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靖國神社考(1)

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靖國神社考(1)



 平泉澄博士や松平永芳元靖國神社宮司の顕彰に心をくだいておられる備中處士さまが、これまで桜チャネルなどに投稿しておられた靖國神社に関する論考を、オロモルフの掲示板に編纂掲載してくださいました。

 靖國神社についての考え方は、同じ保守派でも人によってかなり違うようですが、備中處士さまの熱い思いは、万人を感動させるでありましょう。

 また、資料性がきわめて豊富で参考になります。読んでいると自分の知識の浅薄さが恥ずかしくなります。

 少しでも多くの方が読んでくださる事を希望しております。

(オロモルフ)


靖國神社考1・靖國神社に、清淨と静謐の環境を!

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)00時22分43秒

 靖國神社の御事に關して、年來の疑問を述べることを、庶幾くば御許し賜りたい。俄か勉強であり、粗雜疎漏を免れず、大方の批判は、固より之を甘受する覺悟である。かつて平成四年十二月號の『諸君』で、松平永芳・元靖國神社宮司の『誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念』を拜讀し、小生は泪を流したことを、昨日の事のやうに憶へてゐる。おほけなくも『松平精神の復興恢弘』を熱祷する餘り、敢へて言擧げしたい。

 現在の靖國神社奉贊者の大方(たいはう)は、『戰後の自民黨等の所謂國家護持』を、何故に求めるのか。戰前の帝國憲法下ならいざ知らず、現在の政治家の無知放言を見るにつけ、之を容認したら、非神道施設化も或は所謂分祀も、民主主義に於る多數決の名の下、時の權力者の思ひのまゝとなるではないか。進んで之を容認歡迎せむか、むしろ却つて靖國神社の環境が惡化するは火を睹るより瞭かと、如何して思はないのか。現在の靖國神社を巡る情勢は、之を悲しむことに吝かでは無いが、敢へてこゝは隱忍自重、將來の本來あるべき國家體制が確立するまで、容易に之を認めることは出來ない。小生は、「戰前と異質な、戰後の國家による國家護持では危險なので、國民護持・國民總氏子」を提唱して已まない、松平永芳大人の精神こそ、靖國神社を靖國神社たらしめるものと、深く確信する。此の松平精神の復興を、今ま一度、更めて強く喚起したい。

 靖國神社奉贊者の大方は、『中曾根首相以降の内閣總理大臣の行ふ非禮訪問』(敢へて參拜とは申さぬ)を、何故に容認するのか。否、一歩進んで、小泉首相の如き非禮を重ねて、恬然として恥ぢること無き首相訪問を、何故に求めるのか。況や一部の方が云ふ所の、支那・朝鮮の暴戻を挫く爲めに、パフオーマンスとして、終戰詔書奉戴記念日に、靖國神社を利用するなんぞは、絶對これを避けねばならない。小生は、日本國内閣總理大臣に、三木武夫首相以降の所謂私的參拜、中曾根康弘首相以降の所謂公式參拜をして戴きたくない。靖國神社の英靈は、之を嘉みし給ふとは、斷じて思へない。靖國神社は、あくまで神社であり、社頭參拜と雖も、手水・二拜二拍手一拜・祈念・二拜二拍手一拜は、最低限の神道儀禮にして、之も出來ぬとするならば、頑是ない子供ならいざ知らず、神社への立入りを禁ずるべきである。手水を用ゐるは、清祓の第一段階にして、之を用ゐないのは、殺菌劑で手を洗つてゐたとしても、清祓なしの參拜であると愚考する。神靈は非禮を享け給はず、所謂參拜を強行しても、神社の清淨と静謐を破るものであつて、斷じて之を赦す訣には參らぬ。特に平成十七年の小泉純一郎首相は、非禮なる社頭訪問を強行した(それ以外の五囘は、非禮なる昇殿訪問)。正門の鳥居も濳らず、手水も用ゐないのであるから、かりそめにも清祓したとは申せない。松平宮司の時の中曾根參拜は、昇殿訪問であつたが、神社側は已むを得ず、「陰祓ひ」をせざるを得なかつた。餘りにも情けなく、悲しい出來事と謂はねばならぬ。嗚呼、驕る者、久しからずとは、驕れる者、如何で知るべき。


靖國神社考2・靖國神社は、皇室御仁慈の發現なり。

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)00時25分22秒

 靖國神社の淵源濫觴は、抑も畏くも代々木に坐す大神の思召しに由縁する矣。且つは歴代の聖上陛下には、勅祭を行はしめ、或は勅使を參向せしめらるゝ所の、御由緒深き尊貴なる神社である。忠良の臣民たる者の、擧國一致して、報恩感謝の誠を捧げ奉ることは、情・理の趨くところ當然と謂はねばならない。

 先づは其の淵源に當る史料を、森清人翁『みことのり』(平成七年六月・錦正社刊)等より、謹んで引用させて戴きます。又た阪本健一翁『明治神道史の研究』(昭和五十八年十二月・國書刊行會刊)に、「明治天皇の神祇關係詔勅解説抄」があり、靖國神社に關する宣命・御祭文の判り易い紹介があります。

