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証言の意味するもの・・・谷川健一

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中公新書256
名嘉正八郎・谷川健一編
沖縄の証言(上)
庶民が語る戦争体験
中央公論社刊
昭和46年7月25日初版
昭和57年2月1日5版

  • 長い文章なので、章立てと小見出しを転載時に付加しました(以下※印)。そのキャプション語彙も私の責任です。この民俗学者である谷川健一氏の解説は、大書「沖縄県史」を紐解くガイドとして極めて有効だと思われるので転載しました。なぜなら、200ページ余りの新書版には収めきれない証言・戦史を反映しようと、熱を込めて書かれた一文だからです。 by pippo

証言の意味するもの(解説)前半・・・谷川健一


(一 沈黙という岩盤)※


いまを去る二十六年前、沖縄の天地は凄惨な地獄と化した。本土の日本人が空襲に逃げまどい、疎開の不便な生活になやんでいるときに、沖縄はその大地の上に敵の兵士と戦車を迎え、間断のない艦砲射撃の下にさらされながら数ヵ月を送った。この間の記録は数多くの沖縄戦記としてすでに発表され、私たちの胸をゆさぶってきた。そして沖縄本島の中南部に林立する各県の慰霊塔、これらは、それがそもそもの目的でないにせよ、私たちに一時の罪責感をあたえて、そして解放するというカタルシスの役を果たしていることも否めない事実である。涙は人間を浄化し、人間の苦悩をやわらげる作用をもつ。戦後二十六年、いままさに沖縄が本土に復帰しようとする寸前、沖縄の戦いの記億は、沖縄戦記や慰霊塔を残したまま、過去に押しながされようとしているかにみえる。本土復帰によって、沖縄の戦後は終わった、という人が出てくるであろう。私たちは沖縄の大地に聞くほかない。それははたして真実であろうかと。

  • 沖縄は、昭和47年(1972)5月15日に日本領に復帰しましたので、この文章はそのおよそ一年前に書かれたようです。
  • 「今を去る六十ニ年前」と置き換えてこの文章は成り立つだろうか?
  • 「沈黙の岩盤」は厚い。読谷村チビリガマの集団自決が語られるようになるまでに38年も掛かった、という。

これまで軍人や知識人が沖縄戦について発言しても、沖縄の庶民だけは沈黙した。私がこの庶民の沈黙の岩盤につきあたり、その大きさがわかったのは、沖縄史料編集所が『沖縄県史』に収録する予定の沖縄住民の非戦闘員の聞書きの記録を読ませてもらったときである。私は皮肉にもこの聞書きにふれてはじめて、沖縄の民衆の言語に絶する苦難、そして戦後二十何年間をつらぬいたその苦難を語るまいとする沈黙の意味を、やっと諒解したのである。

  • 傍点箇所を太字に>pippo

苦しみが大きすぎるとき、人は告白する衝動を失い、それにふれることを極度に嫌悪する。沖縄の民衆が過ごした戦後は、まさしくそのようなものであった。極限状況まで追いつめられた庶
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民にとつて、その苦難はあまりに大きすぎて、それを語ることを欲しなかった。しかし、それは沖縄の庶民の心底にまるで鋼のように重く、冷たく沈んでいたのだ・そしてや一と戦後二十何年目かに、彼らの寡黙な心情は、戦争体験を語ろうとするまでに余裕を持ってきた。とすれぼ、沖縄の戦後はこの沖縄の民衆のかかえてきた沈黙の岩盤にささえられていたといっても、けっして過言ではない。これこそ、戦後の沖縄の思想の原点であることを私は確認した。沖縄の戦後は、この無告の民の沈黙から出発し、沈黙の岩盤にささえられてこんにちまでやってきたのだ。沖縄の戦後社会をいろどるさまざまな現象や事件の鍵はここにある。

沖縄の悲劇はサンフランシスコ条約によつてもたらされたか。断じてそんなことはない。すでに沖縄戦からはじまつていたのだ。日本の一部でありながら、このような言語に絶する苦難が、沖縄の民衆を唖にした。しかし彼らは、その体験を忘れていたのではなかった。日本とアメリカの双方への痛烈な不信を生むにいたつた沖縄の戦いこそが、沖縄の戦後思想の原点である。それは強固な沈黙の核を秘めてはいるが、すべてはここから出発する。沖縄の民衆がその重い口をやっと開いて沈黙を破りはじめたこんにちこそ、沖縄の本土なみ戦後が始まるといえる。この沖縄戦の民衆の証言は、その意味で私たちに戦後思想、いや戦後史そのものの書きかえを迫るものをもっていることはうたがうべくもない。

