15年戦争資料 @wiki

1 発端

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
植民地支配と日本語
第一章 台湾における日本語普及政策

1 発端


一八九四年(明治二七年)八月一日からの中日甲午戦争(日本では日清戦争と呼ばれている)は、中国の近代史においても日本の近代史においても、一つの大きな節目になっている。一八九五年(明治二八年)四月一七日の下関条約により台湾は日本に割譲された。近代日本の五一年間の植民地統治のはじまりであると同時に、植民地における異民族に対する言語政策も、この時点から発生したのである。その言語政策に考察をくわえる場合、まず注目すべき人物としてあげなければならないのが伊沢修二*である。

1851~1917年。国家教育主義の鼓吹者であるとともに、師範教育、吃音矯正、音楽教育などの分野にも力を注ぎ、日本近代教育の開拓者の一人として著名である。東京師範学校校長、文部省編集局長、東京音楽学校校長、東京盲唖学校校長などを歴任し、のちに貴族院議員に勅選された。


伊沢修二は、一八九五年一月、まだ戦火の消えやらぬなか、すでに台湾の植民地経営について「威力ヲ以テ其外形ヲ征服スルト同時ニ、別ニ其精神ヲ征服シ、……即チ之ヲ日本化セシメザルベカラズ」(『国家教育』三三号、一八九五)と述べている。同年二月、広島大本営で台湾総督に内定した海軍大将樺山資紀に、台湾教育問題について進言したのも伊沢であった。その進言が受け入れられ、樺山のすすめにより伊沢は、大本営付陸軍省雇員としての台湾総督府随員となった。そして台湾総督府民政局長に内定した水野尊と打ち
28
合わせたのち、学務部長心得を委嘱されて台湾へ向かったのである。同年六月一六日、「累ヽと死屍の横たわる中を」基隆港に上陸した。かれは出発直前に広島新聞紙上に発表された談話で、こう抱負を語っている。

偉なる哉我が聖天子の御稜威は八紘に光被し五百万の蛮族も将に天日を拝するの時近きにあらんとするなり。…先づ第一に日本語を輸入し繁雑なる漢文字に代ふるに片仮名を以てし成る丈早く言語の通ずる事に力を尽し而して後漸次彼等の脳裡の開拓に取り懸るの外なし。

就任の当初、伊沢は樺山総督あてに台湾教育に関する意見書を上申した。その冒頭の一項は、「新領土ノ人民ヲシテ速カニ日本語ヲ習ハシムベシ」となっている。六月一七日総督府開庁式の翌日、学務部員を任命し事務をはじめたが、当時の台北は、「住民は奔ざん四散無人の境となり、教育するにも相手がいない」という状況であった。そこで、台湾の文藻の地と呼ばれ、人民も残っている台北郊外の八芝蘭に学務部を移し、七月一六日に芝山巖という小山の上で、集めえたわずか六名の生徒を相手に日本語教育をはじめたのである。これが近代日本のアジア侵略にともなって、五一年間にわたり組織的に植民地で行われた言語政策のはじまりであった。伊沢は当時の情景を次のように述懐している。

此一両日は階上より眺望すれば、彼賊徒(抵抗をつづける台湾民衆のこと)の巣窟たる三角湧・二甲九・暗坑等の諸村落、皇軍に焼撃せらるヽの現況は一目の下に在り。又時々殷ヽたる砲声相聞え、中々愉快に相感じ候。此中に在りても授業は一日も不休、生徒等も続々慕ひ来候は随分面白き業と存候。(台湾通信第二回『国家教育』四一号)