●京都東山招魂社創建の御沙汰書

「癸丑(嘉永六年)以來殉難者の靈を東山に祭祀の件」
(明治元年五月十日附・太政官府布告)
 大政御一新之折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起遊ば被れ度く、既に豐太閤・楠中將の精忠英邁の御追賞、仰せ出だ被れ候ふ。就ては癸丑以來、唱義精忠、天下に魁けして國事に斃れ候ふ諸子及び草莽有志の輩、寃枉、禍ひに羅る者、少なからず、此れ等の爲す所、親子の恩愛を捨て、世襲の祿を離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨、四方に濳行し、專ら舊幕府の失職を憤怒し、死を以て哀訴、或は縉紳家を鼓舞し、或は諸侯門に説得し、出沒顯晦、萬苦を厭はず、竟ひに身を抛ち候ふ者、全く名義を明かにし、皇運を挽囘せんとの至情より盡力する所、其の志、實に嘉みす可し。尚ほ況や國家に大勳勞有る者、爭(いかで)か湮滅に忍ぶ可けんやと、歎き思し食被れ候ふ。之に依りて其の志操を天下に表はし、其の忠魂を慰め被れ度く、今般、東山の佳域に祠宇を設け、右等之靈魂を永く合祀被致る可き旨、仰せ出だ被れ候ふ。猶ほ天下の衆庶、益々節義を貴び、奮勵致す可き樣、御沙汰候ふ事。

●招魂社大祭の宣命

(明治五年九月二十三日・『陸軍省日誌』)
 天皇の大命(おほみこと)に坐せ。此の招魂社に鎭めまつれる諸もろの靈の前に、式部寮六等出仕・正四位・戸田忠至を使ひとして白し給はくと白さく。前年、戰場(いくさのには)にして大き功しを立てし事を、萬代までに傳へ給はむとして、年毎の此の月の今日の祭を永き例しと、武官の人等に命せて、種種の物等を備へ奉り齋き祭らせ給ふ。此の状を聞し食して、天皇の大御代を動ぐ事無く、さやぐ事無く、常石に堅石に守り幸へ給へと宣る天皇の大命を、甘良(うまら)に聞し食せと白す。

●招魂社を靖國神社と改稱し給へる御祭文

(明治十二年六月二十五日・『靖國神社誌』)
 天皇の大命に坐せ。此の廣前に、式部助兼一等掌典・正六位・丸岡莞爾を使ひと爲て、告り給はくと白さく。掛け卷くも畏き畝火の橿原の宮に肇國知し食しゝ天皇の御代より、天日嗣高御座の業と知し食し來る食國天下(をすくにあめのした)の政の衰頽へたるを古へに復へし給ひて、明治元年と云ふ年より以降、内外の國の荒振る寇等(あだども)を刑罰(こらし)め、不服(まつろはぬ)人を言向け和はし給ふ時に、汝(いまし)命等(みことたち)の赤き直き誠心を以て、家を忘れ身を擲ちて、各もおのも死亡(みまかり)にし其の大き高き勳功しに依りてし、大皇國をば安國と知し食す事ぞと思ほし食すが故に、靖國神社と改め稱へ、別格官幣社と定め奉りて、御幣帛(みてぐら)奉り齋ひ奉らせ給ひ、今より後、彌や遠永に怠る事無く祭り給はむとす。故れ是の状を告げ給はくと白し給ふ天皇の大命を聞し食せと、恐み恐みも白す。


靖國神社考3・明治神宮と靖國神社

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)13時57分8秒

●中今亭賀茂百樹大人『明治神宮と靖國神社との御關係』

(大正九年十一月三日謹述・昭和九年十二月・有備會本部刊)に曰く、
「 今、熟(つらつ)ら國家の將來を考へて見ましても、素より國に農事殖産の必要なることと、又た此の武備の大切なることは、鳥の兩翼・車の兩輪として、いつの世に於ても、離るべからざるものであります。
 伊勢大神宮に豐受神宮を外宮として、特に尊重敬祭あらせられて、以て國民に産業を御奨勵になるが如く、明治神宮と靖國神社とも、亦た其の樣な關係にて祭祀し給ふことに、將來何れの時か相成りはしないかと思ふのであります。‥‥

 明治神宮は國民忠誠の結晶であり、靖國神社は皇室御仁慈の發現である、其處に我が國の美はしき君臣の情誼が、言擧げせずして事實に示されて居る、さういふ國體の精華をも、不言の間に宣揚することになるのであると思ひ、折柄、杉浦重剛翁が參拜せられた砌、此の事を語つて見た處が、翁も手を拍つて同意せられた事があります。然しかういふ精神的な事は外より強ふべきことでなく、國民一般の自覺に俟たねばならないことなので‥‥。明治神宮と靖國神社とは、既に離るべからざる御關係が結ばれて居るのであります。

 此處で私の最も欣快とする處は、それは全國の各地より上京せらるゝ明治神宮の參拜者が、同時に此の靖國神社の參拜者であり、又た必ず二重橋前にも參進して、其處から遙かに拜賀の心持を捧げらるゝことであります。就中く健脚な青年達は、尚ほそれから始終お濠に沿うて、宮城を一周し奉るのを見受けることもあります。此處で敬神・尊皇・愛國の精神が一貫して、誠に美はしく遂げらるゝので、遙々と遠國の地方から上京せる參拜者としては、凡そこれ程滿足なことはあるまいと思ふのであります。

