15年戦争資料 @wiki

控訴人準備書面(1)2/3

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可

控訴人準備書面(1)2/3



第2 事後的な出版差止め要件に関する再反論

1 被控訴人の主張

(落)

2 原判決が示した基準の誤り(控訴理由書の補充)

⑴ 原判決が本件各書籍の出版差止に関して定立した基準、
即ち、「本件各書籍の出版の差止め等は、その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものではないことが明白であって、かつ、被害者が重大な損害を被っているときに認められる」は、北方ジャーナル事件最高裁判決において原則的に許されない事前差止が例外的に認められる場合の基準として定立されたものを基にして策定されたものであるが、同判決が示した基準は、事前差止に伴う弊害等が何ら存しない事後的な出版差止である本件では妥当しない(下記甲C20・東京地裁平成14年4月11日判決同旨)。北方ジャーナル事件最高裁判決の射程が事前差止に限定されることは、その判示上から明らかである。

また、同判決が人格権としての名誉権に基づく実体的差止請求権の存否について判示しているところから明らかなように、名誉権が違法に侵害されていれば事後的差止を認めるに十分であり、「その表現内容が真実でないことが明白である」ことを求める理由がないことは控訴理由書第2-2(p12~)で論じたとおりである。

この点、被控訴人らは、

  「差止請求は事後的制裁ではなく、将来にわたり出版を禁止し、公共的事項に関する事実や評価が人々に伝わることを妨げるという点においては、出版開始前の差止請求と同様、民主主義社会の基礎を崩壊させる危険のある事前抑制」である(被控訴人準備書面(3)p6)

として、本件は「事前抑制」の事案とするが、既に相当部数が読者の目に触れている本件において、そもそも「事前抑制」とするのは到底無理であり、原判決も「事後」差止の事案と認めている。

⑵ 「石に泳ぐ魚」事件最高裁判決
    控訴人らの上記主張の正しさは、「石に泳ぐ魚」事件高裁判決(東京高裁平成13年2月15日判決、判時1741-68、甲C2の2)の「侵害行為が明らかに予想され、その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難であると認められるときは、差止めを求めることができるものと解するのが相当である」との判示を肯定した同事件最高裁判決(平成14年9月24日第三小法廷判決、民集207号p243、甲C2の3)において確認されている。

最高裁は、事後的な出版差止につき「真実でないことの明白性」を要件としていないことは明らかである。

 この「石に泳ぐ魚」事件の基準が、事後的な出版差止にかかる最高裁判例として妥当しているのであり、原審が定立した前記基準は、これに反するものである。

⑶ 下級審判決
事後的な出版差止については、「石に泳ぐ魚」事件東京高裁判決の前記基準が最高裁判例として妥当しており、「真実でないことの明白性」が要件とされていないことは、事後的な出版差止の可否が争点となった下記の下級審判決においても確認することができる。

ア 東京地裁平成19年1月23日判決(判時1982-115)(甲C19)
同判決は、原告の放火等刑事事件について記載した書籍の増刷分につき、事後的な出版差止を認めたものであるが、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対する差止請求権が発生することを認めた上で、その要件につき、次のように判示している。

「前示のとおり、本件書籍中の本件放火等事件記述部分は、原告の名誉を毀損する事実を摘示するものであり、今後も本件書籍が増刷及び販売され続ければ、将来にわたり原告の名誉は毀損され続けることになるため、これを差し止める必要性は高い。他方、前記認定のとおり、本件書籍は、平成14年11月1日以降約10万部発行されており、既に相当部分が販売されたものと考えられることからすれば、将来の増刷及び販売を差し止めることによる被告新潮社の表現行為に対する制約は全体として限定的であり、これにより被告新潮社が被る財産的影響もさほど大きくないものというべきである」

尚、同判決は控訴審である東京高裁で取り消されているが、地裁判決で用いられた利益衡量基準自体は踏襲されている(甲C21)。

イ 東京地裁平成19年4月11日判決(判時1993‐24)(甲C20)
書籍の事後的な差止の可否が争点となった事案の判決であり、「その要件は事前差止めに比して緩やかなものと解するのが相当」とし、「石に泳ぐ魚」事件最高裁判決及び同高裁判決を引用して判断基準(利益衡量基準)を下記のとおり定立している。利益衡量の結果として差止を認めなかったものであるが、その認めなかった理由として、増刷の予定がないこと、単行本化される際に名誉毀損表現を避ける書き直しがされることなどが挙げられている。

