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島尾敏雄「那覇に感ず」より

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島尾敏雄「那覇に感ず」より

沖縄文学全集12 p140~
初出 朝日新聞1970.5.14~15夕刊

(前略)

  東北と琉球弧を日本国のなかでの「異端」と言ってみたり、「幻のアィヌ」などと口にしたけれど那覇のなかでそれらのことを口走ると、なぜこんなに手ごたえなく空転してしまうか。私は悔いのなかで落下しつづけ、どうにかして自分を支えたいと思った。私は自分の口封じを決心しなくてはなるまい。いやそうではなく、自分の精神にいつも未遂の残像として刻印される状況を見つめなければならないのか。なんだか自分が「道の奥」(東北)と「道之島」(奄美のこと)に引きさかれながら沖縄と先島を渇望している宙づりの状況から抜けだせないのだと観念しなければならぬようであった。

  旅館を出てKの家に移ったのは、その渇きをいくらかでも遠ざけたかったから。そしてKやAやUそしてOたちと毎日を接触しつつ、かれらとのまじわりにはいりこみたいと思ったからだ。いっしょに食べいっしょに飲み、そしていっしょに見ながら私は適度にいやされつつ、でももちろんかれらとのまじわりに容易にはいって行けるなどと思っていたわけではなかった。逃水のように先に先に逃げ、渇きがいっそう深くなることはあらかじめ引受けなければなるまい。かれらのなかにはいって行くことが許されるためには、かれらの経歴の過程を背負わなければならないはずだ。私にそれが堪えられるかどうかをためすためのかりそめの十日ではなかったか。

  具体を挙げてうまく伝えることができないが、その十日のあいだ私はかれらを通して体験した那覇のなかのもののあり方に一撃を受けそして充足していたのだった。私は日々に自分の表現の短絡をくやみながら、かれらの自由な若さ、ものとしての表現のするどさにいやされていたのだった。私のまえにあらわしていたかれらのやさしさとたしかさを私はどう受けとめて行けばいいのだろうかと、毎日を思案していたのだった。

  あれはちょうど那覇のそれらの日々の中ごろのことだ。ふととりあげた地元の新聞紙に目を移したとき思わず身の凍りつく思いに襲われたのは。

  それはあの戦争のとき、渡嘉敷島に駐屯していた陸軍部隊の指揮官だった人が二十五年ぶりにその島に渡ろうと、那覇にやってきたことについての記事であった。「集団自決命令しなかった、抗議に青ざめる、民主団体空港で激しい詰問、A元大尉が来沖」とひとつの新聞は書き、別の新聞は、「忘れられぬ戦争の悪夢、空港に怒りの声、責任追求にうなだれる、A元大尉が来島」と見出しをつけていた。

  ある理解がからだを電撃のように通過したのは、沖縄のはなれじまで起こった住民の集団自決の事実のことだ。私はそのことについて書かれたものの二、三を読んだことがあった。そして言い表わしようのないへんな読後感におそわれたことを忘れることができない。だからこの記事は、そのことに関連したものにちがいない、と思った。そして私はからだが寒気立つのを覚えたのだった。状況が私の体験に似すぎている。

  戦争のもたらす悲惨は言うまでもないことだけれど、あたたかな南海の小島でそれが起こったとするとなおのこと胸のえぐられる思いがするのは、そのころ私もまた南海のひとつの小島で死と向き合って日を送っていたからか。でも珊瑚礁に白い波がたわむれくだけるおだやかな海辺にいまわしい敵軍が上陸してきてそこに戦闘の修羅場が現出するなどと、どうして思いえがくことができたろう。

  しかし、渡嘉敷島では、その事がまぎれもなく起こったのだ。そして駐屯していた陸軍の海上挺身隊の指揮官は、住民の集団自決を命令し、三百人余りが手榴弾とかみそりやくわを使って死んで行ったのだが、彼自身は生きのこってなお健在だと書いてあるのを読んだのだった。私は衝撃を受け、なおどれほども理解できないまま戦争のなかで傾いて行くにんげんのゆがみに思いを致し、どうにも後味の悪い思いにさいなまれた。と同時にふとよくない予感が頭脳の片すみでくすぶりつづけていたのを認めないわけにはいかない。