 彼の孔子の語に、立國の基本として兵・食・信の三を擧げてをられますが、謹みて按ふに、豐受大神宮を尊び齋き奉ることは、やがて豐富に國力を足らすことであり、又た靖國神社を敬ひ祭らるゝことは、やがて兵を強くすると共に、我が國民の『信』を立つることになると思ふのであります。何故ならば、神武不殺の故に、我等は敢へて戰ひを好むものではないが、然し勅命に死生を任せ奉つて、一身を捧げて之に奉ずることが、即ち我が民族的信念の最高發露なるが故であります。それが故に私は、靖國神社の祭祀が衰へる時には、國民の元氣も亦た衰へ、靖國神社の祭祀が盛んなる時には、國民の元氣も亦た盛んなることを知るべしと思うて、轉た靖國神社に對する崇敬の念を禁ずる能はざるものがあります。

 [附言]中には靖國神社は、軍人の殉職者を祀る神社と思つて居るものがありますが、決して左樣ではありませぬ。平時に於ては、假令へ飛行機から墜落し、又は濳行艇の沈沒と共に慘死しても、特に演習等にては戰爭にも劣らぬ艱苦を甞めて、海に激浪に浚はれ、陸に瘴霧に侵されても、之等は一般の文官の殉職者と同じく、國家から何等祭祀を享けては居りませぬ。

 然らば如何云ふ人々が祀られるのかと申すに、此の國家に危害を加へんとする敵を防禦し、膺懲するが爲に死し、又は其れが原因になつて死んだもので、換言すれば、國家の生命に代りて自己の生命を捧げたものが祀らるゝのであります。此の場合に於て、軍人が主として之に當るのは勿論のことでありますが、軍人以外の人々と雖も、爲めに命を殞したものは、祭祀の恩典を受けるので、現在に於ても、外交官・地方官・逓信官・警察官・看護婦等、苟しくも帝國臣民にして、戰役に關して死歿したるものは、職の文武・官の高下を問はず、祭祀せられて居ります。

 平時に於ける殉職者も尊い犠牲ではありますが、危險を侵して健全なる自己の生命を國家に捧げて、國家の生命を健全にしたいと云ふ、特別の精神に對して、國家は之を護國の神として、永久祭祀するのであります。

 世間には此の譯を知らずして、軍人のみが優遇せらるゝが如く思つて、文官表彰の神社を建つるがよい、等云ふ人々もありますから、此處に一言附け加へるのであります」と。


靖國神社考4・靖國神社の合祀對象基準

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)13時59分56秒

●阪本是丸氏『「靖國」の基礎知識』

(江藤淳・小堀桂一郎兩氏編『靖國論集・日本の鎭魂の傳統のために』昭和六十一年十二月・日本教文社刊に所收)より

【合祀對象基準】昭和五十一年一月現在
一、軍人・軍屬
  • 1.戰地・事變地及び終戰後の外地において、戰死・戰傷死・戰病死した者。
  • 2.戰地・事變地及び終戰後の外地において、公務に基因して受傷罹病し、内地に歸還療養中、これにより死亡した者。
  • 3.滿洲事變以降、内地勤務中、公務のため受傷罹病し、これにより死亡した者。
  • 4.平和條約第十一條により死亡した者(戰爭裁判受刑者)。
  • 5.未歸還者に關する特別措置法による戰時死亡宣告により、公務上負傷し、または疾病に罹り、これにより死亡したものと見なされた者。
二、準軍屬及びその他
  • 1.軍の要請に基づいて戰鬪に參加し、當該戰鬪に基づく負傷または疾病により死亡した者。
    • ア.滿洲開拓團員。
    • イ.滿洲開拓青年義勇隊員。
    • ウ.沖繩縣一般邦人。
    • エ.南方及び滿洲開發要員。
    • オ.洋上魚漁監視員。
  • 2.特別未歸還者の死沒者。
    • ア.ソ聯・樺太・滿洲・中國(愚案、ママ、支那)に抑留中、死亡した者。
    • イ.戰時死亡宣告により、死亡と見なされた者。
  • 3.國家總動員法に基づく徴用または協力中の死沒者。
    • ア.學徒。
    • イ.徴用工。
    • ウ.女子挺身隊員。
    • エ.報國隊員。
    • オ.日赤救護看護婦。
  • 4.船舶運營會の運航する船舶の乘組員中、死亡した者。
  • 5.國民義勇隊の隊員で、その業務に從事中、死亡した者(廣島原爆死亡者)。
    • ア.學域組織隊。
    • イ.地域組織隊。
    • ウ.職域組織隊。
  • 6.舊防空法により、防空從事中の警防團員。
  • 7.阿波丸(交換船)沈沒により、死亡した乘員。
  • 8.沖繩の疎開學童死沒者(對馬丸遭難)。
  • 9.外務省等職員。
    • ア.關東局。
    • イ.朝鮮總督府。
    • ウ.臺灣總督府。
    • エ.樺太廳。

