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2-01 慰安所における慰安婦の生活のようすはどんなものだったのか…

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pipopipo555jp

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2-01 慰安所における慰安婦の生活のようすはどんなものだったのか…


  第一号である楊家宅陸軍娯楽所の場合をみると三畳弱(約九平方メートル)の個室がずらり軒をつらねる長屋があり、その一つ一つに一人ずつ配属されていた。そこが寝起きする居室であり客である兵隊の相手をする場だった。では兵隊とどのように接したか。これは第十一兵姑司令部が入口に掲げた『陸軍娯楽所規則』を一読してもらった方が早い。

一、本慰安所ニハ陸軍軍人軍属(軍夫28)ヲ除ク)外入場ヲ許サズ。入場者ハ慰安所外出証ヲ所持スルコト。
一、入場者ハ必ズ受付ニオイテ料金ヲ支払イ之ト引替二入場券及ビ"サック"一個ヲ受取ルコト。
一、入場者ノ料金左ノ如シ。&hbr()    下士官、兵、軍属、金弐円。
一、入場券ノ効カハ当日限リトシ入室セザルトキハ現金ト引替ヲナスモノトス。但シ一旦酌婦ニ渡シタルトキハ返戻セズ。
一、入場券ヲ買求メタル者ハ指定セラレタル番号ノ室ニ入ルコト。但シ時間ハ三十分トス。
一、入室ト同時ニ入場券ヲ酌婦ニ渡スコト。
一、室内ニ於テハ飲酒ヲ禁ズ。
一、用済ノ上ハ直チニ退室スルコト。
一、規定ヲ守ラザル者及ビ軍紀風紀ヲ紊(ミダ)ス者ハ退場セシム。
一、サック使用セザル者ハ接婦ヲ禁ズ。
28) 軍夫(ぐんぷ)
軍隊に所属して雑役を行なう人夫。

  言葉の意味からすると酌婦とは酒の相手をする女性のことだが、当時の日本では遊廓にいた女性(売春婦)をそう呼びならしていたのでそれを流用したのだろう。従軍慰安婦のことだ。また「下士官、兵、軍属」は「弐円」とあるが、これら下級者は昼間しか入場できず、将校はその下士官、兵や軍属がそれぞれの部隊にもどった後の夜間に利用することになっていたことを示し、その料金は規則書にないが五円で三十分以上の滞在を許されていた。

  さらに入口の看板に「娯楽所」とありながら規則文に「慰安所」とあるのは発足当初の混乱を示しているが、すぐ「慰安所」で通されるようになっていき、酌婦も慰安婦と呼ぱれるようになっていった。それはともかく昼も夜も将兵の相手をさせられていたということだ。

  その数は、楊家宅の場合一日二十名前後だったというがはっきりしたことはわからない。後の"大東亜戦争"(太平洋戦争)のとき日本本土から東南へ四千五百キロ離れたラバウルに初めて従軍慰安婦が送られてきたときに、数百メートルの兵隊の行列ができたといわれている。慰安婦たちは寝っころがり兵隊の相手をしながらおむすびを食べていたとい
う。一九四二年(S17)のことだ。

  衣服は兵站司令部が集めてきた和服を着せられ、髪は当時の日本婦人の大半と同じ束髪(そくはつ)29)にさせられていた。楊家宅慰安所の場合その和服は上海の古着屋から兵站司令部で買いもとめてきたというが、以後どこの慰安所でも和装が制服となり移動などのときはアッパッパ(木綿のワンピースの簡単着のこと)か、最前線では兵隊服のこともあった。食事はふれたようにすべて軍の支給だったから兵隊と同じものだった。

29) 束髪(そくはつ)
髪をたばねて結うこと。特に明治時代女性の間に流行した髪型。




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  • ひどい -- (名無しさん) 2012-02-18 13:33:08
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