  • 上記赤太字は>pippo


(二 沖縄の戦況)※


ここにおいて、私たちは本書の背景となる沖縄の戦況をしばらく追ってみたい。
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(サイパンから沖縄へ)※

昭和十九年七月七日、サイパン島の日本軍の守備兵は全減した。そしてその月の二十一日には、米軍はグァム島に上陸を開始した。マリアナ諸島には、数万の沖縄県民が出稼ぎにいっている。その中には自決して果てたものも少なくない。沖縄の人たちは地理的な近さからだけではなく、血のつながりの近さから、サイバン島やグァム島の運命がやがて自分たちの島にもふりかかるかも知れないという不安を強くもった。

その不安は、七月末までに沖縄県民を本土と台湾へ緊急疎開させよという日本政府の命令が発令されるにいたって、いよいよ確実となった。住みなれた沖縄の島々をあとにして、台湾へ二万、本土に約六万の疎開がおこなわれた。その中には、鹿児島の南、奄美(あまみ)の北のとから列島の悪石島付近で、アメリカの潜水艦に撃沈された対馬丸のような悲劇もある。対馬丸は那覇市内の国民学校の児童と一般疎開者合わせて一、六六一名を乗せて、八月二十一日に那覇港を出発した。あくる日、機関に故障を起こして一隻だけが船団からおくれた。そこを敵潜水艦にねらわれたのである。助かったものはわずかに一七七名にすぎなかった。遭難者の半数の七六六名が国民学校の児童であった。児童は五九名しか生き残らなかった。

この衝撃がおさまらない十月十日、米軍による沖縄への最初の攻撃がおこなわれた。しかもそれは決定的な一打であった。六万五干の人口をもつ那覇市の主要部分は、その九割が灰燼に帰した。読谷(よみたん)、嘉手納(かでな)、伊江(いえ)島、那覇の各飛行場、沖縄本島の港湾施設や船舶も破壊された。そして県民の一ヵ月分にあたる米が焼けた。軍需品の損害もおびただしく、長勇ちよういさむ参謀長は進退伺いを
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出したほどである。それからざっと一月足らず、十一月四日には沖縄第三十二軍の主力を構成する第九師団の台湾転出が大本営から通達された。当時沖縄本島方面の戦闘を受けもつ第三十二軍は、第九師団のほか、第二十四師団、第六十二師団、独立混成第四十四旅団、それに軍砲兵隊の合計六万から成り立っていた。そのほか海軍兵力一万があった。このうち一個師団をひき抜くというのだから、沖縄の守りが手薄になるどころか、がたがたになるのは目に見えている。


この措置に現地沖縄では軍民ともに憤激し絶望した。あとで大本営がその補充をこころみようとしたときは、敵の潜水艦の跳梁(ちょうりょう)がはなはだしく、兵力の輸送は困難で実行に移されなかった。いきおい沖縄の守備軍も、敵の上陸地点と想定される場所に主力を結集して、決戦をいどむ作戦を放棄しないわけにはゆかなかった。そして、このことが米軍の沖縄作戦をいもじるLく容易にしたことは、否定できない。

(防衛隊と現地徴兵)※

第九師団が転出したあとの人員不足を、日本軍は地元の沖縄人で埋めようとした。防衛隊は最初、飛行場の建設に参加させる目的で、一九四四年六月に組織された。一九四五年一月以降、十七歳以上四十五歳までの沖縄人で、引っぱられて防衛隊にはいったものはおよそ一万七千名をかぞえた。