●賀茂百樹大人『靖國神社誌』の「祭神・附御靈代」に曰く、


「 水漬屍・草生屍と、硝煙彈雨の間に奔馳奮鬪して、一死以て護國の神と祀られ、社稷の鎭護となりませる本神社祭神の功烈は、固より萬世不朽なるべし。

 抑も明治維新の大業を始めとして、過去數囘の大戰役は、萬世に光れる丕績にして、其の間、我が祭神の靖獻は、最も能く皇國の精華を發揮し給ひぬ。即ち大權、皇室に歸して、王政復古の大御代を來たせるも、世界の強國に伍して、文明の惠澤に浴するに至れるも、克く聖旨を奉戴して、聖徳に副ひまつりし我が祭神の功烈、與かりて大なりと云ふべし。是れ至尊の、深く本神社を尊崇し給ひて、表忠旌功の典を忽せにし給はざる所以にして、今や祭神總數十一萬七千八百六十八柱に上り、神威、燦として維れ輝き、餘光、遠く異域に及び、外人の來朝するもの、先づ本神社に詣し、和魂の鍾まる所、優越せる精神の標識として讚歎せざるはなし。

 而して祭神生前の官職・身分等をいへば、陸軍の所屬あり、海軍の所屬あり、維新前後の殉難死節の士あり、地方官・警察官あり、公卿あり、藩主あり、士あり、卒あり、神職あり、僧侶あり、婦人あり、農・工・商あり、苟しくも帝國臣民にして、叡慮を奉體して、國家の爲めに忠節を抽んで、高潔なる大精神を發揮するに於て、何ぞ貴賤上下の別あらむ。わが祭神の、あらゆる階級・職業の代表たるは勿論のことなりとす。

 御靈代は、神劍及び神鏡にましゝゝ、神劍は、明治二年六月、栗原筑前(愚案、筑前守從五位下栗原健次平信秀)の鍛造し奉る所(御鞘は、鞘師・樅井源八)、神鏡は、製作者未詳なれども、明治元年六月、舊江戸城大廣間招魂祭の時、神籬に奉懸せし靈鏡に坐せりとぞ。内殿の左右の靈床に、副靈璽として、官位・姓名を列記せる卷物・牒册を奉安す。卷物は、明治五年五月六日を以て、始めて之を内陣に納め、爾來、合祀祭の度び毎に納められしが、明治三十八年、第三十一囘の合祀祭より、之を牒册に改められたり。而して別に一本を社務所に藏す。所謂祭神帳、之なり」と。

●賀茂百樹大人『靖國神社忠魂史』第一卷「序」に曰く、

「 靖國神社の祭神は男女の區別もなく、又た階級的に何等の差別なく、祭祀されてゐるのでありますが、世には往々靖國神社を以て、軍人の殉難者を祀る神社であるかに考へてゐる者があります。之は誤解も甚しいもので、かくては、一視同仁の聖徳を涜し奉るものと云ふべきであります。

 茲に祭神生前の官職・身分等の大略を擧ぐるも、維新前には公卿・藩士・神職・僧侶・百姓・町人あり、又た明治以後には、陸海軍を初めとし、地方官・外交官・警察官・鐵道從業員・從僕・職工等があります。かくの如く靖國神社の祭神は、階級を超越し、國民を綜合した、忠勇義烈の御靈でありまして、換言すれば、實に忠君愛國の全國民精神を表現し給ふところの神である、と申すべきであります」と。


靖國神社考5・歴代宮司略傳、其の壹

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時25分13秒

 靖國神社の歴代宮司について、次に調査探索し得た所の梗概を、些か摘記してみたい。

【靖國神社歴代宮司】


初 代【青山 清 】明治十二年六月十六日~明治二十四年二月六日

 文化十二年生る。明治四年八月、兵部省十一等出仕・招魂社祭事掛に補せられ、同十年一月、招魂社雇ひ申付け被る。神社誌編纂を企て、黒神直臣禰宜をして之に當らしめしが、幾許も無く黒神氏の不幸に接して已む。至從七位。同二十四年二月六日(或は四日)、宮司在職中に歸幽。享年七十七。
一、乃木神社社務所『乃木希典全集』上卷(平成六年六月・國書刊行會刊)「日記・明治十一年」より
十月第廿一日條、午後、青山清を訪ぬ。不在。
十月第廿二日條、午後、乘車。青山を訪ぬ。又た不在。
十月第廿三日條、午後、青山に、招魂社に逢ひ、祭事を托す。歸る。

第二代【賀茂 水穗】明治二十四年二月十七日~明治四十二年三月一日

 遠江國濱名郡の人。天保十一年五月十二日生る。賀茂備後直章と稱し、炳音と號す。遠州報國隊に參加。のち海軍省へ出仕。海軍大祕書。後備海軍大主計。至從五位。神社誌編纂を繼承し、井上頼教主典に之を命ずるも、將に其の緒に就かんとして、明治四十二年三月一日、宮司在職中に歸幽、享年七十。

