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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その1

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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その1




被告準備書面(7)の要旨
2007年(平成19年)1月19日

第1 自決命令があった事実―被告らの主張(補充)


座間味島、渡嘉敷島の集団自決が軍(隊長)の命令によるものであり、援護法の適用を受けるため軍命令が作出されたものでないことは、すでに繰り返し主張したとおりであるが、さらに以下のとおり主張を補充する。


1 米軍の「慶良間列島作戦報告書」―「軍の自決命令」の存在


米軍歩兵第77師団砲兵隊の慶良間列島の作戦報告書が、2006年夏、関東学院大学の林博史教授によって米国公文書館で発見された(乙35の1,2沖縄タイムス記事)。

1945年(昭和20年)4月3日付の報告には、
「約百人の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もうひとつは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」と記されており、別の作戦報告書には、座間味島の状況について、「治療が必要な民間人には第一医療部隊によって応急手当がなされ、さらに第六十八移動外科病院によってきちんとした治療が施された。一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療した負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」と記されている。また、軍政府分遣隊の同年4月1日付作戦報告には、「一人の女性は砲弾の破片によって首に深い傷が口をあいていた。ジョン・マッカートニー軍医大尉が最初に治療したのは、父親の手によって殺されようとして、あるいは自殺しようとして首を切られた母親と赤ん坊であった。殺人あるいは自殺を試みた―そして実際に死んでしまった―ケースはたくさんあり、そうした行為は、日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女たちは強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった」
と記されている(乙35-2)。

以上のとおり、集団自決の直後に米軍に保護された慶良間列島の島民は、その当時から、捕虜になることなく自決するよう軍に命じられていたと証言していたことが明らかである。援護法適用のため実際には存在しなかった軍命令が作出されたとの原告らの主張が誤りであることは明白である。

2 隊長命令による集団自決は当初から「戦闘参加者」に該当するものとして援護法による補償の対象とされていたこと


(1)馬淵新治氏(引揚援護局勤務・厚生事務官)執筆資料など

元大本営船舶参謀であった馬淵新治氏は、復員後厚生事務官となり、昭和30年(1955年)3月から33年(1958年)7月まで総理府事務官として日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務し、沖縄において援護業務に従事していたものであるが、防衛研修所戦史室の依頼により、「住民処理の状況」(乙36。その記載内容から昭和32年初めに執筆されたことが明らかである。陸上自衛隊幹部学校発行「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」昭和35年5月・所収)を執筆し、さらに昭和35年11月には沖縄戦史図上研究会において「沖縄事情の一斑と沖縄戦における島民の行動について」と題する講話をし、その内容は陸上自衛隊幹部学校昭和36年1月発行の『沖縄戦講話録』に収録されている(乙37)。

馬淵氏は、「住民処理の状況」(乙36)において、沖縄において日本軍人が、住民に無用の圧迫・暴行を加え、威嚇強制のうえ住民を壕から立ち退かせ、非常用食糧を強奪し、母親に強制して赤児を殺害させ、無実の住民をスパイ視して処刑するなどの蛮行を働き、住民に悪感情を持たれていたことなどを指摘している(乙36・17~26頁)ほか、戦闘協力者(戦闘参加者)として住民を遺族援護法の適用対象とすることについて、
「今年(引用者注;昭和32年)は沖縄戦の13周年忌を迎えることになった為、これが早急の処理が強く叫ばれ、近く厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣せられる段階となった。この所謂戦斗協力なるものの実態調査によって、国内戦の一様相が想察せられると思われるので、以下現在迄に調査した主要事項について述べることとする」(乙36・41頁)
としたうえで、「戦闘協力者」(戦闘参加者)に該当するものとして、
「慶良間群島の集団自決 軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。 自決者 座間味村155名 渡嘉敷村103名」
を挙げている(乙36・43頁)。

また、馬淵氏は、前記講話(乙37)では、「慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております」と述べている(4-31頁)。

すなわち、馬淵氏は昭和30年(1955年)に赴任して以来、座間味島や渡嘉敷島を訪問し、調査をしていたものであるが(乙36・4-31頁)、両島の住民は部隊長から自決命令があったと証言していたもので、日本政府(沖縄南方連絡事務所)も当初から、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていたものであることが明らかである。すなわち、日本政府が集団自決を「戦闘協力者」(戦闘参加者)には該当しないとしていたのに陳情により対象としたというような経緯はなかったことが明らかである。