沖縄の民間人が組織した防衛隊の任務は、主として弾薬や糧秣の運搬に従事する仕事で、苦力(クーリー)都隊であった。
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そのほかに日本軍は多数の沖縄人を現地徴兵し、召集した。召集といっても、体(てい)のよい狩り出しで、米軍上陸以後の一九四五年の四月、五月になると口頭で召集令が伝達された。実際に第三十二軍に加わって戦闘に従事した沖縄の人たちの数はわからないが、おそらく日本軍勢力の三分の一を占めていたのではなかろうか、と推論する向きもある。米軍の沖縄進攻開始当時、第三十二軍の兵力は十万、その中に二万の防衛隊とかず知れないほどの現地召集の沖縄の人たちが含まれていた。陸軍自体の全兵力は七万七千、そのうち歩兵が三万九千、特別部隊、砲兵隊その他のサービス部隊が三万八千。そのサービス部隊に沖縄の人たちは大量に組み込まれていたのだったろう。

(離島の悲劇)※

米軍は沖縄島上陸にそなえて、一九四五年の三月中旬から飛行場と飛行機を使用不能にする目的で、日本本土の各飛行場を急襲した。また米軍の艦艇は沖縄近海を掃海し、艦砲射撃を加えた。三月二十六日の朝、米軍は伊江島か沖縄本島に上陸するという日本軍の予想を裏切って、まず慶良間(けらま)諸島の攻略にとりかかった。阿嘉(あか)島、慶留間(げるま)島、外地(ほかじ)島、座間味(ざまみ)島、屋嘉比(やかび)島などを占領し、あくる二十七日に渡嘉敷(とかしき)島に上陸した。米軍発表によると、慶良間諸島では日本軍は五三〇名が戦死し、二二名が捕虜となった。米軍は三一名の戦死者と八一名の負傷者を出したにすぎなかった。


慶良間諸島の悲劇はむしろ住民のあいだに起こった。慶留間島では、親は縄や手でわが子をしめ殺し、そのあとを追った。その数は約四〇名。座間味島では、米軍が上陸するとともに、内川(うちかわ)
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山壕内で野村村長はじめ、吏員、家族、村民多数が手投弾や劇薬で一人の未遂者もなく最期をとげた。山頂近くに結集していた住民は薬で死にきれず、棒で頭をたたき割って最期をとげ、ある者は生まれて二、三ヵ月の赤子を乳房で窒息させ、子供を一人一人のどを切ってゆく親、首をくくる者、銃弾で倒れる者、手榴弾を使う者、と、さまざまな方法で自決するという悲惨きわまりないさまであった。自決者および、戦火に倒れた島民の数は三五八名に達した。

渡嘉敷島の場合は、谷底に追いこまれた住民たちは古波蔵(こはぐら)村長の訣別の言蒙終わると、手榴弾で自決していった。死ねない者はおたがいに棍棒でなぐり合い、剃刀(かみそり)で頸を切り、子の首をしめ、鍬(くわ)で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃砲弾が炸裂した。思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者四〇〇余名、戦死者三〇余名。

こうして慶良間諸島では慶留間、座間味、渡嘉敷の島々で惨劇がおこなわれた。

(本島北谷上陸)※

一九四五年四月一日、復活祭日曜日の明け方、一、三〇〇隻の米軍の艦艇が勢ぞろいした。五時三十分、戦艦一〇隻、巡洋艦九隻、駆逐艦二三隻、そして一七七隻の砲艦がいっせいに砲口を開いて、総攻撃直前の掩護射撃を開始した。八時三十分、上陸用舟艇は比謝(ひじゃ)川の川口を中心にした北谷(ちゃたん)村の海岸線にたどりつき、夕方まで六万以上の兵が上陸した。すでに米軍の斥侯はその数日前か、前日に上陸して慎察していたと思われるふしがあるが、米軍が不思議に思ったのは、日本軍が低抗らしい抵抗を示さないことであった。日本軍の砲兵陣地からの妨害は、ほとんどなかった。地雷に出くわすこともなかった。
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米軍はその日のうちに桃原(とうばる)の線まで進出した。地上の低抗は少なかったが、日本の特攻機は果敢な攻撃をこころみた。米軍は島袋(しまぶく)を突破し、中城(なかぐすく)湾を海岸ぞいに南下して、三日には東海岸の久場崎(くばざき)を占領した。四月七日、陸軍の戦闘機部隊が読谷飛行場に、九日には嘉手納飛行場に着陸するというすぱやさだった。