第三代【賀茂 百樹】明治四十二年三月二十九日~昭和十三年四月二十一日

 周防國熊毛郡上關の人。慶應三年、祠職藤井氏に生れ、後に賀茂の家名を嗣ぎ、賀茂眞淵大人の後繼者となれり。中今亭と號す。學を伊勢の棒園御巫清直(外宮禰宜)に承け、國典に精し、夙に神職に仕ふ。靖國神社宮司を拜命し、其の在職は三十年間に及べり。病を以て職を辭す。同十六年五月四日歸幽、享年七十五。著述に『日本語源』二卷・『登極令講義』一卷・『漢文歴代詔勅解』一卷・『神職心得』一卷。校訂に『賀茂眞淵全集』全六册(國學院編輯部・吉川弘文館刊)。亦た『靖國神社事歴大要』(明治四十四年二月・國晃館刊)・『靖國神社誌』(明治四十四年十二月・四十五年六月改訂・平成十四年に神社本廳教學研究所より「近代神社行政史研究叢書Ⅳ」として復刻)・『靖國神社忠魂史』全五卷(昭和八~十年九月)を編輯す。なほ『日本語源』は、最も努力を拂ひ、本邦從來の語源中の名著とす。又た和歌に長じ、『中今亭雜歌』あり。人と爲り恬澹修飾なく、善く飲み善く談じ、其の人物と學力は、當時の全國宮司中、稀に見る所と云ふ(吉田祥朔翁『増補・近世防長人名辭典』等)。

一、『中今亭雜歌』より、哥一首
○ 黒がねは、よし碎くとも、日の本の、やまとだましひ、碎くべきかは

 蓮田善明大人『興國百首』(昭和十九年六月『忠誠心とみやび』日本放送出版協會刊)に曰く、
「 山口縣の人、元藤井氏、賀茂氏に入り、國學者賀茂眞淵の後繼者となつた人で、明治四十二年より、靖國神社宮司に任じた。人格高潔玲瓏、また長歌・短歌に秀で、國學につとめた。その和歌は、歌壇の時流にかゝはらず、卓然ぬきんでてゐるが、その文業は知己の間に知られるだけで、世上に多く知られてゐない。

 右の歌は、明治二十八年三月三日、呉港で軍艦嚴島を見た時、同艦の三宅少佐らが、「わが居りしは此處なり、こゝより彈かれて轉び落ちたりなど」談られた時、詠じたものである。氏の詠歌は、少年の時から、昭和十六年、七十五歳を以て逝かれるまでつゞいてゐて、國家の事にふれて詠まれたものが多いが、こゝには、たまゝゝ日露戰役に因んだ一首をとつたのである」と。

 愚案、『興國百首』は、蓮田大人が、其の撰を或る雜誌にもとめられ、嘗て戰場に身を置いた心に自問自答し、又た古い國の道を學ぶ學徒の一人として、思ふ所を此の撰歌にひそめて書き續けられしもの、「あはれ、あなおもしろ云々」(古語拾遺・八百萬神)に始まり、乃木將軍夫妻の辭世を以て終つてゐる。曰く、
「 和歌は、古來日本の文學の髓心となり、本流となつて來たものであるが、今その和歌だけについてみても、和歌は神隨の國ぶりといふやうなものであつた。即ち「神語」の流れであり、國の本心をのべるものであつた。これは和歌の歴史を以て、正しくさうである。從つて和歌を詠ずるといふこと自身が、既に國の心に報へてゐることであり、愛國・興國といふことが出來る。然るにこのやうなことは、現代には理解しない人が多いと思ふ。昔も和歌を私事としたことがあつたが、そのやうなことの起つた時代には、皇國の歴史も、實に忌々しい時代に傾いてゐる時代であつて、そのやうな沈痛な時代に、和歌に精進せる歌人達は、和歌を神にかけて熱く思つたりした。‥‥和歌によつて不純を清め雜物を雪ぎ、皇國魂をみがいて、神にしられ奉る祈りとしたのである」と。

一、『日本語源』二卷
http://uwazura.seesaa.net/article/3631175.html

一、『明治神宮と靖國神社との御關係』(大正九年十一月三日謹述・昭和九年十二月・有備會本部刊)

一、『大御心』(大正十二年七月十二日謹述・有備會本部『明治神宮と靖國神社との御關係』昭和九年十二月刊に所收)


靖國神社考6・歴代宮司略傳、其の貳

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時29分6秒

第四代【鈴木 孝雄】昭和十三年四月二十一日~昭和二十一年一月十七日

 明治二年舊十月二十九日(十二月二日)生る。勳一等功三級。昭和二年七月二十六日、陸軍大將に至る。大日本青少年團長を兼務(昭和十七年八月~二十年六月)。戰後は偕行社會長(昭和二十九年四月~三十三年七月)。海軍大將鈴木貫太郎首相の令弟。昭和三十九年一月二十九日薨去。享年九十六。

第五代【筑波 藤麿】昭和二十一年一月二十五日~昭和五十三年三月二十日

 山階宮菊麿王の第三王子として、明治三十八年二月二十五日生る。從三位勳一等。貴族院議員(大正十四年二月~昭和二十二年)。昭和三年七月二十日、願により臣籍降下が認められ、筑波の家名を賜り、侯爵に叙せらる。昭和五十三年三月二十日、在勤中に薨去。御歳七十四。

