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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)1/3

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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)1/3

平成20年7月28日
藤岡 信勝
PDFソース:http://www.jiyuu-shikan.org/pdf/ikensho.pdf


第一 宮平秀幸の証言


  私は3年前の平成17年から沖縄戦集団自決の問題に関心を持ち、現地調査などを断続的に行ってきました。平成20年1月、東京の旅行社が企画したツアーの参加者の一人として座間味島を訪れ、屋外フィールドワークの途上、26日午前11時30分ころ、偶然に宮平秀幸と出会いました。(以下、人名はすべて敬称を省略いたします)。

  その時、CS放送のチャンネル桜が即席のインタビューを行ない、30分ほどの発言の全体がノーカットで、2月16日に放映されました。そのビデオテープを本書状に添付いたします。

  この中で宮平は、昭和20年3月25日夜、座間味島駐屯日本軍の第一戦隊本部の壕で、村の三役などの幹部が村民の集団自決用の武器・弾薬を所望したのに対し、それを断っただけでなく、自決するなと「命令」し、村長に命じて自決のため忠魂碑前に集まっていた住民を解散させるよう説得していたことを証言しました。

  この証言の重大性に鑑み、私は同行の研究者やジャーナリストとともに、当日午後、急遽宮平とのインタビューの場を設定しました。さらにその後、詳細な証言とその裏付けを得るべく、2月11-12日、3月7-9日の2回にわたって座間味島を訪問し、宮平からの聞き取りを中心に関係者からの聞き取りを行いました。

  3月10日には、那覇市の沖縄県庁記者クラブで行われた宮平の記者会見に同席しました。その時配布した文書は、私が宮平から聞き取った内容を文章化し、宮平の加筆修正を経て正文とし、宮平の署名捺印を得たもので、全文は次の通りです。以下、引用部分は、【 】で括ります。

【 証言・座間味島集団自決の「隊長命令」について
平成20 年3 月10 日
宮平 秀幸 印

■本部壕前にて

  昭和20年3月23日、アメリカ軍による空襲が始まりました。アメリカ軍は26 日に上陸するまでの三日三晩、ものすごい爆弾、ロケット弾、艦砲射撃による攻撃を仕掛けてきて、それこそ島の形が変わるような激しいものでした。
  いよいよ明日は敵軍が上陸してくるという25日の夜、正確な時刻はわかりませんが、9時と10時の間ぐらいのときでした。野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の村の三役と国民学校の玉城盛助校長が戦隊本部の壕に来ました。私の姉で役場の職員の宮平初枝と、同じく役場職員の宮平恵達もついてきていました。ただし村長は少し遅れて来たように思います。
  これに戦隊長の梅澤裕少佐が対応されました。壕の入口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊していました。その陰で、私は話の一部始終を聞いていました。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。当時、私は15歳で、防衛隊員として戦隊本部付きの伝令要員をしていました。
  助役は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と言いました。すると梅澤隊長は、「何を言うか!戦うための武器弾薬もないのに、あなた方を自決させるような弾薬などありません」と断りました。助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手榴弾を下さい」と食い下がりました。
  そこで梅澤隊長がさらに出した命令は、「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。あなた方は、畏れおおくも天皇陛下の赤子である。何で命を粗末にするのか。いずれ戦争は終わる。村を復興させるのはあなた方だ。夜が明ければ、敵の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲者が出る。早く村民を解散させなさい。今のうちに食糧のある者は食糧を持って山の方へ避難させなさい」というものでした。
  村の三役たちは30分ぐらいも粘っていましたが、仕方なく帰っていきました。

