15年戦争資料 @wiki

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pipopipo555jp

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  • nio615さん
    おじゃまします。
    いくらか提案させて下さい。      まず、事実に迫ることが大切だと思うので、余計な罵倒と中途半端な中止は避けましょう。黒・白・灰色と仕分けできるまで議論したらどうですか。 実のある議論にしましょう。
    次に、議論対象の範囲を明確にしたほうがよいでしょう。泛水に関することはオミットして大町大佐が沖縄本島を離れてから渡嘉敷を離れるまでの行動と意味を議論対象としてはどうでしょうか。
    そうはいっても、対象が広すぎ議論が分散するおそれがあります。   私は次の論点に整理しましたがその中に取り上げることに問題がある論点がありますか。
    1.1945/03/22に沖縄本島を出発した大町大佐一行の目的は、赤松や曽野のいうとおり、視察でよいのか。マルレ出撃陣頭指揮の可能性はないか。
    2.「戦史叢書」で大町大佐一行に含まれる鈴木常良が「石田手記」には掲載されず替わりに石田四郎が掲載されているのは何故か。

    3.大町大佐一行の人員が15名というのは正しいか。渡嘉敷に途中下船か別途渡航した鈴木常良他2名をどう位置づければよいのか。 
    4.大町大佐一行に通信兵が多いのは何故か。彼らは、渡嘉敷までずっと大町大佐一行と行動を共にしていたのか。
    5.「石田手記」での大町大佐一行がクリ船2隻で阿嘉島に渡航したというのは、隻数は正しいのか。先行叉は後行した一行がいるか、いないか。

    6.儀同保「ある沖縄戦」では大町大佐を阿嘉島から渡海させるために3隻のマルレ泛水の命令があったとしている。実際には2隻になったと思われるがどのような事情があったのか。
    7.「第戦隊戦記」に記載する阿嘉島から渡海したクリ船2隻は座間味島から渡航した船の転用か。クリ船の渡航の目的地は渡嘉敷か、沖縄本島か、マルレに乗った大町大佐一行と出航の時間差はあったか。
    8.沖縄本島への転進命令は大町大佐が出したものか、沖縄本島から発せられたものか 
    9.渡嘉敷で転進命令を受信したのは、元々の第三戦隊の隊員か、大町大佐一行の通信兵の一部か 
    10.赤松が橇船と記載しているのはマルレかクリ船か
    11.「殉国日記」などに引用されている赤松手記に転記誤りや改竄はないか。
    12.渡嘉敷に無傷のクリ船はあったか。あったとしてたとえば阿嘉島から渡海したものなどがあったか。

    とりあえず、以上です。 -- (和田) 2009-10-06 16:10:42
  • 和田さん
    レス有難うございます。
    本文で申上げたことに和田さんからの反論はとりあえずないようで。

    >1、大町大佐一行の目的は
    それを考えるための事実は以下です。
    1)2.15第32軍戦闘指針下令
    2)艇隊出撃後の体制発令※
    3)カノン砲の陸揚げ
    4)鈴木少佐の渡嘉敷島での会同
    5)三池少佐の同道(海上挺進第5基地本部とは何か?)
    6)赤松らがそれを語ろうとしなかった事実

    これらを考えると、目的は、赤松隊の基地建設遅れへの対処と、四月下旬と見込んでいた米軍本島上陸作戦に対する、特攻艇作戦のみならず、慶良間残留部隊を含めた総合作戦立案にあったと思います。