第六代【松平 永芳】昭和五十三年七月一日~平成四年三月■日

 越前の春嶽松平慶永公の令孫にして松平慶民子爵(宮内大臣)の嫡男として、大正四年三月二十一日生る。昭和十九年十月、海軍少佐・正五位に至る。西貢(サイゴン)海軍部部長として終戰處理を濟ませ、昭和二十一年七月、部員四十七名を率ゐて、最後の復員船朝嵐丸で歸國。戰後は陸上自衞隊に轉ずるも、大病に罹り、再起後は防衞研修所戰史室勤務を經て、同四十三年、一等陸佐で定年退官し、福井市立郷土歴史博物館館長に就任。靖國神社宮司を退いた後は、再び同館長に復歸。平成十七年七月十日歸幽。享年九十一。『靖國神社百年史』全四卷(資料篇・事歴年表、昭和五十八年六月~六十二年六月・原書房刊)を編纂す。平泉澄博士を師と仰ぎ、盡忠憂國、志操あまりに純粹一途、己の名利を追求することなく、日常の一擧一動に至るまで、全ての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置いたと云ふ。

一、「日本の心、未だ失せず」(日本學協會『日本』昭和五十四年三月號・靖國神社々報『靖國』昭和五十四年四月號)

一、「新春隨想」(『東京教育懇話會志・續輯』平成二年十一月刊「東京教育懇話會・第二五二囘例會報告」昭和六十年正月十八日)

一、「靖國神社當面の諸問題」(『東京教育懇話會志・續輯』「東京教育懇話會・第二六四囘例會報告」昭和六十一年二月十七日)

一、「感懷「有難う」と言ふこと」(『日本』昭和六十一年五月號)

一、「我が家の生涯教育」(『日本』昭和六十二年七月號)

一、「靖國神社」(新人物往來社『別册歴史研究・神社シリーズ・靖國神社』平成元年■月刊)
http://www.tetsusenkai.net/official/yasukuni/data/matsudaira.html

一、「誰が御靈を汚したのか・靖國奉仕十四年の無念」(文藝春秋社『諸君』平成四年十二月號)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html

一、「讓ることのできない傳統の一脈・祖父春嶽の精神を受け繼ぐ者として」(日本青年協議會『祖國と青年』平成五年一月號・『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』平成十五年三月刊に所收)

一、「家庭教育(精神・しつけ教育)について」(『日本』平成十八年一月號・三月號)
 主に大人に關係するものとして、

一、棚橋信之氏「正論編集部あて意見具申」(平成十七年七月二十日附)
http://www.geocities.jp/gutokujp/shokan.html

一、棚橋信之氏「大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状」(平成十七年八月二十一日附)
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf

一、伴五十嗣郎氏「靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ」(『日本』平成十七年九月號)

一、永江太郎氏「今は亡き松平永芳樣の追憶」(『日本』平成十七年九月號)

一、渡辺一雄氏「元靖國神社宮司・松平永芳氏・怒りの遺言「最後にこれだけはいつておきたい」。病床で語られたお言葉を、今、全公開する」(『諸君』平成十七年十月號)


靖國神社考7・歴代宮司略傳、其の參

投稿者:備中處士 投稿日:11月11日(土)23時31分16秒

第七代【大野 俊康】平成四年■月■日~平成九年■月■日

 肥後國の人。大正十一年五月二十日生る。昭和十八年十月、神宮皇學舘大學祭祀專攻科に入學するも、學徒出陣により、同十二月一日、陸軍西部十六部隊(熊本市の陸軍歩兵聯隊機關銃中隊大隊砲小隊)に入營。十九年六月、第三期特操として熊谷飛行學校に入校するも、訓練未了のまゝ終戰を迎ふ。二十二年二月、肥後本渡諏訪神社(天草島總鎭守)宮司。二十三年、九州帝國大學文學部卒。六十一年、熊本縣神社廳長。著書に『軍神松尾中佐とその母』等。現在は本渡諏訪神社名譽宮司。

一、『後に續くを信ず・戰歿學徒が殉じた「神國日本」』(『祖國と青年』平成十一年十月號、同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』所收)

第八代【湯澤 貞 】平成九年五月■日~平成十六年九月十日

 下野國上都賀郡加蘇村(現・鹿沼市)の人。昭和四年九月十日、縣社加蘇山神社宮司・碧柳湯澤敬六の四男として生る。三十二年、國學院大學文學部宗教學科卒。三十二年四月、明治神宮に出仕し、五十四年~平成二年八月、禰宜。五十三年~六十三年、加蘇山神社禰宜・加園八幡宮宮司を兼任。五十七年~平成五年、國學院大學文學部兼任講師。平成二年九月、靖國神社禰宜に轉じ、十一月、權宮司。十一年の御創立百三十年記念として、御祭神のデータベース化・遊就館改修と新館建設・參集所の建替を遂行す。現在は第八代靖國會總代。俳號は碧水。『句集・散る櫻』(平成十六年九月・近代出版社刊)あり。

一、平成十一年からの記念事業は、「平成十七年には、終戰六十年を數へ、御遺族(御祭神にお近い方)・戰友等の御高齢化と青少年を含む崇敬者の増員のための施策、即ち戰爭を知らない世代への世代交替といふ、靖國神社にとつては世の荒波を乘り切る方策の一つとして實施」(『句集・散る櫻』の「あとがきにかへて」)した。

一、『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』(産經新聞社『正論』平成十七年八月號)

第九代【南部 利昭】平成十六年九月十一日~現職

 昭和十年九月十六日生る。三十三年、學習院大學政經學部卒業後、廣告代理店電通に勤務。父の卒去に伴ひ、盛岡南部伯爵家第四十五代當主。五十六年、南部恆産株式會社代表取締役に就任。現在は靖國神社崇敬奉贊會名譽會長。日本會議本部代表委員。

