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(ハ)「第三国」へ転籍された中華民国船舶の処置

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(ハ)「第三国」へ転籍された中華民国船舶の処置

「第三国」の船舶に効力は及ばない


交通遮断の効力は「第三国」の船舶には及ばなかった。遮断が「平時封鎖と解すべきもの」だったからである。

第一回の遮断宣言の翌日、昭和十二年八月二十六日の外務省の声明にも「第三国の平和的通商を尊重す云々」と述べられていた。もっともこれは、軍需物資を運ぶような非平和的通商ならば遮断の効力を及ぼすぞ、という無言の牽制ともとれる。

ともあれ「第三国」の船舶は遮断にかかわりなく航行できた。日本の海軍はその航路を変更させることも、没収も拿捕、抑留もできなかった。戦時封鎖とは異なるのである。

さらには海軍は、「第三国」の船籍であれぼ、たとい中華民国に傭船された船舶の場合でも、手出しを控えようとしていた。また、たとい軍需物資を運び込もうとしていても、原則として拿捕、抑留はしないという方針で臨んだ。馬公要港部の司法事務官にあてられた十二年十二月三十一日の海軍省法務局長潮見法務官の回答がそう語っている。

だが一方、傭船による運び込みにつき、海軍省法務局はこうもいっている(『海軍司法法規」)。

斯かる場合に出先艦船が、斯る船舶に対しても臨検、捜索を為し、事実上、其の行動を抑制することは出来るであろう。

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法務局長の回答とは一見齟齬するようにもみえる。しかし、拿捕、抑留できるとまではいっていない点で矛盾はない。その前の、臨検と捜索の段階である。最小限の方策としてまず、「第三国」の船舶に対して平時封鎖でも許される臨検を利用し、運び込みを抑制しようというわけある。遮断の性格が「平時封鎖と解すべきもの」だったことは、いくどか述べた。交通遮断の宣言後、この臨検は海軍の手で実際に行なわれている。なにはともあれ、「第三国」の国旗を掲げた船舶がほんとうに「第三国」のものかどうか、っまりは封鎖を受ける国の船舶でありはしないか、を確かめるためである。

なお、法務局の見解と異なり、国際法上、臨検につづいての捜索はできないという説もある。だがかりに、捜索して軍需物資を見つけたところでどうしようもない。平時封鎖はその名のとおり、平時のものである。平時には中立法規の発動はなく、基本的に「第三国」による軍需物資の運び込みにまで干渉できないのである。

「平時封鎖と解すべき」遮断に基づく「第三国」の船舶に対する臨検も、実施に移すに当たっては容易ではなかったらしい。このころ、海軍省の大臣官房に勤務していた杉田主馬海軍書記官は回想する(昭和五十九年、筆者あて同氏書簡)。

所謂平時封鎖施行に伴い、第三国籍船に手がつけられざるのに大苦心を致し、謀略を用い、
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米国人を説いて、第三国籍船にも臨検、積荷の処分を認めしめたる等、相当苦肉の方策を起案、実施したこと有之。

交通遮断の効力は、その後、「第三国」の船舶にも及ぶように変更される。もっとも、区域を限ってである。さきがげは、北支海軍最高指揮官という名をもって十五年二月十四日に出された布告による遮断とみなせよう。

布告には、「一切」の船舶に対し、翌十五日以降「特令ある迄」「威海衛(含まず)青島(含まず)に至る山東半島沿岸の出入を禁止す」とある。「一切」の船舶には「第三国」の船舶も含まれよう。中華民国の「一切」の船舶とは解せない。中華民国の船舶は、すでにこの区域での航行を遮断されてしまっている。対象国を明示せず、「一切」の船舶と表現したのは「第三国」への気兼ねのせいだったろうか。

そして同年七月十五日、蘆溝橋事件時に軍令部次長だった支那方面艦隊司令長官嶋田大将(進級)は、翌日の午前零時以後、浙江省の温州港や福建省の三都澳などへの、「第三国」船舶をふくめた「一切」の船舶の出入りを禁じる宣言を出す。正面切って「第三国」の船舶に対しても効力を及ぼすという遮断の宣言である。支那方面艦隊司令長官名による同種の宣言は、八月十日、十二月二十三日と、そして、それからのちにも出されている。宣言が追加されるたびに遮断の区域は広がっていった。
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日本はどんな理由で、平時封鎖のおよその原則に反してまで、「第三国」の船舶に対しても遮断は許されるとしたのか。もちろん背景には、軍需物資を中華民国に運びつづける「第三国」の船舶に対する悩みがあった。