「どのような場合に侵害行為の差止めが認められるかは、侵害行為の対象となった人物の社会的地位や侵害行為の性質に留意しつつ、侵害行為によって受ける被害者側の不利益と表現行為の有する価値とを比較衡量して決すべきである。本件のように、雑誌への掲載及び単行本の出版という出版行為が既に行われている場合には、表現物が読者側に到達し、評価批判を受ける機会は与えられたものというべきであるから、その要件は事前差止めに比して緩やかなものと解するのが相当である。しかし、事後的であっても、出版等の差止めが表現行為に対する重大な制約となり得るのであるから、既に出版等行為がされた場合であれば常に名誉毀損行為を差止めることができるとするのは相当でなく、特に、侵害行為が明らかに予想され、その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難であると認められるときは、差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁判所平成14年9月24日第三小法廷判決・裁判集民事第207号243頁、東京高等裁判所平成13年2月15日判決・判例時報第1741号68頁参照)」。

3 「真実相当性」は差止の要件とはなりえない

そもそも「真実相当性」が差止の要件とはなりえないことは、控訴理由書p16以下で詳細に述べたが、特に「真実相当性」が故意又は過失の責任阻却事由であることと、「名誉を違法に侵害」された場合に差止を認めるという最高裁の態度との法的整合性は、重要である。 
この点、被控訴人らは、「真実相当性」が真実性の証明度が軽減された場合の要件として認められるのであるから、原判決は、その理論的位置付けに何ら違背していないとするが(控訴審準備書面(3)p5)、「真実相当性」が真実性の証明度軽減の問題でないことは、平成14年1月29日最高裁判決が示した基準時論(「真実性」は口頭弁論終結時、「真実相当性」は行為時を資料の基準とする)の明確な判示により既に終わった議論である(「刑法と民法の対話」甲C16の対談ご参照。控訴理由書p9)。

基準時が真実性と真実相当性とで異なる以上、真実相当性において証明度軽減をする理由は何らなく、既に両者の法的位置付けは実体法上の面からはっきりしているのである。
被控訴人らは、控訴審準備書面(3)において伊藤眞教授の説を引用して説明しているが、伊藤眞教授は、「通説・判例とは異なる『優越的蓋然性(証拠の優越)をもって民事訴訟における証明度とすべきである』」(「民事訴訟における証明度」座談会、判タ1086-4、甲C22・1枚目の中段縦書部分)とする優越的蓋然性説の論者であり、判タ1086-4は、この説を中心として座談会がされている。この説に対しては、通説・判例からの批判が多い。  
加藤新太郎研修所教官は、同説に対して「相当程度の蓋然性はあるけれども、高度の蓋然性がないという事実に関する争点は、裁判官としては認定できないとして棄却するように思います。」「事実については、通説・判例の立場をとる以上そうならざるを得ません。」(同p26)、須藤典明判事は、「医療事故訴訟における因果関係の証明度についての最高裁判例(最二小平成12年9月2日判決民集54‐7‐2574)がやっているように、実体法の部分をいじるとかして救済すべき」(同p26)として、通説・判例の立場から極めて強烈な批判がされている。通説・判例の立場とは全く異なる説を基に証明度の軽減を言うことしかできない被控訴人らの主張が如何に苦しいものか分かる。

更に、同座談会では、名誉毀損における議論の中で、上記平成14年1月29日最高裁判決を前提にした議論をしておらず(同p19~)、相当性が証明度を緩和するものと誤解して議論をしている感があるも、山本和彦教授は、「名誉毀損の問題でありますとか、やはり証明度を訴訟法の立場から変えるということは、実体法の従来のあり方にかなり大きな影響を及ぼす可能性がある問題であろうということで、今後は実体法研究者も含めて研究を要するという感じを受けました。」(同p30)として、「刑法と民法の対話」(甲C16)の対談につながる話しをしている。

正に、最高裁は、平成14年1月29日判決により、実体法の観点から「真実相当性」の意味付けを解決したのであり、訴訟法上の証明度を問題にして「真実相当性」の証明度を緩和する議論は、最高裁の立場ではないのである。

