいけない。
    -- (和田) 2010-01-26 17:35:38

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