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Ⅲ 調査結果

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防衛庁防衛研究所蔵《衛生・医事関係資料》の調査概要

Ⅲ 調査結果



1 「金原日誌摘録」と「金原日誌原本」との照合結果について


 「金原日誌摘録」における慰安婦関係記述の調査は吉見義明氏らによって行われているが、本調査では改めて全文の点検を行うとともに、とくに「日誌摘録」における慰安婦関係記述と「日誌原本」の同記述との照合作業を行った。吉見論文では、軍慰安婦を生み出した背景や軍規の弛緩など広く関連記述を抽出しているが、本稿では直接的な記述のみを抽出した。

 「日誌原本」における慰安婦に関する直接の記述は6カ所であった(別紙参照)。「日誌摘録」もこれに照応している。

《記述例1》

「日誌原本」
[昭和14年]15/Ⅳ課長会報
2.松村長
花柳病 兵一〇〇人女一名慰安隊ヲ輸入、四〇〇~一、六〇〇 治療ハ博愛病院(楼主負担)一週二回検黴

「日誌摘録」
4月15日医務局課長会報
2.松村波集団軍医部長
性病予防のため兵100人につき1名の割合で慰安隊を輸入す。1400-1600名。治療は博愛病院にて行いその費用は楼主これを負担す。検黴は週2回。

 上記記述例は、昭和14年4月15日の医務局課長会報において上海第21軍松村軍医部長の報告の骨子を箇条書きに書き留めて、「摘録」において文章化したものである。内容は、将兵の間で花柳病(性病)が増えており、予防のために兵員100名に1名の割合で新たな慰安婦を「輸入」したこと(あるいは輸入する必要があること)、性病に感染した慰安婦の治療は博愛病院で行い、その費用は慰安所の経営者(楼主)が負担すべきこと、慰安婦の検査(「検黴」)は週2回行う措置をとっていること(あるいはその措置が必要であること)、というものである。

 「一、四〇〇~一、六〇〇名」という数字は、当時、広東における慰安婦数は約1000名とされるので(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、215頁)、それを400~600名程度増加させるのか、あるいは新たに1400名以上を「輸入」したのか不明である。兵員100名につき1名の慰安婦という割合からすれば、第21軍の総兵員は15万人程度であり、「一、四〇〇~一、六〇〇名」を「輸入」するという解釈が一応合理的と考えられる。しかし、吉見論文も指摘するように、兵員100名につき1名という割合は、性病予防のための緊急「輸入」の感があり、慰安婦数を推定する一般的基準とはなり得ないと思われる。

《記述例2》

「日誌原本」
[昭和17年]3/9
(恩賞)
一.北[支]100、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10 計400 将校以下ノ慰安施設

「日誌摘録」
9月3日
(恩賞課長)
将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10 計400ケ所。

 陸軍省恩賞課長による報告である。恩賞課長が慰安婦について報告している箇所は外にも散見される。恩賞課は、軍人の功績調査が主な任務であるが、それに関連して、恩給、軍人の家族の福利厚生(学校、医療、生活必需品の配給・販売、慰安、婚姻など)を広く扱っており、慰安施設について意見や報告を行うことも少なくない。

 上記記述は「将校以下の慰安施設を作りたり」か、「・・・作りたし」か議論が分かれているが、「日誌原本」では不明であり、「日誌摘録」の解読では明かに前者である。ただし、「慰安施設」という場合、必ずしも慰安婦による将兵の慰安を任務とする「軍慰安所」のみを指すわけではなく、一般的な娯楽施設を含んでいることに注意が必要である。従って、上記記述の「北支100ケ、中支140・・・・」という数字は「軍慰安所」のみをその数だけ作ったという意味ではないと思われる。


2 「金原資料」における慰安婦関係記述について


 「金原資料」のなかで私文書類には慰安婦関係の記述は見当たらないが、公文書類のうち、「指示綴」には以下の文書が綴られている。

資料名:軍医部長会議ニ於ケル軍軍医部長指示(昭和十四年一月十七日呂集団軍医部)
一~四(略)
五.人的戦力増進並傷病予防ニ就テ1~5(略)
  • 6.近時花柳病ノ発生遞増セントス、特種慰安婦ノ検査ヲ厳正ニシ其ノ設備ヲ指導監督スルト共ニ予防法ノ実施ヲ的確ナラシメ特種慰安所ヨリ帰営直後防具使用ノ結果ヲ調査シ「サック」破損セル場合ニハ一日量ノ三分ノ一ノ内服治麻剤ヲ三日間毎夕食後連用セシムルヲ要ス、又特種慰安婦ノ検査ハ単ニ局部ニ止マラズ爾余ノ皮膚病、結核等ニ着意シ全身的検査ヲ行フコト必要ナリ

