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村上重良「慰霊と招魂」が語る「御神体」

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村上重良「慰霊と招魂」が語る「御神体」



目次
まえがき
I 幕末維新の招魂祭
 1 国事殉難者の招魂
 2 京都東山の招魂社
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   江戸城内の招魂祭
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II 招魂社から靖国神社へ
 1 東京九段の招魂社
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   東京招魂社の設立
   社地の選定
   大がかりな招魂祭
   伊勢神宮に次ぐ処遇
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 2 別格官幣社の出現
 3 靖国神社の成立
III 靖国神社と護国神社
 1 国家神道の確立と靖国神社
 2 日清・日露戦争による靖国神社の発展
 3 第一次世界大戦前後
 4 十五年戦争と護国神社の成立
IV 現代の靖国間題
参考文献


江戸城内の招魂祭(p34-35)


(中略)
 東征の戦局が一段落した六月一日、大総督府は、「今般、両野総房武奥州数個所にて戦死致し侯輩、明二日巳の刻、御城内大広間に於て、招魂祭仰出され侯条、諸藩隊長、司令士、登城拝礼仰出され侯事」と布告した。招魂の範囲は、去る四、五月のあいだに、上野、下野、上総、下総、安房、武蔵、奥州等の各地で戦死した天皇軍将兵であつた。六月二日、江戸城西の丸大広間上段の間に簀薦(すごも)を敷き、修祓(しゅうばつ)ののち、霊床に神鏡安置し、榊の小枝をさして仮の神籬(ひもろぎ)をつくり、戦没者の霊を天から招き降して招魂祭が執行された。このさいの神鏡は、のちに東京招魂社の神体となったが、その由未は不詳とされている。当時、江戸域内には紅葉山に東照宮その他の社祠があったから、城内にあった神鏡を臨時に用いたのかもしれない。祭典では、祭主の祭文奏上、奉幣、奏楽、令旨伝宣ののち、大総督有栖川宮熾仁以下、左大将三条実美らの公卿、諸侯、各藩指揮官が拝礼した。祭文では、自軍を「皇御軍(すめらみいくさ)」、旧幕府軍を「道不知醜(しらぬしこ)の奴」とよんでいた。招魂祭の祭主は、東征軍の大村益次郎とはからって東征に参加した遠江の武装神職隊、報国隊の組織者大久保初太郎(春野)がつとめ、介添は、遠江の津毛利神社神主で同隊員の桑原虎次郎(真清)であった。報国隊員と、駿河の武装神職隊で報国隊と行を共にしていた赤心隊の隊員とは、大半が神職、祠官であることから、祭典に奉仕して、この招魂祭の主役をつとめた。江戸城内の招魂祭は、内戦遂行中の祭典であり、旬日も経ない戦闘の戦没者を個別に調査することは困難であったから、四、五月のあいだの戦没者を一括して招魂したものと思われる。
(以下略)


東京招魂社の設立(p45-46)


 鳥羽伏見の戦いから、会津若松城陥落にいたるはげしい内戦で、天皇軍と旧幕府軍は、ともに多数の死傷者を出した。天皇軍では、一八六八(慶応四)年六月二日の江戸城内での戦没者の招魂祭につづいて、七月一〇日、京都の河東操練場で招魂祭を営んだが、東北の戦闘中にも、八月二二日、会津征討越後国総督小松宮嘉彰は・新潟招魂場で、自軍の戦没者の弔祭を行なった。

 東北の戦闘が終ってまもない一〇月、政府は、さきの江戸城内の招魂祭につづく一大招魂祭を東京芝の御浜御殿(のち浜離官)で行なうことをきめ、明治天皇の第一回東幸中の一一月三日、出兵諸藩に、つぎの布令を出した。「春来、朝命を奉じ奮戦死亡の輩、招魂祭奠式行せられ侯間、藩々に於て、委詳取調、兵士死亡の月日、姓名等相認、来二十五日迄、東京神祓官へ差出様、仰出され侯事。」

