中公新書256
名嘉正八郎・谷川健一編
沖縄の証言(上)
庶民が語る戦争体験
中央公論社刊
昭和46年7月25日初版
昭和57年2月1日5版
p88~102
証言収録の経緯

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友軍兵士がわが子を殺した

浦添村(うらそえそん)伊祖(いそ)
銘苅幸江(めかるゆきえ) 家事三十一歳

主人が昭和十九年の八月に召集されましてですね、残された私たちは、家の前にりっぱな壕を掘ってありましたから、そこにはいっていたものの、そこへまもなく友軍がはいってきましてですね。
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その部隊は石部隊の徳田隊だったですね。徳田隊の三小隊で、ミノシマ軍曹という人もいました。二十名あまりでした。その部隊が、うちの防空壕の横から、別の防空壕を掘ってしまってですね。私はうちの主人はいないし、こっちからは絶対にどこにも行かないから、と念を押していいましたらですね、はいいいですよと、返事してくれましたから、安心してですね。

私たちの壕は東に向かって掘ってあるんですよね、友軍は南から掘ってですね、壕の中の壁が薄くなってですね。音が聞こえるんで、私は心配して、兵隊さんの壕といっしょになったらたいへんだがと思ってですね。私は兵隊さんにそういったんです。すると、いいんですよおばさん、いっしょになっても、こっちはどうせ兵隊が使うわけではないから、掘っておくだけだから、とおっしゃったもんだから、私はそうかと思ってですね。

それから、いよいよ明年になってですね、兵隊さんたちは、こっちは安全なところだから、どこにも行かないでいいよ、とおっしゃいましたもののね、部落の住民はみんな伊祖の〔いまの〕コーラー会杜〔倉庫〕の上の方へ行ってしまっているもんだから、私たちは心細くてですね。ところが、壕をさがしに出て行ってみたら、どこの壕もいっぱいで、どこもあいてないもんだから、しかたがなくてですね。お願いして、よその人の壕に、私が壕をさがすまで子供たちを置いてあったんですが、もどってみたら、末の一歳になる子供があんまり泣いて、みんなから嫌われて早くつれて出てくれとおこられてですね。

それから、古い墓ぐゎを見つけて、中から厨子がめを、しゅうとめさんといっしょに出してで
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すね。いい壕をさがすまではここに入れておこうねといって、子供たちを入れてですね。そして森川(もりかわ)という部落に自然壕があるということを聞いたもんだから、私はお母さんといっしょに森川に行ってみたんですけどね、そこも人がいっぱいで、はいれなくて、もどってきてみたら、もう空襲が激しくなってですね、ぜんぜん歩けない。こうなったら私たちは死ぬんじゃないかねお母さん、といってですね。よその石垣の横に隠れていたら、そこの人がこっちいらっしゃいと呼んでくれてですね、助かったんです。また、夕ご飯もいただいたんです。それから、命がけで、子供たちのいる古い墓ぐゎに帰ってきて、なにも食べないで、一日とまって、あいている壕を見つけたんです。家から食糧や荷物を運んだんですが、そのあいだ、砲弾が激しくてですね。壕の中にだれかが置いてあったクバ笠なんかバラバラになっていました。そこに一日いて、こわくてもう、そこにはおれないから、自分の家の防空壕がいいだろうと思って、夜のうちに引き返して帰ってきたんです。

帰ってきたら、壕の中には、よそのおばさんたちがはいっているんです。しかたがないから、ここは私たちの壕だから、出てくださいといったんです。その人たちは、はいといってすぐ出てくださってね、そしてもういよいよ敵が上陸してきたという話を聞いてですね。私は心配して、ご飯も喉に通らないくらいだったんですよ。そしたら、祖母やしゅうとめさんに、なにも心配することはないよと、慰められてですね、なにも死んではいないのに、といわれてですね、すぐピンとくるのは主人のことですよ。
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それでも自分の子供のためですから、水くみに行ったりね、まき取りに行ったりしてね。水くみに行ったとき見たんですが、伊祖の人が、腹を破片でやられたらしく、内臓(わた)がぜんぶ出てしまって、ちゃんと曲がる曲がるしたものがまるく地面に置かれたようになって、その人はまだ生きていてすわっていました。その人は六十過ぎのおじさんでしたが、あとで聞いたら、しかたなく生きたまま埋めたそうです。埋めた人たちは、遠い親戚の人たちだったそうですが、その人たちもあとで死んだそうです。