    2、「独立第3大隊」(旧海上挺進基地第三大隊)から鈴木少佐以下2名以上は、大町大佐とは別船で渡嘉敷島に来たことはほぼ確かでしょう。<不記載>のことは著者に聞いてみるしかないでしょう。職業軍人という人種は、自分の言いたいことだけ書けばいいと思う人が多いようで、読者の為に漏れなく、という気遣いはしない場合が多いようです。もちろん戦友会の常識とか公刊戦史には、身すぎ世すぎのために大いに気を使っているようですが。
    3、私は15名の中に鈴木独立基地第三大隊長は含まれていないと思います。赤松も別扱いしています。もし仮に15人に鈴木等が含まれているとすれば、石田手記が勝手に「通信兵」の数で員数合わせをしたことになります。「石田手記」の虚妄性が明らかになった暁には検討課題に上るでしょう。
    4、途中のどこかに通信員を置いてきた、という文献は今のところ知りません。
    5、「石田手記」での隻数が正しくないという根拠を教えてください。
    6、どのような事情があったのか>さあ?
    7、「第戦隊戦記」>?? 転用か>さあ? 時間差はあったか>出発の時間差はなさそうですが、記録にはありません。
    8、沖縄本島への転進命令は大町大佐が出したものか>転進命令は本島の軍司令部から来たと思います。 これは、大本営マターです。その後赤松隊本部に到着した大町大佐が、「海上特攻の攻撃対象は本島上陸前夜の敵輸送船団である」と再確認して、転進命令の受け方に迷っている赤松に対し「転進命令」を再度船舶団長として下達したものだと思われます。
    9、軍司令部の転進命令が大松大佐到着前だとすれば答えは決まります。
    10、赤松が橇船と記載しているのはマルレだと思います。皆本は書簡で<橇艇>と書いています。「殉国日記」に転載したガリ版士が書き間違いで<橇艇>としたことは考え難いです。
    11、もちろん死者を顕彰し武勇を謳いあげるための方便はありますが、他のことではさほど小細工はないと思っています。
    12、>ご自分で現地に確かめに行かれたらいいと思います。私は現在の手持ちの材料で考察することしかできません。考える為の材料がないものについての疑念は、自分の胸に仕舞いこんでおくことしか出来ず、貴方のようにそんなことまで「シロクロ」を付けよう!という無謀な発想はしたくありません。  -- (ni0615) 2009-10-06 17:53:13
  • 兎に角、
    ア)資料、史料から万人が認められること
    イ)資料、史料から自分がこうだと思えること
    ハ)資料、史料もなく「ああだ、こうだ」といいたいこと
    この3つは区別してください。

    ハ)について、強引な主張をしたり議論を吹っかけるのは止めましょう。恥ずかしそうにチラっと『蛇足』と断って付記することは、私もまた始終していますが。

    お応えは以上です。次回からは、インターナショナルな作法に従って、ご自分の考え若しくは自分はわからないのだが、という表明をなさってから問いかけをしてくださるようお願いします。また、論点の拡散を避けたいと仰るご自身が、12個も羅列することはないでしょう。

    ※は
    特設第二旅団 長 第十一船舶団長 大町茂大佐
    「特設第五聯隊」:海上挺進戦隊出撃後の残留員で編成の予定 総員約三、五〇〇名 
    のことです。 -- (ni0615) 2009-10-06 19:25:03
  • 論議の範囲を確定する一つの材料として例示したほとんどの論点に回答されることは想定外でした。
    さて私はゆっくりと論議を進めたいと思います。 Nio615さんの1)を引用します。
    「なお「22:00以前」が正確な時間だという論稿はどこにも見たことがありません。今のところこの到着時間は諸説フンプンで」
    私の到着時間の解釈は大町大佐が渡嘉敷島に上陸した時間であって、大町大佐が赤松のいる渡嘉志久本部に到着した時間ではありません。 この点誤解があるのかもしれません。  
    「戦史叢書」を引用します。
    「大町大佐は・・・・特攻艇二隻に分乗して渡嘉敷島に向かい、渡嘉敷島阿波連西方海岸に上陸し二二00ころ海上挺進第三戦隊本部に到着した」 
    「ある神話の背景」から引用。  「彼らは(大町大佐一行)阿波連西方の、夜目にも白い清浄な浜に着いた。・・・・夜十時頃、彼らは峠を越えて、海上挺進第三戦隊の本部に到着した。」
    「軍事研究2005年3月号」より引用。  「皆本中隊長は当時の状況を次のように回想している。私は軍から転進命令が来ていることは全然知らなかった。本部に集合を命じられて二十二時頃行った。船舶団長が到着されており、戦隊長から、転進のための泛水命令を受けたが、船舶団長の命令によるものと思った。」
    以上、午後10時には大町大佐は渡嘉志久本部に到着していた。 石田回想によれば、米軍の攻撃を避けて渡嘉敷に緊急避難的に上陸したのであり、上陸地点は阿波連ビーチ湾深くではなく、湾外の西岸と思われる。地図を見ても上陸地点から本部までの距離は1キロ以上あると思われ、夜見知らぬ土地から本部にたどり着くまで相当の時間を要する。 
    さらに皆本回想からすると、大町大佐の本部到着により集合命令が出され、それを受けて午後10時に皆本が本部に到着したと解釈するのが自然と思われる。  以上のことから大町大佐一行6人が本部に到着した時間は遅くとも午後十時。
    大町大佐が渡嘉敷に来島(上陸)した時間は午後9時半前後とみるのが妥当と考えています。
    -- (和田) 2009-10-15 16:42:31
  • 和田さん
    コメント有難うございます。いまは貴方の書いた文章についてのみ質問します。