(2)昭和32年(1957年)5月の「戦斗参加者概況表」など

上記のとおり、馬淵氏は昭和32年初頭に、同年に厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣される予定であるとしているが、琉球政府社会局作成の「援護のあゆみ」(乙38)にも、
「昭和32年は偶々沖縄戦関係戦没者の十三回忌に当たったので本年度を期して援護全般、特に死没者の復員処理を劃期的に促進すべく再び厚生省より復員担当の三事務官を招聘して、復員事務の促進と新たに沖縄戦関係戦闘協力者の処理を取り上げ、これが事務の促進を期したのである」
と記されている。

また、琉球政府社会局は、すでに昭和32年(1957年)3月22日に、市町村長あて「戦斗協力者の資料送付について」(乙39-2)、「戦斗参加者申立書の記載要領について」(乙39-3)、「沖縄戦における一般戦斗参加者の状況について」(乙39-4)を送付しているが、この中で、
「渡嘉敷、座間味の離島において軍命により玉砕と称して多数の住民が集団自決をなし、其の惨状は酸鼻を極め、眼をおおわしむるものがあった」(乙39-4)
と記述されており、また、その記載内容から琉球政府が作成したと考えられる昭和32年5月の「戦斗参加者概況表」(乙39-5)には、「座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決」が、戦闘参加者の20類型の一つとして掲げられている。

そして、昭和32年7月に至り、日本政府厚生省において沖縄戦の戦闘参加者処理要綱が正式に決定されたが(乙16「還らぬ人とともに」94頁)、集団自決は戦闘参加者の20の区分の一つとされた。

(3)以上のとおり、
昭和32年(1957年)初頭から軍人や軍属ではない戦闘協力者を戦闘参加者として遺族援護法の適用対象とすることが検討された際には、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決は、当初より隊長命令によるものとして補償の対象とされていたもので、対象外とされたため隊長命令があったことにして補償の対象としてもらったというようなことはなかったことが明らかである。

3 宮村幸延氏の陳情の時期について


原告らは、当初集団自決は援護法の適用対象とされなかったため、座間味村役場の援護係であった宮村幸延氏が厚生省に陳情し、隊長の自決命令があったのならとの示唆を受け、実際にはなかった隊長命令を作出したかのように主張するが、上記のとおり、集団自決は当初より隊長命令によるものとして援護法の適用対象とされていたものである。援護関係表彰にかかる宮村幸延氏の「功績調書」(乙40-2)には、同氏は「1957年(昭和32年)8月に慶良間戦における集団自決補償のため上京」と記録されており、同氏が上京し功績を果たしたのは同年5月の前記「戦斗参加者概況表」や同年7月の前記「戦闘参加者処理要綱」決定の後のことであることが明らかである。乙16によると、処理要綱決定後も適用年齢が問題となり、その後7歳以上で線を引くことになったとあり、幸延氏は適用年齢について陳情をしたと推察される(1963年(昭和38年)10月にさらに0歳まで適用を拡大)。

原告梅澤の陳述書(甲B1)8頁記載の幸延氏の話として記載された事項は、上記の客観的な経過と著しく相違し信用できないものであるが、同陳述書においても幸延氏の陳情は14歳以下への適用拡大についてのものであるとされている。

すなわち、宮村幸延氏の適用年齢引き下げの陳情以前に、すでに座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決は、当初から遺族援護法の適用対象とされていたものであり、援護法の適用対象とするため、実際にはなかったのに隊長命令があったことにしたような事実がなかったことは明らかである。


第2 平成18年9月1日付原告準備書面(4)に対する反論


1 同準備書面第4(原告梅澤の補充陳述書)について


(1)同2(宮村幸延の『証言』について)について

否認する。陳述書に記載された原告梅澤の主張は、宮城晴美氏が聴取した宮村幸延氏及びその妻文子氏の事実認識(乙18『仕組まれた「詫び状」』117~118頁、甲B5「母の遺したもの」268~270頁)と著しく相違するものである。

すなわち、原告梅澤は、昭和62年(1987年)3月28日に一人で幸延氏を訪問したのではなく、前日から幸延氏が経営する民宿に他の元兵士らと宿泊していたものである。戦友と称する二人の男が前夜から幸延氏に泡盛を飲ませ、当日朝も泡盛を飲ませたものである。幸延氏は酒好きで、酒を飲むと泥酔し前後不覚の状態となってしまうのが通例で、このときもそのような状態となり、妻の文子氏に叱責されていたもので、甲B8の『証言』を書いたことはまったく記憶していなかった。

