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台湾高砂義勇隊は「日本人」だったのか

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台湾高砂義勇隊は「日本人」だったのか

台湾 国立政治大学教授 傅琪貽
2005.06.22


平成12年 4月5日台湾高砂義勇隊訪日一行10人が靖国神社を参拝してニュースになった。霧社事件の遺族が参加していたからである。天皇崇拝、親日植民地人が戦後 55年にして出没して世を驚かせた。台湾は朝鮮と比較して、日本植民地統治が良かった、近代化が成功した、特に原住民族には「大和魂」があって日本人よりもっと日本人的だと言われている。果たして本当にそうなのだろうか。

事実において異民族であった台湾、朝鮮など旧植民地人の戦死者を「日本人」として、戦後1960年10月17日靖国神社に列名「合祀」し、遺族へは1977 年になって初めて通知書を書いた。台湾では1977年夏に遺族から「移除」要求が出されたが、神社側は無視した。しかしこれがきっかけとなって、勧告や日本国内の宗教団体なども靖国神社を相手にその不合理性を訴えた。

本論では、先ず台湾高砂義勇隊動員に至る過程と形成を、「日本人」化の理解に当局日本警察側と被体者原住民側が見せる微妙な差異を、官側が当時出版していた「理蕃の友」を基に歴史的な論述してみることにした。統治者が弱者に対して振るった暴力とは、実はこうした国家ぐるみのウソと虚偽を楯にしたものであったことが、ここから読み取れよう。

一、「高砂族」青年幹部の誕生


1935 年台湾総督府主催の施政40周年台湾博覧会は日本帝国の南門としての台湾産業の発展を印象づけた(1)と共に、「高砂族」新命名の誕生ともなった。会場第二文化室には「理蕃」史の成果とも言える、駐在所を中心とした集団移位型の新「蕃社」が、各族祖先伝来の文物と共に飾られて、総称「高砂族」が日本警察の指導の下で分散から統一、野蛮から文明化、日本化に進みつつある様相を物語っていた。この年はまた台北帝大土俗人類学が『言 による台湾高砂族伝説県』『台湾高砂族系統所属の研究』を出版して、「高砂族」九族・南方系説を定着させた。しかし何と言っても、「高砂族」とは、博覧会の際に開いた第一回高砂族青年団幹部懇親会に象徴的である。これは初めて各族代表を一堂に召集したものであり、32名はいわゆる「自覚させた高砂族先覚者」であり、うち25人は改姓名して「中山清」「加藤信一」「石田良民」などであった。今場では各々が「国語」日本語で心身ともの同化に精進し、勤倹力行などの日本の美徳を賛え、最後に「日野三郎」が「益々忠良な日本国民となること」を誓って天皇万歳と唱えた(2)。

高砂族の命名が、明らかに日本の「理蕃」に画期的である。高砂が日本古来の蓬莱島神話を思わせ、歴史的には豊臣秀吉のタカサン国人朝貢などと結合して、暗に日本人と台湾原住民族の同族論にまで発展し、中国との断絶をも図る奇妙な功果を産む(3)。しかも、日本人の手になる脱野蛮が、天皇に忠誠を尽くす皇民化文明論である。「高砂族」の命名が初めて台湾原住民族の運命を決定していたのだある。



二、高砂族自助会の皇民化運動


1940 年12月8日、真珠湾はこれまでの日本の対中国侵略を世界戦に拡大させ、日本軍は速やかに東南アジア、南太平洋に進攻した。1937年以来の「支那事変」を「大東亜戦争」と改称し、1942年11月には「大東亜省」を新設して新南方領土を管轄させ、古参の植民地台湾、朝鮮を日本「内務省」の管轄を移し、準日本内地化した。この頃には「理蕃」当局は「高砂族」の対日本親切さ、立派さ、偉大さなどの数々の「皇恩感激」を体験させていた。観光コースには伊勢神宮、熱田神宮もあって「神国日本」を明顕にさせる工夫もこらされている。

「高砂族」と改称された十五万台湾原住民族には、一方で狩り人を脱却して食糧増産に勤労する農耕民の使命と共に、霧社事件以来の ヤングル戦士の任務が日本の戦局の長期化と南方偏重となるにしたがって加重される。昭和13(1938)年6月号「理蕃の友」には「もし高砂族の軍夫志願を許される時があるなら」と志願の意を述べた手紙が(4)が公開され、出征兵士となる日本人警察を高砂族が歓送するなど「全島優良蕃社」(5)に次々とマークされていく。またブヌン族の教育所女子生徒が血書の日の丸を書き、出征兵士の恩師を偲いだこと、新米を出征軍人家族に贈呈する高砂青年、愛国献金など(6)が「理蕃ニュース」として流布されていく。昭和14(1939)年1月の警務局横尾生「青年団をどう導くか」では、自覚の喚起、自発自動の誘致、幹部の指導、手帳の利用、歌詩の愛唱、運動の奨励、共同生活の訓練、国語の常用と常識の涵養(7)を掲げて、皇民化が一部の青年幹部から増産普遍的に変わったことが伺われる。同年4月全島理蕃打令会では、高砂族自治会が新たに授産強化、葉用植物栽培増殖等と密切な関連を持つ皇民化団体として青年指導とは別に掲げられている。台湾総督府は平地の皇民奉公運動(8)より一年早く昭和15(1940)年に高砂族自助会則を定めて、日本内地の大政翼賛運動に大合流させていた。増産報国と精神結合が提唱された。昭和16(1941)年末の高砂族自助会は全島で273、組数1,338、戸数17,527を、一から三級に分け、予算約14万、自助会一所当り5,100円、一戸当り7.94円としている(9)。高砂族自助会が青年団員を中核として理蕃予算の現地自立化の方向を目指し、村落共同体が皇民化実践の生産、教化の全てとなることを意味する。



