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ペイシストラトス
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ペイシストラトス
ペイシストラトス | ||||||||||||||
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生涯
父ヒッポクラテスはオリュンピアの競技を見物した際、犠牲を捧げるための釜が彼が犠牲を献じていないのに茹でたち、煮こぼれたことがあった。これをギリシア七賢人?の一人スパルタ人のキロンが見て、妻帯せず、妻がいるなら離縁し子をなさないこと、子どもがいるなら籍から外すことを忠告した。その後ペイシストラトスが生まれた。
前期
紀元前565年ごろ、メガラ?との戦いで功績をあげた。ソロンの改革後、アテナイでは貴族と平民の争いが激化し、貴族たちは「海岸党」「平原党」を結成し、両派は激しく対立していた。このような情勢の中、ペイシストラトスは無産市民を中心に「山岳党」を結成した。ペイシストラトスはある日、自分自身をわざと傷つけておいて、襲われたと騙り、メガラとの戦争での功績を引き合いに出して護衛をつけてほしいと言った。そこでアテナイ市民は棍棒を持った護衛をつけることを許したが、ペイシストラトスは護衛たちと一緒に蜂起して、アクロポリスを占拠しアテナイを支配した。しかし海岸党と平原党の一致協力した反撃によって追放された。
絶頂期
しかし海岸党と平原党は彼を追い出すとまた抗争を再開したため、海岸党のメガクレスは自分の娘を娶るかわりにペイシストラトスに再び独裁権を与えることにした。メガクレスとペイシストラトスはピュエという女性をアテナ女神に扮させ、そのお告げと称してペイシストラトスを復帰させ独裁者とするよう触れ回った。アテナイ人はこれを信じてペイシストラトスを迎え入れた。
こうして再び権力の座に就いたペイシストラトスだったが、彼はメガクレスの娘を妻としたものの、その間に子をなすことを嫌って避妊をしていた。これを知ったメガクレスは再び平原党と和解してペイシストラトスを追放した。
追放されたペイシストラトスはテーバイ?の援助を受け、傭兵を雇ってアテナイを攻め、今度は完全にアテナイを支配した。彼はアテナイ都市部に人口が多いと、政権にとって不安定要素となると考えたので、農村に人口を分散させ、また貴族に対抗させるために中小農民を保護育成した。また学問や芸術の振興にも力を注いだといわれ、ホメロス?の叙事詩を初めて文字にしたのも彼だという説もある。アテナイ市街に公共建築物を整備し、都市の美化にも意を注いだ。またラウレイオン銀山?を開発したが、この銀山はペロポネソス戦争?の時期にいたるまでアテナイの財政を支えた。
彼の政権は以後安定し、その政治は大変高く評価された。しかし彼の死後、息子ヒッピアスが僭主を引き継ぐと、政治に失敗して追放された。
参考文献
各国語表記
英語 | Peisistratus |
ギリシャ語 | Πεισίστρατος |
フランス語 | Pisistrate |
ドイツ語 | Peisistratos |
中国語 | 庇西特拉图 |
使用条件など
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