また、このとき幸延氏が突然自ら謝罪し援護法を適用するため軍命令を作り出さなければならなかった経緯を語ったという事実はない。すでに繰り返し述べたとおり、また、本準備書面第1に記載したとおり、座間味村では、集団自決が行われた昭和20年当時から、集団自決は日本軍の命令によるものであると認識されていたもので、援護法を適用するために軍命を作り上げたものでなかったことは明らかであり、幸延氏が自らそのようなことを言い謝罪するなどということはありえないことである。

原告梅澤は何かを書いた紙を幸延氏に差し出し、
「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ」
とせがんだが、幸延氏は文面を確認する気もなく、これを拒否しつづけたものである。もしこのときに甲B8の『証言』が作成されたものであるとするならば、泥酔して前後不覚に陥った幸延氏に原告梅澤がしつこく懇願し無理やり捺印させたものとしか考えられないものである。幸延氏は、平成17年1月上旬に宮城晴美氏から「昭和史研究会報」に掲載された『証言』そのものをはじめて見せられ、怒りでブルブル震え、
「あのときは前夜の酒が残った状態で朝から飲まされ、何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由はないし、書けるわけもない」
と述べた。幸延氏はその後平成18年7月20日に病気で死亡した。

昭和63年(1988年)当時の座間味村長の沖縄県援護課あての回答(乙21の2)には、A氏(幸延氏)が朝6時頃から旧日本兵二人と酒を飲んでいたところへ、午前10時頃になって原告梅澤が入り込んで来て、
「私も年だ妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない。茲に原稿を書いてきてある、私の字体は判るので書き直して捺印を頼む」
と強要し、家族だけに見せるもので絶対に公表しないことを堅く約束するとのことで、仕方なく応じ、これはなんの証拠にもならないことを申し添えたとある。

書面を書き捺印したことを幸延氏が記憶していたかどうかの点で、宮城晴美氏の聴取内容と相違するが、仮に甲B8の『証言』が幸延氏が捺印したものであるとしても、原告梅澤が「家族だけに見せるもので、絶対公表しないことを堅く約束する」と繰り返し懇願、強要し、情に弱く酒に酔って判断能力が著しく低下していた幸延氏が、事実に反する書面に捺印させられてしまったものと考えられる。

この昭和62年(1987年)3月28日から(3週間後の4月18日付の神戸新聞}(甲B11)に、Aさんが原告梅澤に対し上記『証言』のような親書を寄せたとの記事が掲載され、騒ぎになったが、このとき幸延氏は、「騙された」と怒りと悔しさ一杯の様子であった(乙41)。

また、原告梅澤は、沖縄タイムス社の新川明氏らとの会談(昭和63年12月22日)において、甲B8の『証言』を書いた当時幸延氏が酒に酔っていたことを認めており、また、幸延氏から公表しないでほしいと言われたことを認めている。

以上のとおり、仮に甲B8が幸延氏のものであるとしても、甲B8の『証言』は、原告梅澤が、「妻子に肩身の思いをさせたくない、家族を納得させるためだけのものであり、絶対に公表しない」と騙して、幸延氏から入手したものであり、その記載内容は虚偽である。

宮村幸延氏にとって、梅澤隊長の自決命令によるとされていた集団自決が自分の兄の宮里盛秀の命令によるものであることを認める書面に公然と捺印するなどということは、それが虚偽であるというだけでなく、集団自決という極めて悲惨かつ重大な出来事の責任を自分の兄や自分がその跡を継いでいる宮村家の責任としてしまうことであり、およそありえないことである。上記『証言』を原告梅澤が自己弁護の宣伝に利用していることを知ったときの幸延氏の怒りと悔しさは計りしれないものがある。

座間味村の約300名の住民の集団自決は軍の存在、軍の指示・命令なしにありえなかったものであり、村における最高権力者であった原告梅澤にその責任があることは明白である。それにもかかわらず原告梅澤は、宮村幸延氏を酒に酔わせ、家族に見せるだけだからと騙して、虚偽の事実を記載した『証言』に捺印させたうえ、自己弁護のため、これを友人の神戸新聞の記者に見せて記事を書かせたものである。原告梅澤の行為は、家族を思う心に同情した幸延氏の厚意を裏切り踏みにじるものであり、その態度は不公正かつ不当極まりないものといわざるを得ない。

