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映画「南京の真実」製作日誌21

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映画「南京の真実」製作日誌21

"情報戦" の最前線から(第21回)
「正論」2009・6 水島総

四月十九日(日)「南京」月報
南京大虐殺と戦争報道の内幕

映画「南京の真実」第二部の検証編を製作する中で、改めて深く感ずるのは、支那事変や大東亜戦争が、世界規模の大情報戦争でもあったという事実である。日本とて例外ではなく、大本営発表や戦前の朝日新聞等の戦争報道の嘘は、アメリカでも、英国、フランス、ドイツでも、あらゆる国で、全く同様に行われていた。そして、現在も、戦火は交えなくとも、国際情報戦争はさらに拡大、緻密化した形で続行されている。この事実を・私達はしっかり自覚し、それを踏まえた上で、現在の「歴史論争」を行うべきだろう。

映画製作中に、面白い本を見つけた。ひとつは一九七五年に書かれ、日本では昭和六十一年に出版された『戦争報道の内幕』(時事通信社刊)で、もうひとつは平成十四年に出版された『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社刊)である。『戦争報道の内幕』は、訳者のあとがきによると、ロンドンの「サンデー・タイムス」のベテラン記者フィリップ・ナイトリーが多年にわたる資料の渉猟と多くのインタビューをもとに書き上げたもので、優れた内容に対し、「1975年度アメリカ海外記者クラブ賞」が贈られ、日本も含め十ニカ国で翻訳されたという。原題は『The First Casualty』。
一九一七年にアメリカの上院議員ハイラ・ジョンソンが語った「The First Casualty when war comes is truth(戦争が起きたとき、最初に犠牲になるのは真実である)」から、採ったらしい。

内容は、従軍記者による戦争報道が、政府や軍の検閲やプロパガンダ、秘密保持の制約の中で、果たしてどれほど正確に伝わったかを、十九世紀半ぱのクリミア戦争からベトナム戦争に至るまで詳細に検証している。この著者は、リベラルな思想の持ち主だが、同業者である従軍記者の戦争報道に対して、冷徹な取材と検証をしている。一読して驚いたのは、さまざまな戦時の制約や愛国心からもあるのだろうが、世界中の記者たちが、ど
いつもこいつも、嘘ぱかり報道していたという「真実」だった。まさに最初に戦争の犠牲となるのは「真実」だったのだ。この本は「南京大虐殺」の新聞報道を考える上で、非常に有力な事実(証拠)を提供してくれた。

というのも、虐殺肯定派の人々は、それこそ鬼の首でもとったように、アメリカの有カ新聞が虐殺を報道していたと主張し、ニューヨーク・タイムズの記者ダーディン等の虐殺報道を取り上げている。しかし、この本の検証によると、支那事変の時の従軍記者の置かれていた立場と状況、記者たちの心理は、アメリカ側、支那側の立場に完全に立っており、「嘘」報道が当然の状況だったことが実例で分かる。「南京大虐殺」記事をまとめたと言われているマンチェスター・ガーディアンの記者のティンパーリの「戦争とは何か」の「嘘」も、単に彼が中国国民党中央宣伝部顧間(スパイー1情報工作員)だったというだけではない。他の理由も説明してくれるのだ。著者は「隠された中国の真実」という章の最初に、「中国という戦場ほどアメリカ市民が現実から完壁に遮断され、そしてそのためにこそ深刻な事態をその後にもたらした戦場はなかった」(『戦争報道の内幕』)と書き出し、蒋介石とその夫人宋美齢が支那民衆から支持されているという嘘、アメリカの財政的、軍事的援助さえあれば、日本軍を撃破できるという嘘について指摘している。

「真実、すなわち、蒋介石政権が大幅に腐敗し、残忍で非能率的である」(同前)にもかかわらず、ワシントン・ポストのカール・サンドバーグが「蒋介石夫人が求めているもの(援助)は全地球上の人類の一家のために求めているものである」(同前)と報道している例を挙げ、さらに蒋介石の報道管制についての重要な指摘をしている。「特派員たちは蒋による検閲制度だけが悪いとは主張できなかった。中国外にいても彼らは真実を伝えたら中国に戻れなかったし、書いた真実が日本軍を助けることになると感じていたためだった。どのジヤーナリストも、蒋介石夫人の美しさ、彼女の夫の英雄的決心、そして中国軍の勇気を賛美しない限り、重慶を訪れることはできなかった」(同前)