私たちは、こわくなって、井戸には水をくみに行かないで、前の小川から水をくんで飲んでいました。私たちの壕は、すでに友軍の壕と通じていましたから、徳田隊長〔中尉〕が来て、こっちにはかならず米軍が来るから、北部に行きなさいよと、おっしゃっていました。そしたらいっしょに来た少尉がね、いやこの壕はぜったい安全だから、山原(やんぱる)へ行ったらかえってたいへんですよ、子供たちがかわいそうですよ、とおっしゃってね。だけど隊長はね、いや私の命令に従いなさい、と念を押して、出て行かれたんです。私たちは、はいそうしますといって、おにぎりも作って、準備してあったんですけどね、おばあさん〔八十三歳〕と、主人のお母さんが、私たちは歩ききれないから、行かないでくれと頼むんです。だけど私は、お母さんたちには、卵も油、味暗もたくさん作ってあるからね、あがってくださいね、予供たちのためにはしかたがないから行きましょうね、といってね。それで、じゃあもうしかたがないから行きなさいとおっしゃってね。ところがこんどは、うちの長男も次男もぜったい山原には行かないといい出してね。結局、じゃ
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あもうしかたがないから行かないでおこうということになって、その壕にいたんです。

そしたら、いよいよ敵が上がって来たんですよね。その壕には、機関銃撃つところがあって四角い穴があいていたんです。そこには最初は兵隊さんはいなかったんですよ。昼でした。その穴ぐゎからのぞいたら、ゆうゆうとアメリカ兵が背嚢(はいのう)をして歩いているのが見えたんです。そしてその夜ね、友軍がはいって来たんです。その壕の入口には、中にあった米俵をたくさん積んでね、友軍は銃をかまえているんです。米軍が来たらすぐ撃つといって。そしたら、翌目の昼、アメリカ兵がこっちは見ないでぞろぞろと素通りして行って、その後、友軍は私に、こっちから出ないとたいへんですよというんです。ですけど、私は、ここにいてもいいという約束だから出ませんよと、がんぱっていたんです。兵隊さんたちは、あとからはいってくる兵隊さんの様子からわかったんですが、逃げてはいって来るんですね。そこは逃げて集合する場所になっていたはずです。兵隊さんたちは、私たちに、はやく出て行きなさい出て行きなさいと、追いたてるもんですから、私たちはしかたなく出たんです。

行く先は、別の友軍の壕でした。まだいくさが来ない前のことですけどね。まだ私の家に兵隊さんたちがいるころ、兵隊さんが話していたんですよ。白分たちの壕は、食糧もたくさんあって、非常に厳重にされて安全だから、もしそっちにいられなくなったら、どうぞいらっしゃいね、と話していました。食べ物は、なにも持たないで、来ていいんですよ、といわれていたんですけどね、私たちは、用心して、長男も次男もおばあさんも、みんな荷物を分担して、食糧も持って行
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ったんです。イモくずや大豆を妙ったものや砂糖や米など、どこからそんな力が出るかと自分でも不思議なくらいでした。

私は子供もおんぶして、大きな荷物を持って、みんなで伊祖のその壕に行ったらですね、兵隊さんから、最初は、先になっていたおばあさんは、だれの命令ではいるかと、おこられたんです。うちのおばあさんは六十三歳で非常にじょうぶな人でしたから、兵隊さんがこっちにははいれないといっているよカマー、と叫んでいました。私の沖縄名前はカマーといっていたんです。私は、それじゃあ別の壕に行きましょう、といったんです。そしたら、歩哨に立っていた山本伍長が、私の声を覚えていてですね、ああおばさんですか、どうぞ、と小声で近寄ってきて、おばさんたちならはいってください、というわけで、神様に助けられる思いでそこにはいったんです。