 しかし、戦闘が終ってまだ一ヵ月余しか経っておらず、短時日での調査は困難であったうえ、明治天皇の京都還幸もあって、東京での招魂祭の挙行は、しぱらく延期のかたちとなった。一八六九(明治二)年正月、薩摩、長州、土佐、佐賀の四藩主は、連署で版籍奉還を申し出て、こののち諸藩主による版籍奉遼の上表がつづいた。こうして新政府の政治的基盤は、一年余の短期間で着実に固まってきたが、前年一二月、蝦夷地全域を制圧して箱館に共和制の独立政府を樹立した榎本武揚らの旧幕府軍は、活発な外交攻勢を展開して、諸外国の承認をとりつけはじめた。新政府は、北辺の独立国の動向を監視しつつ、討伐の準備をちゃくちゃくと進めた。二月、政府は、天皇東幸中は太政官を東京に移すことを布告して、事実上の東京遷都を発表し、翌三月、明治天皇は再度東京に入り、同月、諸侯が東京に召集された。

 奠都を機に、政府部内で、東京に招魂社を創建することが提議された。内戦継続中の緊張した雰囲気のなかで、戦没者の招魂は、戦意高揚のためにも、ゆるがせにできない重要事であったから、新政の本拠が東京に移るとともに、新首都に中央の招魂社の設立がもとめられたのも、当然の成り行きであった。

社地の選定(p46-48)


 明治天皇は、軍務官知事小松宮嘉彰に招魂社の造営を命じた。勅命を奉じて小松宮は、副知事大村益次郎以下、軍務官の香川敬三、船越洋之助(衛)、増田虎之助、佐藤嘉七郎、松岡新七郎に命じて、社地の選定にあたらせた。

 社地の侯補地は、当初、上野が有力で、ほかに赤坂の江戸見坂上も挙げられていた。大村は、はじめは上野の寛永寺、東照宮一帯の三三ヘクタールはどの土地を整理して、招魂社をつくる意向で、参与木戸孝允の同意を得ていたが、途中から大村の意見が変わり、みずから指捧した彰義隊との戦闘のあともなまなましい上野は、亡魂の地であるとして、ほかに社地をもとめることになった。

 この間に、政府は、蝦夷地をおさえている旧幕府軍をいっきょに掃滅することに決し、その本拠、箱館五稜郭を攻撃するために、海軍、陸軍をおくって、一八六九(明治二)年五月一一日、総攻撃を開始した。箱館で展開された最後の内戦は短期決戦となり、一八日、榎本武揚以下全軍が降伏して、五稜郭は開城した。鳥羽伏見の戦い以来一年半余で、内戦は完全に終り、政府は、ただちに蝦夷地開拓計画の作成に着手した。

 延期されていた招魂祭は、内戦の終結によって、いよいよ実施のはこびとなり、六月一〇日、政府はかさねて、つぎの達を出した。

 「近々、招魂祭行れ侯に付、昨春来、追討の為出兵の諸藩戦死届の儀、未だ相済ざる向も之有り侯はぱ、急々取調、神砥官へ届出べく侯事。」

 この達により、鳥羽伏見の戦い以来の内戦の天皇軍全戦没者が、あらためて招魂されることになったが、政府は、中央集権の実をあげるために、全戦没者の招魂祭を諸藩にゆだねず、みずからの手で実施する方針をとったのである。

 大村益次郎は、招魂社の社地として、九段坂上の田安台をみずから選定し、六月一二日、社地を実測した。社地は、「九段坂上三番町元歩兵屯所跡」とよぱれていた地域で、もと幕府の歩兵調練場があり、その西隣と南隣には、旗本屋敷が立ち並んでいたが、前年五月の駿河府中藩設置によって静岡に移住した者が多く、住む者もまばらになっていた。

 大村は、東京城の乾(北西)にあって高燥の良地であるとの理由でこの社地を選んだが、その面積は、約三三ヘクタールという広大なもので、現在の靖国神社の社地の三倍以上もあり、富士見町一丁目、二丁目、三丁目、一番町および飯田町一丁目の一部に及んでいた。六月一三日、軍務官は社殿建立の場所をさだめ、一九日、東京府は、社地として縄張りした土地を招魂社に引き渡した。同日、社地で仮殿が起工され、一〇日たらずで、仮の本殿と約五〇平方メートルの拝殿および御供所二棟が竣工した。仮の本殿には、神体として神鏡がおさめられた。この神鏡は、さきの江戸城内の招魂祭のさいに神体として用いられた鏡である。

大がかりな招魂祭(p48-51)


