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(原)エ(照屋昇雄の供述について)

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読める控訴審判決「集団自決」
事案及び理由
第3 当裁判所の判断
5 真実性ないし真実相当性について(その1)
【原判決の引用】
(原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について
(原)(3) 援護法の適用問題について

エ(照屋昇雄の供述について)*


  • (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。



(ア)(供述の概要)*


  ところでこれに対し,前記のとおり,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄は,渡嘉敷島での聞き取り調査について, 「1週間ほど滞在し,100人以上から話を聞いた」ものの, 「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし,赤松大尉に
「命令を出したことにしてほしい」
と依頼して同意を得た上で,遺族たちに援護法を適用するため,軍による命令ということにし,自分たちで書類を作り,その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる(甲B35及び38)。 証拠(甲B63ないし65, 乙56の1及び2, 57の吸び2, 58並ぴに59)によれば, 照屋昇雄(本件訴訟では, 昭和28年3月着任と主張されていた)は, 昭和29年10月19日琉球政府の社会局援護課の援護事務の囑託職員となり, 昭和30年5月1日には旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員となり, 同年12月に選考によリ三級民生管理職として琉球政府に採用され, 沖縄中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務したこと, 昭和31年10月1日に沖縄南部福祉事務所に配置換えとなり, 昭和33年2月15日こ社会局福祉課に配置換えとなり, 同年10月には社会局援護課に在籍していたことが認められる。

(イ) しかしながら,証拠(乙56の1及び2,57の1及び2,58並びに59)によれば,照屋昇雄は,昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され,中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し,昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり,昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっていること,照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月であったことが認められ,これらの事実に照らすと,照屋昇雄がこれに先立ち昭和29年10月19日以降援護事務の嘱託職員となっていたことを示す証拠(甲B63ないし65)を踏まえても,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。


(イ)(供述の要点)*


  本件訴訟継続中の平成18年8月27日付けの産経新聞朝刊の3面にわたる記事(甲835)及び「日本文化チャンネル桜」社長水島総ほか2名の取材班による現地詳細報告「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」(正諭平成18年11月号所収甲B38)によると, 同年5月から9月にかけて語られたという照屋昇雄の話の要点は次のようなものである。

[1]照屋昇雄は,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため, 渡嘉敷島で100名から200名の聞き取り調査をした。

[2]その100名以上の人のなかに集団自決が軍の命令だという住民は, 女も男も全部集めて調査したが, 1人もいなかった。

[3]集団自決に援穫法の適用が出来ないか東京の審査委員会で(南方同胞)援護会などが掛け合ったがだめだった。規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文があるが, 誰かわからないが当時の隊長さんたちに自決命令を出したと言ってくれとお願いしたが応じてもらえなかった。そして, (1955年だったかなあ), 12月頃, 最後の東京の会議があり, 自分は参加していないが(※)渡嘉敷島の玉井喜八村長さんが参加したらしい, その時に厚生省の課長さんから, 赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて, 村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って, 隊長命令を書くと言うことになっているそうですがと話したら, お前らが書けれぱサインして判子押しましょうということになった, 25日に村長が帰ってきたので, 翌月の15日か16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで, 2人(甲B35でば3人)で夜通しで作った。

  • ※(引用者注)ビデオの中では、照屋昇雄氏は東京の会議に参加して、赤松隊長の決意や茅誠二「東大学長(?)」の説得を自分も聞いたことになっている

[4]作ったのは命令ではなく, 渡嘉敷住民に告ぐと書いてあった, 赤松隊長の身になって書いた, 何年何月何日, 渡嘉志久から米軍が上陸して, もはや村の役所の前に来ている, 国のため降伏せず, 1人でもアメりカ人をやっつけてというような内容だったはず, 住民も死して国のためにご奉公せよとかたくさん書いて, 自決せよとかそんな命令じゃあない, 教育じみているのが命令書となっている。15日の閣議(※)に出さなけれぱ聞に合わないということで, 村長さんが赤松隊長のサインと判子をもらって間に合わすように持っていった。

