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『鳩山一郎回顧録』不名誉にもデマ「朝鮮進駐軍」のネタにされ

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『鳩山一郎回顧録』、不名誉にもデマ「朝鮮進駐軍」のネタにされ


『鳩山一郎回顧録』文芸春秋新社1957.10.20初版
序文は1957年6月の日付です。

国会図書館では禁複写となっていましたので、鉛筆で書き写して、帰宅してからキーボードをたたきました。
なお、引用文中の青字、下線部分は、WEBで流通している『つまみ食い』引用箇所です。WEB流通モノには細かな誤記もあります。


国会図書館では、書籍に書込みがあって消せないとき「禁複写」物件となるようです。私が出庫してもらった本には(1冊しかない)、赤いボールペンできわめて乱暴な傍線が引かれていました。傍線箇所は上記の『つまみ食い』箇所と一致していました。国立国会図書館にお出かけの際にはお確かめください。http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000972040/jpn


p38~42から引用~~~~~~~~~~~~~~~~

反共連盟提唱のこと

終戦後の新党結成―総選挙―第一党復活―組閣着手―追放と、今から思うと私の眼前には全く走馬灯のような情景が次から次へとくり広げられて来る。私の追放問題が最初に伝ったのは誰かが民政局から聞いてきたという話が伝った時だった。

  • (引用者注)
    1943 鳩山一郎、東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁。
    1945.8.15 敗戦、その後軽井沢から上京
    1945.10 自由党を結成
    1946.1.4 公職追放令 鳩山一郎の名は追放予想名簿にはなく、「戦争責任者の追放は当然の措置」と公職追放令歓迎の鳩山談話 朝日新聞1.6「無血革命は来る」の見出し
    1946.2.22 自由党、総選挙を前に「反共声明」
    1946.3 追放者名簿出揃う
    1946.4 総選挙(初の普通選挙)で日本自由党が第一党
    1946.4 追放者名簿から外れた鳩山一郎に再審査
    1946.5.3 A級戦犯裁判審理が開始
    1046.5.4 マ元帥日本政府に鳩山一郎の公職追放を指令
  • 公職追放
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE
  • GHQの組織
    軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。
    参謀部
    ・ 参謀第1部(G1 人事担当)
    ・参謀第2部(G2 情報担当)プレスコードの実施を担当
    ・参謀第3部(G3 作戦担当)
    ・参謀第4部(G4 後方担当)
    ※特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。
    幕僚部
    ・民政局(GS:Government Section 政治行政)
    ・経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
    ・民間情報教育局(CIE:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
    ・天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
    ※特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。

なんでも政治部長のマーカム中佐という人の次席にシンバルという少佐がいて、それが知日家で「鳩山のパージの話が出ているから注意したほうがいゝ」とたしか松本君あたりが聞いて来たように思う。まだこの話は、当時の終連にいた曾禰益君が同じ情報を聞いて来たのに、上役の総務局長だった井口貞夫君が握りつぶし、上に出さないで伏せてしまった。政治的な処置を全然しなかったという話を聞いている。

  • (引用者注)終連
    終戦連絡中央事務局(しゅうせんれんらくちゅうおうじむきょく、Central Liaison Office)とは、太平洋戦争の終結に伴いGHQとの折衝を担当する機関として1945年8月26日に終戦連絡事務局官制(昭和20年勅令496号)により設置された政府機関をいう。略称は終連。wikipedia「終戦連絡中央事務局」

白洲次郎君がこれを聞いてG2(参謀第2部)に行って「GS(民政局)は怪しからん、鳩山をパージするといっている」とネジ込み、白洲君はこれで鳩山パージは押さえたものと思い込んで、「鳩山は大丈夫、パージにならん」と流していたらしいが、とにかく日本政府の側で、政治的に全然動かなかったことも原因しているのではなかろうか。

つまり政治交渉が足りなかった訳だろう。これは追放になる前のことだが、司令部の民政局から呼び出しが来た。名前を思い出せないがなんでも最初の政治部長だったと思う。確か少佐でオランダ訛りの男だったが、例の京都事件を調べるというのである。

その時は安藤正純と山本勝市の両君がついて来たと思う。私のパージはつまり私が斎藤内閣の文部大臣時代に文部省の共産主義に対する取扱いがよくなかったことから出発している。