(2)同3(沖縄タイムス社との会談(昭和63年12月22日)について)について

原告梅澤は、陳述書(2)(甲B33)において、昭和63年(1988年)12月22日の原告梅澤と沖縄タイムス社との会談について、
「最後には、応対した3名が揃って、私が自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪したのです。そして、間違いを訂正するとはっきり約束しました。」(6頁)
と述べ、原告はこれに沿った主張をし、かつ、原告梅澤が『鉄の暴風』の自決命令の記事について訂正や謝罪を求めないと言明した事実はないと主張するが、原告梅澤の上記陳述が虚偽を述べたものであり、原告の上記主張が誤りであることは明白である。

すなわち、沖縄タイムス社の新川明氏らは、原告梅澤の謝罪要求に対する回答文(甲B30)を示して、終始訂正や謝罪を拒否したものであり、原告梅澤は会談の最後に、
「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」
と述べ、沖縄タイムス社側が捺印を求めた「覚え書」(甲B29、集団自決は部隊命令によるとの座間味村の見解を支持する沖縄タイムスに対して謝罪を要求しないことなどを確認する文書)については、
「心配しないでください。わしら二人は侍だからね、こんなもの判つかんでも、全然ご心配なく。こんなもんね、二度と口にしませんから」
と言明したもので、立会った原告梅澤の友人であり陸士同期の岩崎氏も、
「もうこれから一切この問題について、梅澤に何も言わせません。わしが。同期生として」
と述べていたものである。

なお、原告は、甲B28「謝罪の事」は原告梅澤が口述したものを新川明氏が書き取ったものであると主張するが、同書面は新川氏が書いたものではない(乙42)。

また、以上のことから、原告梅澤は本件訴訟において虚偽の事実を述べ立てていることが明らかであり、原告梅澤の陳述は他の点においても信用することができないものである。

(3)同4(『母の遺したもの』と初枝からの手紙)について

宮城初枝氏が原告梅澤に詫びたことが事実であったとしても、それは昭和20年(1945年)3月25日の夜に初枝氏が助役らと原告梅澤に面会した際に原告梅澤から自決命令を受けていなかったということについてであり、だからといって座間味島において日本軍(梅澤隊長)の自決命令がなかったことになるものではない。また、すでに繰り返し指摘しているとおり、梅澤隊長は沈黙したのち沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
とだけ述べたというのであり(甲B5・39頁)、「自決してはならん」と述べてはいない。

また、初枝氏は、忠魂碑前集合を住民は軍命令だと受けとめていたと述べている(甲B31)。

2 同第5(記者の陳述書と神戸新聞報道)について


(1)昭和60年、61年、62年の各神戸新聞記事(甲B9,10,11)の
取材・執筆を担当したという記者の陳述書(甲B34)が提出されているが、その成立は不知。また、同陳述書が記者のものであり、上記神戸新聞の記事の取材・執筆を同記者が担当したのが事実であるとしても、同陳述書の記載内容を信用することはできない。

上記各記事は、座間味島の集団自決が日本軍の隊長命令によるとされてきた確たる歴史的事実について、これを覆す証言がなされたとするもので、極めて重大な報道を行うものである。このような報道を行うについては、事件の現場である座間味島に赴いて自ら関係者を探し、面会取材をするなど綿密な取材をするのが当然と考えられるが、記者は、上記3つの記事とも、座間味島に赴かず、原告梅澤及び同人が紹介した人物などに電話で取材しただけで記事を書いたとしており、新聞記者としての基本を踏み外したものといわざるを得ず、このような安直な取材による記事を信用することは到底できない。また、原告梅澤は友人の神戸新聞の記者に『証言』を見せたらその記者がそれを載せたと述べており(乙43)、記者は友人である原告梅澤の言い分を記事にしたもので、中立公正な立場で記事を書いたものとは言いがたい。

(2)昭和60年(1985年)の記事(甲B9)には、宮城初枝氏の話として
「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」
と記載されているが、初枝氏が梅澤隊長のもとを訪れた際に村人たちが忠魂碑の前に集まっていた事実はなく、また、梅澤隊長が上記のように述べた事実がなかったことは、初枝氏の手記(甲B5)から明らかであり、記事に引用された初枝氏の話は記者の取材に対し初枝氏が述べたことを記載したものではないことが明らかである。