だが、遮断宣言の対象にふくまれる「第三国」のリアクションヘの危倶はそれ以上にあったはずである。

国際法でも、平時封鎖の効果として「第三国」の船舶の出入りに干渉できるという説はある。この説は広く認められてはいないが、「第三国」の船舶に手を焼く日本はこれに与したものか。とすると、「平時封鎖と解すべき」遮断の効力を「第三国」の船舶に及ぼしたのもうなずける。あるいは、厳密には平時封鎖でなく、そう「解すべき」遮断だからかまわないとみたのかもしれない。

これに関しては、国際法の分野より、日中の戦いが事実上の戦争だったことを前提にしたいささか居直り気味のつぎのような見解も生じている(大平善吾『支那の航行権問題』)。十八年という太平洋戦争にはいってからのものである。

支那事変完遂のために航行遮断を強化するも、第三国の航行権を阻害するの違法行為となるとは言い得ない。(略)我が支那沿岸航行遮断は法理上は平時封鎖にして、その効果を第三国船舶に適用したる一の例を作ったものである。

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偽装転籍の場合


中華民国の船舶のなかには、商船だけでなく、船籍を「第三国」に移転したかのようにみせかけ、日本海軍の航行遮断をくぐり抜けようとする軍用船までもあった。これらが仮装転籍である。それはなによりも、「第三国」の国旗を僭用し、掲揚するというかたちで表われる。昭和十三年八月十四日の「東京朝日新聞」夕刊はこう伝える。

支那側の第三国国旗悪用は最近殊に著るしく、又第三国艦艇、権益の所在標識を欠くもの多く、我が作戦行動に支障を来しつつあるに鑑み、谷[正之上海駐在]公使は海軍側の要求により、去る九日、各国大公使に左の如き要望をなし、同時に日高[信六郎上海]総領事よりも上海領事団首席に対し、同様の申入れをなした。

九江漢口間揚子江上において、支那側は小型船を用い機雷施設その他軍事工作をなしつつあるところ、海軍側調査によれぼ、機雷敷設船至近の距離に於て第三国国旗を掲げ、不信の行動をなす者多数あり、右は支那軍用船が我方の攻撃を避ける為、故意に第三国旗を詐用するものと判断せられ、帝国海軍に於ては第三国艦船との問に万一にも錯誤を惹起せしめざらんがため、六月十一日付を以て第三国一般艦船の所在を逐一通報方を要求し置きたるが、前述の如き危険水面に於て不信の行動をなすものの国籍判断は、素より之を航空
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機上より識別すること殆ど不可能なるを以て、今後は一層帝国と密接なる連絡の下に艦船の所在を遅滞且つ遺漏なく通報あらんことを特に希望す。尚、識別困難なる小型第三国船は支那軍の作戦地区に行動せざるよう切望す。

中華民国船舶の「第三国国旗悪用」、つまり仮装転籍はなにもこのころに始まったのではない。交通遮断の当初よりあった。第一回の遮断宣言から一か月も経たない十二年九月十八日、外務省ははやくも、東京に駐在する関係国の大公使に政府の覚書をもって通告している。内容は、遮断の宣告ののち、第三国に船籍を移した中華民国船舶の転籍は、「関係国の国法に従い、且事実上も完全に為されたるに非ざれぼ之を」認めない。だから、「貴国政府に於ても、此種支那船舶が貴国国籍を仮装的に取得するが如きことなき」よう配慮してほしい、というものだった。

そして、転籍に疑いのある船舶は、「之が調査の為、臨検・留置等の必要なる措置を執ること」がある、と記されていた。疑いが晴れ、転籍が正当と認められた場合、その船舶は解放される。仮装転籍の事実が明らかになれば、中華民国の船舶と認定されて抑留されるのである。こうした判断はもちろん拿捕船舶調査委員会が下した。

