雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る




  1. 当事者の記憶との乖離を埋めることができなかったのは、そのような分析手法にも問題があったといえるかもしれない。
  2. 英語名は「Myitkyina」、中国名は「蜜支那」、よって日本側では「ミイトキーナ」或いは「ミチナ」と2通りで呼ばれた。ビルマ語の発音に近いミチナを使うこととする。
  3. RG111 SC230147( BOX85)( National ArchiveⅡ Washington D.C. )CBI-44-29969 3SEPT.1944 LOT #10158..写真裏面のキャプション原文は以下の通り。PHOTOG:PVT. HATFIELD; FOUR JAP GIRLS TAKEN PRISONER BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY AT VILLAGE ONSUNG SHAN HILL ON THE BURMA ROAD WHEN JAP SOLDIERS WERE KILLED OR DRIVEN FROM VILLAGE. CHINESE SOLDIERS GUARDING GIRLS.
  4. RG338 Records of Allied and US Army commands, CBI Theater of Operation RG338-290-D-5-3 Public relation Section Box (OldSystem) No. 791-792 : Roundup(日時不明1944年11月).『ラウンドアップ』は、CBI(中国-ビルマ-インド)方面に駐留するアメリカ軍が出していた週刊新聞。The CBI Roundup is a weekly newspaper published by and for the men of the united states Army Forces in China, Burma and India from news and pictures supplied by the staff members, soldier correspondents the United press and the war department. この記事は、同資料を切石博子調査員の協力の下で、筆者と秦郁彦日本大学教授が閲覧している最中に、同教授が発見されたものである。また、ワシントンの資料館で長期間独自に資料調査を進めていらっしゃる方善柱杏林大学教授も、既にこの資料を発見しておられ、当地で面会した際にこの資料の存在について御教授頂いた。関係の方々、特に粘り強く資料閲覧を続けられ、快く資料の提供に応じて下さった秦教授には改めて感謝申し上げたい。
  5. 松山が9月7日午後4時に完全に中国第8軍主力によって制圧された際に、「敵軍九名、内有中尉一員、此外並俘敵婦五名」を「俘虜」にしたとある。「遠征軍司令長官衛立煌自保山報告攻占松山及俘獲與我軍傷亡情形電-民国三十三年九月七日」『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編 作戦経過』中国国民党中央委員会党史委員会、1981年、505頁。この史料の存在と閲覧に関しては、台北にある中央研究院近代史研究所の研究員、朱浤源氏と、その弟子の林宗達氏から便宜を賜った。朱浤源氏は駐印遠征軍中の将軍に関する伝記研究を長年にわたって進めている。孫立人は、蒋介石と共に台湾に渡った後、一時はアメリカとの個人的パイプ故に全軍の司令官ともなったが、やがて蒋介石から疑いを掛けられ長期間軟禁状態に置かれてきた。こうした個人的パイプは、ビルマでの戦いの最中に築かれたものであるし、台湾で孫立人が初めて台湾で組織した、「女青年大隊」は、ビルマ戦線で目撃した米軍の女性部隊をモデルとしたとも考えられる。いずれにせよ、朱浤源氏は、孫立人が台湾の民主化によって解放された直後に、孫立人と面会しインタビューもしておられるので、近く長年の成果をまとめられる予定である。関係資料についての閲覧をさせていただいたことに対して、厚く感謝申し上げ、孫立人研究の一刻も早い完成を願って止まない。
  6. 防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、277頁。
  7. RG111 : SC230148 写真の裏側には、以下のようなキャプションが付されている。A JAPANESE GIRL CAPTURED IN VILLAGE ON SUNGSHAN HILL BY TROOPS OF CHINESE 8 TH ARMY. WHEN ALL JAP MEN WERE KILLED IN CAVE, THE CHINESE SOLDIERS FOUND THIS GIRL HIDING IN CORNER OF CAVE. CHINESE SOLDIERS CALLING ARMY HQS. TO TELL OF THE CAPTURE. (大文字原文)
  8. RG111 : SC247349。9月7日に撮影された写真には以下のようなキャプションが付けられている。Tec 5 Myer L. Tinsley, Yarnaby, Okla., gives first aid to Japanese girl wounded by Chinese 8 th Army artillery and taken prisoner from cave on Sung Shan Hill where Jap soldiers were all killed trying to hold the cave. Two Chinese soldiers display captured Jap flag. China, 9/7/44; Signal Corps Photo #CBI-44-29992(Pvt. Charles H. Hatfield), from 164 Sig Photo Co, released by PRD 7/15/46. Orig. neg.Lot 12541 pg.