 仮殿の造営がすすんでいた六月二三日、軍務官は東京に滞在中の諸藩にたいして、大がかリな招魂祭招魂祭を行なうむねを、つぎのように布達した。

 「来る二十九日より五日の間、九段坂上招魂場に於て、昨年来戦死侯者、右祭典行せられ侯。よって相達侯事。但し、招魂祠へ供物等奉納致度者は、御許容相成侯間、来る二十七日迄に、当官へ申出べく候事。

 一、祭事順序。初日、祝砲、勅使御差立相成候事。第二日、三日、四日の間、角力奉納の事。但、雨天の節は日送の事。第五日、昼夜花火奉納の事。但、右同断。」

 祭典は六月二八日から行なわれる予定であったが、同日は、明治天皇が神祇官に行幸して、天神神祇と歴代皇霊にたいし国是の基礎を皇道の興隆におくことを奉告し、親祭を執行することになったため、一日延期されて二九日から七月三日までの五日間に変更された。

 招魂社では、祭典前日の二八日夕刻から修祓式が行なわれ、つづいて深夜、諸藩から届出のあった戦没者三五八八名の霊を招き降して本殿に鎮祭する霊招式(招魂式)を行なった。

 翌二九日朝、奉仕の祝部(はふりべ)らが斎場に入り、席を整えたのち、祭主小松宮嘉彰、副祭主大村益次郎以下、華族、諸官員が着座し、諸藩士が参集した。奏楽のなかを、神前に神酒と神餐をささげ、つぎに勅使の参向があり、勅使の弾正大弼五辻安仲が奉幣し退出した。つづいて祭主が神前に進み、二拝拍手して、つぎの祝詞を奏上し、終って二拝拍手して座にもどった。

 「天皇(すめら)の大御詔(おおみこと)に因りて、軍務知官事宮嘉彰白(もう)さく。去年(こぞ)の伏見の役より始て、今年はこ館(はこだて)の役に至(いたる)まで、国々所々の戦場に立(たち)て、海行者水付屍(みづくかぽね)、山行者草生(むす)屍、額には矢は立(たつ)とも、背には矢は不立と言立て、身も棚不知仕奉し将士の中に、命過ぬるも多(さわ)なりと所聞食(きこしめし)て、其人等(たち)の健く雄しく丹心持て仕奉しに依てこそ、如此速(このごとくすみやか)に賊等を服へ果て、世も平けく治りぬれ。専其れが功しと哀み偲ひ、此清所(このきよきところ)に宮柱太敷立(ふとしきたて)、御酒(きみ)はみかの辺高知(へたかしり)、みかの腹満(みて)並(ならべ)て、海山の物を横山成積足(なりつみたち)はして、称辞竟(たたえごとおい)奉る。大幣(おおみてぐら)を安幣(やすみてぐら)の足幣(たりみてぐら)と所聞食(きこしめし)て皇御孫命(すめみまのみこと)の大御世を、常磐(ときわ)に堅磐(かきわ)に守(まもり)奉り幸(さきわい)奉り、百官人等(もものつかさびとたち)を始て、国々の宰(つかさ)に至(いたる)まで、己(おの)が向々、不令在(あらしめず)、弥進々、弥勤々、仕奉(つかえたてまつら)しめ賜へと白(もう)す。」

 祝詞奏上のあと、華族、諸官員が拝礼し、諸藩士がこれにつづいた。拝礼が終ると、祝砲が幾度もひびき、奏楽のうちに鎮祭式を終った。

 招魂祭第一日の六月二九日、政府は、「招魂社を東京九段坂上に営み、戊辰以来戦死の士を祭る」と布告し、墓側の招魂場、霊社に発するこれまでの招魂の社祠とは異なり、祭祀中心の施設である中央の招魂社が出現することになった。

同日から五日間にわたる祭典には、参議以下六官諸官員の参拝は随意とし、加えて、はじめて一般人の参拝が許された。

この間、祭典には、前回の江戸城内の招魂祭のさいと同じく、大村の指示で報国、赤心両隊員の大久保縫殿之助(ぬいのすけ)、桑原虎次郎、賀茂水穂、宮田重郎左衛門、辻村駿河らが奉仕した。祭典中、一般人から供物、余興の奉納があり、参拝者には神酒があたえられ、また戦没者の出身藩には神饌が授げられた。