そこには、住民が二十名ほど、兵隊さんが二十名あまりはいっていました。いまの浦添の婦人会長さんの渡名喜(となき)藤子さんも、早川中尉さんもはいっていました。早川中尉さんは、私のそばにいましたから、その言葉までもはっきり覚えています。それから小池上等兵さんもいらっしゃると、山本伍長さんが、小隊はみんな亡くなって白分たち三名しか生き残っていないよ、と説明していました。

壕の中は、燈(あか)りもなく、まっくらやみで、手さぐりしてはいったんですけど、そしたら早川中尉さんがいうにはね、お宅にはなにか燃やすものはないですか、と聞かれて、はいありますよ、といったら、じゃ取ってきてくださいませんか、はい取ってきましょうね、ということになって
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ですね。私が出て行こうとしたら、その子をここに置いて行きなさい、というんですよね。私はワアワア泣く末の子供をおんぶしていましたから。で、いいえ、私はこの子はよく泣くからおいては行けません、といいましたらね、だいじょうぶですよ、置いて行きなさいとしきりにすすめるんです。いいえこの子を置いては絶対に行けません、と私が反対したらね、じゃいかないで、というんですよ。

それから、あんたたちは危険だから中の方へおいでといってね、奥の方に入れられたわけです。長女〔五歳〕と三男末っ子〔一歳〕は奥の方に入れたら、末っ子がしょっちゅう泣いてですね。また長女は風邪をひいて喘息を起こしたりしていましたから、私はなんとかしてあげないといかんと思ってですね。私は便器と小刀と鰹節はずっと持っていましたから、便器に小便をしてですね、それでぬらした布で長女の胸を湿布してやりました。その湿布をしているときですね、泣いていた末っ子が急に泣きやんだんですよね。なんだか急に泣かなくなったもんだから、私はすぐ不審に思ったんですよ。

そして私は手さぐりして、泣くとたいへんよ、といいながら、抱こうとしたらね、その子は喉のところをちょっとぴくぴくさせて、急にぐったりなって動かないんですよね。なんだかこの子は変ですよ、とみんなにいってから、名前をなんども呼ぶんだけど、泣きも返事もしないんですよ。藤子さん、うちの子供はどうしたんですかね、返事もしないが……といってからすぐ、そこにいるだれかが殺したんじゃないかと思いました。うちの子供をだれが殺したんですかと、私は
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もうおこつてですね。私が大声でどなったら、かんべんしてください、だれが殺したかわからないし、もうしかたがないことだから、と早川中尉さんがいうんですよね。やっぱり殺したんだね、と私が大声を出したら、早川中尉さんは、かんべんしてください、その子があんまり泣くもんだから、だれがやったかわからないんだから、といってました。首をしめられたのか、急に死んでいたんです。

それで私が気が狂ったみたいにあんまり叫んだもんだから、早川中尉さんはおこってですね、あんたも知っているでしょう、ここに四十名あまりもいるのに、その子一人のためにみんな死んでもいいですか、とたしなめられてね、私は。山本伍長さんは、たいへん心配してね、あんに賢い子だったのにねおばさん、だれがやったのかね、といっていました(たしかに殺しているんですよ!最初から計画してたんじゃなかつたかね、とあとで思いました)。

坊やの死体は、入口の近くに置いて、手を合わせました。

また水一滴もその壕の中にはないんですよ。水がないから、何も食べられないんです。明日まで、みんながまんしておけよ、とみんないい合つて、翌日になったら、早川中尉さんはね、私と藤子さんと小池上等兵にね、水をくんでこいと命令するんですよね。あんたたちの子供さんたちにも分けてあげるからという条件でね、私たちは行くことになったんです。自分の子供にも飲ましてくれるのなら行きますよ、とね。