  9. 西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、136頁。
  10. 陸軍一級上将黄杰『嗔西作戦日記』国防部史政局、1982年、307頁。
  11. 前掲『イラワジ会戦』、289頁。
  12. RG111 : SC212091(CBI-44-60370)キャプションの原文は以下である。15 Sept 44 PHOTO BY T/4 FRANK MANWARREN BODIES OF JAP TROOPS AND WOMEN (下線部は手書きにより挿入)KILLED IN THE CITY OF TENGCHUNG WHEN THE CHINESE TROOPS STORMED THE TOWN.
  13. CBI-44-60371, 15 Sept 44 PHOTO BY T/4FRANK MANWARREN BURIAL PARTY STARTING TO WORK AT INTE□□NG(2文字手書きにより修正、INTERRNGと読める。しかしINTERROGの書き間違えか)THE WOMEN KILLED AT TENGCHUNG WHILE THE JAPANESE AND CHINESE TROOPS FOUGHT OVER THE CITY. MOST OF THEM ARE KOREAN WOMEN KEPT INT HE JAP CAMP.
  14. 前掲『イラワジ会戦』、80-87頁。
  15. 陶達綱『嗔西抗日血戦写実(民国三三年-三四年)』中華民国国防部史政編訳局、1988年。
  16. 中国語原文は「狼狽不成人形」。眼をぎらぎらさせ、髪の毛が汚れきった浮浪者などに使う言葉で、日本語の狼狽とは異なる。この点は、坪田敏孝氏からご指摘頂いた。
  17. 「遠征軍第二十集団軍総司令霍揆彰自保山報告攻占来鳳山及騰衝経過電-民国三十三年九月十四日」、中国国民党中央委員会党史委員会『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編作戦経過』1981年、507-508頁。
  18. 三浦徳平『一下士官のビルマ戦記-ミートキーナ陥落前後』葦書房、1981年、247-248頁。
  19. 前掲『イラワジ会戦』、59頁。
  20. カール・ヨネダ『アメリカ情報兵士の日記』PMC出版、1989年、100頁。
  21. 前掲『イラワジ会戦』、53頁。
  22. RG111 : SC262578 写真の裏に付いているキャプションの原文は、以下の通り。Sgt. Karl Yoneda, San Francisco, Calif., Japnese interperter( interpreter の誤りか), questions Kim a Japanese "Comfort Girl" at the M.P.Stockade on the Air strip, while Edward J. St.John, Franklin, Maos. Stands guard in the rear. Kim served as a nurses aid in Myitkyina. Burma, India. 3 Aug 1944. (財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成⑤』(以下『政府調査資料⑤』とのみ記す)龍溪書舎、1998年、215頁にも、同写真及びそのキャプションが写真製版にて掲載されている。
  23. カール・ヨネダの日記を翻訳したとされる、『アメリカ情報兵士の日記』(PMC出版、1989年)によれば、その経歴は以下の通り。1906年ロサンゼルスに生まれる、1913年来日、広島中学校に学ぶ、1926年帰米後、労働運動に従事、1933年アメリカ共産党日本語機関紙『労働新聞』主筆。1942-45年米軍情報部軍曹として従軍、1957年国際沖仲仕・倉庫員組合の活動家、1983年サンフランシスコより名誉表彰状。この経歴には、書かれていないが、戦後のマッカーシズムの時代には、元OWIのオーウェン・ラティモア同様ひどい弾圧を受けたはずである。
  24. ヨネダ、前掲書、4-5頁。
  25. 同上、74頁。
  26. 同上、96頁。
  27. 同上、97-98頁。
  28. 同上、101頁。
  29. 同上、109頁。
  30. Won-loy Chan, Burma The Untold Story.,Presidio Press, 1986, pp.3~4.
  31. 同上、pp. 92-93.