海軍省法務局は、仮装転籍の例としてさきに示した赤櫛号とペルー号を挙げている(『海軍司法法規』)。ともにバナマ国籍を仮装していた。このほかにも、つぎのようなものを録している。十三年二月四日に抑留の、ギリシア国籍を仮装していたスパルタ号。同月十七日に抑留の、パナ
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マ国籍を仮装していたパナマ号。十四年一月九日に抑留の、ポルトガル国籍を仮装していたルソー号など。

正当な転籍の場合


仮装転籍の疑いで臨検、留置されたのち、解放されるのは転籍の正当性を認められた船舶だけである。調査に臨んでは、交通の遮断宣言後に「第三国」へ転籍された中華民国の船舶がなによりも問題となる。

転籍が有効かどうかをみるには、そのための規準がなければならない。以下に、海軍省法務局の見解を引く(『海軍司法法規』)。

「第一に、其の国籍及所有権の移転が絶対且完全に遂行せられ居ること、第二に、其の移転後、該船舶の利益を収受する者が移転前の利益収受者とは別個の者にして且事変終了後買戻の特約なきこと、の二個の条件を必要とす」るものと考えられる。

これは、昭和十三年の馬公要港部の『仮装第三国転籍船舶に関する一考察』と十四年のノルド号に対する調査書を踏まえてのものである。十三年以前の規準がどうだったかはわからない。「 」内は、踏まえた二文書のうちのいずれかからの引用だろう。ちなみに、ノルド号はパナマ国籍を仮装しているのでないかと疑われたのだった。しかしのちに、旅順要港部拿捕船舶調査委
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員会で転籍を有効と認められ、解放された。

ノルド号と同様の解放になったヶ-スはほかにもある。たとえぽ、イギリス国籍のエーシアン号である。取り調べには馬公要港部拿捕船舶調査委員会が当たった。

エーシアン号の拿捕は十三年二月七日だった。遮断をくぐり抜けるための仮装転籍の疑いだった。転籍前の船籍は中華民国にあった。馬公に連行され、調査された。だが結局、十一日には疑いが解け、十九日に解放となっている。拿捕された原因は、臨検を受けたときにエーシアン号の船長が、「同船の所有者に変動ありたる時期及其の理由等に付、明確なる答弁を為さなかった為、偽装転籍を疑われ」たことによる(『海軍司法法規』)。

真正の転籍だったのであれば、船長はこう思っていたかもしれない。イギリスはシナ事変において「第三国」である。イギリスの船舶が日本海軍の臨検を受けるすじあいはない。
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6、諸事件への対処

(イ)南京空爆の予告

避難を勧告する


昭和十二年九月十四日、第三艦隊司令長官長谷川中将は指揮下の航空部隊に、十六日以降、南京にある中国側の航空兵力と軍事関係諸機関・諸施設を空襲するよう命じた。この背景には、活発な動きをみせ始めた中国軍への危惧があった。華南にいる中国軍の空軍力が増強されつつあるという情報もはいってきていた。同じ十四日には、交通遮断に従っている第二十九駆逐隊の旗艦夕張に対する空爆もあった。

南京への空襲はこんどが初めてではない。最初のそれは一か月ほど前の八月十五日だった。その後、十数回の出撃を経て少し中断してはいたが、この際、中国の空軍力を主に広く叩いておこうというのである。南京とならんで、広東、漢口、南昌となどの航空基地ほかも空襲の目標とされた。

第三艦隊に所属する第二連合航空隊の司令官三並貞三大佐を指揮官として、三隊から成る南京攻撃部隊は、同月の十九日より二十五日にかけて一一回の空襲を行なった。延べ機数、艦上爆撃機一三七、艦上戦闘機五九、艦上攻撃機二七、水上偵察機六六、計二八九機による大空襲だった。南京の大校場飛行場、兵工廠、憲兵司令部、無線電信所、砲台、電灯廠、防空指揮所などが爆撃され、中国軍機もかなり撃墜された。だが、蒋介石はめげなかった。二十五日の空襲の日、彼は日記に、「敵はくり返し爆撃すれぼ、われわれを遷都か屈服に追い込めると考えているのだろう。
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(以下 略 powered by たなか君 by Ja2047さん)

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