■忠魂碑前にて

  帰り際に、助役が「おい、宮平君、あんたの家族も忠魂碑前で自決するといって集まってるんだよ」と言いました。私は家族のことが心配になり、村の三役の15メートルぐらいあとをついて歩いて忠魂碑前に来てしまいました。そこには老人と子供ばかり80人くらいの人がいました。私の家族は祖父母、母、姉、妹、弟の6人が、碑に向かって右側の窪地にかたまっていました。
  母と姉の話では、午後8時ごろ私の家の壕に役場の伝令役の宮平恵達が来て、「ほいほい、誰かいるか。僕は恵達だが、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が爆薬くれるというからアッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ」と言ってきた。それで支度をして家族で忠魂碑前にやってきたとのことでした。私は、「お母さん、おじいちゃん、それは軍の命令じゃないからね。死ぬことないよ」と言いました。
  村の三役たちがやってくると全員が総立ちになりました。三役たちは、忠魂碑の下で、何ごとかしばらく相談していました。私はそこから7~8メートル離れた井戸のそばのタブの木のところにいました。助役の声か収入役の声かわかりませんが、「村長、もうあともどりはできませんよ」と言うのが聞こえました。
  やがて「こっちに来なさい」とあちこち隠れている人たちを呼んだので、皆村長のそばに集まって行きました。村長ひとりが忠魂碑の階段を上り切った一つ下の段に立って、「これから軍からの命令を伝える」と言いました。集まった人々は、いよいよ自決命令だと思っていたのです。すると村長は、「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。
  しかも死んではいけないと強く命令されている。とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、一人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」と言いました。5分くらいの話でした。助役や収入役は、忠魂碑の下のところで、集まった人々と何ごとかを話していました。村長が解散命令を出したのは午後の11時ころです。時計は持っていませんでしたが、お月様が出ていたので、大体の時刻を判断しました。
  村長の話が終わったあと、照明弾が落ち、続いて忠魂碑の裏山の稜線に艦砲射撃の弾が3発落ちました。村人は三々五々帰っていきました。うちの家族はどうするか、壕に帰るか、山の方に逃げるか、うちに宿泊している整備中隊の壕を訪ねるか、しばらくグズグズしているうちに、忠魂碑前には誰もいなくなってしまいました。

■整備中隊壕の前にて

  そこで、家族7人で1時間以上歩いて大和馬( やまとんま) にある整備中隊の壕に行きました。整備中隊の内藤中隊長、池谷少尉、木崎軍曹、落合軍曹、藤江兵長の5人が出てきて、「このさなかに何しに来たの」と言いましたから、「軍から自決命令が出ているといって忠魂碑前に集まったけど、解散になった。それで、よく知っている兵隊さんに万一の時は殺してもらおうと思って参りました」と言いました。兵隊たちに殺してもらうというのは、母と姉の案を私が代弁したのです。すると「軍の命令なんか出ていないよ。死んではいけんぞ。死んで国のためにはならんよ。国のため、自分のために生き延びなさい。連合艦隊が逆上陸してきたら、万が一救われるチャンスもあるから、家族ひとりでも生き残りなさい」と言われました。「食べ物がないんです」と言ったら、「持っていけ」といわれて、軍が保管していた玄米、乾パン、乾燥梅干しをクツ下の形をした袋に詰め込めるだけ詰め込んで渡してくれました。
  それからまた、1時間以上もかけて山を越え、戻ってきて第2中隊の壕のところまで来ると、爆撃が激しくなり進むことが出来ません。第2中隊の田村中尉が、しばらくここに避難しなさいといわれ、金平糖、ミカンの缶詰、黒糖アメをもらいました。そのころは、夜も白々と明けかけていました。この兵隊さんたちは、アメリカ軍上陸後、敵陣地に斬り込み、皆戦死してしまいました。( 以上) 】


第二 宮平秀幸と母・貞子の証言の食い違いについての分析


  3月10日の記者会見の内容は、沖縄の2つのテレビ局がローカル・ニュースとして報道しましたが、地元の日刊紙、沖縄タイムスと琉球新報は完全に無視しました。3月11日、那覇市内のホテルで、沖縄タイムス編集委員・謝花直美の講演会があり、その場で私は重要な証言を報道しない同紙の編集姿勢を問いただしました。その際、謝花は『座間味村史(下巻)』に掲載された宮平秀幸の母・貞子の証言と秀幸の記者会見における証言が食い違うと指摘しました。

  『座間味村史(下巻)』(1989年刊行、75-79ページ)には、「死んではいけない」というタイトルで貞子の証言が収録されています。証言者名は「宮平貞子(ウルンメーグワー当時四五歳)」としてあります。