    1、「戦史叢書」の記述は、誰のいつの証言に基づくものとあなたはお考えですか? その供述の信用性をどう評価されますか? 「戦史叢書」という重みですか? 
    2、「軍事研究2005年3月号」とは筆者は何者ですか?また、筆者が根拠にしている皆本回想とは、いつの何を指すのですか?
    3、「阿波連ビーチ湾深くではなく、湾外の西岸」そのようなことの根拠は何ですか? 湾外の西岸とは砂浜ではなく岩磯を意味するのですか? 第一中隊が上陸を現認しなかったらしいことは私も読み取りましたが、現認できなかっか理由も様々考えられ、「阿波連ビーチ湾深くではなく湾外の西岸」という決め付けまでは到底いたりません。なにか資料があるのですか? 

    和田さんの推論方は間違っています。結論が結果として正しいとしても、それは、推論ではなくて単なる八卦にすぎません。
    ご自分の結論に都合の悪い資料があることを知りながら、それは無視して、都合の良いのもだけをつまんでいます。自分に逆らう記述も拾った上で、きちんと資料批判し、そのうえで推論を組み立ててください。

    私自身はこの件に関してはまだ吟味を行っていないので、「諸説フンプン」としています。 前にも申上げましたが、それら「諸説」は自分に都合の良い根拠を引いている、というのが現状です。
    あなたの書き込み「大町大佐が渡嘉敷に来島(上陸)した時間は午後9時半前後とみるのが妥当です」には、今のところなんら推論としての説得力を感じません。 あなたの「私見」として承っておきます。 -- (ni0615) 2009-10-16 07:13:31
  • 前項について答えます。
    >1、「戦史叢書」の記述は、誰のいつの証言に基づくものとあなたはお考えですか? その供述の信用性をどう評価されますか? 「戦史叢書」という重みですか?

    第三戦隊にかかる記述の多くは、1965年頃から1968年頃までに主として赤松及び皆本の証言に基づくものと考えています。その理由は戦史叢書注記175,176に赤松の回想及び同隊記録、中村、富野、皆本の回想と記載され、富野・皆本が現役の自衛官であったこと、防衛研究所に皆本中隊の「陣中日誌」が収められていること、ムック「沖縄とアイヌの真実」において、皆元自身が曽野綾子から軍隊用語などの監修を依頼されたと語っていることなどです。
    供述の信用性については、赤松・皆本を筆頭とする人達のその後の言動などからあまり信用しておりません。  つまり、彼らには第三戦隊の行動を美化する強烈な意志があったということ。  しかし、逆に他の資料や物理的条件と比較しても赤松隊の美化を薄めるような記述-たとえば大町大佐の来島時刻が比較的早かったというような-については信用がおけると考えています。理由を問わず、自ら不利なことを自白したことになると考えているからです。  逆に他の資料や物理的条件と比較して第三戦隊を美化しているような証言は信頼性が薄いどころか嘘の可能性が高いと、一旦考えています。少なくともそれらをうらづける資料や材料が新たに出てこない限り。 実際には、資料などにより何件か嘘の可能性が薄まった事項もあります。

    >2、「軍事研究2005年3月号」とは筆者は何者ですか?また、筆者が根拠にしている皆本回想とは、いつの何を指すのですか?

    筆者は「軍事史学会」会員、太田嘉弘を名乗っています。ネットで検索すると沖縄戦に関する著作があるようですが、詳しい経歴は把握しておりません。  皆本回想に関する2005/3月号の記述には、「戦隊第三中隊皆本義博中尉(57期)は次のように回想(昭和38年)している」との記載が152pにあり、それを受けて153pに回想の一部 ?の記載があります。

    >3、「阿波連ビーチ湾深くではなく、湾外の西岸」そのようなことの根拠は何ですか? 湾外の西岸とは砂浜ではなく岩磯を意味するのですか? 第一中隊が上陸を現認しなかったらしいことは私も読み取りましたが、現認できなかっか理由も様々考えられ、「阿波連ビーチ湾深くではなく湾外の西岸」という決め付けまでは到底いたりません。なにか資料があるのですか? 