私は一斗罐、小池上等兵は水筒十個ぐらい、藤子さんは一升びん二本を持ってね、夕方になっ
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てから出て行ったんです。出て行く前の、早川中尉さんの注意ではね、女は絶対に殺さないから、もし敵に見つかって追われたら、この壕の入口は見せないようにして、いちおうは別の壕にはいってからまた来なさい、という命令だったんです。はいそうします、と私たちが出て行ったらね、暗がりで、なにかカサカサ音がするんです。なにか物音がするから、ちょっとすわりましょうか、と私がいって、藤子さんとすわったら、すぐ一発、音がして、小池上等兵がやられてしまったんです。ちょうどね、小池上等兵は私たちから1メーターぐらいしか離れてないんですよ。パンと一発音がして、小池上等兵が倒れたもんだから、私たちはびっくりして大急ぎで逃げたんです。そのあとで、パラパラパラと銃の音がしていました。藤子さんはどうするどうするとこわがっていましたけれど、いおおう私たちは少し離れたところまで行って、しばらくそこにいてから、それから壕にもどったんです。

壕にもどったら、入口のほうで早川中尉さんがいうにはね、ここの入口を見せなかったか、となんども聞くんです。小池上等兵がやられてしまった、といっても、ちっとも心配しないで、入口を見せなかったかというもんだから、私は、とうに出て行くときに見られていますよ、といってやりましたよ。もうこわくなかったですよ。うそではなく、すでにその壕は馬乗りされていたはずです。そんな感じでした。アメリカに知られているというわけで、兵隊さんたちは、その夜、急いで準備して、出て行ったんですよ。夜中に、兵隊さんたちが出て行ってから、私たちも出て行こうと思ってしたくしているときに、沖縄の兵隊さんが駈けこんで来ました。敵がいるんです
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か、と聞いたら、はいと最初は返事をしてから、いやどうもないよ、とその兵隊さんはいっていました。それで私たち残った二十名ほどは、思いきって出て行ったんです。雨が降っていました。

まる三日間飲まず食わずで、四日目に出たわけですが、外は雨が降りはじめていて、私たちは道の水溜りから、水を手ですくって飲んだんです。うちのおばあさんはね、しゅうとめさんが手を引いて、私は長女をおんぶして、次男の手を引いて、長男は一人歩きしていました。主人のお母さんは、ソコヒで眼があまりよく見えなかった上に、壕の中で兵隊さんにまちがって胸を蹴られて痛いといっていましたが、みんなから遅れてあとになっていたんです。私たちが歩いていると、パンパン音がして、私たちは敵の弾の中を逃げてですね、やっと友軍の弾薬壕にはいってどうやら助かったんです。だけど、主人のお母さんは、どうなったか、それっきりわかりません。そこの壕にはいるまでには、みんなばらばらになっていました。

その翌日、まだ日が暮れないころに、足音もなくなんの物音もしないうちに、急になにか爆弾をその壕の入口に投げ込まれてしまったんです。たぶん催涙弾でしょう。パンという音がして、煙がもうもうと出てきたもんだから、すぐ私たちは、たいへんだと思って、そこを出たんです。そしたら、向こうから銃をかついだアメリカさんが来るんですけどね、撃とうともしないんです。長男は心配してあっち行きこっち行きしてからに、私は声がかれるくらいに呼んで、やっとつかまえて歩いていました。おばあさんはね、しゅうとめさんの帯に手を入れて、あとからついて来ていました。そのときアメリカさんが指笛を吹いていました。それでもゆっくりゆっくり歩いて
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いると、八十三歳になるおばあさんは、もう歩けなくなって、しかたがないもんだから、しゅうとめさんが離したんです。私たちは親子だけで、首里(しゅり)の方へ行こうと思って歩いていました。私たちが通るあいだ、そのへんは弾が来なくなっていました。伊祖の前の方には、友軍がたくさん倒れて死んでいました。その近くでは、アメリカさんがなにか作業をしている様子でしたので、私たちは見つかったら撃たれると思って、そこの坂に伏せて、這って進んで、棚原(たなばる)という屋敷の壕にはいったんです。その後、しゅうとめさんもおばあさんもそこへやって来ました。そこでは、最初に、大きな貝がらに溜っている腐った水をみんなで飲みました。それから、おぱあさんは、親もとの家の豚小屋にお米があったと話していましたから、しゅうとめさんが行って、お米を取ってきてくれました。また、親富祖(おやふそ)校長先生の家の裏に友軍の壕があって、そこにはカンメンボ〔軍用のカンパン〕が隠されてあると、どこで聞いたのか、うちの長男が話したら、おばあさんはかならず取ってきてちょうだいというんですよね。私は長女〔五歳〕がどこにも行かないでと、せがんで離そうとしないんです。前に、自分の弟が死んでいるもんだから、もうこわがっているんです。でも、あんまりおばあさんが頼むもんだから、またしゅうとめさんが取りに行ったんですが、カンメンボはなかったともどってきました。