  それは、もし自分が彼とおなじ状況に陥ったときにどんな事態が生まれたろうかとかんがえたときに、私はあんたんたる気持におそわれ懐然としたのだった。ただ現実にはそういうどたんばに追いこまれずにすんだ幸運に安堵している自分がいたに過ぎなかったとは。

  その元指揮官が、当の渡嘉敷島に二十五年も過ぎた今あらためてやって来て慰霊祭に参列するというのだ! いったい、これはどういうことなのか。いくら考えてもそれはもう私の想像を上まわりわからなくなったのだが、彼はどのような決心のもとで、いずれにしろ彼とのかかわりあいのなかで非戦闘員が三百人余りも自決したその場所に出かけて行こうとするのだろう。ふとそこに死にに行くのではないか、と先走って不吉な考えを私は起こしてしまったほどだ。だが私のわからなさは一層深まって行くばかりだった。その渡嘉敷渡島を阻止しようとする人々の抗議に彼は、戦死者の霊を慰めたかったと答え、集団自決を命令したことはないし、抗議の内容は知らないことが大部分だがいちいち反論する気持はない、と言
っているのだ。

  地元の新聞には活発な意見が掲げられはじめた。それは彼個人への責任の追求にはじまって、やがて沖縄戦の性格や沖縄の置かれた立場の凝視へとわくが広がり、さらに沖縄の人々の反応の仕方や戦争の傷痕そして戦争責任や戦争そのものの痛みの問題にまで発展して行ったのだが、いずれも自由で柔軟に、そして本質的に論旨が展開されて行ったのにひきかえ、私の思いが低迷しつづけたのは、どうしても私の戦時中の環境が彼のそれに似すぎていたからだ。

  彼は約二百名の海上挺身隊を指揮する元陸軍大尉だが、私は約八百十名の海上特攻隊の指揮官だった元海軍大尉ではないか。おなじ琉球列島中の、彼は渡嘉敷、私は加計呂麻(カケロマ)なのだ。その上、私たちの部隊の近くの部落の人たちは、敵軍上陸のあかつきはその中に避難集合しいずれ最後は自爆するための防空壕をそれと承知で掘りすすめていたではなかったか。たとえ、特攻艇出撃のあとの陸上の残存部隊は私の指揮をはなれてしまうとはいえ、そのへんてこな防空壕掘りには、私たちの部隊からも加勢が出て掘りすすめていたのだった。

  さて敵艦隊が接近し、遂に特攻戦が発動されて約五十隻の特攻艇が発進したとしても、どんな偶然の下で死にそこなう破目に会うかは予測できることではない。一方せっぱつまった状況におちいった防空壕では無残な自決行為が遂行されて多くの住民が死んでしまうだろう。そして私が捕虜となって生きのこったあげくの果てに戦争が終結するとしたらどうだろう。そのあとで二十五年の安穏な小市民生活の日々が流れ去り、そしてある衝動につきあげられて島にやって来るのだ。そうだ、その通りに彼もやって来、そして私も行ったのだ。その結果、彼は告発され抗議を受け責任を追求された。当初彼はどうしてそんなに抗議を受けなければならないのか驚いたとかたっていたのだった。私はKやAやUそしてOたちと共に話し食べ眠っていたのだけれど。

  でもいったい彼は本当になんの告発を受けることもなく、渡嘉敷島に渡れて、慰霊祭に参列できると考えていたのだろうか。本心からそう思っていたのだろうか。私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗いさけ目に落ちこんでしまうのだ。

  しかしなんとしてもへんてこな差恥でからだがほてり、自分への黒い嫌悪でぐじゃぐじゃになってくるのをどうにもできなかった。なにかが醜くてやりきれない。彼の立場だったら、私にどんなことができるかと思うとよけい絶望的になるし、しかしまたこの状況は醜い、と思うことからものがれられなかったのだ。

(以上)
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