    西岸という記述からです。地図を見ますと阿波連ビーチに面する海岸は北岸・東岸・南岸( ?むつかしい)はあっても西側は海に面しています。このことから西岸とは、阿波連ビーチ湾外の西北海岸と読むのが普通の読み方と考えました。 GOOGL地図航空写真で見ると湾の北西には阿波連ビーチの砂浜の奥行きに近い砂浜も確認出来ます。よって岩磯とは考えていません。

    >自分に逆らう記述も拾った上で、きちんと資料批判し、そのうえで推論を組み立ててください。

    学術書を書き上げるのであれば、当然そうしなければなりません。  しかし、インターネット上の議論(ホームページの記載ではない)でそこまでする必要はないと考えます。  理由は、1つ1つの記載が長くなりすぎること(これに反する記述があるがそれは云々叉はこのことを疑わせる資料叉は物理的条件があるが、これこれの理由で否定されるなどを知っている限りの資料と事実に基づいて検証・記載すれば、事項によってはかなり長い記載が必要となります)。    (罵倒を目的とせず)各論点について議論・検証を複数の人間がするのであれば、それは個別に検証して積み上げればよいものと考えています。

    さて、話は変わりますがnio615さん冒頭ちかくの「これでは「丸木舟」とし、後の「赤松部隊長戦場日記」では「船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸渡嘉敷島本部ニ来ル」となっている矛盾を指摘すべきでしょう。その元である辻版「陣中日誌」では「橇舟」です。 」
    の意味が私には、よくわかりません。       矛盾の内容がどのようなものであり、その矛盾をとりあえずどのように判断されたのか今少し、具体的に教えてください。
    -- (和田) 2009-10-16 16:55:47
  • すみません。
    字数制限があったようです。 ワードからコピペして一部転載出来ていません。 

    続きを載せます。


    れの理由で否定されるなどを知っている限りの資料と事実に基づいて検証・記載すれば、事項によってはかなり長い記載が必要となります)。    (罵倒を目的とせず)各論点について議論・検証を複数の人間がするのであれば、それは個別に検証して積み上げればよいものと考えています。

    さて、話は変わりますがnio615さん冒頭ちかくの「これでは「丸木舟」とし、後の「赤松部隊長戦場日記」では「船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸渡嘉敷島本部ニ来ル」となっている矛盾を指摘すべきでしょう。その元である辻版「陣中日誌」では「橇舟」です。 」
    の意味が私には、よくわかりません。       矛盾の内容がどのようなものであり、その矛盾をとりあえずどのように判断されたのか今少し、具体的に教えてください。
    -- (和田) 2009-10-16 16:58:23
  • >>和田さんへ

    >1について、
    あなたが挙げているものは戦史叢書以降のものばかりですね。赤松や皆本が昭和20年もしくは21年に書いたものを、戦史叢書と
    対照するような作業をなぜなさらないのですか?私はまだその作業を他人様に見せられるような形でなしていません。ですから貴方のような主張の仕方は控えているのです。わださんのように断定的な主張をなさる方は当然それをなさっている筈だ、と考える私には不思議です。
    >2について、
    実は和田さんから「軍事研究2005年3月号」の画像PDFを頂いたのですが、私のパソコンが古いせいかとても操作が重たく、少し画面移動をしようとすると頁が飛んでしまいます。したがって、それを参照して細かい記述を確認することができません。
    そんな不便な状態で辛くもわかったことは、その筆者は「原稿の過半」を「ある神話の背景」WAC版と「陣中日誌」谷本版から丸写しにし。その典拠のページを記すこともなく、また何処から何処までが引用なのかを明示する作法もありません。なんとそうやって原稿用紙枚数を増やしているような御仁ではないかと思いましたが、そうではありませんか。そんな人物の為に1000円もの費用を費やすことはとうてい出来ません。

    和田さんも、手短だからといってそんな文献を典拠としてあげずに、その元になっているソースに当ってから、挙げていただきたいと思いました。

    そもそもコレが何であるかを和田さんはご存知ないのですか?
    >「戦隊第三中隊皆本義博中尉(57期)は次のように回想(昭和38年)している」

    >3、について
    お応えいただきましたが、「湾内の西岸」を排斥する根拠は見出せません。

    >しかし、インターネット上の議論(ホームページの記載ではない)でそこまでする必要はないと考えます。 それは頑固な主張、長文の書き込みをしないときにしか言えないことです。