 本資料は、漢口攻略作戦(1938年秋)を終えた漢口の第11軍(岡村寧次司令官)軍医部が39年初頭に傘下の各軍軍医部長を集めて開催した会合における指示である。この第11軍軍医部長の指示の前に岡村司令官の訓示があり、それも綴られている。

 内容は、性病(花柳病)の増大に伴い、「特種慰安婦」の検査を厳重に行う必要があること、「特種慰安所」の「指導監督」の強化が必要であること等に鑑み、将兵ならびに慰安婦に対する予防法を具体的に指示したものである。

 漢口攻略後、漢口への一般邦人の進出は制限されていたが、「軍慰安所」の開設のために進出する業者は例外とされ、優先的な進出が認められており、39年初頭には約20軒の「軍慰安所」が開設されていたことが知られている(政府公表資料による)。

 本資料は、次の諸点において重要と思われる。
  1. 第11軍軍医部長の公式の指示であること。
  2. 「特種慰安所」ならびに「特種慰安婦」に対する軍の「指導監督」が明瞭であること。
  3. 「特種慰安所」ならびに「特種慰安婦」という呼称が軍内部において用いられていたこと。

 本資料に関連する政府発表資料に「南京総領事館における陸海外三省関係者会同における在留邦人の各種営業許可および取り締まり方針について」昭和13年4月16日)と題する資料があり、「特種慰安所」が一般慰安所と区別され、軍が許認可権をもっていたこと等が解る。

3 大塚「備忘録」について


 「備忘録」の原本が失われ、複製であるためきわめて判読が難しく、なお解読中であるが、現在までの調査では慰安婦に関する直接の記述は見当たらない。ただし、太平洋戦線における花柳病、性病の増大に関する記述は散見される。

 大塚文輝氏(長男)によれば、自分が日記を閲覧した限りでも直接の記述はなかったとのことである。

4 「麻生徹男氏資料」について


 「麻生資料」を総合すると、1938年初春、上海軍工路に「楊家宅慰安所」が最初の兵站司令部直轄の慰安施設として建設され、細かな慰安所規定が作成されたこと、これに呼応して民間人経営の慰安所が次々に開設されたこと等が明らかになる。

 上記の慰安所で働く慰安婦人は100名前後で、そのうち8割が朝鮮人女性、2割が内地人婦人であり、内地人婦人には花柳病に罹患した者が多く、既往の売淫稼業の跡が認められること等も判明する。

 例えば、「花柳病ノ積極的予防法」(第十一軍第十四兵站病院麻生徹男)と題する資料には次のように記されている。
「コノ時ノ被験者ハ半島婦人八十名、内地婦人二十名余ニシテ、半島人ノ内花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数ナリシモ、内地人ノ大部分ハ現ニ急性症状コソナキモ、甚ダ如何ハシキ者ノミニシテ、年齢モ殆ド二十歳ヲ過ギ中ニハ四十歳ニ、ナリナントスル者アリテ、既往ニ売淫嫁(ママ)業ヲ数年経来シ者ノミナリキ。半島人ノ若年齢且ツ初心ナル者ノ多キト興味アル対象(ママ)ヲ為セリ。ソハ後者ノ内ニハ今次事変ニ際シ応募セシ、未教育補充トモ言フ可キガ交リ居リシ為メナラン」

 上記記述で判明することは、日本人女性の多くは内地で娼婦として働いていた者であるが、8割にのぼる朝鮮人女性は事変勃発後に初めて「応募」した若年齢者がほとんどであったことである。大半が20歳に満たないと思われるこれらの朝鮮人女性が、自らの意思で「応募」したとは考えにくい。さらにこの資料は、
「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」
として、若年娼婦を奨励する一方、花柳病の烙印を押され、内地で食い詰めたような
「アバズレ女ノ類」を「此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何ハシキ物ナレバナリ」
と批判する。つまり、内地女性より朝鮮人女性を奨励しているのであり、こうした意向が業者にも伝えられ、業者は強引に現地の若年女性を集めたことは想像に難くない。


「金原日誌原本」および「金原日誌摘録」における慰安婦関係記述例
上段:日誌原本/下段:日誌摘録

[昭和14年]15/Ⅳ課長会報
2.松村団長
花柳病兵一〇〇人女一名慰安隊ヲ輸入一、四〇〇~一、六〇〇治療ハ博愛病院(楼主負担)一週二回検黴

4月15日医務局課長会報
2.松村波集団軍医部長[波集団:第21軍/広東]
性病予防のため兵100人につき1名の割合で慰安隊を輸入す。1400-1600名。治療は博愛病院にて行いその費用は楼主これを負担す。検黴は週2回。