 東京九段坂上の広大な旧幕府歩兵調練場あとにくりひろげられた招魂祭は、七月一日から三日間の奉納相撲に老若男女があつまり、花火があがって、近年にない賑わいとなった。この祭典は、東京遷都、内戦終息後に、新首都の東京ではじめて営まれた一大祭典であり、天皇の新政府に反発する空気が根づよい東京の民心を新政に向かわせるために、ことさら大がかりな祭典が演出されたのであろう。

招魂の思想の歴史(p51-55)


 東京招魂社の創建によって、幕末維新のはげしい政争の過程で生まれた招魂の思想は、神道国教化政策のもとで、その地歩を確立することができた。招魂は、天から死者の霊を招き降して鎮祭するという宗教観念であるが、原始神道以来のほんらいの神道の神観念では、人間を神として祀ることはなかった。古代社会で、神道が、仏教、儒教、陰陽道と深く習合し、神観念が発達し複雑化するとともに、特定の死者の霊を神として祀ることが広く行なわれるようになった。すでに奈良時代の七二四(神亀元)年、聖武天皇は、仲哀天皇が没したと伝えられる橿日(かしひ)の地にあった仲哀天皇の香椎廟に、あわせて神功皇后の霊を鎮祭したが、これはのちに仲哀天皇と神功皇后を祭神とする香椎宮となった。奈良時代に最初の神仏習合神として登場した八幡神は、奈良時代末期から平安時代初頭には、応神天皇の神霊とされるようになった。

 平安時代には、藤原氏の祖、大織冠藤原鎌足に談山(たんざん)権現の神号が宣下され、大和国多武峰の墓所に設げられた霊社は、のち談山神社となった。また、和気清麻呂の霊は、その墓所のある京都高雄山の神護国祚真言寺境内につくられた護王善神堂に祀られて同寺の鎮守となり、のち護王神社となった。

 平安時代中期になると、政争の激化に加えて、疫病の流行や自然災害が頻発し、疫神などを鎮める御霊会がさかんに行なわれるようになり、また特定の人間の怨霊の祟りを鎮めるために怨霊を神として祀る信仰が広まった。政治上の抗争や、戦乱、事故、自然災害、疫病などで、怨みを遺して死んだり、非命にたおれた者の霊は、その相手をはじめ不特定の人びとに崇って、災禍をもたらすものと広く信じられたのである。怨霊、すなわち人格神的な御霊神の代表的た存在は、菅原道真(菅公)であった。菅公は、左大臣藤原時平のために無実の罪で太宰府に逐われ、九〇三(延喜三)年、配所で没した。その怨霊は、時平をはじめ藤原一門に崇って急死する者が相次ぎ、また落雷となって災禍をもたらしたとして、京都の貴族も民衆も、恐れおののいたと伝えられる。菅公の霊は雷神と習合して天神の信仰が成立し、天満大自在威徳天神と称されて、京都の北野天満宮(のち北野神社)をはじめ、各地の天満宮に祀られた。

 御霊信仰が民間にひろく普及するとともに、災害、海難等の事故で変死した者は、とくに手あつく葬り、その死霊を招き慰めて怨念を晴らし、崇りが来ないようにする宗教習俗が定着した。なかでも戦争は、そのたびに無残な死者をつくりだし、その死霊は、敵味方の区別なく、怨霊となって崇ると恐れられた。古代末期から中世をつうじて、戦乱がおこるたびに、戦闘のあとでは、崇りを恐れて戦死者の供養が行なわれるのが常であった。仏教の怨親平等(おんしんぴようどう)の思想も浸透して、戦死者は敵味方を問わず、あつく供養された。元寇のさいには、戦跡に蒙古塚がつくられ、南北朝の動乱では、足利尊氏が、元弘の役以来の敵味方戦没者の供養のために、全国各地に安国寺利生(りしよう)塔を建立した。戦国時代にも、敵味方供養の碑が各所につくられており、勝利した側が、敵方の死者を祀った事例が少なくない。朝鮮の役では、出陣した島津義弘、忠恒(家久)父子が、一五九九(慶長四)年、高野山に朝鮮の陣の弔魂碑を建て、「為高麗国在陣の間、敵味方閧死軍兵皆令入仏道(ぶつどうにいらしむる)也-…」と記して、敵味方の戦死者を弔った。敵味方をともに弔祭する行為は、崇りを恐れるという切実た動機から発するものではあったが、同時に、日本人の心に人間の生命を尊び他者の死を愛惜する、ゆたかなヒューマニズムをはぐくむことになった。死んでしまえぱ敵も味方もない、という人間観は、支配者のために戦場に追いやられ、なんの恩怨もない敵を殺さねぱならない民衆の生活感情に根ざした健康な感覚であり、原始社会に発する民族宗教固有の排外的な集団原理を超える契機を内包していた。