三、仕組まれた志願


タイヤル族サヨンが出征する山地警察の荷を背負ったまま渓流に流された事件は、昭和13年9月のことだったが、昭和16年には長谷川総督の手で「愛国乙女サヨンの鐘」の殉国美談に仕立てあげられていく(10)。日本が期待する高砂族青年は、昭和14年で男子229団、女子143団計372団、団員男 10,004人、女4,175計14万179人(11)。サヨンはその級遣体未発見ながら、11月26日母校リヨヘン教育所で青年団主催の官民一同による盛大な慰霊祭に処される(12)。長谷川総督贈呈になる鐘はサヨンの鐘と命名され、西条八十作詞、古賀政男作曲の歌と共に、愛国至誠を煽る宣伝効果を揚げつつ、はてはサヨンの流された南渓下流に日の丸の旗がすくっと濁流の中立っていたとさえ加工されていく。

特別志願兵制度は台湾では昭和17(1942)年4月から実施するとしたが、「理蕃の友」第117号は、サヨンの愛国的犠牲性を賞賛したその同じ紙面で、全島高砂族青年の志願兵志願者の統計が昭和16年7月末現在で男子1,349人、女子538人計1,877人あったと報道し、中には血書志願者が40人近くあったとする(13)。台中州平岩山「大林千二」は「志願兵制度にあたりて」と題して、今まで我が高砂族は日本人でありながら軍人どころか軍夫にもなることが出来ない有様で真に恥ずかしい思ひをして来ました。それが今兵隊になる資格を完全に与えられたのであります。軍人となる栄誉を前にして、喜びと感激に咽ぶものは私一人ではありますまい。

我々高砂族も今やっと一人前になることが出来たのであります。陛下のお召にあブかり軍人となって戦場で戦ふ、この永年の理想が今現実となって現れたのであります。る条件であると述べている。

しかし事実は志願兵は日本の正規の軍隊ではないし、高砂族は日本人ではない。理蕃けいさつ当局はこうした事実を隠弊したままで、戦場へ動員を図る。ところが志願兵になるには国語や国史など学科試験があって、蕃童教育所4年間には歴史、地理がなく、国語も不足であった。そこで別途に考え出されたのが、義勇隊、奉公隊などの「志願」のみで戦場に送り出す方式である。「国語」が唯一の条件となるので、各部落では毎夜の国語講習会が開かれ、日本語の能力の向上に努めことになる。特に青年男子の精神性が訓練の重点となるので、勤行報国青年隊など勤労奉仕にも厳格な集団生活を強い、「錬成」が提唱される(14)。思想は統一され、日本語の向上は訓練された思考様式の粋を出ることはない。



四、「高砂義勇隊」の形成


志願制度の導入は一方では教育所四年に二年の農業科を加えるか、それとも八年制に学制を改定するかを検討させる契機となったし、体位向上の課題は簡易医療訓練班による原住民青年医師の速成、警察人員への採用による旧慣打破など、これまでの日本人警察が一手に扱ってきた業務を解体していく。またもう一方では、志願兵制度で明るみになった問題は、「高砂族」には戸籍がないという事実であった。警察の取締の便宜上、戸口調査薄が一応あるが、「高砂族」そのものが法的用語でもなく、「理蕃」概念下では根本的に人として植民地法適用外に置かれていた。そこで、「高砂族」を拡大解釈して本島「先住民」と法的に位置ずけし直せば、「本島人」に適用している規則適用も可能となる(15)。「理蕃」当局の考えでは、「皇民化」進行中の「高砂族」法的地位の賦与であるから、全面的な「蕃地」地名の改称と「蕃人」個人への改姓名を、戸籍法施行時に同時進行させようとする。これは昭和20(1945)年台湾に実施される徴兵制度のためである。つまり、「高砂族」とはこの段階出始めて植民地法の適用を受ける「本島人」の仲間入りをさせられるのであって、しかも日本的地名の地で日本人的姓名に全て九族が統合されて「皇民化」する設計にある。

昭和17年3月15日「高砂挺身報国団500人が出発、27日ルソン島に上陸し、二週間


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