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【佐藤優の地球を斬る】雑誌ジャーナリズムの衰退 西尾幹二氏の真摯な言葉

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【佐藤優の地球を斬る】雑誌ジャーナリズムの衰退 西尾幹二氏の真摯な言葉

11/13 01:35更新

 右派でも左派でも、論壇において論争と言えないような罵詈(ばり)雑言の応酬が行われることが多い。沖縄の集団自決問題、靖国神社への総理参拝問題、原子力発電の是非、憲法改正問題など、執筆者の名前を見るだけでどういう立場かすぐに想像がつき、実際に読んでみても、先入観を確認するだけの論文が多い。

 このような状況に突破口をあけたいと思うのだけれども、力不足でなかなか現状を変化させることができない。この問題について、最近、素晴らしい論文を読んだ。
『諸君!』12月号(文藝春秋)に掲載された評論家・西尾幹二氏(73)の「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」だ。西尾氏は現下論壇の問題をこう指摘する。

 <言論雑誌がなぜ今日のような苦境に陥ってしまったのか、本質的に、これはイデオロギーの災いであると私は見ています。

 イデオロギーといえば、だれしもかつてのマルクス主義を思い浮かべるでしょうが、私がいうのは、そんな複雑、高尚なものではありません。手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌(はま)り込むことです。

 イデオロギーの反対概念は、現実--リアリティです。リアリティは激しく動揺し、不安定です。たえず波立っています。その波の頂点をとらえつづけるためには、極度の触覚と鋭敏さが必要となります。>

■「不可能の可能性」に挑む

 この箇所を読んで、中世の実念論者(リアリスト)のことを思った。筆者は、世間ではロシア専門家のように思われているが、本人の自己意識では専門はチェコ神学だ。15世紀のチェコにヤン・フス(1370ごろ~から1415年)という宗教改革者がいた。最後は、カトリック教会によって火あぶりにされてしまうのであるが、マルティン・ルター(1483~1546年)らより100年も前に本格的な宗教改革を行った。

 中世神学では、実念論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)が対立していた。哲学史の教科書をひもとくと、当初優勢だった実念論が唯名論に徐々に地位を譲っていったと書いてある。15世紀になるとヨーロッパ大陸の神学部はすべて唯名論を採用していたが、ただ一つだけ例外があった。カール[プラハ]大学の神学部だ。この大学の学長がフスだったのだ。実念論者は、リアルなものを人間がとらえることはできないと考える。しかし、人間はリアルなものをとらえようとしなくてはならない。いわば「不可能の可能性」に挑むことが重要と考える。

 <(リアリティの)波の頂点をとらえつづけるためには、極度の触覚と鋭敏さが必要となります>という西尾氏の言葉に触れて、こういう本質的な事柄に気づき、発言するのがほんものの知識人であると思った。

■「言論人も実行家たれ」

 米国発金融危機について、西尾氏はこう述べる。

 <新聞や雑誌で、この件に関連する論を立てている人々には、不安の影は見いだせません。アメリカの経済はかならず復元すると思い込むにせよ、もう回復不能なところまで来ているととらえるにせよ、かれらはさしたる逡巡(しゅんじゅん)もなく易々(やすやす)といずれかの意見に与(くみ)し、とうとうと自説を述べて倦(う)むことを知りません。実行している三菱(UFJフィナンシャル・グループ)や野村(ホールディングス)の人はリアリティに触れているから未来は見えません。不安に耐えています。さも未来をわかっているかのように語る人はすべて傍観者です。見物人です。イデオローグなのです。だから不安がありません。

 私がいいたいのは、不安が必要だということです。言論人も実行家たれ、ということです。実行家は必ず何かに賭けています。賭けに打って出る用意なくして、安易な言葉を発してはいけないのです。>

 筆者も西尾氏の発言に全面的に賛成だ。率直に言うが、筆者自身も、論文を書くときは、必ず何かに賭けている。今後も知行合一(ちこうごういつ)につとめたい。西尾氏には人知の外にある超越性をつかむ力がある。それだから、現下の世界における出来事を読み解くキーワードとして「不安」をあげるのだ。

 特に、普段、西尾氏の言説に触れない朝日新聞、『世界』、『週刊金曜日』などの読者に西尾氏のこの論文を是非読んでほしいと思う。真摯(しんし)な言葉には、左右のイデオロギーを超え、人間の魂に訴える力がある。その力を是非感じてほしい。

(作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS)


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