[昭和16年]26/Ⅶ
7.深田少佐蘭印状況報告
蘭印作戦ニ伴フ衛生上ノ着眼点
11.雑
ト 土人ヲ愛撫シ信頼セシムル要アリ回教徒ニシテ貞操感強シ、生活難ノ為売淫スルモノ多シ、Bandon附近、Sunda附近、[英字不明]多シ村長ニ割当テ厳重ニ検黴ヲナシ慰安所ヲ設クル要アリ

昭和16年7月26日
1.深田軍医少佐蘭印衛生状況視察報告
(1)蘭印作戦に伴う衛生上の着眼点。
(チ)雑
  • 6.現住土人を愛撫し誠実をもってわが方に信頼感を抱かしむる様言動に留意する要あり。多く回教徒にて一夫多妻の点あるも貞操感強し。かりそめにも強姦等を行い日本軍紀に不信を抱くことのなき様厳重注意の要あり。一方現住民は生活難のため売淫するもの多し。しかしバンドンその他性病多きをもって村長に割当て厳重なる検黴の下に慰安所を設くる要あり。

[昭和17年]3/Ⅸ
(恩賞)。
1、北[支]100、中支140、南支40 南方100 南海10 樺太10 計400 将校以下ノ慰安施設

昭和17年9月3日
(恩賞課長)
将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所。

[昭和17年]22/ⅩⅡ
3)安田中佐報告 ビルマ方面等
  • ハ 患者ノ状況10月末迄 戦病305113[中略]性2774
[中略]
  • ヘ 性病予防撲滅対策 原因調査ハ判断材料トナラズ 在郷軍人軍属2000名内外中約1%ト見込ミアリ 将来逐次増加スル傾向ニアリ 根本策ヲ樹ツル要アリ 準備ヲ進メツツアリ 慰安所ヲ拡張セシムル気運アリ 幹部ノ自粛自戒行ハレズ 予防具予防薬共ニ尠シ 各人携行ニ改メ民需用モ増加スル如ク計画中 昭南1日5万 ジャワ1日7万 予防薬ハジャワ1日5万ケ 錫鉛ハ現地デ十分補給シ得ルモ主薬ガ欠乏ス秘淫者ノ検黴強化研究中 患者ノ徹底的治療 特種病院ヲ作リ重点的ニ行ウ 在隊患者ノ為外来治療ヲ実施シ適切ナル治療ヲ施ス


昭和18年12月22日医務局長会報
3.安田中佐ビルマ方面視察報告
  • ハ.患者の状況10月末迄 戦病の内訳 戦病305113[中略]性病2774[中略]
  • ヘ.性病予防撲滅対策。既実施の原因調査は判断材料とならず。在郷軍人属2000名内外中約1%と見込みあり。将来逐次増加する傾向あり。この際根本策を樹つる要あるを以つて着々その準備を進めあり。慰安所を拡張せしむる気運あり。幹部の自粛自戒が行われず。予防具予防薬共に尠し。各人携行に改め民需用も増加する如く計画中。昭南、1日5万、爪哇1日7万の予防具を使用す。予防薬は爪哇1日5万ケ。錫鉛は現地で十分補給し得るも主薬が欠乏す。密淫者の検黴強化研究中。患者の治療は中途半端に流れ易きを以つて徹底的に行う要あり。これがため性病特種病院を作り重点的徹底的に治療すると共に在隊患者のため外来治療を実施しその適切なる治療指導を行う。

[昭和18年]7/1課長会報
(恩賞)
3.慰安施設 現地養成慰安婦ハ評判良シ、内地輸入ノモノハ評判良カラズ

昭和18年1月7日課長会報
(恩賞課長)
慰安施設を数多く設けたるが内地輸入のものは評判悪し。現地養成のもの評判良し。

[昭和18年]13/4局内会報
2.一カ月召、執務振リヲ見テ意見ヲ述ブ
(局長ヨリ)
7.性病予防ニ関スル具体的方策
南方 性病5000名 衛生長官トシテ訓示ヲ与フル要アリ
日露戦争ノ時ハソノ都度指示出タ

昭和18年4月11日※ 局内会報
二.新医務局長指示[神林浩軍医中将]
  • ロ.その他検討すべき事項
  • 1.性病予防に関する具体的方策を検討すること。野戦衛生長官としても南方に5,000名の性病患者ある実情に鑑み至急処理の指示をなす要あり。日露戦争の時はその都度指示を出した。
※4月13日の誤記と思われる(筆者注)。


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