たとえば長野県で百何十人かの小学校の教員を免職にした。これは共産主義者を知事が免職にした事件だ。共産主義者を免職にしたことを自由主義者を迫害したというふうに解釈した訳である。京都大学教授の滝川幸辰君を免職にしたのは当時内務省が発売禁止にしている本の内容と同じことを教えていたから免職にしたので・・・・・と色々話したら「よく分かった」ということで帰ってきたことがある。何しろあの追放の時、司令部のディレクティーブ(指令)に書いてあることは全部「アカハタ」に書いてあったものと同じものであった。「アカハタ」に書いてあるものを英文にしたものが、私のパージの理由だった。

  • (引用者注)
    長野県教員赤化事件
    1933年2月http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1931-35/1933_02.html&br()
    滝川事件
    1933年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。火付け役は民間右翼の蓑田胸喜で、京都帝国大学教授で司法試験委員でもあった滝川幸辰をねらいうちにした。騒ぎは一旦は静まったところ、文部大臣の鳩山が滝川を名指しして大学側に免職を求めたことから、全学の抗議が巻き起こった。
    パージの理由
    パージとは公職追放のこと。「ディレクティーブ」と「アカハタ」が同じ物だったか、検証は面白いかもしれない。

ここで、私の追放のきっかけになった反共連盟提唱のことを書き加えておこう。
私が反共声明を発表したのは昭和21年4月の総選挙を前にした同年2月22日のことである。大体次のような要旨の声明をその日、自由党本部から発表した。

「‥‥現下の政情を観察するに、極右ファシズムの潰滅は直ちに極左の矯激に顛落せんとするの危険が甚だ濃厚である。国家の前途寔に寒心に堪えない。吾人は正義と穏健との政治を堅持し、保守主義民主政党の擔うべき使命に認識を新たにし、いよいよ責任を感ずると共に共産主義に対し断乎たる態度を表明しなければならない。国民諸君は民主戦線の名に隠れて共産主義の爪牙を磨く虎視耽々たる事実を忘れてはならぬ。‥‥わが党は国民の九割を占める勤労大衆の立場を無視する政治があり得ざることを指摘し勤労者の利益代表は無産政党の専売なりとなす僻論には一笑をもって酬ゆば足りる。

わが党は夙に民族の危機を切り抜け真の民主主義社会建設のために徹底せる高度の社会政策を用意し、その構想たとえば米国に成功せるニューディール方式の如きまで発展すべきものと考える。

‥‥保守主義諸政党の先覚よ、今ぞ国家を興し、民族を愛する情熱に燃え、小異を捨てて大同に就き揺るぎなき政界の安定勢力を確立すべき秋であると確信する。」

  • (引用者注)
    ニューディール方式の如きまで・・・
    この章節は、鳩山の追放指令を発したGS(民政局)批判で一貫しているのだが、追放前の2月に出した「反共声明」のなかで、ニューディールを持ち出して民政局との協調を表明していることが興味深い。鳩山は1月早々の「公職追放令」公布時に「追放は当然の措置である」との談話を発表しており、自分は民政局派だから追放対象者になるわけが無い、と自認していたフシがある。

この反共声明が共産党を刺戟してソ連の横槍となり、占領米軍中の左翼一派の乗ずるところとなって私の追放のきっかけを作ったのである。私があの反共声明を思いついたのには、実は次に述べるような理由があったのである。

その前年の十一月新党が結成されて、十日程経て私は新党総裁として日本自由党の使命を説くために全国遊説を始めた。
 11月18日京都、19日大阪、21日大津、22日岐阜、これらが皮切りであった。それから東北に2回、九州に2回出かけていった。12月22日が仙台の演説会、翌23日が青森の演説会となっていた。前者は大石倫治(現大石武一君の亡父)等、後者は小笠原八十美君と以前からの約束である。私は12月19日の夜書生一人を連れて出発しようとした。

その時上野の駅で、二等車の隅っこに座っていた。そうすると中華民国人が数人でもって二等車の中に「この車は占領す」という旗を立てた。そして十人位の第三国人が「この部屋をみんな出て下さい」という。出ない爺さんが一人いた。そうするとこれを私の前で殴るのだ。 私は体の大きな力の強い書生を連れていたが、それが、
「危険ですから出ましょう」
というので出てしまった。青森に行く約束の時間はその汽車に乗らなければ間に合わないものだから、もうセッパ詰まって列車の先から尻まで駈けて歩いたが空いている席は一つもないし、窓は閉まっている。みんな窓から入るので内側から閉めちゃって入れないようにしている。そんでよんどころなく進駐軍の車に飛び込んで「自分はこういう身分で遊説に行くんだがこの汽車に乗らなければ行かれないんだ」と頼むと「ここへ坐っていきなさい」といってくれた。全く有難かった。しかしほかの車は寒いのに進駐軍の車だけは暖かくてまるで極楽みたいだ。

