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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)

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第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)

(※<藤色>部分は、曽野綾子の論拠借用と著書引用)


5 赤松命令説の削除と訂正


『ある神話の背景』の出版(昭和48年)は、決定的な影響を及ぼし、赤松命令説を記載した書物からは隊長命令が削除され、出庫終了による出版停止がされた。また研究者の間では、『ある神話の背景』により「赤松隊長の自決命令は確認できない」という評価が定着した。

(1) 『沖縄県史10巻』(1974年)(昭和49年)

   『沖縄県史第8巻』(1971年)(昭和46年)には「赤松大尉は〈住民の集団自決〉を命じた。」と記載されていたが(乙8p410)、『沖縄県史10巻』では、「西山陣地の北方にいくと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」と自決命令が削除された(乙10-689,690頁) 。

県史から自決命令が削除されたことの意味は重大である。

(2) 『沖縄問題20年』(昭和40年)(甲A2)

  『沖縄問題20年』では、「住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で〈持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している〉と主張した。」と記載されていたが、『ある神話の背景』を契機に出庫終了で出版されなくなった。『ある神話の背景』により自決命令の虚偽が露顕した結果であることは争う余地がない(被告準備書面(3)の第2の11の(2))。

(3) 『沖縄戦を考える』(昭和58年)

さらに、沖縄の歴史家大城将保(嶋津与志)は『沖縄戦を考える』(昭和58年)で、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の神話に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説を覆した。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などをたんねんに指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言とをつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし(甲B24p216)、隊長命令否定説に立つ曽野の『ある神話の背景』を高く評価した。

ところが、その後大城は、前記「今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」部分が引用されることについて、「勝手に引用して、いかにも曽野説を積極的に指示しているかのような我田引水の歪曲をほどこしている」と批判し、さらに「兵事主任の手榴弾配布を捉えて、手榴弾を民間人に配るということは明らかに自決命令である。また軍隊の規律や指揮系統からして最高責任者の赤松隊長がこの事実を知らないはずがない。」と言い出した(乙44)。

しかし、これは記述についての具体的な論証がないまま論難し、争点ずらしを図るものである。また、大城は『沖縄戦を考える』では、さらに「私が軍の責任があったという場合、それは軍の作戦方針とか、軍隊の論理のことを言っているのであって、けっして一般将兵の個々人を指しているのではないことはご承知願いたい」と記載していた(甲B24p223)。そうであれば、隊長命令がなかったことを前提にしての立論という他はないのであり、結局、大城は、沖縄での批判に晒されて自説をねじ曲げたことは明らかである。

(4) 『太平洋戦争』(昭和43年・初版本)

   昭和43年に発行された『太平洋戦争』初版本では「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、従順な島民329 名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。」と記載されていたが(甲B7-213頁)、第2版(昭和60年)でも、その後の『太平洋戦争』でも、「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺をとげよと命じ、」の部分が削除された(甲A1p300)。

(5) 仲程昌徳著『沖縄の戦記』(昭和57年)

昭和57年に発行された仲程昌徳著『沖縄の戦記』は、『ある神話の背景』について、

「本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって命令されたという集団自決神話をつき崩すということであった。そしてそれは、確かに曽野の調査が突き進んでいくに従って疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう(甲B98p145)。

「曽野綾子が「『ある神話の背景』で書こうとしたのは、赤松隊長の自決命令が、当事者たちによる証言からではなく、直接現場にいなかった二人からの伝聞証拠によって書かれていたこと、及びその後の集団自決に関する記載が、疑うこともせずに『鉄の暴風』を下敷きにしていることの誤りを指摘し、赤松隊長説を否定していくことにあった。曽野は、しかし、その記載の誤りを正し、赤松神話を崩壊させることによって終わったのではなく、同時に集団自決とのかかわりで問われる「責任」の問題をめぐって、沖縄側からなされる『責任』追及がいかに不合理で、現代的な思考によって行われているかという疑問も呈しているとし(同p154)、

「このあたりで、私はそろそろ沖縄のあらゆる問題をとり挙げる場合の一つの根本的な不幸に出くわすはずである。それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土をすこしでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだ、というまことに単純な論理である。赤松隊の人々に、一分でも論理を見出そうという行為自体が裏切りであり、ファッショだという考え方である。」---『ある神話の背景』からの引用と沖縄に対する曽野の批判を取り上げて『ある神話の背景』の評価を締めくくる(甲B98p154)。