  32. 原文は、"Kim was a "comfort girl" and looked the part in an above-the-knee length dress that was obviously all she was searing." 西野留美子は、「looked the part in ~dress」の部分を、「膝上までの衣服しかつけていないように見えた」と訳しているが、これはlookが第2文型の動詞であり、その補語として、the part が機能しており、theという定冠詞が、その直前のcomfort girlを指していることを見逃している。英語構文の理解が不可能なまま、何とか日本語にこじつけた訳といわざるを得ず、チャンからは彼女が慰安婦という役のように見えたというのが直訳である。西野留美子『日本軍「慰安婦」を追って』マスコミ情報センター、1995年、131-132頁。
  33. Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.49., October 1, 1944. RG226 OSSE154 BOX 102 FIELD STATION FILESKANDY - REG - INT -7 thru 8 A-1, Entry 154, OWI miscellaneous material. この資料の写真製版は、『政府調査資料⑤』203-209頁に収録されており、日本語訳は吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、439-452頁に掲載されているが、脱出の経過に関しては449頁を参照。
  34. 東南アジア翻訳尋問センター「心理戦尋問報告第二号」1944年11月30日、吉見編、前掲書、459頁。
  35. 前掲書。
  36. Japanese Prisoner of War Interrogation Report No.48(Interrogation of Miyamoto Kikuye)RG226 OSS E154 BOX 101. この資料を最初に発見されたのは方善柱先生であり、「米国資料に現われる韓人〈従軍慰安婦〉の考察(韓国語)」(『国士館論叢』第37集、1992年)という論文がまとめられている。その中ではキムが、最初慰安婦とされたものの、実は、看護婦であったことが、日付を根拠に簡単に触れられている。またこの尋問記録は、キムがひどい差別的待遇に置かれてきたことを証明する資料として位置付けられている(234-235頁)。
  37. Chan、前掲書、94頁。ここで、チャンはミチナ陥落の3日の時点で、約21名の慰安婦がそこにいたとも述べているが、チャンの意図は、3日に少なくとも21名がいて、その内1人は3日の時点で捕虜になり、その残りの20名余が3日の夜に脱出し、1週間後に捕虜となったという形の事実理解を組み立てることにあった。これを見ても、慰安婦達の脱出が、実は31日の夜であったという尋問記録をチャンが見ていないのは明らかである。
  38. 前掲『政府関係資料⑤』215頁。
  39. 前掲『イラワジ会戦』51、53頁。
  40. 吉見編、前掲書、452頁。
  41. 同上、459頁。
  42. 同上、458-459頁。
  43. 同上、464頁。
  44. 菊山砲第十八連隊史編集委員会「砲声」(太田毅『40年目のビルマ戦』葦書房、1983年、237-238頁より重引)
  45. 吉見編、前掲書、456頁。ハ(河)の名前は、Hとのみ記載されている。
  46. RG226 OSS E154 BOX 101 Interrogation of U KIN NAUNG and TAN LEO.
  47. 文玉珠語り・森川万智子解説『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、179-180頁にも、ビルマ中部にあるビルマ第2の都市マンダレーに駐留した55師団が、イギリス軍の残したスコッチウィスキーや、武器・食料・車両を自由に使っていた記述がある。
  48. 和田春樹「『慰安婦』問題の歴史を考える」、大沼保昭・下村満子・和田春樹編『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、8頁。
  49. この説は、筆者が、ワシントンで調査をしていた折、方善柱教授から最初に示唆を受け、それを更に私なりに展開したものである。
  50. Chan、前掲書、95-97頁。
  51. 西野、前掲書、133頁にも、同じ個所からの翻訳があるが、何故慰安婦達が笑い、泣き出したのか、チャンは何故胸を締め付けられるように感じたのかについて、訳出に誤りがある。
  52. ラングーンにいた朝鮮人の慰安婦は、「アリラン部隊」と呼ばれていた。榊山潤『ビルマ日記』南北社、1963年、194頁。55師団司令部付の慰安婦であった、文玉珠も1942年7月10日釜山から出発した輸送船に、ミチナに送られた女性達と共に乗り込んでいたが、船中では出身地対抗演芸会が頻繁に開かれ、朝鮮各地域の様々なバリエーションのあるアリランが最後に歌われたという。この船には、全部で703名の朝鮮の女性達がのっており、もしかすると、拉孟に送られた慰安婦達も、6月ではなく7月にこの船で送られたのかもしれない。文玉珠、前掲書、52、181-182頁。
  53. Chan、前掲書、95頁。ここでチャンは、「それまで女性の売春婦が日本人に奉仕しているという話を聞いたことはあったが、半分しか信じていなかった。しかしそれが今目の前にいる」という表現で驚きを示している。これを見ても、最初に捕虜となったキムのことを「慰安婦」と認定したのは、後のことであることが分かる。
  54. 文玉珠、前掲書、182頁。
  55. 小野沢あかね「『国際的婦女売買』論争(1931年)の衝撃-日本政府の公娼制度擁護論破綻の国際的契機-」、津田塾大学『国際関係学研究』No.24、1997年、93-110頁。1931年来訪した国際連盟婦女売買調査団に対し、日本政府は公娼制度を擁護すべく、強制性を伴わない売春斡旋を婦女売買とは認めないとする見解に立って反論したが、前借金契約の違法性や、女衒などの芸娼妓斡旋業の不道徳性自体に対しては沈黙せざるを得ず、それが内務省をして公娼制廃止へと歩み出させるまでに至ったことが述べられている。日本軍による慰安婦制度は、こうした前借金契約の違法性を不問にし、売春斡旋業者を許可制とし管理することを本質としていたといえよう。