  • (引用者注)二等車
    JRの前身の国鉄では、1960年まで一等車から三等車までの三等制だった。当時一般庶民は三等車に乗っていた。終戦によって一等車は米軍に接収され、二等車は特権階級のものだと思われていた。
  • (引用者注)つまみ食い
    『つまみ食い』と私がいうのは、実際は「体の大きな力の強い書生」の勧めで鳩山一郎は車両の外に出て難を逃れたのであるが、その部分を引用しないことで、恰も鳩山一郎自身が暴行を受けたかのように思わせたり、鳩山一郎が暴行を受けたと明記する別のデマ文書との整合性を諮ろうとする姑息なトリミングのことである。

私がその中に入ったので、貴族院の誰だったか、「私も何うか乗せて下さい」と頼んだら「この人の従者だったら入っていい」という。そうなると私もわたしもという奴が出て来たが「そう沢山はいけないが、六、七人までなら許そう」と先方が行ってくれたので、結局五、六人の人が私の従者ということになって喜んで乗り込み仙台までたどりついた。

  • (引用者注)進駐軍の特権
    二等車を追い出されたのは災難だったが、結局、進駐軍専用車両という「進駐軍の特権」にすがりついた、という話のようだ。

仙台に行って演説をして、仙台から青森に行くためにも散々苦労した。青森から帰る時も朝鮮人が列車を占領して駅長に向って「この列車は朝鮮人だけに限ると声明しろ」と強談判している。駅長が「それは断じて出来ない」と拒絶した。

  • (引用者注)朝鮮人の要求の原因
    それが何だったのか、鳩山一郎が言わなかったのか筆記者が文字にしなかったのか、不明なのは誠に残念である。1945年12月当時は、朝鮮半島から強制的に労働動員されていた朝鮮人の帰還輸送の最盛期でもあった。この帰還事業のコーディネーションの一切はまだ朝鮮人自治団体に任せられていた。その中で国鉄との軋轢もかなりあったとされている。
  • (引用者注)朝鮮人の送還事業
    戦後直ぐの帰国送還事業については、1945年11月以降はGHQから日本政府に発せられた「覚書」でその様子を窺い知ることができるが、それ以前のことについては、まとまった記録が見つかっていません。強制的に戦時動員された朝鮮人労働者が、政府もGHQも実施方針も管理体制を持たないときに怒涛の如く郷里を目指し大規模の民族大移動となった。最初は内地の戦争遂行協和組織であった「一心会」や「協和会」が送還の面倒を見たものの、それらは直ぐに解体され、自治団体として「在日本朝鮮人連盟(朝連)」が取って代わり、帰国者の家や家財道具の整理、国内移送列車の確保、1000トン以下の帰国船の配船、出航港湾付近での宿泊や食糧の供給など一切を仕切っていたようだ。

「断じていけない」といえばそれが通るのに、その点、東京の駅はだらしないとその時思った。帰って来てから痰に血が出だしたので当時私が厄介になっていた麻布の石橋正二郎君の家のお医者さんの木村博士に診てもらったら「こりゃ大変だから専門医に診てもらえ」という。そこで伝研の今野博士を呼んだら「絶対安静」ということである。

丁度その時に司令部のなんとかという大佐が是非会いたいといって来た。「今医者から三日間位絶対安静ということだからお目にかかれない」と断った。ところがその翌日気分がよくなったので急いで九州に立ってしまった。すると司令部の方では、「司令部を馬鹿にしている」と非常に怒り、空気が馬鹿に悪くなったようだった。こっちは日程をフイにしないようにと思って無理に立っていったのである。

その時九州に行って感心したのは、福岡は割合に静穏なことである。朝鮮人が福岡駅を占領した時に、九州大学の青年達がみんなで朝鮮人を叩き出してしまったのですっかり騒ぎが納まったということを聞いて、流石九州男児だなァと思ったりした。

それでその時思ったのは、日本では共産革命は割合に楽だと感じたことである。面と向って自ら犠牲になって阻止する者が出て来れば出来ないが、自分で責任をとって防ぐ青年がいなかったら共産革命が成就すると思った。多数は要らないが適当な防衛力は要ると思ったのもその時のことである。

何うしても自衛隊を持たなければならないと痛切に考えて自衛軍の構想をその時から持ち始めた。私は当時方々を歩いて、自衛軍の設備と反共ということを同列において私が演説したのはそういうところから来たのだった。こうして私の二十一年二月二十二日の反共声明は発せられたのである。

  • (引用者注)九州大学の青年達
    学生達の話は興味深いので、是非とも新聞をさがしてみたい。



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