米軍が北谷村海岸に上陸したとき、日本車の第一線部隊の中軸は中城村喜舎場(きしゃば)にあった。中城村の北方(戦後は、米軍基地のため分断され、北方は分村して北中城村となった。)は、米軍の進撃がはやくて日本軍の後退がはやかったために、米軍上陸後わずか二、三日で米軍に捕虜にされている人々が多いが、現在の中城村は南よりで、米軍の進撃を後ろにして南へ落ちのびる時間の余裕があった。そのために中城村北方(現在の北中城村)は、一般庶民の戦火による生命の犠牲がいくぶん少なかったが、中城村は南部の市町村と異なることなく犠牲が多かった。

四月五日まで北谷村砂辺(すなべ)海岸の金網内に入れられていた一、五〇〇名余の捕虜の住民は、比嘉(ひが)と島袋の収容所にトラックではこばれた。

(北部戦線、伊江島民の犠牲)※

北上した米軍は石川(いしかわ)地峡を通り金武(きん)の線に到達した。そして八重(やえ)岳にたてこもる日本軍を攻撃、四月十三日には沖縄北端の辺戸(へど)岬に着いた。四月十五日には八重岳を制圧し、あくる十六日には伊江島に上陸した。伊江島は平べったく丸い島で、島の中央には沖縄本島から遠望できる城山(ぐすくやま)が突出している。米軍の攻略の目標は飛行場を確保し、利用することであった。それにたいして日本軍は、城山の陣地を中心に強固な防備態勢を敷いて米軍をよせつけなかった。猛烈な艦砲射撃
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ののち上陸した米軍の攻撃を、日本軍の地雷や夜襲が阻止した。

日本軍には、多数の伊江島の村民がまじって戦った。女たちも例外でなかった。頭髪を切り、戦闘帽をかむり、男装して爆雷を持って飛び出し、竹槍をひっさげて切込みに加わり、みずから死ぬと知りたがら米軍陣地に体あたりした。その中には、乳のみ児を背負った掃人もまじっていた。

伊江島での日本軍の低抗が頑強をきわめたことは、米国陸軍省編の沖縄戦記『日米最後の戦闘』("Okinawa", The Last Battle )の認めるところであるが、六日間にわたるこの戦闘で米軍は一、一二〇名の死傷者を出した。内訳は戦死者一七二、負傷者九〇二、行方不明四六。日本軍は四、七〇六名の戦死者と一四九名の捕虜を出した。このうち軍服を支給された約一、五〇〇名の民間人が含まれていた。

当時本島に疎開した三、○○○名をのぞけぱ、伊江島に残留していた同島の住民数は約四、○○○名と推定されるが、そのうち少なくとも一、五〇〇名は死んだと考えられる。というのも伊江島民で米軍の捕虜となり、慶良間諸島の渡嘉敷島、慶留間島に移されたものはおよそ二、一〇〇名余にすぎないからである。

(本島、首里攻防と夥しい犠牲)※

眼をふたたび本島の戦闘に転ずると、米軍の進撃は四月八日以来ストップしていた。牧港(まきみなと)から宜野湾(ぎのわん)市の嘉数(かかず)、東は中城村和宇慶(わうけ)、西原(にしはら)村上原(うえはら)にのびる戦線を日本軍は死守して一歩もゆずらなかった。とくに嘉数の戦線は壮烈をきわめた。この前線を後退させるのに、米軍はなんと半月
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かかった。そこはいくつもの丘陵が重なり合い、天然の防塁となっているとともに、高地を守備する日本軍は攻めのぽる米軍を狙い打ちすることができる。嘉数戦線では、身体を地表にさらすことは死か負傷を意味していた。

日本軍は、蛸壷(たこつぼ)と急造爆雷をたくみに使用した。米軍は攻めあぐみ、日本軍の砲火の前に立ちすくんだ。日に一メートルしか前進できないこともあった。米軍が毒ガスを使用したのはこの嘉数においてであった。その犠牲者は壕にひそむ非戦闘員の中からも出た。

しかし、日本軍の死傷もはなはだしかった。そのうえ兵力の一部は南部に備えておかねばならなかった。米軍は島尻(しまじり)の港川(みなとがわ)に上陸するとつねに見せかけて日本軍を牽制、その結果、日本軍は全兵力を嘉数戦線に投入することはできなかった。四月二十四日の明け方、日本軍は猛烈な砲火を米軍陣地にあびせるかたわら、深い霧を利用して、首里(しゅり)防衛の第一線から後退しはじめた。しかし日本軍は、仲間(なかま)、前田(まえだ)、幸地(こうち)の線でふみとどまった。この第二線を守らねぱ、首里は危険にさらされる。そこで両軍死力をつくしての攻防戦が展開された。