傍線部分の指摘は重要である。「南京大虐殺」報道の「嘘」、または、最小限に見ても、その信糧性を疑わせる有力な証拠となるからである。

さて、『戦争プロパガンダ10の法則』は、著者がブリュツセル自由大学歴史批評学教授で歴史家のアンヌ・モレリという「歴史批評を近代メディアに適用し、世論を特定の方向に誘導するからくりを体系的に分析して来た」(同書の著者紹介より)人物で、第一次世界大戦から二〇〇一年のニューヨーク9・11テロによって起きたイラク戦争まで「世論を動かして参戦の同意を得るため、戦争プロパガンダの法則が巧妙に便われた」(同前)ことを検証している。モレリは、戦争が十のプロパガンダの法則によって引き起こされ、継続されることを、実例を挙げて解説している。

法則を一部紹介すると、第一「我々は戦争を望まない(平和的立場の主張)」、第二「敵側が一方的に戦争を望んだ」、第三「敵の指導者は悪魔のような人間だ」、第四「我々は領土や覇権ではなく、偉大な使命のために戦う」、第五「我々も誤って犠牲を出すことがあるが、敵はわざと残虐行為に及んでいる」等々である。支那事変でも、湾岸戦争、イラク戦争でも、アメリカの戦争プロパガンダが、この全ての「法則」に当てはまっていることがわかる。特に、五番目の法則「我々も誤って犠牲を出すことがあるが、敵はわざと残虐行為に及んでいる」は重要である。

というのも、以前も言及したアメリカの対日戦争プロパガンダ映画の「名作」『ザ・バトル・オブ・チャイナ』は、一九四三年に公開され、四百万人以上が見たが、この映画で初めて「南京大虐殺」が取り上げられ、四万人が虐殺されたとナレーションで述べている。しかし、南京陥落の翌年一九三八年、蒋介石政権の代表が、国際運盟で「二万人の南京市民が虐殺された」と訴えて、加盟各国から全く相手にされぬまま却下された「事件」があり、五年後、このプロパガンダ映画では、なぜか二倍の四万人どなり、さらに、その二年後一九四五年には、原爆が投下されて、敗戦後の「東京裁判」では、三十万人の「南京大虐殺」が告発されることになった。このゼロから三十万人への流れを見るだけでも、「戦争犯罪」告発なるものが、謀略宣伝工作の主要手段であることが理解できる。

戦争には、必ず勝ち負けがある。しかし、たとえ戦争に敗れ、どんな困難に出逢っても、私達日本人は、未来の子供たちのため、敗戦後の情報戦争だけは、戦いを続けなけれぱならなかったのである。情報戦争の敗北は、単なる敗戦に終わらず、精神面から国を減ぼしてしまう。「国敗れても、国を滅ぼしてはならない」のだ。南京大虐殺キャンペーンもそうだが、最も大事な事は、国際情報戦に「たとえ勝てなくとも、絶対に負けてはならない」ということだ。戦後日本の大きな問題のひとつは、戦火を交える戦いに敗れただけではなく、連合国(GHQ)が仕掛けてきた謀略情報戦争に完敗したことである。この日本民族の精神的敗北は、物量のせいになど出来ない厳然たる事実である。特にGHQに「敗戦利得者」として取り込まれたマスメディアの人間の罪は重い。彼らが戦後日本の公共電波や新聞メディアを牛耳り、反日的な放送、報道をなしているのだ。

最近のそのひとつの典型が、四月五日、NHKで放送された「NHKスペシヤルシリーズ JAPANデビュー第1回 アジアの"一等国"」である。日本の台湾統治を題材にしたこの番組は、映像プロパガンダ謀略工作の教科書とも言える悪質な「ドキュメンタリー」だった。週刊誌やインタiネット上でも、「超偏向」ぶりが批判の的になっているが、NHKはそれを全く認めず、開き直っている。しかし、あの番組は紛れもなく「村山談話」の反日反米親中の旧社会党的「反戦平和」路線に貫かれており、中国共産党日本支局が製作したのかと間違えそうな台湾併合戦略のお先棒を担ぐ番組内容となっている。

まことに情けないのは、一党独裁の血ぬられた中共政権のお先棒を担ぎ、台湾併合の地ならし役を演じている売国日本人の滑稽と悲惨である。恐らく彼らは、自らを「平和」とアジアの友好を生みだす担い手とでも能天気に考えているのだろう。番組のタイトルバックには、反皇室、反日の印象操作、意識操作の編集が秘かに駆使されており、さらに、テレビで禁止されている「サブリミナル効果」手法も使われていた。この番組のタイトルバック編集は、まさに戦争プロパガンダの法則そのもので作られており、先帝陛下(昭和天皇)に狙いを定めて、日本国民に昭和天皇が戦争犯罪人であったかのごときイメージを植え付け、反皇室、反日、反戦、自虐意識を醸成せんとする手法を採っていたのである。実例で説明しよう。