    いえ、貴方のような「断定」や「トバシ」は、インターネットの害毒の温床だと思っています。
    記述が長くなるから典拠を省いたのなら、次回にそれを問われたら納得できる答えが用意されていなくてはなりません。和田さんの場合は、お尋ねすると、長々と周辺をぐるぐるするお応え、意地を張るだけの長文が返ってきますが、それは「トバシ」であるか「サキバシリ」の証明でしかありません。
    もちろん、未だ根拠付けられて無い「仮説」を問うことに、素人の仲間同士遠慮は要りません。しかし何の謙虚さも無く、根拠がない自説を押し付けて「やあーい、反論してみろ」とやるのは、他人に不快感と無意味な労力を押し付けるだけです。インタネットにおいては、「紛れ」「誤解」「デマ」の温床にしかなりません。

    >これでは「丸木舟」とし

    「これ」とは、貴方がつまんだことに関するあなたの指摘です。直前の緑の囲みのことです。あなたが挙げた例は同一人物の一つの文献だけであり、同一人物に別の筆法があることを知りながら、どうして何の評価も無く一方だけしか取り上げないのか、という疑問です。

    以上です
    当面この4点にしぼり、問題の拡散はご遠慮ください。 -- (ni0615) 2009-10-17 11:51:37
  • 1<あなたが挙げているものは戦史叢書以降のものばかりですね。
    そう言われても「戦史叢書」の記述は、誰のいつの証言に基づくものとあなたはお考えですか」 との問いに対する回答とそれに付随する事項ですからやむを得ない面があります。 「戦隊第三中隊皆本義博中尉(57期)は次のように回想(昭和38年)している」との記載も入れましたが、これも戦史叢書以降になってしまうのでしょうか。 議論を拡散させるなという事ですが、抽象論・一般論に関してたとえ話をすることは議論の拡散とはいえないのではないか、たとえ話もない一般論は意味をなさないのではないかということで、議論を拡散させないという制約がある以上、しばらくはたとえ話をすることはご容赦下さい。 あなたも一般論・抽象論に終わらせるつもりはなく、個別具体的検討をする予定だと思いますが、あなたと私の(陰謀を事とする者に対する)方法論は異なります。   私の議論はnio615さんのほうへは向いてはいないのです。  私にとって非常に大切な自由のためにやや政治的な議論をしているのであり、私は前近代的な朝日平吾・景山正平・磯部浅一など血縁的エゴを何よりも優先する奴らに若い人が洗脳されるのを見逃せないという観点で、彼らの嘘と隠蔽を暴露する議論を優先させたわけです。 嘘と隠蔽は相当確認されたはずですのでこれからは細かいディテールにも目を向ける必要性は感じています。  さて、nio615さんは、文献の照合が第一と考えられているようですが、ケースバイケースだと思います。魏志倭人伝とその他の文献をいくら照合しても邪馬台(一)国の位置はわかりません。刑事事件で自白に頼ることは危険です。物証のほうが重要です。 承知のように曽野綾子・赤松・皆本・照屋・藤岡等は死人を利用した自作自演の論を展開するなど誠実な論者ではなく、普通の論者でもありません。  赤松自体極めて早い時期に「大町大佐が25日午後24時丸木船で来島した」という趣旨の手記を残しています。 大町大佐自身がマルレで来島したことは複数の文献に操縦者なども掲載されていることから明らかだと思うし、24時来島もありえないと考えていますがこれら2つのことも真偽を論議する必要がありますが拡散するので後回しにします。 あなたは、赤松が錯誤で大町大佐自身が丸木船で阿嘉島から渡嘉敷に渡航したと考えているのですか。 渡嘉敷には石田四郎も長く滞在した可能性が高く、三池少佐も一月以上滞在した。私の見解は違いますが、あなたは大町大佐一行である5人の通信兵全部も渡嘉敷に(一時的か長期と考えているのか不明ですが )滞在していたと考えているようです。それに赤松はかなり長い間米軍の収容所に入れられていて、その間に第1、第2戦隊の隊員と話をする機会があったはずです。つまり、赤松にとって大町大佐の渡嘉敷渡航の船種について話題にする機会はずっとあったはずです。  それなのに、収容所を離れて間もない時期に赤松は大町大佐自身が丸木船で渡航したとしか取りようがない表現の手記を残している。 これは、単純ミスや錯誤などではなく嘘としか思えません。