前田丘陵四日間の戦閾は、「ありったけの地獄を一つにまとめた」といわれるほどで、嘉数に劣らずものすごいものであった。「手投弾は飛びかい、洞窟や蛸壷壕には弾薬が投げこまれ、夜は夜で双方とも敵のいつとも知れぬ夜襲におびえていた」と『日米最後の戦闘』の一節は伝える。

日本軍はこの戦闘に破れることをきわめて憂慮し、反攻に転ずる計画を立てた。五月四日、総反攻が実行されたが、結果は日本軍の無惨な敗北に終わった。約五、○○○名の戦死者を出し、
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その戦力ぽ半分以下に低下した。これにたいして米軍の損害は約一、○○○名。日本軍の士気はおとろえ、重苦しい空気が支配した。沖縄住民の被害もおそるべきものがあった。

沖縄戦中の最大の激戦地の一つであった宜野湾市の嘉数では半数以上が死んだ。浦添(うらそえ)村の前田では、人口が三分の一に減った。西原村の幸地では戦前九六〇名の人口が戦後三三〇名に減った。一四〇戸のうち五三戸が一家全減。おなじ西原村の桃原では、人口四〇〇余名のうち残存者九四名。七六戸のうち一家全滅は四二戸。桃原の近くの西原村字我謝(がじゃ)では一、○○○名のうち四五〇名しか残らない。やはり西原村の字池田(いけだ)では、四〇五名の戦前人口が二五五名に減少した。


(南部島尻、住民の犠牲)※

沖縄戦が住民をまきこんだ戦争であったことがこれで理解される。この数字の比率は、沖縄戦の破局の舞台であった南部の島尻においても同様である。南部の被害についていえぽ、喜屋武(きやん)岬に近い旧真壁(まかべ)村の字真栄平(まえひら)部落では、沖縄戦直前の約九〇〇名が、戦後は三五六名に減った。総戸数一八七戸のうち、一家全減が五八戸、一名生存二三戸、両親なし二一戸、父なし五二戸である。

おなじく旧真壁村の名城(なしろ)では住民八○○名のうち、その三分の一が死んだ。

旧高嶺(たかみね)村の字国吉(くによし)では、戦争直前の人口が四七〇名前後、そのうち戦死者が二一〇名以上。ここは、米軍のバックナー中将が戦死した場所の近くの部落であるが、捕虜になった住民のうち男子は全部銃殺された。

旧真壁村字伊敷(いしき)は、一三〇名の人口のうち五五名が死んだ。同村の宇江城(うえぐすく)は、一六三名の人口
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のうち生き残りは七〇名。同村の糸洲(いとす)では人口二五〇名のうち半数以上が死んだ。

旧喜屋武村の字上里(うえざと)では、一二〇名前後の住民の三分の一以上が死んだ。同村の字束辺名(つかひな)では、人口二三〇名あまりが一五六名となった。

旧摩文仁(まぶに)村の大渡(おおど)では、人口二五〇~三〇〇名のうち約半数が死んだ。同村の米須では、一、五〇〇名のうち生き残りはわずか三三〇名。一家全減は全戸数の四七パーセント。

旧兼城(かねぐすく)の照屋(てるや)では、人口八九六名のうち、死んだもの三七〇名。

旧高嶺村与座(よざ)では九〇〇名近い人口のうち三一〇名しか残らない。しかも一七、八歳から五〇歳ぐらいのあいだの男は、たった六名しか生きていなかった。そして戦前戸数一五四戸にたいして、一家全滅は四五戸、つまり三分の一は、家族全部が地上から消え失せたのである。