棚原という屋敷の壕の中には、壷などがあって、味噌やタピオカのくずなどがあったんです。だけど、マッチがなくなっていたもんだから、お米は水につけて、ふくらませた生米を食べていました。砲弾はあっちこっちに落ちていましたが、私たちの壕にはあたりませんでした。近くの、
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前銘苅(めーめかる)という家の方から、アメリカさんの食器を洗う音がしていました。私たちは、その壕には何週間もはいっていました。私たちからはずれたおばあさんは、あとでわかったんですけど、自分の家の壕に向かっているうちに、その日に、アメリカさんにとられてしまったそうなんです。

アメリカさんが捕虜をとりにきたときは、もう五月の末ごろになっていただろうと思います。そのときは、隣の壕の人たちが、ワァワァ泣いているのが聞こえて、すぐ泣きやんでしまってね。弾の音はしませんでしたが、もう死んだかもしれないと私たちは思っていました。そしてつぎは私たちの番だと思って、私は壕の中にあった鋏で子供たちを散髪させてやり、しらみも取ってやって、上等の着物に着替えさせていました。子供たち三名と、おばあさんとしゅうとめさんと私の六名でしたが、いよいよアメリカさんが来るんだなあと待っていましたら、あんのじょう、私たちの前に来たんですよ。長女がこわがってね、それでもぜんぜん口をきかないんです。声を出すなよ、といいきかしてあったら、ほんとうに声が出なくなっていたんですね。

そしたら、おばあさんが、「え、カマー。アメリカーがカマーカマーしているよ」というもんだから、私はもしや友軍が来ているのかね、と思って、外に出てみたんです。そしたら友軍じゃなくて、やはりアメリカさんがいるんです。私はアメリカさんにすぐ見られてから、ひっこんで、「おばあ、友軍じゃないよ、アメリカーだよ」と小さい声でいったんです。アメリカさんは、二人でした。アメリカさんだとわかったら、次男はワァワァ泣き出してですね。私はもうどうなってもいいと思ってね、子供たちを引っぱり出したんです。そしたらアメリカさんは、「カマン、
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カマン」してですね。そのときは、カマーと呼んだんじゃないとわかったんですが、壕の前にすわれと合図するんです。

おばあさんがいうにはね、いわれるとおりにくぼんだところにすわろう、とおっしゃったんですけどね。いいえこっちがいいんですよ、あっちは水が溜るから、死ぬならこっちがいいですよ、と私が反対して、みんな壕の上の平坦にすわったんです。アメリカさんは、煙草を出してね、私とおばあさんに吸いなさいとすすめていました。私は受け取らなかったんですが。おばあさんはもらって持っていました。それからアメリカさんは、長女を抱き上げたもんだから、私は驚いてすぐ取り返したんです。こんどは、立ちなさいというもんだから、もう覚悟して、いわれるとおり立ったんです。ところが、アメリカさんは、次男をかわいいかわいいして頭をなでてから、ついてくるように手まねして、歩いて行ってしまったんです。