また、前述のように最高裁判例における「真実相当性」の内実は、「行為時における立証可能な程度の真実性の証明」であり、「過去」において真実だと信じるに足る相当な根拠に基づく名誉毀損行為の責任を免じるものであるという点からみても、現在ないし将来の名誉毀損行為を問題とする差止の場面において「真実相当性」が登場する余地はないのである。 


第3 平成18年度検定は「改め」られたのか

1 はじめに

 被控訴人らは、平成19年3月30日に発表された平成18年検定の判断(集団自決が軍の強制や命令によるものとする断定的な記載は認めない)は、その後教科書発行者らによりなされた教科書記述の訂正申請により「立場を改め」「最終結論では平成17年度検定の立場に戻った」と主張する(控訴審準備書面(1)p7、8)。

 その根拠の一つとして、被控訴人らは、訂正申請により最終的に承認された教科書記述が「日本軍によって『集団自決』においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」とされた例を挙げている。

  これは、東京書籍発行の「日本史A 現代からの歴史」の訂正後の記述である(甲B104別紙⑸ないし⑺、乙103)。

  被控訴人らは、もう一つの根拠として、訂正申請により最終的に承認された教科書記述が「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。そのような強制的な状況のもとで、住民は集団自決と殺し合いに追いこまれた」とされた例も挙げる。

  これは、実教出版発行の「高校日本史B 新訂版」の訂正後の記述である(甲B104別紙⑾)。

  これらの教科書等についてなされた検定の経過において、真実、被控訴人らの主張するような文科省の検定判断についての「立場の揺り戻し」があったと言えるのであろうか。

  答えは否である。被控訴人らが「立場の揺り戻し」の根拠として挙げる前記両教科書について、その記述の変遷を子細に検討すると、むしろ、文科省の立場が一貫していることが明らかとなる。以下、詳述する。

2 東京書籍「日本史A 現代からの歴史」

沖縄集団自決に関する東京書籍「日本史A 現代からの歴史」の記載は、下記のように変遷した(本準備書面別紙「教科書検定時系列」ご参照)。

○ア 平成19年3月検定決定の教科書見本の記述(甲B104別紙⑹ご参照)
「・・・犠牲者は-中略-15万人を超えた。そのなかには、『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」

○イ 平成19年11月1日に申請され同年12月18日に取り下げられた訂正申請の記述(甲B104別紙⒁ご参照))
「そのなかには、日本軍によって『集団自決』②においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」
「《側注》
       ②これを『強制集団死』とよぶことがある。」

○ウ 承認された訂正申請の記述(甲B104別紙⑹ご参照)
「そのなかには、日本軍によって『集団自決』②においこまれたり③、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」
「《側注》
      ②これを『強制集団死』とよぶことがある。
      ③敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。」

○アは平成19年3月末に検定(18年度検定)を通った記述であるが、集団自決について日本軍の命令・強制・関与についての言及はなかった。17年度検定までは、「日本軍の命令・強制」についても記述が許容されていたが、18年度検定ではその立場が転換され、「日本軍の命令・強制」については記述が認められなくなった(一定の「関与」しか認めない)結果、かかる記述となったものである。

○イにおいて東京書籍は、「日本軍が集団自決に住民を追いこんだ」とだけ記述しており、これは、「集団自決が起こった背景・要因について、過度に単純化した表現」(甲B104 p8基本的とらえ方)であるとして、訂正申請の取下げを事実上求められ、東京書籍はそれに応じたのである。

  最終的に承認された○ウのポイントは、加えられた側注③の記述が、「『集団自決に追いこまれた』背景・要因として教育や感情の植え付けなどの当時の状況を説明しようとするものである」と評価されたためである(甲B104別紙⑺)。即ち、集団自決の要因が「直接的な軍の命令ないし強制」と解釈されない形の記述、つまり「日本軍の方針が住民にも教育されていた」というような主体の曖昧な「軍の関与」にとどまる記述に全体として修正されたから、検定に通ったのである。