  • ※(引用者注)「15日の閣議」の真偽、議題については、まだ誰も調査していないようだ。

[5]村人は, 赤松さんがそうやってくれたから援護金が出たことを聞いてわかっているからどんな人が来ても絶対に言わない。

[6]今回証言するには深いわけがある。赤松隊長はガンで余命3ヶ月のとき, 玉井村長に何回も電話をしてきて, 私は命が3ヶ月しかありませんから, 村史から私が自決命令をしたことを削除して訂正文をはさんで欲しいと頼んで来た。玉井村長は悩んで眠れなくなリ, 自分も相談され親身に慰めたが, 赤松大尉が死亡してしまい, 村長も心労のため病気して, まもなく死亡した。十字架を背負ってくれた人や玉井村長に安らかに眠ってもらうためにも, 自分も, 生きているうちに真実を言おうと決心したものである。


(ウ)(赤松氏の行動等との矛盾)*


  照屋昇雄の話は以上のような内容である。しかし, 赤松大尉に軍命令を出したことにすることを依頼し(最初に誰が依頼をしたかははっきリしないが), 了解を得て,偽の軍命令の文書を作成してそれにサインと押印を得て, 厚生省に提出したなどと云うことは, 赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。赤松大尉の潮掲載の手記(甲B2)ば前掲(原判決第4の5(2)イ(イ)a)のようなもので, 当時, 自分は住民の処置は頭になかったので, 部落の係員に聞かれて, 部隊は西山のほうに移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がいいだろうと示唆した, これが軍命令を出し, 自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない, というものである。すなわち, 赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので, マスコミ等で極悪無残な鬼隊長などと非難され, その原因を自らに問い, 考えた結果, 西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれないと考えるというのである。同大尉が, 軍命令の捏造を村長に依頼されそれを了解して偽の命令書(?)にサインしたのだとすれば, 赤松命令説の根拠についてこのように考察してみせ手記に記述したのは, そのよう経緯をカモフラージュするためだということにならざるを得ないが, 控訴人赤松本人尋問の詰果や後掲の甲B80号証によってうかがわれる赤松大尉の人柄からすれぱ, 同大尉がそのような器用なまねをするとは考えられないし, 「血の叫ぴ」だとする同手記の真摯さにもそぐわない。また, 同手記には, 大学生の娘から軍人なら住民を守るのが義務ではないかと質問されたことが記載されており, その娘である佐藤加代子の陳述書(甲B80)では, 大学1年生の時に「鉄の暴風」の父親に関する実名の記事を読み, 息が止まるほどのショックを受けたこと, 父にも怖<て聞けずに文献を調べるなど1年ほど1人で悶々と悩んだこと, 父は質問されたと書いているが, むしろ事実や父の弁明を聞くというよりは一方的に詰問口調で父をなじったような感じであること, その後ようやく父そして父の抱えた問題と心の中で折リ合いをつけていき, 父への尊敬や愛情を失うことなく関係を継続することができたこと, ただ, 今になってみると, もっと父に集団自決のことを含む戦争体険についてきちんときちんと聞いておけばよかったと後悔もしていること, 父は希代の悪人とされながらも耐えていたのだと思うが, 本当は真実はこうだったともっともっと世間に対して弁明したかったのだと恩うし, 家族にはなおいっそうのこと真実を知ってもらいたいという思いもあったと思うということや, 曽野綾子のきちんとした取材で父が知る限りのことを話せたこと, マスコミヘの厳しい批判などが, 12頁にわたり心情のままに自然に語られている。これによってうかがうことのできる赤松大尉の家族の間のつながりなどに照らし, 仮に照屋昇雄の述ぺるようなことがあったとすれば(自分が依頼に応じて偽の命令書にサインしたことによって家族に大きな負担を掛けたことになるのであるから), そのことは家族に話されていないはずはないし, 上記の手配や陳述書に記載されたような形での赤松大尉を含めた家族の中での大きな苦悩はあリ得ないことである。佐藤加代子の陳述書の日付は平成19年10月6日であリ, 上記平成18年8月の産経新聞の記事(甲B35)や同年11月号「正論」掲載の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告(甲B38)は佐藤加代子や控訴人赤松の知るところであろうが, それに沿った事実は, 上記陳述書や控訴人赤松の陳述書(平成19年9月29日付. 甲B79)や本人尋問にも全く出てこない。照屋昇雄の語は, 身近にいた者たちとしてみれば, あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として, 明らかに黙殺されているものと理解される。また, 昭和55年に死亡した赤松大尉が, 余命が3ヶ月しかないと告げて村長に村史から自決命令の削除を求めて何度も電話をしたのであれば, そのことを, 家族が知らないなどということもあり得ない。その当時は, 既に, 赤松犬尉もその家族らも赤松命令説の誤リは明らかになったと考えていた時期であるし, そもそも, 赤松大尉が村史の記載を知っていて, 死の直前に何度も電話を掛けてそれの削除を依頼するほど気にしていたなどということの裏付けもない(ちなみに多年の宿願であったと発刊の辞が付された渡嘉敷村史資料編甲B39は昭和62年3月31日発行である。)。