 平成十五年十月、皇族や舊華族で組織される社團法人霞會館(舊華族會館)から、就任の推薦を受けた。「湯澤宮司が九月で七十五歳の定年を迎へ、この際、舊華族出身者がなり、元に戻してほしいと願ひ出られた。來年は、靖國に祀られてゐる南部家四十二代當主利祥公の沒後百年(明治三十八年に戰死)に當り、宮司就任に淺からぬ因縁を感じてゐる。‥‥青天の霹靂と云ふか、この歳になつて『宮仕へ』をやるとは、夢にも思つてゐなかつた。私にとつても南部家にとつて大變名譽なこと、岩手・盛岡にとつても名譽なことで、有り難く拜命することとした。九月で六十九歳になるが、七十五歳の定年まで、大任を全ふしなければならない。兩陛下には、『靖國神社の御守りを宜しくお願ひします』と云ふ御言葉を戴いた。誠に光榮で身の引締まる思ひがした。‥‥僕なりに、皆さんに信頼されるやうになり、南部を宮司にして良かつたと云はれるやうにしたい」と、抱負を語つた。


靖國神社考8・松平永芳大人の悲願 投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時26分14秒


●渡辺一雄氏『松平永芳氏・怒りの遺言』

(渡辺氏は、松平大人の海軍機關學校に於る十三期後輩)に曰く、

「(平成十年暮れの聞書き。面會謝絶の病床に於る松平大人は、ベツドの上で正座されて曰く、)

 GHQの神道指令で、公務員が公的資格で神社一般を參拜することが禁ぜられた。從つて占領中は首相だけでなく、閣僚その他の公務員が、靖國神社に公式參拜することをは出來なかつた。昭和二十六年十月十八日、時の首相・吉田茂は、講和條約が締結されたことを、戰沒者に報告するため、靖國神社に參拜された[堂々と内閣總理大臣・吉田茂と署名し、榊を供へられた]。吉田首相は占領が終つてからも、靖國神社への參拜は缺かさなかつた。が、いづれの時も、どの國からも、首相が靖國神社へ參るのはけしからんと云つた態の抗議は寄せられなかつた。吉田首相は、長年の外交官經驗から、世界の人々は誇りを失つた國民を輕蔑することを知つてをられたから、たとへ戰ひに敗れても、卑屈になつては駄目、精神面の高さは守りぬかねばならないと思つていらつしやつた。吉田首相のあとの鳩山一郎は病氣、その次の石橋湛山は、在任期間が短かつたため參拜は出來なかつたが、それ以後、岸信介・池田勇人・佐藤榮作・田中角榮と、歴代の首相は靖國神社參拜をつゞけた[吉田首相と同樣の形式で參拜された]。その間、何ら問題は起こらなかつた。妙なことになつたのは、三木武夫が首相になつてからだ。

 三木は卑しい人間だ。日本の國より、わが身の方が可愛い三木は、アメリカ・一部マスコミの歡心を買ふことに汲々とした。首相の靖國神社參拜に異を唱へる連中のゐる事を、嗅覺の鋭い三木は察知し、とんでもないサービスをした。

 首相の靖國神社參拜は、原則として春秋の例大祭の期間中だつた。昭和五十年八月十五日に參拜する事になつた三木は、國會で、首相はどういふ資格で靖國神社を參拜するのか、と聞かれた。國會議員の中には、外壓を利用して自分達の勢力擴大を圖らうと思つてゐた人間がゐたが、質問したのは、その黨派に屬する議員だつた。その議員のバツクには、首相の靖國神社參拜に反對の立場をとるマスコミがついてゐる事を知つてゐた三木は、首相の立場で參拜すると答辯すれば、マスコミを敵に廻すと恐れ、首相としてではなく、澁谷區南平臺の一住民・三木武夫として參拜すると、逃げを打つた。そして公約どほり靖國神社へは、首相公用車を使はず、内閣總理大臣の肩書きをつけず、單に三木武夫と記帳して、昇殿參拜した。以來、首相だけでなく、閣僚の參拜ごとにマスコミが押しかけて、公人か、私人かといつた、愚にもつかない質問を浴びせ、だらしなく首相・閣僚が逃げまくる醜態を世にさらす事になつたのだ。

 三木が餘計なことをいつたため、そののちの福田赳夫・大平正芳の兩首相も、私的參拜で押し通すしか仕方がなかつた。何とかしてとつちめる法はないかと思つてゐたとき、出てきたのが、A級戰犯合祀問題だつた。マスコミは參拜のためにあらはれた大平首相を取り圍み、公的參拜か、私的參拜かと、一齊に質問の矢を浴びせかけた。大平首相が圍みを突破しようとすると、マスコミはさうはさせじと、A級戰犯を合祀してゐる靖國神社を一國の首相が參拜するのは、軍國主義の復活につながるのではないかと、首相を吊るし上げた。その風景はテレビを通じて全國に流され、A級戰犯合祀問題が、一躍、茶の間の話題をさらつた。マスコミに後押しされて、A級戰犯を合祀してゐる靖國神社に、首相が參拜するのは違憲であるといひ出す手合ひまであらはれた。首相に勇氣があれば、A級戰犯といふが、それは戰勝國が勝手につけた汚名で、國會の決議を受けて合祀されてゐる、違憲でも何でもない、お國のために盡くし、命を捧げた方々を祀つてある靖國神社へお參りするのは、首相として當然の義務だと、はねつけるべきだつた。ところがその聲に負けて、靖國神社參拜を自肅する動きまで出てきた。大平首相のあとの鈴木善幸首相も、公人・私人の別を明らかにせず參拜した。昭和六十年八月十五日、靖國神社を十年ぶりに公式參拜したのは中曾根康弘首相だが、中曾根康弘がその時とつた態度には、今思ひ出しても、腸が煮へたぎる思ひがする。中曾根首相の心にあつたのは、俺が八月十五日に、首相としてはじめて公式參拜したといふ自負心を滿足させること以外の、何ものでもなかつた。‥‥

