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メッセージ復帰30年

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pipopipo555jp

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<2002年9月19日 朝刊 7面>

沖縄の海図(61)


メッセージ復帰30年
宮城晴美(上)
傷痕
のどに「集団自決」後遺症
少女時代の日常


ここに、一葉の老婦人の写真がある。笑みを浮かべ端正な顔立ちをしている。首元に結んだ白いハンカチは、おしゃれな印象さえ感じさせる。少なくとも、写真の姿や表情からは、あの悲惨な座間味島の「集団自決」の光景は予想もつかない。だが、ハンカチに隠されたのどの傷痕。肺に空気を送り込む挿入管(カニューレ)の装着は、まぎれもなく「集団自決」の後遺症である。

戦後四十余年経て、忌まわしい体験から逃れるすべもなく老婦人は他界した。

一葉の写真とは、宮城晴美著『母の遺したもの』に登場する祖母の姿である。少女時代の宮城が記憶する祖母は、いつもいら立っている様子だった。のどの傷は声帯までも切断。声を出すと、空気音がスースー響くだけで、話が聞き取れない。いら立ちが募る。

それでも、片方の手のひらでのどを押さえ、息が漏れないように話す。かすかに声が聞き取れる。祖母のいら立ちは、これだけではなかった。

食事のとき、のどから気管に通した挿入管に食べ物が入ると激しくむせ返した。そのたびに、大急ぎで十センチほどの管を引き抜き、食べ滓(かす)を取り除く。祖母の、こうしたろうばいぶりを何度も目撃した。これが、少女時代の座間味島の生活であった。


苦悩する祖父母


一方、祖父の苦悩は、さらに深かった。戦後は寡黙な日々を過ごす。家族を手にかけた心の傷は生涯いやされることなく、ただ耐えるだけで償う、どうにもならない虚脱感に陥っていた。宮城は、その祖父の心情もおもんばかる。

太平洋戦争末期の一九四五年三月二十六日、突然米兵が島に上陸。ここから座間味島を住民の血が染めていく。

前著の『母の遺したもの』は、祖父の行動についても、漏らさず記述している。それにしても痛々しい。島で起きたことは、極限状態になっていたことを物語っており、事態はエスカレートしていく。

「沖縄中の人々が〈鬼畜(きちく)米英〉に捕まれば女は強姦(ごうかん)され、男は八つ裂きにされ殺される…。米軍の恐ろしさを徹底的に教え込まれていた。その“アメリカー”が目の前に現れた」

祖父の取るべき行動は、ただ一つの方法しかなかった。

米兵の手にかかるよりはと、アメリカーを見て騒ぎ立てる妻と子どもたちの首を次々カミソリで切りつけた。そして最後に自分自身を。

息子一人は即死。娘二人と夫婦は重体ながら救助。このとき、祖母はのどを深く切りつけられたため声を失う。戦後になって、祖父はどんな妻の、ののしりにも耐えていた。

夕暮れ時、きまって祖父は自宅前の護岸で、「カラサンシン」(歌を伴わない)を弾いていた。自らものどを切り、声が出ない。かすれた声が家族にだけは聞こえていた。

あてぃん 喜ぶな(あって も喜ぶな)/失てぃん 泣 くな(失っても泣くな)/

人ぬ 善し悪しや(人にと って何が幸いなのか)/後 や 知らん(後のことは誰 もしらない)


宮城晴美(下)
告白
数行が母の戦後を翻弄
「約束」から10年


戦争体験のトラウマを問う言葉が、鋭く胸を突く。

宮城晴美の著書『母の遺したもの』は、家族の体験から目をそらすことなく、血塗られた座間味の実情を克明に記している。宮城に執筆を、激しく促したのは「母の手記」だった。同著の前書き、「約束」から一〇年―で、脱稿・出版までの経緯を述べている。

「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノート(手記)を私に託し、半年後(一九九〇年)、六十九歳の生涯を終える。字数にして四百字詰め原稿用紙約百枚。自らの戦争体験の日々を具体的につづっていた。しかも、手記は過去の記述を、根底から覆す内容を含んでいた。

一九六二年、最初の手記を『家の光』の懸賞募集に応募入選する。翌年、同誌四月号に掲載。さらに五年後に出版された『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(私家版)で、「血ぬられた座間味島」の題名で収録された。その記述の一部分が発表して以来、母を苦しめ追いつめていた。

『悲劇の座間味島』、それと一冊のノートを前に、一部カ所・数行の削除を指示した。「母の戦後を翻弄(ほんろう)した数行だった」。十年後、宮城は執筆に取りかかる。


板ばさみの苦悩


同著の要旨を追うことにする。当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」―が、事実と違う記述であった。以後、「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令」が根拠とされてきた。

事実は、部隊長の命令は下されず、村役場の伝令が飛び交い、次々と「集団自決」へ走った。手記発表後、母は自分の“証言”で梅澤を社会的に葬ってしまったと悩んでいた。事実を公表すれば、島の人々に迷惑が及ぶ。板ばさみの心痛を一人で背負っていた。

一九八〇年、那覇市内で梅澤と再会。そして母初枝が告白した。「命令を下したのは梅澤さんではありません」。この一言に、梅澤は涙声で「ありがとう」を言い続け、嗚咽(おえつ)した。だが、告白をきっかけに事態は急変。さらに波紋を広げていく。

詳細は同著を読んでもらうしかない。要約するにしても、背景が複雑で誤解を恐れるからだ。


背景に「皇民化」


戦争とは残酷である。「集団自決の状況」を仕組む。戦後なお島人は、その呪縛(じゅばく)から解き放たれていない。この事実に、宮城は怒る。「国家の戦争責任は不問に付され、戦後何十年もの間、〃当事者〃同士が傷つけあってきた」。幼児を抱える母親たちにさえ「天皇陛下ばんざい」を言わせた「集団自決」。国家の徹底した皇民化を厳しく批判する。

同時に検証も怠りない。最近、発表した小論「母姉読本」は「銃後の守り」となる、女性に対する国・県の指導を明かす(「うない」ヒストリー/琉球新報二〇〇二年四月八日朝刊)。

大宜味村の「母姉学校」、八重山の「母の読本」、沖縄県教務課の「母姉講座」を紹介。

天皇制国家の支えとなる「良妻賢母」をつくる女子教育の名目で、とくに沖縄は家庭から「日本化・皇民化」の狙いを露(あらわ)にした。

「座間味島の集団自決はむろん、戦争が引き起こした悲劇は皇民化政策が招いた」ことを指摘する。

また復帰三十年。漂う「戦争体験の風化」にも沈痛な思いをかみしめる。

=敬称略=(多和田真助 編集委員)

今週は木・金・土曜日に掲載します。



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