  私は宮平に電話し、村史にある貞子の証言を読んでみるよう依頼しました。全三巻からなる『座間味村史』は秀幸の家にもありましたが、実は母・貞子の証言をまともに読んだことはなかったということでした。一読して電話をしてきた秀幸は、第一声で「おばあ(貞子)は、とんでもないつくりごとを言っている」ともらしました。

  そこで私は、宮平に電話で取材し、昭和20年3月25日の夜、宮平家の壕と忠魂碑の前で起こったことをさらに詳細に聞き出して記録するとともに、村史掲載の貞子の証言についてその誤りを指摘してもらい、文書にまとめました。これを宮平にチェックしてもらい、私の所属する民間の研究団体の通信として3月14日に公表しました。タイトルは、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」となっています。

  以下、まず、宮平家の壕で起こったことについて、村史から貞子の証言を引用し、次いで秀幸の「補足文書」から対応する箇所を引用します。


□宮平家の壕にて(貞子)

【  夫が外地で兵隊にとられていたもんだから、当時は私が一家の中心になっていました。七○歳前後の舅と姑、それに二十三歳の長女、十五歳の三男、五歳の娘、三歳の息子の六人をひきつれて壕にかくれていたんですよ。それが三月二五日になって、ものすごい空襲と艦砲でしょう。特に夜になって、あまりに艦砲がひどいもんだからどうしようかと思っているときに、「お米の配給を取りにくるように伝令がきたので、行こう」と、前の壕の人が合図にきたんですよ。私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていたもんだから、ウチの所まで伝令は来てないんです。
  お米を取りにきなさいと言われて出ていこうとしたら、とても歩けない。このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました。後でわかったことですが、その頃、ほとんどの家族が忠魂碑前に行ったそうですが、私の家族の所には、さきほど言ったように、伝令が来なかったので、忠魂碑前に集まれというのがわからなかったわけです。もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです。  】


■宮平家の壕にて( 秀幸)

【  昭和20年3月25日夜の出来事について、前回の証言を補足します。宮平家の壕はシンジュというところにありました。私は戦隊本部の壕で伝令の任務についていて、家族とは分かれていましたので、忠魂碑前に集まれという村からの指示を直接聞いたわけではありません。
  忠魂碑前に行って家族と一緒になってから、母(貞子)と姉(千代)に聞いた話は次の通りでした。
  夕方、村の役場の女子職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。
  そのうち、防衛隊の漁労班に行っていた長男の秀信が、玄米のごはんのお焦げを持って来ました。それをみんなで食べるか食べないかのうちに、午後8 時ころ、役場の伝令役の宮平恵達が壕のところに来ました。うしろには宮平ツルの姿も見えました。恵達が、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けました。「はい」と母が返事をしました。祖父が「フカガリク[ 屋号] の恵達か?」と聞きました。恵達は、「はい、フカガリクの恵達です」と答えました。そして、「おじい、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が殺してくれる。爆薬をくれるというから、アッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ。遅れないように、ぐそうすがい[ あの世に旅立つ時に着けていく晴れ着] を着けて来てください」と言いました。  】

■『座間味村史』掲載の宮平貞子( 母) の証言について( 秀幸)

【  『座間味村史(下) 』( 1989年刊行)に証言が掲載されている宮平貞子は私の母です。
  母は、1993年8月に亡くなっています。私はこの母の証言をつい最近読みました。事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました。母のことを言いたくはありませんが、間違いは間違いとしてハッキリさせる必要があります。母の証言の明確な間違いは次の通りです。

  1. 千代姉がお米をもらいに行こうとして祖父に止められたのに、母の証言では家族全員でお米をもらいに出かけたことになっています。
  2. 恵達とツルが役場の伝令で来て、軍命だとして忠魂碑前に集まるように言ったのに、その伝令がなかったかのように書かれています。
  3. 家族は間違いなく忠魂碑前に行って、そこで長い時間過ごしているのに、忠魂碑前には行かなかったと書いています。  】