 「日本軍の方針が一般住民にも教育・指導されていた」という形の主体の曖昧な「軍の関与」の記述は許容するが、「直接的な軍の命令ないし強制」と読める記述は許容しないという検定の考え方は明確で、平成19年3月発表の検定の立場(甲B104 p6)と一貫している。

  被控訴人らは、平成19年3月30日発表の平成18年検定の結果においては、「『日本軍の関与』を示す部分を削除するよう修正させた」としており(控訴審準備書面(1)p7下から7行目)、検定は「日本軍の関与」すら認めない立場であるかのように述べるが、これは事実に反する誤導である。教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会の報告書においても、平成19年3月30日発表の平成18年検定の意見の趣旨は、「教科書記述としては、軍の命令の有無について断定的な記述を避けるのが適当であると判断したもの」であり、「この検定意見は集団自決に関する軍の関与に言及した教科書記述を否定する趣旨ではない」と明言されている(甲B104 p6)。現実にも、後記のとおり、実教出版「高校日本史B 新訂版」においては、平成19年3月の検定決定において「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」という表現での「日本軍の関与」の記述が許容されていた。

  平成19年3月30日発表の平成18年検定の結果において修正が求められたのは、いずれも、「日本軍の関与」ではなく、「軍の命令の有無についての断定的な記述」がされているものであった(甲B104別紙⑴ないし⒆ご参照)。

3 実教出版「高校日本史B 新訂版」

沖縄集団自決に関する実教出版「高校日本史B 新訂版」の記載は、下記のように変遷した。

○ア 平成19年3月検定決定の教科書見本の記述(甲B104別紙⑾ご参照)
「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」

○イ 平成19年11月1日に申請され同年12月19日に取り下げられた訂正申請の記述(甲B104別紙⒆ご参照))
「日本軍は、住民に手榴弾をくばって集団自害と殺しあいを強制した」

○ウ 承認された訂正申請の記述(甲B104別紙⑾ご参照)
「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追いこまれた」

○アは平成19年3月末に検定(18年度検定)を通った記述であるが、集団自決について日本軍の「手榴弾をくばった」という関与は述べているものの、命令・強制についての言及はなかった。17年度検定までは、「日本軍の命令・強制」についても記述が許容されていたが、18年度検定ではその立場が転換され、「日本軍の命令・強制」については記述が認められなくなった(一定の「関与」しか認めない)結果、かかる記述となったものである。

○イにおいて実教出版は、「日本軍は集団自害を強制した」と記述しており、これは「集団自決が起こった背景・要因について、過度に単純化した表現」(甲B104 p8基本的とらえ方)であるとして、取下げを事実上求められ、実教出版はそれに応じたのである。

  最終的に承認された○ウのポイントは、「『日本軍は、住民に対して…くばるなどした』という記述が、集団自決の背景・要因となった住民と軍とのかかわりについてのものであり、それに続く『そのような強制的な状況のもとで、住民は集団自決と殺し合いに追いこまれた』とする記述は、前段を受け、住民の側から見て心理的に強制的な状況のもとで、集団自決に追いこまれていったと読み取れるものである」と評価されたためである(甲B104別紙⑾最下部(補足説明)。下線部は控訴人ら代理人)。即ち、同教科書には、集団自決の背景・要因として、「軍の関与」があることは書かれているが、「直接的な軍の命令ないし強制があった」とまでは記述されずに(集団自決と殺し合いに追いこんだ主体は書かれていない)、あくまで「住民の受け止めとして強制的な状況があった」と読み取れる形の記述に修正されたから、検定に通ったのである

日本軍の手榴弾が配られたという形の「軍の関与」の記述は許容するが、「直接的な軍の命令ないし強制」と読める記述は許容しないという検定の考え方は明確で、平成19年3月発表の検定の立場と一貫している。

4 新聞各紙は最終の検定結果をどう報じたか

⑴ はじめに
  教科書記述の訂正申請についての最終の検定結果についての新聞各紙の報道状況については、控訴理由書p26以下で一部言及したが、以下で補足的に説明しておく。各紙の記事には、理解不足あるいは党派的立場から、文科省の考え方に「変化」「修正」「調整」があったかのように評価しているくだりも一部あるが(それらは誤った評価である)、被控訴人らが強弁するように文科省の立場が「改め」られたり、「平成17年度検定の立場に戻った」と評価するものは一つもない。