(3)昭和61年(1986年)の記事(甲B10)には、
前記記事中の初枝氏の話が誤ったまま記載されているほか、沖縄県史料編集所の大城将保氏の話が記載されているが、大城氏は当時神戸新聞の記者から一切取材を受けていなかったものである(乙44、乙45)。

同記事に記載されている大城氏の話には同氏が発言するはずがないことが記載されており、この点からも神戸新聞記事は信用することができない。すなわち、同記事には大城氏が
「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」
と話したことが記載されているが、大城氏は同記事に引用されている紀要(甲B14)で隊長命令説について解説する際に、初枝氏がその手記で隊長命令があったとしていることを紹介しているように、大城氏が初枝氏の話を聞いて隊長命令説はなかったのが真相だと認識したことはなかったもので(乙45)、上記記載は大城氏への取材によるものとは考えられない。また、同記事には大城氏が
「新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅澤命令説については訂正することになるだろう」
と話したことが記載されているが、当時『沖縄県史資料』というシリーズが始まったばかりで、史料編集所内外で『新沖縄県史』の編集の話はまったくなかったものであり、その後に訂正もされていない(乙45)、この点からも、神戸新聞の記事が大城氏への取材によるものでなかったことが明らかである。

また、原告らは、大城談話について神戸新聞に抗議がなかったと主張するが、神戸新聞は沖縄では一般に販売されておらず、大城氏あて掲載紙が送付されたこともなかったので、大城氏は最近まで大城談話が掲載された神戸新聞(甲B10)を読んだことがなかったものである(乙45)。

(4)昭和62年(1987年)の記事(甲B11)には
Aさん(宮村幸延氏)の証言のことが記載されており、記者の陳述書には、同記者が宮村幸延氏に電話で取材したと記載されている。しかし、同記事は、その記載の仕方から、戦没者慰霊祭参列のため座間味島を訪れた梅澤元部隊長が聞いた話としてAさんの「親書」の内容を紹介しているにすぎないもので、記者に対するAさんの談話を記載したものではないことが明らかである。このことは、昭和60年及び61年の記事の体裁(談話の記載)との比較からも明らかである。

また、前記のとおり、仮に甲B8の『証言』が幸延氏のものであるとしても、同『証言』は、原告梅澤が
「妻子に肩身の思いをさせたくない、家族を納得させるためだけのものであり、絶対に公表しない」
と騙して幸延氏から入手したものであったから、『証言』の内容が約束に反して新聞記者の手に渡ったことを知った幸延氏が、新聞記者の取材に対し『証言』の記載内容を肯定するような話をすることは絶対にありえないことである。幸延氏の妻も当時神戸新聞の記者から電話があった事実はないと述べている(乙41)。

以上のとおり、神戸新聞の記者は原告梅澤からの取材のみで、宮村幸延氏から取材することなく記事を執筆したものといわざるを得ない。


3 同第6(照屋昇雄元琉球政府職員の証言と赤松命令説の終焉)について


(1)原告は、平成18年8月27日付産経新聞に掲載された
「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」(甲B35)
という照屋昇雄氏の証言について、軍の自決命令を証言した人物が一人もいなかったという事実は重大であり、虚偽の自決命令が援護申請のための方便として利用されたというのは、「赤松命令説」をめぐる論争を終焉させる決定的な事実であると主張する(原告ら準備書面(4)17頁)。

しかし、1950年(昭和25年)8月に発行された「鉄の暴風」(乙2)は、太田良博著の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接経験者を集めて取材し、その証言を記録したものであるが、その「鉄の暴風」に、渡嘉敷島における赤松隊長による自決命令があった事実が記載されている。また、渡嘉敷村遺族会が1953年(昭和28年)3月28日に発行した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」にも、赤松隊長の自決命令が記載されている(乙10・6頁以下)。さらに、前記のとおり、米軍の慶良間列島作戦報告書によって、日本軍からの自決命令があったことは、戦後言われ始めたものではなく、すでに1945年(昭和20年)3月下旬の時点において、島民たちによって語られていたことが明らかであり(乙35-1、2)、このことは渡嘉敷島でも同様だったはずである。したがって、そもそも照屋氏の「当時軍命令とする住民は一人もいなかった」との証言は到底信用できない。