私たちは、橋を渡って、戦車の多いところまで歩いて行きました。もう殺されないと思っていました。伊祖のはずれまで来てみたら、防衛隊がアメリカの青いシャツを着て、何人も瓦など集めたりして作業していたんです。そのうち捕虜になっている防衛隊の一人が、あき罐に水を持ってきて、水を飲ませてくれてから、こんなことを話していました。アメリカーはご飯も食べさせてくれて助けるんですよ、と安心させてくれたもんだから、私はほっとして、じゃあ助けるんだったら、前の壕に鍋とお米とむしろを置いてきたんだが取りに行かせてくれますか、と聞いたらね、はいいっしょに行きましょう、ということになって、私はアメリカ兵と防衛隊といっしょに
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行って、荷物を持つて来たんです。それから、トラツクに乗せられて、途中で捕虜を乗せたりしながら牧港(まちなと)につれて行かれ、その後、大山(おおやま)に移されました。

牧港に着いたときに、沖縄出身のペルー帰りの班長がですね、私たちのお米を取り上げて、おばあさんたちには軽蔑的にひどくあたりちらすもんだから、おぱあさんたちはこわがっていました。そこヘアメリカさんが来て、その班長を逆にしかって、そんなに手荒く引っばったりするな、とたしなめていました。

牧港では、どういうわけか私は残されて、おばあさんと娘〔長女〕は大山につれて行ったんです。班長の奥さんがいうには、もう親子はめいめい別々になるというもんだから、私はもう一生会えないと思い、泣きあかしたんです。二世さんが来て、ご飯のしたくをしてください、というもんだから、私はもう炊事なんかしたくない、といったんです。どうしてですか、と聞くもんだから、ああおばあさんと娘と別れ別れになってもう会えないから、悲しくて、生きるかいがありません、と答えたんです。二世さんは、いいえそうではないんですよ、車が足りなかったから別別になっただけで、すぐいっしよになれるんですよ、なんにも心配しないでください、といって、私を納得させてくれました。私は気持をとりなおして、ご飯もたいたんです。

ところが夕飯をちようどたいたころに、トラツクが来て、大山に行きなさいといわれ、夕飯も食べないでそのまま大山につれて行かれました。牧港もそうでしたが、大山もテント小屋でした。大山に行ったら、うちの娘がね、おにぎりを食べないで持って、私が来るのを待っていたんです。
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泣き合って、抱き合ってですね。そのとき娘は、ずっと口がきけなくなっていたのに、やっとお母さんといえたんです。そこには四日間いましたが、食事は一人におにぎり一個ずつ日に二回ありました。

それから越来(ごえく)〔村〕の安慶田(あげだ)の前に収容されました。そこには、浦添村の人たちだけでも、テントが三棟ありました。一つに四十名あまりとまっていました。私たちが着いた日の夜、私たちの上の方のテントで、みんなの見ている前で、城間(ぐすくま)出身の三十三歳の女の人が、七名の白人兵に、強姦されたそうです。みんなこわがって、私たちのテントに来て、そのことを話していました。その女の人は、抵抗しなかったので、怪我しないですんだそうです。その翌日からは、MPが来て、みんなを守ってくれていました。そこには、約一年ほどいました。私は軍の作業に行って、アメリカ兵たちの洗濯をしていました。いつも私は、こわがっていました。アメリカさんにいろいろと語しかけられてですね、私は、主人といっしょにいるよ、子供もいるよ、とわざと子供を仕事場につれてきて見せていました。それから私は、そこで働けば、給料がもらえると思っていましたが、帳簿にサインもしていたのに、なんにもなくただ働きでした。

主人は、大山の方で、亡くなったらしいと聞いていましたが、信じられませんでした。だから、防衛隊が捕虜になって来るたびに、たずねたんです。そしたら、私の主人は、恩納(おんな)岳で、わからなくなっているんです。主人はいつも先頭になって、軍服のままでいたそうですが、今日までとうとう死体も見つかりません。
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以上