東風平(こちんだ)村の小城(こぐすく)では、戦前人口が七四〇~五〇名。それが戦後の帰郷者をふくめて三〇〇名余。すなわち、戦死者は四四〇名以上である。

(米軍の攻撃目標)※

日本軍の最後の首里防衛線は安里(あさと)の北から大名(おおな)、沢岻(たくし)を通り、石嶺(いしみね)の丘陵地帯におよんだ。東の方は運玉森(うんたまむい)の北の桃原や我謝にのびていた。五月十一日に米軍は総攻撃を開始し、十日間の激戦が展開された。米軍は攻撃目標に自分たちの名前をつげた。首里の東側の弁(べん)ヵ岳はチョコレートでつくったドロップのようにとがっていた。また那覇郊外の安里の北の高地はシュガー・ローフ(一山の砂糖)と呼ぱれた。ここを米軍が奪取すれぼ首里攻略の鍵を手に入れたことになるのだった。沖縄にいる米軍の将兵に向けて東京放送は英語で話しかけてきた。おそらく東京ローズとよぼれる有名な女性の声であったろうか。
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「シュガー・ローフ・・・・・チョコレート・ドロップ・・・・・ストロベリー山・・・・・まあなんというすばらしい名前でしょう。白いピケットを張りめぐらした中に、キャンディの家が見えます。木々には、キャンディのいっぱいはいった罐がぶら下がり、赤や白い筋が陽に輝いてキラキラ映えています。でもみなさん、この赤い実はアメリカ人の血の色なのです。こういうすばらしい名前の山こそ、じつは恐ろしい肉弾戦が行なわれるところなのです。もちろんいちぱん悲惨なところを、きれいな名前をつけて、こわがらなくてもよいようにするのは、ごくあたりまえのことでございましょう。
シュガー・ローフがどうして何回となく攻撃の手を変えなけれぱならなかったか、よくごぞんじでいらっしゃいましょうね。それはまったくダンテの“地獄”さながらだからです。そう、砂糖の山・・・・・チョコレート・ドロップ・・・・・いちごの山・・・・・みんなきれいな名前ですわね。ただそこにいったことのある人は、そこがどういうところかごぞんじなんですけれども・・・・・」(『日米最後の戦闘』)

事実、米第六海兵師団はシュガー・ローフを占領するまでの十日間の戦闘で二、六六二名の死傷者と一、二八九名の戦闘疲労症(精神病)を出している。

運玉森(うんたまむい)は米軍によって「百万ドルの山」と名づけられていた。この運玉森はそれだけの値打があった。その東側を制圧することによって、那覇と与那原(よなばる)を結ぶ道路が確保できて、首里攻撃は
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格段に容易になるからである。米軍は五月二十一日に、運玉森の東側の丘陵斜面を確保し、首里防禦陣の突破口を開くことに成功した。

(日本軍の撤退)※

ここにおいて日本軍首脳は一大決断に追い込まれた。米軍が運玉森からいっきょに首里南方の津嘉山(つかざん)付近に押し寄せたら、全陣地の組織がくずれることになる。三月下旬の日本陸軍の総兵力は約八六、四〇〇名であった。その後現地召集の沖縄人をも加えているが、それがいまや生存の将兵は五万内外に減っており、しかも精鋭はほとんど死傷し、歩兵火器の大部分は消耗している。この五万の兵力をもって首里の外郭をささえることはむずかしく、直径一キロ内外の狭い地域に配置すれぼ、米軍の物量攻撃の好餌となるだけの話である。といって逃れるところは、南部の知念(ちねん)半島か喜屋武岬しかなかった。知念半島は洞穴陣地が少なく、また米軍がすぐ近くの与那原に迫っているので、そこへの撤退案は捨てられた。

第三十二軍牛島司令官、長勇参謀長、八原(やはら)高級参謀などの軍首脳は、喜屋武岬に後退する案を選んだ。これにたいして島田沖縄県知事は、非戦闘員を知念半島に移し、そこを無防備地帯として米軍に通告することを強調したが、軍首脳はその主張を聞き入れなかったと伝えられる。もしこの案がいれられたら、沖縄戦の最後の様相はすこぶるちがったものになっていただろう。

事実、沖縄の現地軍は五月十六日に大本営に打電していた。

「軍は状況を判断し総力をあげ北面より首里東西の線に最後の予備を投入しつつ敢闘中たるも現兵力の保持逐次至難となり、まさに組織的戦略持久は終焉せんとす・・・・」
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この電文の示すとおり、日本軍の組織的低抗は首里防衛戦で終わったのである。