また、照屋氏は、集団自決の遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、集団自決が軍命令によるものであるという虚偽の申請を行ったという趣旨の証言をしている。しかし、前記のとおり、すでに座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決ははじめから援護法の適用対象とされていたものであり、援護法の適用対象とするため、実際にはなかったのに隊長命令があったことにしたような事実がなかったことは明らかである。しかも、住民などの戦闘協力者を「戦闘参加者」として援護法の給付の対象とする方針が決定され、「集団自決」を含む20のケースを「戦闘参加者」とする処理要綱が決定されたのは1957年(昭和32年)7月のことであり(乙16)、援護法の適用以前から、赤松隊長による自決命令があったとの証言がなされていたのであるから、援護法適用のために、赤松隊長命令があったとする虚偽の申請を行ったという照屋氏の証言は信用できない。

(2)また、原告は、
「『鉄の暴風』出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅、ある家族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任を追及されることになり、その責任を回避するために軍命令によるものだとせざるを得ず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる(甲B18・108頁)」
と主張する(原告準備書面(4)17頁)。

しかし、この主張は、「ある神話の背景」(甲B18)の著者である曽野綾子氏による単なる憶測に基づく主張にすぎない。

座間味島においては、集団自決の発生当時、住民は「自決せよ」との軍命令(隊長命令)を受けていたのであり、阿嘉島においては、野田少佐による自決命令の訓示がなされていた(乙9・730頁)。同じ慶良間列島の渡嘉敷島においてのみ、戦後、島に残っていた者の責任回避のために軍命令があったという話が言われ始めたとする原告の主張には、何の根拠もない。


4 同第7(忠魂碑前集合=軍命令説と手榴弾配布=軍命令説)について


(1)同2(忠魂碑前集合=軍命令説の破綻)について

原告らは、宮城初枝氏が原告梅澤あての手紙で
「忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思い込んでいたのは事実でございます」
と書いていることについて、「村民の誤解を弁明している」としている。しかし、初枝氏が原告梅澤の命令はなかったとしているのは、初枝氏が3月25日の夜助役らとともに原告梅澤に面会した際に具体的な命令がなかったとしているにすぎないものである。

すでに被告準備書面(5)において指摘したとおり、上記面会時に原告梅澤が自決を具体的に命じなかったとしても、従来から慶良間の日本軍は住民に対し捕虜となることを禁じ、米軍が上陸した際には自決するよう指示していたもので、これにもとづいて助役(兵事主任兼防衛隊長)は伝令(日本軍の正規兵である防衛隊員)を通じて自決のため忠魂碑前に集まるよう住民に指示したものである。村民は誤解したのではなく、まさに軍の命令を伝えられたものである。

また、原告らは原告梅澤が「生き残るよう」助役らを説得したと主張するが、そのような事実はない。宮城初枝氏の手記によれば、原告梅澤は
「今日はお引取りください」
と述べたにとどまる。

(2)同3(手榴弾配布=軍命令説の破綻)について

ア 原告は、大江志乃夫著「花綵の海辺から」(甲B36)の記述、及び
林博史著「沖縄戦と民衆」(甲B37)の記述から、米軍上陸前に手榴弾が配布された事実が、赤松隊長による自決命令の根拠とはならないと主張する。

しかし、「花綵の海辺から」(甲B36)の記述は、特段の根拠なく
「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。」

「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」
と記述しているのみであり、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう」との記述は、大江志乃夫氏の感想にすぎない。また林氏は、「沖縄戦と民衆」(甲B37)において、
「赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる(大江志乃夫『花綵の海辺から』27頁)。」
とするのみであり、大江志乃夫氏の感想を引用しているにすぎない。

したがって、両書籍により、赤松隊長による自決命令がなかったことにはならない。

イ 渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の
1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊からの伝令が、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」
と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされた。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、
「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」
という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決がおこなわれた。このように、渡嘉敷島においては、住民に対して、軍から手榴弾が配布され、これを使って自決せよとの命令があったということは、明らかである(被告ら準備書面(5)1~2頁)。

これは、日本軍の「軍官民共生共死の一体化」方針により、住民を戦争に総動員し、住民に対しても捕虜となることを許さず、玉砕を強いた結果であるが(被告ら準備書面(5)4頁)、渡嘉敷島における日本軍の最高責任者は赤松隊長であるから、軍による住民に対する自決命令は、赤松隊長による自決命令にほかならない。


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