(エ)(曽野綾子「ある神話の背景」との齟齬))*


  赤松大尉は, 昭和46年の前記手記でも, 照屋昇雄の述ぺるようなことに一切触れていないことは前記のとおリである。照屋昇雄の話が本当なら, 曽野綾子は, 「ある神話の背景」のための赤松大尉への取材を昭和45年に極めて丁寧に行っておりながら, 赤松大尉が秘密を守ったがために, 神話の背景の最も根本的なところを誤ってしまったということになるが, いかにも不自然である。ちなみに, 曾野綾子は, 軍命令説と年金を得ることとの関係にもほかの箇所では触れているのであるから, 問題自体を認識していなかった訳ではなく, 赤松大尉からは, その様な話を聞かされてはいないのである。


(オ)(「住民は知っていた」の不自然))*


  戦後間もない頃から渡嘉敷島に赤松隊長命令説があったこと自体は, 控訴人らも特に争わず, その原因を自ら検討しているところであるし, 「鉄の暴風」にも伝聞であるにせよその具体的内容が記録され, 馬渕新治の調査(乙36)でも確認されている, それなのに, 軍命冷とする住民は1人もいなかったという点や, 逆に, 照屋昇雄と村長(ともう1人の担当者)及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども, 不自然である。


()(問題文書の不存在)*


  証拠(乙60及び61)によれば,本訴の被控訴人ら代理人である近藤卓司弁護士は,平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により,厚生労働大臣に対し,前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について,戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために,照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが,厚生労働大臣は,平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で
「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。」
との理由で,当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。したがって,この点でも照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。なお, 控訴人らは, 当審で, 書類の保存期間満了による廃棄等の可能性や, 沖縄本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたなどと主張し, 正論20年6月号の論考(甲B107)を提出するが, 所管庁への調査嘱託や引渡しの法令上の根拠, 事務取扱規程等の裏付けも全くない話であリ, 採用できない。


(キ)(照屋証言の信頼性)*


  その他, 照屋昇雄の話は, 訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていないこと, 内容的にも, その年代や, 伝聞なのか実体験なのか, 捏造したという軍命令の内容や, 戦後10年以上後に捏造したような命令書が厚生省内で通用した経緯など, あいまいな点が多く, 他方, 赤松大尉の家族や関係者に対する裏付け調査や信用性に関する裏付け吟味もないままに新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して(この点は後に見る富平秀幸新証言とも共通する。)その後の裏付け調査がされた形跡もないことなど(※), 問題が極めて多いものといわざるを得ない。

  • ※(引用者注) 例えば照屋証言を大々的に記事にした産経新聞は、大阪地裁第一審の書証として提出されたその2006年8月27日付記事(甲B35)の中に「いつ」「どこで」が何も記載されないまま放置してきた。産経新聞社阿比留瑠比記者は、大阪地裁第一審判決直後に、新聞記事としてではなく私的な「記者ブログ」のなかで、照屋昇雄氏への阿比留記者自身のインタビュー内容を明らかにした。しかしこれが「その後の裏付け調査」足りうるものならば、結審前の法廷に書証として提出できるものなのに、それすらされていない。検証に耐えない代物といえよう。じっさい、そのブログ記事コメント欄では、「いつ」「どこで」「誰が」に関する基礎的な質問にすら、阿比留記者は応えようとしていない。このインタビューが「裏付け調査」足りえないものであることが露呈されている。


(ク)(小括)*


  以上の次第で, 援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できず, これに追随し, 喧伝するにすぎない前掲の産経新聞の記事(甲835)や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告(甲B38)も採用できない。



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