約一分四十秒のタイトルバックは、夜の高層ビル街を背景に「未来を見通す鍵は歴史の中にある」と、まるで中国共産党の「歴史を鑑として」と同義のスーパーインポーズが流れ、続いて古い書斎となり、地球儀が映され、書斎にある本やファイルの歴史的人物や出来事の映像が次々に登場する。この映像の流れを検証してみると、ある「印象操作」が為されているのが分かる。まず、最初に登場するのはドイツの鉄血宰相ビスマルクの写真、続いて軍服正装姿の明治天皇、明治憲法発布式(CG)、戦車、爆撃、戦友を担ぐ兵士の顔、自由の女神(CG)、ドル札アツプと札ビラが舞うウォール街(CG)、阿片窟の様子(以前、NHKは日本軍が阿片で商売と放送)と中毒患者の痩せた顔、支那服姿の魯迅、その横に漢文の伊藤博文暗殺ビラ、真珠湾攻撃を報じるアメリカの新聞紙面アツプ、特攻機の炎上、演説し、手を振り上げるヒツトラー、軍刀で勝ちどきを上げる日本兵達、その横に南京大虐殺写真とされる死体の前で泣く支那女性、抱き合って泣く白人女性と白人男性、そして、ここで登場するのが、軍装姿で答礼する馬上の昭和天皇なのである、続いて悲しげな母と赤子の顔、原爆ドーム、毛沢東の顔、ガンジーの顔、そして画面に多数の写真が舞い、その後、突然、約三分の一秒間(十フレ)だけベトナム戦争時の緊迫した米陸軍のヘリと兵士達の写真が大写しで挿入される(サブリミナル効果)、直後にベルリンの壁崩壌の写真、9・11のニューヨークテロと続き、「一五〇年前世界にデビューした日本 私たちはどう生きた そしてどう生きる」と流れたあと、タイトルがスーパーインポーズされて終わる。

これらの映像の選択と順序等の編集が、いかに先帝陛下を戦争の責任者、戦争犯罪人のように印象付けようとしているか、悪質な印象操作、意識操作を秘かに為しているか、プロが見れば一目瞭然である。これがタイトルバックとして、毎回、繰り返し視聴者の目に焼きつけられ、無意識のうちに反皇室、反日の旧社会党的「反戦平和」意識が知らぬ間に醸成されていくことになる。NHKがどんなに誤魔化しても、作られた謀略映像がそれを証明している。チャンネル桜では、台湾取材も含め、徹底的に、この間題を追及するつもりである。

いのちより 名こそ惜しけれ もののふの
道にかふべき 道しなけれぱ
森迫親正

平成二十年十二月二十九日(月)
八時起床。十時出社。チャンネル桜の業務は本日まで。咋年は年末年始に第一部の編集をしていたから、何か申し訳ないような気がする。机の周りの整理。十二時半、銀行関係者と打ち合わせ、良い話、全く無し。午後、視聴者の皆さんへの年末メッセージ原稿作成。上田さん達と桜二千人委員会の今年最後の打ち合わせ。続いて年明けの南京映画製作の打ち合わせ。夕方、全社員を集めて訓示。会社の現状報告と私の給料を下げることを告げ、不退転の決意で再出発しようと話す。夜、Kと飲む。師走の酒の複雑な味。腹にしみる。四時就寝。

十二月三十日(火)
十時起床。部屋に積み上げられた本の整理。途中で"試合"放棄。午後、久しぶりに古本屋めぐりの散歩と世田谷特攻観音へ参詣。般若心経を各石塔で読誦。帰って、バッハのマタイ受難曲を全曲聴く。音が身体の中に沁み込んでいく。途中、二回、居眠り。疲れが出ているのが分かる。夜は近くの創業四十年以上の居酒屋へ。ビール大ジョヅキニ杯と日本酒三合。湯豆腐やコロッケ、ここのつまみは安くて美味い。家に戻り、映画「善き人のためのソナタ」を見る。一九八八年カンヌ金獅子賞受賞。冷戦下の東ベルリンで国家保安省の監視員が見出した生きる喜びを描く。ゆっくり風呂に入り、読書、五時半就寝。