 最後に、これだけは言つておきたい。私、松平永芳の願ひは、たゞひとつ、國のために盡くし命を捧げられた方々に、靖國神社で靜かに眠つて頂き、ご遺族の方々に、何ものも煩はされる事なく、靜かにお參りに來て頂き、靜かに語り合つて頂きたい、といふことである」と。


靖國神社考9・松平永芳大人の悲願、續

投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時28分21秒

~承前~

 松平永芳大人の所謂國家護持法案反對・中曾根首相の公式參拜の非禮[(大人の曰く、)「今思ひ出しても、腸が煮へたぎる思ひがする」、「體を張つてもでも、中曾根參拜を阻止せねばならなかつた、と悔いてゐる」]については、下記が詳しい。こゝに敢へて再掲する。至誠横溢、盡忠憂國の言擧げ、願はくば、先づは、是非とも熟讀たまはらむことを。

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/tono.html


 これらを摘記し、又た松平永芳大人の遺事を追記したい。

一、石田和外・元最高裁判所長官(「英靈にこたへる會」初代會長)の強い勸めで、靖國神社宮司に就任。松平大人は、「所謂東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興は出來ないので、所謂A級戰犯者の方々も祀るべきだと云ふ意見を、石田翁に申し上げた。それに對して石田翁は、これは國際法その他から考へて、祀つて然るべきものだと明言された」が故に、「命がけで神社をご創建の趣旨に違はず、また本來の姿で守らうと決意」された由。大人が「宮司になつて考へられたのは、何か決斷を要する場合、ご祭神の意に添ふか添はないか、ご遺族の心に適ふか適はないか、それを第一にして行く」との方針の下に、次の三原則を定めた。一、日本の傳統の神道による祭式で、御靈をお慰めする。二、神社のたゝずまひを、絶對に變へない。三、社名を變へない。

一、所謂A級戰犯十四柱の合祀について、大人は、「就任した早々であるが、前宮司から預つたこの課題は、解決しなければならない」。「國際法的にも認められない東京裁判で戰犯とされ、處刑された方々を、國内法に據つて戰死者と同じ扱ひをすると、政府が公文書で通達してゐる(愚案、昭和二十七年五月一日、木村篤太郎・法務總裁の通知。同四十一年二月八日、「祭神名票」を受理。同四十六年、總代會諒承)から、合祀するのに、何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にもご祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか、となつてしまふ」と考へられた。故に「靖國神社の記録では、戰犯とか法務死亡と云ふ言葉を一切使はないで、『昭和殉難者』とすべし」と云ふ『宮司通達』(昭和五十三年十一月二十三日)を出し、之を徹底させた。

一、大人は、國家護持法案・中曾根首相の所謂公式參拜の經驗等から、「戰前と異質な、戰後の國家による國家護持では危險なので、靖國神社は、國民護持・國民總氏子で行く」べきことを強く提唱し、「靖國神社を絶對に政治の渦中には卷込まない方針を堅持」された。宮司退任に當つては、「權力に迎合・屈伏したら、ご創建以來の純粹性が失はれてしまふ」ことを懸念し、「權力の壓力を蹴とばして、切りまくる勇氣をもたないといけない、と云ふことを、次の(大野俊康・後繼靖國神社)宮司への、一番の申し送り」とされたと云ふ。

【語彙「殉難」の出典】

 愚案、「殉難」の語、蓋し前掲の京都東山招魂社創建の御沙汰書「癸丑以來殉難者の靈を東山に祭祀の件」に出づるのであらうか。

 なほ宮内省(圖書寮)藏版『殉難録』(明治四十二年十二月成功)あり。『修補・殉難録稿』(昭和八年十一月・吉川弘文館刊、題字は徳富蘇峰翁)序文である虚心黒板勝美博士「修補・殉難録の卷頭に辯す」に曰く、

「 明治維新の鴻業は、是等勤王憂國の志士が、所謂人柱となりて築き上げたりといふ。豈に過言ならんや。嗚呼、明治天皇、聖徳、日の如し。是等志士の神靈を崇めて、靖國神社に合祀せしめ給へり。志士の神靈は、天翔り國翔り、永く護國の神とまします。殉難録稿は、實に是等勤王憂國の志士を傳したるものなり」と。

 「殉難」の語、太政官府布告に始まり、宮内省より出づ。以て冥すべく、斷じて忽せにするべからざるなり。




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