    また、文献の有無と評価の問題に移りますが、原告は自決命令が無いなどと、主張しているが、敵に向けた軍事行動以外のスパイ容疑の斬殺や住民に対する自決命令が命令として文書に残っていたなどと考えているのでしょうか。 赤松等に早い時期から事実を曲げようという強烈な意欲がある以上、文献相互の整合性を検証する必要はありますがそれ以上に物理的・論理的・時間的証拠を考えていく必要があると考えています。 日本語は世界の言語の中でも曖昧であろうことから、基地隊が「橇の上に載せて泛水される」という意味でマルレにつけた橇船というあだ名を、(連絡艇・マルレ)と記載すべき戦隊が使用した蓋然性と同じく、「泛水時に使用される」という表現で書かれた神楽桟が実際には「泛水訓練」で使用された蓋然性はあります。  曖昧な部分は、物理的・論理的・時間的証拠などとの整合性・バランスを考える必要がありますが、赤松や曽野綾子が相手では、彼らが嘘や隠蔽をしている可能性も考慮せざるをえません。  で、当初は嘘や隠蔽を予想して結構当たったわけです。 さすがに細かい部分になると嘘と見込んだが事実というのも出てきました。それは拡散してもいいという段階になれば話します。  
    >わださんのように断定的な主張をなさる方は
    私は、「思われる」、「考えられる」という表現を断定ではなく、推定していることを表す表現と考えています。(断定)nio615さんが断定と考えるのならそれはもう、見解の相違ということで平行線にしかなりません。 1の途中にしかならないのですが、容量を超えているかもしれないので、残りは次回に回します。 かなり容量が少なそうなので見づらくてもあまり行間を空けないことにしました。  議論が長くなるのはしようがないと思います。
    何字以内など容量に関係すること、またこうすればこのコメント欄は行間と同じ効果を出せるとか技術的なことを知っているのなら教えて下さい。 -- (和田) 2009-10-21 14:45:35
  • ると考えています。 日本語は世界の言語の中でも曖昧であろうことから、基地隊が「橇の上に載せて泛水される」という意味でマルレにつけた橇船というあだ名を、(連絡艇・マルレ)と記載すべき戦隊が使用した蓋然性と同じく、「泛水時に使用される」という表現で書かれた神楽桟が実際には「泛水訓練」で使用された蓋然性はあります。  曖昧な部分は、物理的・論理的・時間的証拠などとの整合性・バランスを考える必要がありますが、赤松や曽野綾子が相手では、彼らが嘘や隠蔽をしている可能性も考慮せざるをえません。  で、当初は嘘や隠蔽を予想して結構当たったわけです。 さすがに細かい部分になると嘘と見込んだが事実というのも出てきました。それは拡散してもいいという段階になれば話します。  
    >わださんのように断定的な主張をなさる方は
    私は、「思われる」、「考えられる」という表現を断定ではなく、推定していることを表す表現と考えています。(断定)nio615さんが断定と考えるのならそれはもう、見解の相違ということで平行線にしかなりません。 1の途中にしかならないのですが、容量を超えているかもしれないので、残りは次回に回します。 かなり容量が少なそうなので見づらくてもあまり行間を空けないことにしました。  議論が長くなるのはしようがないと思います

    字数制限とか、行間の開け方など技術的なことわかりましたら教えて下さい。 途中で切断されてしまうので書き方の工夫をしないと。 -- (和田) 2009-10-21 14:48:42
  • >>和田さん
    相変わらず「他人に読み易く」ということはどうでもいい、という態度には恐れ入ります。行間を空けて段落を見やすくするというのは、書き手自身の論理を明確にする作業だと思いますが、いかがですか? 字数制限があるから行間を空けないという、ネトウヨ諸君にも珍しい自分勝手には、どうやってお付き合いしたら、私にはわかりません。

    >「戦隊第三中隊皆本義博中尉(57期)は次のように回想(昭和38年)している」との記載も入れましたが、これも戦史叢書以降になってしまうのでしょうか。

    やあ参ったな。この部分の私からの問いは、そういう問題ではありませんよ。「この『回想』とはどんな代物ですか?」「怪しげでないなら典拠または貴方が信じ込んでしまう根拠を挙げてください」といってるのです。