米軍は嘉数の首里防禦の第一戦線を突破するのに、四月八日から二十三日まで半月を費やし、その嘉数から二キロ南の前田高地に敷かれた防衛第二戦線を突破するのに、五月五日までの十二日を要した。そして、前田から二キロ南の石嶺高地に設けられた第三番目の防禦陣を突破して首里前面に迫るのに、五月二十日までの半月余を費やした。つまり、四キロ余前進するのに一月半ちかくをかけねばならなかった。このことだけを考えても、それが文字どおり死闘であったことがわかる。一日にして百メートル足らずの前進距離に埋まった死体の数を想像せよ。

しかしいったん、首里防衛を放棄した以上は、そこにどのような激闘がくり返されたとしても、敗残の兵たちがその終末を引きのばすための戦いにすぎなかった。野戦病院に残された兵隊はおよそ一万であったが、そのうち動けない重傷の兵士は手投弾、爆薬、薬品で自決をとげた。五月末、おりから降りつづく雨で泥濘と化した道を、五万の日本軍が南部へと撤退をはじめていた。しかし、島尻南部では三万に減っていた。一〇キロの道のりのあいだに二万が失われたことになる。体力の衰弱や負傷のため歩行できなくなったり、また米軍の艦砲射撃の餌食にたったものも多かった。

(海軍部隊の最期)※

一方、小禄(おろく)にいた一万の海軍部隊は、その中核になる精鋭の二、五〇〇名を首里戦線に送って陸軍を助けたが、その残りは小禄を死に場所とさだめて、小禄半島に上陸した米軍を迎え撃った。しかし、圧倒的な敵の前にはどうしようもなく、大田実少将は司令部壕内で六月十三日に自決し
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た。大田司令官は六日夜、海軍次官に次のような電報を打っている。それをとくに左にかかげるのは、沖縄で戦った日本の軍人で、沖縄県民にたいする心づかいを示す唯一の文書の例だからである。

 「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、三十二軍司令部叉通信の余力なしと認めらるるに付、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、之に代って緊急御通知申上ぐ。
沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関しては、殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。然れども本職の知れる範囲に於ては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わずか)に身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃下・・・・風雨に曝(さら)されつつ乏しき生活に甘じありたり。而(しか)も若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護掃炊事婦はもとより砲弾運び挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発し身寄(みより)無き重傷者を助げて・・・・真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず、更に軍に於て作戦の大転換あるや自給自足夜の中に逢(はるか)に遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり。之を要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫勤労奉仕物資節約を強要せられて、御奉公の
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・・・・・を胸に抱きつつ遂に・・・・・ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形・・・・・一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支うるのみなりと謂う。沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」(原文は片仮名まじり、旧仮名遣い文。句読点は引用者による。「・・・・・」は、原文の不明箇所。)

切々たるこの訴えを、戦後の本土の政治家たち、いや日本国民全体がどのように受けとめているか。いまなお残る小禄の地下壕にむなしく谺(こだま)するのみであるか。

(南部での陸軍最後の死闘)※

一方島尻に後退した陸軍部隊は、司令部のある摩文仁の丘の真北にあたる八重瀬(やえす岳)と与座を中心にして、西は国吉から真栄里(まえさと)におよび、東は具志頭(ぐしちゃん)にわたる抵抗線を敷いた。米軍は五月末日から六月四日までわずか五日間で南部地区の半分を制圧した。六月五日から日本軍の抵抗線に攻撃を開始し、日本軍の執拗な防禦を十日あまりかかって排除した。八重瀬岳、ついで与座岳が占領され、国吉台地と真栄里も攻撃を受けるにおよんで、最後の望みは絶たれた。

牛島軍司令官は六月十八日に訣別の電報を大本営に打った。その日にバックナー米軍司令官は高嶺村真栄里で戦死をとげた。十九日も米軍の猛攻はつづけられ、摩文仁の丘まで迫ってきた。西側は米須まで進出した。新垣(あらかき)と真栄平は最後まで戦闘が激しく展開された。六月二十二日、摩文仁の軍司令部洞窟が米軍に急襲された。六月二十三日午前四時、牛島司令官と長勇参謀長は自決して終わった。

一万五千名から一万八千名の日本兵が沖縄の南部海岸の断崖まで追いつめられた。日本軍の損
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害は六月初めから日に一千名だったのが、六月十九日に二千名、二十日には三千名、二十一日には四千名以上となった。そして、六月二十三日から月末までの米軍の掃討戦で、九千名の戦死傷者を出した。米軍の推定によると、沖縄戦開始以来五月末まで約七万名の日本兵が死んでおり、それ以降四万名近くが死んでいる。