  以下、この、母と息子の証言の食い違いについて、私の分析を述べます。

(1) 貞子の証言では、明示的にはっきり書いているわけでないが、家族構成を紹介したあと、役場の伝令の話になり、それから家族全員で出かける話につながるので、秀幸がシンジュの宮平家の壕に家族と一緒にいたように文脈上読めてしまう。しかし、秀幸は明日は米軍上陸かと思われる緊張した状況の中で、第一戦隊本部の伝令要員という役目で本部壕の中にいた。
  のちに忠魂碑前で家族と合流し、それから長時間行動をともにすることになるのは確かだが、貞子の証言ではその前後関係が混乱している。

(2) 貞子の証言では、秀幸の指摘するとおり、「家族全員でお米をもらいに出かけた」と読める。「お米を取りにきなさいと言われて出ていこうとしたら、とても歩けない。このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました」と書かれているからである。しかし、これは明らかに非合理的な行動である。秀幸の祖父母は足が悪く、うまく歩けない状態であった。その祖父母まで含めて、家族全員で米を取りに出かける必要はない。誰かが行けばよいのである。実際は秀幸のいうとおり、千代がお米をとりに出ようとして祖父にとめられたのであろう。
  ただ、秀幸が詳細に語っている経過とつきあわせると、貞子の発言に言葉を補えば、合理的に解釈できなくもない。上の引用に次のように( )内の言葉を補って読むのである。

《 お米を取りにきなさいと言われて(千代が)出ていこうとしたら、とても歩けない。(そこで、米を取りに行くのはあきらめたが)このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました 》

  貞子はこのように言いたかったのであろう。村史編纂の担当者が、貞子の話をテープに取り、そこから文字に起こしたと思われるこの証言は、話し言葉における言葉足らずの不完全さを示すものとなっている。

(3) 秀幸証言と貞子証言が決定的に食い違うのは、家族が忠魂碑前に行ったかどうかである。この点について、貞子証言は他の箇所とは異なる、一種奇妙なトーンで語られている。

《 後でわかったことですが、その頃、ほとんどの家族が忠魂碑前に行ったそうですが、私の家族の所には、さきほど言ったように、伝令が来なかったので、忠魂碑前に集まれというのがわからなかったわけです。もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです 》

  家族全員で壕を出たのなら、普通はその先の家族の行動や体験を語るのが自然な話の流れである。ところが、「後でわかったことですが」と、突然説明的に語調が変わり、ここでわざわざ忠魂碑前に行かなかったことについて、その理由を言い訳的に述べている。それは、そもそも役場の伝令が自分の家の壕には来なかったから、というものだ。米を取りに来るようにという伝令は、貞子の言うとおり、前の壕の住人から聞いたのかも知れないが、それにかこつけて、忠魂碑前に集合せよとの伝令まで来なかったというのはいかにも不自然だ。そんな重大なことを宮平の家族にだけ、伝令役の恵達が伝えなかったなどということは考えにくい。秀幸は、ほかならぬ貞子と千代の話をもとに、家族と伝令とのやりとりをヴィヴィッドに再現しているのである。

  村の中で貞子の置かれた立場は次のようなものであったに違いない。秀幸の言う通り、家族全員で忠魂碑前に行ったなら、村長の解散命令を貞子は聞いたはずである。それは村にとってタブーであることを貞子はよくわきまえていたから、安全策をとって、そもそも忠魂碑前には行かなかったことにする。しかし、役場の連絡を受けていながら行かなかったとすれば、役場に反抗したことになる。そこで、貞子の家にはそもそも伝令がこなかったという言い訳を考えたのである。

  しかし、そうすると貞子証言には別の矛盾が生じる。(千代が)米をとりに行こうとしたのだが、「出て行こうとしたらとても歩けない」ほど、米軍の攻撃は激しかった。(秀幸によれば)祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めたほどだった。こういう状況なら、家族のとるべき行動は、壕の中でじっと身を潜めている以外にない。それなのに、貞子は、「このままでは生きられないと思って」、家族全員壕を出て、「燃え続けている木々の間をぬって」移動するという「自由行動」を始めたというのである。

