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小ミルティアデス

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小ミルティアデス
小ミルティアデス
分類 軍人
生没年 紀元前550年ごろ~紀元前489年
出身地 アテナイ
官位・爵位など 将軍
異名など 特になし
業績など ペルシア戦争でマラトンの戦いを指揮し、アテナイ軍を大勝利に導いた
著作 特になし

古代ギリシャの軍人?。ミルティアデスの生涯はヘロドトスによって詳細が伝えられている。父はキモン、兄にステサゴラス。息子はペリクレス?の政敵として有名なキモン。ミルティアデスの名はケルネソス?の開拓者として有名な親族の名前から取られた。

生涯

父キモンはペイシストラトスの子らによって殺害されたという。この時ステサゴラスは母方の叔父でケルネソスにいたミルティアデス(ケルネソスの開拓者と別人?)の下におり、ミルティアデスは父キモンとともにアテナイ?にいた。

前期

ステサゴラスの死後ケルネソスで僭主をしていた。このころケルネソスはアケメネス朝に服属しており、紀元前513年ごろのダレイオス1世?のトラキア遠征に従軍した。紀元前499年にイオニア諸都市が反乱するとミルティアデスもこれに加わったが、紀元前496年にスキタイ?人によってケルネソスを追放された。

絶頂期

アテナイに帰還したミルティアデスは反民主派と考えられていたので、民主派によって裁判にかけられたが無罪となった。その後紀元前490年には10人の将軍の一人に選ばれ、対アケメネス朝の戦争において指揮を執ることとなった。同年のマラトンの戦い?では、将軍の間で意見が分かれたが主戦を主張して受け入れられた。同僚の将軍は自分の指揮する当番の日が来るたびにミルティアデスに権限を譲り、実質ミルティアデスがマラトンの戦いの指揮を執ることとなった。いよいよ戦いの時になると、彼は両翼を厚くして布陣し、ギリシャ軍中央を撃破したペルシア軍を両翼から包囲する形でこれを撃滅した。この戦勝で彼は一躍時代の英雄となった。

晩年

翌紀元前489年にはパロス島遠征?を指揮したが、失敗した。遠征から帰還すると、ペリクレスの父でミルティアデスの政敵であったクサンティッポスから訴えられて死刑を宣告されたが、金であがなうことが許された。遠征で受けた傷が元で同年中に刑務所で死亡した。

参考文献


各国語表記


英語 Miltiades
ギリシャ語 Μιλτιάδης
フランス語 Miltiade
ドイツ語 Miltiades

使用条件など







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