 幕末維新期の異常な内外の緊張状態のなかで生まれた招魂の思想は、御霊信仰の広大で奥深い民衆的基盤を背景としながらも、日本人の宗教的伝統はもとより、神道の伝統とも異質な観念へと展開し、明治維新直後の神道国教化の過程で固定化した。

 神道には、人間の霊魂に働きかげるタマフリ、フリタマ(振魂)、タマシヅメ(鎮魂)等の観念はあるが、各流派をつうじて「招魂」ということぱは用いられなかったようである。その用例としては、陰陽道に「招魂の儀」があるのみであるが、それ以上に招魂の思想は、神道の伝統とかけ離れたきわめて特異な霊魂観に立っていた。幕末の政争で、尊攘派のみが国事殉難者として弔祭され、反対派の死者は一顧もされなかったのと同じく、内戦における「敵」の戦没者は、東京招魂社の鎮祭式の祝詞にいう「賊等」であり、のちの靖国神社への改称列格のさいの祭文にいう「内外の国の荒振寇等(うちそとあらぷるあだども)」でしかなかった。招魂の思想、靖国の思想では、天皇に敵対した者は、死後も未来永劫に「賊」であり、その霊を供養し弔祭することなどは思いもよらぬことであった。こういう特異な人間観、霊魂観は、日本人が歴史とともに内にはぐくんで来たヒューマニズムを破壌し去ったのみでなく、近代天皇制下の七〇余年にわたって、日本国民の人間性を歪め、人類愛を敵視して、他民族、他国民とのあいだに人間としての共感を育てることを阻害するという、おそるべき役割を果すことになったのである。


伊勢神宮に次ぐ処遇(p55-56)


 東京に招魂社が創建され、最初の招魂祭が終ってまもない一八六九(明治二)年七月八日、大村益次郎の意向で、報国隊員で浜松の諏訪神社大祝の杉浦大学以下、宮田重郎左衛門、辻村駿河の三名が、招魂社御番人を命ぜられ、仮殿と社地の管理にあたることになった。

 八月二日、さきに軍務官の命を受げて招魂社の神体とするための刀剣を鍛えていた刀工栗原筑前にたいして、神剣の献納が許され、また鞘師源八も御鞘献納を許された。神剣は、さきの神鏡とともに東京招魂社の神体とされ、両名には兵部省から褒賞があたえられた。

 東京招魂社は、名実ともに中央の招魂社としての地位を確立し、八月二二日、明治天皇は、「招魂社 高壱万石 祭資の為永世宛行れ候事 明治二年已巳八月廿二日」との沙汰書を下した。社領一万石の下賜は、上野に招魂社を建て、上野の東叡山寛永寺の寺領一万三〇〇〇石を官収して経費にあてようとした大村の当初の構想を受げついだもので、近代的軍制の確立を急ぐ政府が、戦没将兵のための宗教施設として創建した招魂社を、いかに重視していたかを示すものであり、当時、この処遇は、伊勢神宮に次ぐ優遇といわれた。伊勢神宮にたいしては、明治天皇の最初の東幸中の一八六八(明治元)年一〇月、神領が「御手薄」にたり不都合の次第となっているとの理由で、同年九月から翌年九月までの当座の費用として米一万石の下賜が達せられた。東京招魂社は、伊勢神宮に準ずる処遇を受げることになったわげであるが、実際には、いまだ国庫が充実していないさいであるとの理由で、同年一二月一二日、当分のあいだ、石高のうち五〇〇〇石を返上し、五〇〇〇石で祭祀を営むことになった。この返上は、招魂社の願い出という形式をとったが、広大な社地に仮殿が建っているだけの招魂社の運営は、当面、五〇〇〇石で事足りたのであろう。
(以下略)


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