(6) 渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』(昭和62年)

昭和62年に渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』には赤松隊長から自決命令が出たという記載はない。渡嘉敷島民8人分の体験記録が記載されているが、何れにも赤松隊長の自決命令は記載されていない(甲B39)。

事情を知る島民に直接事情を聞けば、赤松隊長の自決命令はなかったことが自明になったということである。


6 太田良博の反論の顛末


『ある神話の背景』で赤松命令説を決定的に批判された『鉄の暴風』の著者太田良博は昭和60年4月、沖縄タイムス紙上に反論を掲載して挽回を図ったが、曽野の再反論を受け完敗し、『鉄の暴風』の虚偽は白日のものとなった(甲B40-1~10)。

太田は、「私は赤松の証言を信じない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はない」と主張するが(同4)、曽野は「この人は信用できる。この人のことは信用できないという感情的決めつけには問題がある。事実が何であったかこそ重要である。」と疑問を提起する(同13)。そして太田氏が知念は本当のことを言わないと批判しながら、『鉄の暴風』の中の記述で『事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』と赤松隊長が語るのを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」(乙2p36)と記載したことに太田は曽野から分裂症かと激しい批判を受けたのである(同13)。

結果的に、赤松命令説が全くの虚構であったことを『鉄の暴風』の著者みずからが明らかにしたのである。

尚、詳細は原告準備書面(5)の第4の2以下参照



7 手榴弾交付=自決命令説について


(1) はじめに

『ある神話の背景』(昭和48年)の周到な調査と真相に肉薄する情熱は自決命令がなかった事実を白日のもとに晒した。それは当然に集団自決が赤松隊長の命令で敢行されたと主張して来た人達、殊に沖縄の言論界に困惑を生じた。

そこで隊長命令による集団自決説の維持のため必死の巻き返しが図られた。

その初めは、富山真順の語る手榴弾交付説である。すなわち、「昭和20年3月20日に渡嘉敷島の17才未満の少年と役場の職員に〈1発は敵との戦いに1発は自決用に〉と手榴弾が配られた」というものである。

それまで、渡嘉敷島での集団自決の自決命令は昭和20年3月28日に出されたことを前提に論争されていたが、新たに3月20日に手榴弾を配ったことを根拠に自決命令があったとするものである。

しかし、富山真順は何度も沖縄戦の資料に登場するが、昭和63年まで一度も昭和20年3月20日の手榴弾配布を明らかにすることはなかった。

(2) 富山真順の証言の変遷


例えば、富山真順が最初に登場する『戦闘概要』(昭和28年3月28日付)(乙10)では手榴弾のことに全く触れていない。

また星雅彦のルポ「集団自決を追って」(『潮11月号』(1971年)(昭和46年)でも手榴弾については全く触れられていない(甲B17p212上,中段)。

星雅彦「集団自決を追って」には次の記述がある。『一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった。』

同号の『潮』所収の富山真順の手記では「幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』と言われた」と記載されており、手榴弾の配布があった事実は全く出て来ない(甲B21p122)。

渡嘉敷村史資料編(昭和62年3 月31日出版)では富山真順の戦闘体験の手記があるものの、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くない(甲B39p369 ~372) 。

(3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場

ところが、手榴弾配布=自決命令説が東京地裁の家永訴訟で昭和63年に唐突に公言された。これは、渡嘉敷島の隊長命令がなかったことが定説化しつつあった流れを、揺り戻す試みとして持ち出されたものである。

ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日)
「集団自決が起きる数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍の多分兵器軍曹といっていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持ってきて、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。1人に2個ずつ、それはなぜ2個かと言いますと敵の捕虜になる危険性が生じたときには、1個は敵に投げ込んで、あと1個で死になさいと、さらに集団自決の現場では、それに追加されてもう少し多く手榴弾が配られていると。」(乙11p287,質問57への回答)

イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日)
     「3月28日に集団自決が行われた。米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざという時にはこれで自決するように命令を受けていた。」(乙11p53,質問89への回答)