⑵ 読売新聞(甲B117)
  読売新聞は「『軍の関与』などの表現で日本軍がかかわっていたとする記述の復活を認めた」と報道するが、「軍の関与」の記述は、前記のとおり、従前も否定されていたわけではないので、読売新聞の誤解である。

 同紙が「『軍の強制』の記述復活は認めなかった」と述べる点は、正当である。

⑶ 朝日新聞(甲B118)
  朝日新聞は、「『日本軍が強制した』という直接的な記述は避けつつ、『軍の関与』や『戦中の軍の教育』などによって住民が自決に追いこまれたと記しており、『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読める結果になった」などと報道した。強制という直接的記述が認められなかったとの理解は正しい。

  同紙が「『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読める結果となった」と述べたのは、同紙による主観的解釈が一部含まれるが、文科省の立場も、「集団自決が起こった状況を作り出した要因にも様々なものがある」、「軍の関与はその主要なものととらえることができる」(甲B104 p8)というものであり、その主旨の範囲での理解、報道ならば、誤ってはいない。

  ただ、同紙は記事中で、「文科省は、『軍の強制』を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった」とも書いたが、この点は、同紙の誤導である。前記のとおり、検定意見に揺るぎはなかった。

  教科書の書きぶりが変わり、それに伴い教科書記述から受ける印象は一部変わったとはいえようが、それは、教科書発行者が記述の訂正の申請をし、それが一定範囲(すなわち検定の基準、考え方の中)で許容され、記述訂正が行われたからである。教科書記述が若干変化したからといって、検定基準が左右したと解釈するのは、あまりに浅はかである。検定の立場においては、「軍の強制は認めない」という判断基準は変化せず、一貫して完全に守られた。本件訴訟では、その点に焦点が当てられねばならない。

⑷ 毎日新聞(甲B119、120)
  毎日新聞は、「旧日本軍による集団自決の関与を認めた。しかし、日本軍の命令を直接の原因にすることや断定的に『強制』の表現を使うことは認めず、沖縄県民などが求めていた今春の検定意見の撤回にも応じなかった」(甲B119)と報道したが、この点は、正確である。

  同紙は社説において、「当初の検定では『強制』標記の排除だけでなく、関与も軍を主語から外すなどしてあいまいにした。そこから見れば今回の修正は一歩踏み込んだものといえようが…(以下略)」と述べるが、当初の検定結果でも、軍による手榴弾交付の点など一定の「軍の関与」の記述は認められていたのは前記のとおりであり、この点、理解が不十分である。

 更に同紙の社説は、「軍関与をはっきり認めたことで検定の考え方に変化や『調整』があったとみるべきだが、 文科省は『一貫している』と言う。それはないはずだ」と指摘し、「検定の考え方の変化」を示唆するが、これには確たる根拠が何ら示されておらず、同紙の独自解釈に過ぎないというほかはない。

5 一貫している教科書検定の考え方と被控訴人らの誤導

 以上のとおり、教科書検定における考え方(検定基準)においては、「軍の強制・命令」は認めないという点は、平成18年度の検定以降一貫している。「隊長命令」の有無が争点である本件との関係では、その点が何より重要なはずである。

 従前、「軍の関与」の記述を許容していたかについては、控訴人らと被控訴人らとで理解が異なるが、「軍の関与」の事実の有無が争点ではない本件訴訟においては、この点は、正面から論点とされるべきものではない。

 被控訴人らは、「教科書検定の考え方は、最終結論では平成17年度検定の立場に戻った」と主張するが、失当である。

  「軍の関与」と「直接的な軍の命令ないし強制」とを厳密に峻別し、前者の記述は許容するが後者の記述は認めないという文科省の教科書検定の考え方について、被控訴人らは、あえてその両者を区別せず、「軍の関与、強制、命令」を混然一体のものとして議論し、「それらの記述は当初許されなかったが、最終的に承認された。だから教科書検定の考え方は改められた」などと強弁しているに過ぎない。しかし、「軍の関与」と「直接的な軍の命令ないし強制」の区別が、特に本件訴訟での名誉毀損の成否を決するにあたって決定的に重要であることは、既に控訴人らが縷々指摘してきたとおりである。



目安箱バナー