伊沢たちが「鉄砲丸の中で」(伊沢修二『教界周遊剛記』一九一二)開始した日本語教育のこの性格は、それ以後の植民地での言語政策の本質と運命を象徴的に示すものである。事実、伊沢は当初から、日本語をたんなる語学としてだけではなく、日本精神に触れさせるための媒体として把握し、「新版図」の人民を「日本国民に育て上げる」ところにその方針を見出したのである。かれが「今日までは兵力を以て之を征服した台湾であれども、是れから後彼人民の心の底までも之を服従せしむる事が出来るか否かは、真にこの台湾が、千万才日本の土地になって行くかどうかと言ふ大問題」というのも、この理念に基づいているのである。これがじつはその後の日本の植民地言語政策に大きな影響を与えている。四七年後の一九四二年(昭和一七年)に、文部省国語課長の大岡保三は、伊沢のこの方針に言及し、「この抱負は我が外地国語教育の出発点として実に意義深く、その精神は一貫して今日に及び毫も渝(かわ)るところはない」とさえ述べている。

一八九五年一〇月、みずから鎮撫のため台湾南部に赴く樺山総督に随行した伊沢は、それまで一二年問台湾で布教のかたわら幼稚園、小学校、中学校、宣教師養成所などを経営してきた米国の宣教師バークレー(T. Barclay)を訪ね、教育上の意見を聞こうとした。最初は日本の探偵と疑われ面会を拒否されたが、懸命に説明したあげく、ようやくのことで話を聞くことができた。バークレーは自身の体験から、伊沢の日本語による台湾での教育という方針に、まっ向から反対した。かれもはじめは英語によって教育をしたのだが、不幸にして少しも効果がなかったという。英語で教えることは難しいうえに、学習者は少し英語がわかってくると、宗教や教育の仕事をせずに、ほかの仕事に転じてしまって役に立たなくなる。そこで台湾に宗教をひろめ、教育をすすめるには、台湾語でやらなければだめだとわかり、考えをあらためて、布教者自身がまず台湾語を覚え、台湾語で説教をし、ローマ字で台湾語の教科書を作ったのである。バークレーは、日本語で台湾人を教育するのは不得策なので、やはり台湾語をつかい、台湾語をローマ字に直して教えたらよ
30
かろうと忠告した。しかし伊沢はこれを受け入れなかった。日本の領土になったから当然日本語で行うべきだとしたうえで、「日本語を以てせねば寸効もない」といい放った。とにかく二、三年ののち教育上の実験をもってお答えする、といって辞去したという。

伊沢は一八九五年六月、台湾にわたった当時から、「日本語伝習所」、「土語伝習所」などを設立したが、日本語教育の具体的施策を、「要急事業」と「永久事業」の二つに分けて計画した。そして翌年五月から要急事業として、①総督府講習員を養成することと、②「日本語伝習所」を「国語伝習所」と改称して、全島の各主要地にすでに設けてある一四ヵ所を一六ヵ所に増やすこととした。

第一回総督府講習員は日本人を対象に七五名募集することになっており、その養成の目的には、国語伝習所、師範学校の教員(五〇名)になるべきものと、官吏(二五名)になるべきものとの二種類があった。国語伝習所は台湾人を対象に一〇〇人募集し、うち甲科生四〇名と乙科生六〇名となっている。国語伝習所の目的は「土人に現行国語(日本語のこと)を伝習し地方行政施設の準備を為し且教育の基礎を作るに在り」となっている。すなわち日本語の伝習はなによりもまず、植民地統治方針の理解者、伝達者の養成という政治上の需要を満たさなければならなかった。甲科生は一五歳以上三〇歳以下で、六ヵ月の日本語教育を経てから、街、村などの吏員と書房(台湾旧来の教育施設の一種)の日本語教師とするのが養成の目的であった。乙科生は八歳から一五歳の児童を対象に、四年問の日本語中心の教育を施すこととなっていた。

一方、永久事業として総督府国語学校と総督府師範学校を設立することになった。国語学校は師範部と語学部に分けられており、さらに付属学校と付属小学校が設けられている。師範部は日本人向けのもので、国語伝習所と師範学校の教員および小学校の校長を養成するのが目的であった。注目すべきことは、その語学部には「本国語科」と「土語科」とがおかれており、台湾人の青年に日本語を、日本人の青年に
31
「土語」(現地の言葉、ここではおもに?南語のこと)を教えることとした。

目安箱バナー