「渡嘉敷村史の編集を担当しており、1972年〈昭和47年〉以来の調査で言いましても、20年近い調査活動をやっている中で曽野さんの説を覆す反証が出てきている。兵事主任の証言を得ている。赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろと命令を出している。」(乙11p69,質問111への回答)。

曽野綾子の反論(昭和63年4月5日)

(ア)
曽野は「村の兵事主任(富山真順)に対し、昭和20年3月25日(ママ)に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」との原告代理人の質問に、「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と証言した(乙24p218,質問89に対する回答)(同p220,質問96に対する回答)。

このことから、件の非常招集が『ある神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかである。

(イ)
富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを話されたとしたら、「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」(乙11p 220,質問94に対する回答)、「そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」と答え(同,質問95に対する回答)、そのような事実がなかったことを曽野は証言する。

(ウ)
曽野が事実を察知したならば、まず富山真順にあって話を聞き、さらに『ある神話の背景』にも記載したことは確実である。曽野の証言を、偏ったものとする批判があるが、大城将保が「今のところ曽野説を覆すだけの反証は出て来ていない。」とし、仲程昌徳が「完膚なきまでにつき崩されて『命令』説はよりどころを失ってしまう」として曽野の執筆姿勢の客観性と真摯さを高く評価している事実からすれば、これら批判は、その根拠も示さず、まさに主客転倒の批判をしているにすぎない。

(4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日)

富山真順が、手榴弾を配った事実について曽野の調査時に全く明らかにしていなかったことと、渡嘉敷村民の誰も、富山真順の話を知らなかったことが曽野の証言から判明した。富山真順の手榴弾交付=自決命令説が捏造の疑いが濃厚となったことから、手榴弾配布命令説を補強するために朝日新聞に手榴弾交付の記事が掲載された。昭和63年6月16日付「17才未満の青少年や役場の職員に昭和20年3月20日に非常召集を掛けて役場に集まらせ、1発を敵に、1発を自決用に手榴弾を配った」という記事である(乙12)。

(5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説


ア はじめに
    1990年(平成2年)3月31日に渡嘉敷村から発行された渡嘉敷村史通史編は、「渡嘉敷の兵事主任であった富山真順(旧姓新城)が自決命令があったことを明確に証言した。」と記載している(乙13p197)。

村史の該当箇所の執筆者安仁屋政昭は「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえない。―中略― 住民が密集している場所で、手榴弾が実際に暴発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と解説した(乙13p197下段~p198上段)。

しかし、それは執筆者である安仁屋の評価であって「事実」ではない。安仁屋は、手榴弾交付=自決命令という詭弁的修辞を使って命令を強弁しているにすぎない。問題は自決命令があったか否かである。

富山真順が当時これほど重大な事実を、経験していたのであれば、村史資料編の富山真順の戦闘体験の手記にも、その余の資料にもその事実が記載されない理由はない。村史資料編等を含めてそれまでその事実が全く、記載されなかったのは、富山真順にその体験がなかったからに相違ない。

渡嘉敷村史資料編(甲B39)と同村史通史編(乙13)の戦争編は、何れも安仁屋政昭が執筆した。昭和62年作成の村史資料編中の富山真順の手記に、全く影も形も無かったものを「17才未満の少年らの呼集、手榴弾の配布、自決の指示」として村史通史編に書き込んだのは安仁屋政昭教授、富山真順、朝日新聞による隊長命令による集団自決説維持のために工作がされた疑いが濃厚である。

殊に安仁屋は第3次家永訴訟の東京地裁の審理に証人として供述しており、赤松隊長の自決命令が虚偽として定着した状況を打破するために手榴弾配布説の流布を企図したと考えられる。

しかし、手榴弾が住民の手に渡ったことを、即自決命令に結び付けることはいかにも短絡的で根拠がない。

(6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実

しかし、現実には軍の意思によらずに手榴弾が住民の手に渡っていた事実がある。

小峰園枝氏は「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」と語っている(甲B39p374 )。

また金城武徳の証言には「だからその手榴弾をですね、結局泥棒しているわけですよ。だから隊長そう言ってましたよね。大阪で。兵器係から手榴弾が2箱盗難にあっていますという報告があったそうです。」「軍が手榴弾を配布したわけではなく、」「一番悪かったのは、防衛隊なんです。防衛隊が盗んできた。」というものがある(甲B52の2p16下から5行目~p17の2行目まで)。ここからは手榴弾が大量に盗み出されていたことが窺える。