  これはあまりに不自然で説明がつかない。危険をおかしても足の悪い祖父母を伴って壕を出なければならない事情があったのだ。それは忠魂碑前に集合するという目的以外はありえない。

  このように、貞子証言には内在的矛盾がある。貞子が「忠魂碑前に行かなかった」というのは、村のタブーをおかさないようにするために貞子が予防線を張った虚偽の証言であったと考えざるを得ない。

  貞子証言の真偽を最終的に判定するには、壕を出た時の家族の服装を確かめればよい。家族が正装していたのなら、忠魂碑前に自決を覚悟で出かけたことになる。このとき、壕を出た家族の中に、6歳の昌子がいた。私は昌子に証言を依頼した。昌子は、当日のことを覚えていた。

  7月15日、昌子は自身の体験をテープに録音し、私あてに郵送してくれた。

  以下は、その中の主要部分を文字に起こしたものである。

■壕を出てから忠魂碑の前で起こったこと(宮平昌子、当時6歳)

【  暗くなってから、私たちが入っている防空壕の前へ大人二人が来て、一人はおじさん、もう一人は女の人でした。「マカー(忠魂碑のある地名)の前へきれいな着物を着て早く来なさい」と呼んでいました。おじいさんとおばあさんも、私も弟もきれいな着物を着けて、お母さん、お姉さんの[聴取不能]着て、マカーの前へ行きました。マカーの前には人がいっぱい集まっていました。私と弟を、母と姉がおんぶして連れて行きました。おじいさん、おばあさんは杖をついて行きました。私たちはマカーの広場のそばの小さなみぞに座っていました。兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんと話をしていました。少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼んでいました。大人が「解散、解散」と言っておりました。(以下、略)  】


  忠魂碑前の出来事については、秀幸は、「補足文書」の中で、3月10日の記者会見時の文書よりもさらに詳細にわたって次のように述べています。

■忠魂碑前にて(秀幸)

【  午後9時ごろ、祖父母、母、姉、妹、弟の6人の家族が連れ立って忠魂碑前まで歩いて行きました。家族は、忠魂碑に向かって右手の30メートルくらい離れた窪地に固まっておりました。宮里盛秀助役から、私の家族が自決するために忠魂碑前に集まっていると聞いた私は、心配になって忠魂碑前にやってきました。母や祖父母の姿はすぐに見えましたが、姉の千代の姿が見えなかったので、「千代姉さん、来てるのか?」と聞きましたら、姉は「はい。秀幸、あんたも元気か?」と言いましたから、「僕、無事だよ」と答えました。

  母が「秀幸、こっちに来なさい」と呼ばれたので、私は「たった今、本部の壕からここに来たのは、村長、助役、収入役、校長、それから恵達だよ」と言いました。母は「何で早く自決をさせないの?」と聞きますので、私は声を潜めて、「今さっき、役場の三役が隊長に自決するから爆薬を下さいと言ったんだけど、隊長が断って、自決用の弾薬も何もない、自決してはいけないと命令したので、この役場の人たち、自決をやめるために帰って来たんだよ」と言いました。母と祖父は、こもごも、「軍の方から何も貰えないのに、『軍が忠魂碑の前で自決させるから』と言ってみんなを呼び出しておきながら、今あんたの話を聞いたら、自決は中止だというんだから」と、村の幹部について批判的な口調で言いました。そして、母は「どうしたらいいの?」とぼやきました。私は本部壕前のことを話してやりました。

  そのうち、村長が「今から大事な話をするから、みんなこっちに寄って来なさい」と言いました。その内容は前回の証言で述べた通りですが、村長の解散命令を、母や私の家族はみんな自分の耳で聞いています。  】

  このように、宮平秀幸と妹・昌子の証言は、忠魂碑前の出来事について、大筋において完全に符合します。宮平家の家族は間違いなく忠魂碑の前に来たのであり、母・貞子は村史の証言で明らかに虚偽を述べていたのです。ただし、昌子証言には村長の解散命令の言葉は出てきません。6歳の子供には村長の言葉は聞き取れなかったのでしょうが、極く自然なことと思われます。




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