十二月三十一日(水)
九時起床。目覚めたら、あっ、まずい、風邪を引くと直感。突然の体調不良。一昨年と同じ。年末に風邪をひき、一月四日に治って仕事へというパターンのようだ。気が緩んだのだろう。昼飯に焼き餅三つ。一日中、ほとんどベッドにごろごろ。いくらでも眠れる。古今亭志ん朝の落語全集を聞くが、すぐに眠ってしまう。夜は書斎を温め、パソコン整理。紅白歌合戦はちらりと見て、総合格闘技番組を見るが、つまらぬ喧嘩を見ている印象。金儲けだけで、精神が無いからだろう。一時就寝、こんなに早くから眠る大晦日はこれまでなかった。

平成二十一年一月一日(木)
八時半起床。かなり調子が悪い。九時、静岡の母に電話、新年の挨拶と本日は風邪で静岡に行けないと告げる。雑煮を食い、炬燵で、ベッドで、ぽんやり、うとうと。一目絶不調。

一月二日(金)
八時超床。体調悪く、風邪薬を飲み、ベッドで一日中居眠り。夕方、少し体調回復。眠り過ぎて、夜中にNHKBS2の立川談志スペシャルの五時間番組を観る。芸人として凄い男だが落語家としての衰えが痛々しい。自分の芸ではなく「生き様」で感動を売るのは、本末転倒の感がする。その姿から、痛々しさと陰欝さが感じられるのは致命的だ。彼は芸術家になりたかったのだろう。伝統を破壊しようとして、自らの近代主義的自我の脆さから、伝統から見事に返り討ちにされたような気がする。戦って敗れたことには共感出来るが、老いの無残と哀れさが息苦しく悲しい。明日、静岡に行くことに決める。

一月三日(土)
八時起床。十時に家を出て渋谷で何とかぎりぎりの新幹線の往復切符を購入、静岡へ。品川駅と新幹線内で「ファン」だという若者と中年男性に握手を求められた。嬉しかったが、何だか恥ずかしい。駅からタクシーで、母の待つ実家へ。母は門のところで待っていたが、元気な様子。一緒に寿司をつまみ、姉や弟に電話で新年の挨拶。南京映画の話などをして、二時間ほどで再び東京へ。東京駅からタクシーで靖国神社へ初詣。結構、出店も多く人も多かった。今年はチャンネル桜も私自身も正念場。夜、イスラエル軍ガザ侵攻。CNNなどで見る。日本のニュースは三番手扱い。五時半就寝。

一月四日(日)
十時起床。昼飯がてら散歩。井尻千男先生の奥様の通夜に着る白ワイシャツを購入。家に戻り、ずっとイスラエルのガザ侵攻のニュースを見る。やるべき時にやる国家というのは、やはりある種の感動が伴う。朝日ニュースターで今年の経済株予測、随分、楽天的な運中ぱかりだった。政治家が危機感を持たないのは当然だろう。良くも悪くもこんな程度の危機感しかないのが戦後日本の現在なのだろう。十時からNHK教育で吉本隆明の講演。車椅子姿、「あな無残なり」の感。この人はやはり「さむらい」ではなかったと再確認。

一月五日(月)
八時起床。十時出社。社員から新年の挨拶、二千人委員会ポランティアの人たちに新年挨拶。上田さんから昭和十二年の朝日新聞縮刷版が見つかったとの報告。十一時、桜プロジェクトに出演、新年挨拶と井尻先生の奥様の御逝去を話す。桜関係の皆さんに電語。三時、大高、前田、井上と一緒に撮影車で山梨県塩山市にある井尻先生の奥様の通夜に。六時前に到着。井尻家は元六角佐々木氏の末蕎の豪族だけあって広壮な御宅だった。外でコートなしで二時間ほど立っていたせいか、身体が冷え切り、風邪がぶり返す。井尻先生のもの静かで悲しげな表情が印象的だった。十一時近く家に到着。風呂に入ったが寒気。就寝四時。

一月六日(火)
八時半起床。頭痛に加え、どうにもだるくて風邪がぶり返した。南京の資料調べ。三部のストーリー構想のメモ。十二時半出社。気温は十度以上あるはずなのに、何となく寒い。事務所で、井上やスタッフと製作打ち合わせ、西部よろずさんの番組(東京MXーTV)から出演依頼。承諾の電話。四時過ぎ、着物姿の松浦さんと二千人委員会のお知らせ収録、極言直言収録。ナベさんと編集作業打ち合わせ。夕方退社。夜は買ってきたパンと牛乳等で夕食。ベッドで読書。志ん生の落語を子守唄に二時半、就寝。



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