沖縄南部の戦いは、死か捕虜かの二老択一をせまられたものであった。ここにおいて日本軍は一刻もながく生きのびるために、沖縄の住民を犠牲にすることをあえて辞さなかった。それは死を前にLたエゴイズムといえるのかもしれない。しかし間題は、日本軍の沖縄住民にたいする不信の念が前提となっていること、そして武器を持った人間が、非戦闘員にたいして脅迫をもってのぞんだことである。沖縄の住民は好きこのんで自分の住んでいる土地を戦場としたのではなかった。

(命を奉げた住民の協力と、日本軍の冷酷な仕打ち)※

中部の住民十数万名が戦火に追われて南部をめざしたのは、沖縄県当局と日本軍の指示によるものであったが、しかしその結果、沖縄の南部には三浦半島とひとしい地域に三十万名の沖縄住民と日本軍がひしめきあうことになった。これにたいして米軍は、海上から艦砲射撃をもってこたえ、地上は火焔放射器(かえんほうしゃき)で壕を焼きはらった。喜屋武岬にいたる原野のカヤやススキの上に空からガソリンの雨を降らし、その上に油脂焼夷弾(ゆししょういだん)を投げ落として、その中にひそむおびただしい兵士と住民を殺した。米軍の使用した火器は、艦砲、榴散弾(りゅうさんだん)、黄燐弾(おうりんだん)、迫撃砲、焼夷弾、毒ガス弾、催涙弾、火焔放射器、投下爆弾などである。米軍の上陸地点である北谷村の海岸には艦砲が一坪
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に五発落ちたといわれ、また南部ではその総面積に一坪あたり二十発ぐらいの弾丸が落ちたといわれている。

こうして、当時四十七万ていどの沖縄本島の人口のうち二十万近くが死んだ。生き残ったのは、沖縄本島ならびにその属島を合わせて三十万名である。住民の三分の一を死なせた戦いの意味は如何。この問いはいまも鮮烈な血の色のかがやきと、もっとも鋭くもっとも重厚な意味を失っていない。

それは、死者の数が莫大であるというだげではない。沖縄住民が男も女も老いも若きも総力をあげて日本軍に協力しようとしたのにたいして、日本軍は沖縄の住民に背筋の凍るような冷酷な仕打ちをもって報いたという事実をどう考えるか、という問題である。そもそも、中部の避難民に向かって南都の島尻地区に行けと指示することじたいが、軍人と民間人をいっしょにして敵の攻撃をできるだげそらそうとする目的からなされたのではないかという疑いがある。

その疑問を一笑できない理由がある。というのも米軍は、首里をめぐっての攻防戦がまだ終わっていないとき、空から前線後方地域にビラをまき、沖縄人に白布を着て歩いたら空襲や爆撃されないでもすむと知らせていた。日本軍はこのことを利用し、白布をつけ民間人に化けて首里から南へと何千名となく大移動をした。これはまもたく米軍が空から発見するところとなり、攻撃のよい目標となった。

日本軍は沖縄の住民を戦火にまきこむことで存命をはかったのではないか、という現地の痛切
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な指弾は措(お)くとして、すくなくとも牛島司令官や長参謀長の自決が、沖縄の民衆にとってなんの意味もないことは断言できるのである。いやしくも最高司令官たるものが、軍参謀から「摩文仁の洞窟は軍の戦闘司令所としての機能を発揮せず」と指摘されたにもかかわらず、おのれの死に場所をえらぶために、全軍を指揮する場所としてはもっとも不適当な摩文仁の丘をさして落ちていった。鹿児島出身の牛島司令官が、摩文仁を西南戦争のときの城山になぞらえていたことは、自決の直前、長参謀長と、西郷隆盛の城山の話などをしあったという事実から推察できる。牛島司令官が高潔で温容な人格の持主であったことを否定しないが、おのれの最後をいさぎよくすることと、住民の生命ならびに生活の損失を最小限にとどめるための心づかいとはおのずから別なのである。


(三 沖縄住民にとって友軍とは)※


(四 戦争とはなにか、日本人とはなにか)※




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