また、古波藏村長がどうするかという話になったとき、「みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになって、一人の防衛隊が、〈友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか〉と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった」という証言もある(甲B17p210中段末尾から下段に掛けて)。

※星雅彦氏は、上記を「証言」として表現してはいない。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/766.html

これらの事実は、防衛隊の意思で手榴弾を取得できるほどに管理が杜撰になっていたこと、指揮命令系統も崩壊した混乱の中にあったことを物語る。

またさらには「私の弟が自分は死なんぞと、手榴弾を捨てて逃げてしまいました」(乙9p788上段)という例もある。

これは住民の手に手榴弾があっても、それだけで村民が死ぬものではないことを明らかにしている。手榴弾の交付は住民に自決を強制する命令にはなりえないのである。

(7) 3月20日時点での赤松隊の状況


ア はじめに
従来は昭和20年3月28日にあったか否かで議論された赤松隊長の自決命令説が破綻したことから、自決命令説に立つ者は、昭和63年6月16日の朝日新聞以来自決命令を昭和20年3月20日に遡らせて主張するようになった。

しかし、赤松部隊は3月20日の時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、守備隊に転身し、持久戦を闘うことは全く予定していなかった。また出撃する特攻隊であるから当然に「村民のことには全く関心をもっていなかった」(甲B18-p36)。

赤松部隊は3月25日までに米軍の攻撃で舟艇の大部分を喪失し、その後止むなく守備隊に転身し持久戦のために山に登ったのである。

また、32軍も赤松部隊も3月23日の空襲とそれに続く艦砲射撃まで沖縄へ西方から上陸する米軍を背後から攻撃することを予定しており、渡嘉敷島に米軍が上陸することは予想していなかった(乙11p51の上部注(29)(皆本調書p2)。

それにも拘わらず、昭和20年3月20日の段階で役場の職員である兵事主任が米軍上陸を予測して手榴弾を配ったことになり、富山真順の話はあり得ない荒唐無稽なことである。

仮定の話として赤松部隊が特攻のために出撃し、村民に手榴弾が残され「一発は敵をやっつけ、一発は自決のため」ということだったとしても、「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に応えたものに過ぎない。しかし、将兵の意思は出来るだけ生きのびよとの思いであったことは、幾多の事例が証明している。そうであれば、手榴弾の交付=自決命令とは言えない。

(8) 手榴弾交付説の破綻


ア はじめに
原告はこれまで『ある神話の背景』の出版で隊長命令がないことが定着した状況を打破するために仕組まれた工作の一環としての手榴弾配布説を主張してきた。しかし、これらの工作は露顕した。

イ 金城重明の証言
(ア)
金城重明は、平成19年9月11日の所在尋問で「昭和20年3月20日の手榴弾の配布は渡嘉敷の役場で行われた。阿波連の住民であった金城重明は呼ばれていないし、阿波連の人は誰も手榴弾の配布を受けていない。渡嘉敷の同じ年代の誰からもこの時の手榴弾交付を聞いたことはない」と証言した(金城調書p26~30参照)。
(イ)
さらに「富山真順氏が兵器軍曹らから手榴弾を配られた話は家永訴訟の打合せの中で、安仁屋政昭氏から教えられて初めて知った。そして富山真順と連絡をとった」と証言した(同調書p25~27参照)。
(ウ)
昭和20年3月20年の手榴弾の配布の話をそれまで一度も聞いたことがなかったにも拘わらず、昭和63年に突然家永訴訟の打合せの中で安仁屋氏から情報として提供されたということは、あまりに唐突で不自然である。

しかも阿波連の人は呼ばれておらず、渡嘉敷の青年と役場の人だけに手榴弾が配られたという事実は命令の一貫性から考えてあり得ない。

またその事実を昭和63年まで一度も聞いたことがなかったし、同年代の者からも全く聞いたことがないというのであるから、昭和63年の時点で捏造された可能性が強い。


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