    「橇船」のことや「大町到着時刻」は、貴方がまず関係者の記述一覧表を作ってからにしましょう。もし私のほうが先にそれを作ったらお知らせします。議論よりも情報の整理が先です。

    >あなたと私の(陰謀を事とする者に対する)方法論は異なります。

    そうですか。私は陰謀論に陰謀論で対抗しようとする方法論には反対ですし、徹底的にそれを批判します。それは事実・真実を探求しようとすることでなく、声の大きい方に寄りかかることと同じだからです。上原正稔も同じやり方です。「自分の声を大きく取り上げない」 という自己顕示欲不満足から、サヨクからウヨクに何のハードルも無く転じました。

    左翼が強かったときに左翼はその方法をとりましたが、そのために脆弱化した左翼はさらに激しい勢いで力を失いました。今、右翼がそれをなぞって凋落しようとしています。 岩波・大江裁判は、明らかに世論的に劣勢でしたが、裁判所という事実検証の場を右翼が選んだ為に、「宣伝」を戦略とする右翼は敗北へと進んだのです。それは「南京百人斬り裁判」を前例としています。

    いずれにしても、決着をつけるものは宣伝戦ではありません。ましてや、ブログのコメント欄という狭いところでの宣伝戦ではありません。

    そうはいっても和田さんと私とは考えが違うのですから、和田さんは和田さんで論理を展開すればイイのです。毎度同じ結論になりますが、貴方のサイトをお建てなさい。そして、あなたの作法、あなたの思想で存分におやりなさい。 貴方のやり方が人気があるかないか、人々に理解されるのか、一度ご自分でお試しになったらいかがですか?

    私は、あなたのサイトが評判をとり、仰っていることが素晴らしければ賛同の意を表し、間違っていれば批判をするでしょう。

    宣伝型世界観、人生観の持ち主は、左翼から国家主義者へ、国家主義者から左翼へ、私の見るところ変幻自在の人が多いようです。細かい事実を公平にみようとコツコツやっていくことが、歴史偽造に対しては有効だということが、上にあげたように最近のいくつかの裁判で証明されました。

    また、小泉→安倍→福田→麻生と進んで行くにつれて、宣伝型デカイツラ路線は皆からアキアキされ、ついに「日の丸」という超単純図形のイデオロギーしか残らなくなってしまいました。やっぱり宣伝型デカイツラ路線よりも、コツコツ型の方がいいのです。 -- (ni0615) 2009-10-21 18:53:15
  • >>コメント欄について

    コメント欄の字数容量がどれ位かは私も知りません。必要な改行を施した上でどれくらい書けるのかは、試行錯誤でやっていただくしか方法はありません。 (追記:改行1回は半角6字分ぐらいのようです)
    その上で、容量以内の1コメントにしていただくようにお願いします。
    (追記)偶然ですが上の私のコメントが、容量一杯だったようです。

    それよりも長い御主張はご自分のサイトにてお願いします。
    -- (ni0615(サイト運営人として)) 2009-10-21 19:18:20
  • 以下の事項は比較的仮説に仮説を重ねる必要がないと思うので先に続けます。                
    >3、について   「湾内の西岸」を排訴する根拠は見出せません。   戦史叢書及びある神話の背景の大町大佐の上陸記載はそれぞれ、「阿波連西方海岸」「阿波連西方の・・・・浜」で、阿波連部落からみて西方なのか、阿波連湾内の西方を示すものか、はっきりしません。しかし、地図を見れば阿波連湾の西方に渡嘉敷島はなく、海面です。 よって、私は阿波連西方海岸とは、阿波連部落を擁する陸地から見て西方の海岸(浜もある)と判断しました。 また、曽野綾子や赤松が大町大佐の上陸地点について事実を改竄した兆候は今のところ、見出せません。地形図を見ると、渡嘉志久本部に行くためには、山道を2キロほど歩く必要があるようです。     今一つ大町大佐が湾内奥深く上陸したとは思えない理由を書きます。  大町大佐一行が阿嘉島から渡嘉敷ではなく、沖縄本島に向かったという石田四郎の証言は正しいと思います。 私は石田四郎が食料などで赤松に世話になっていたはずだと書きましたが、その意味がわかってもらえなかったようです。  石田四郎の手記には、戦史叢書に書かれていないいくつかの事項が書かれていると共に少数ながら戦史叢書と異なる記載もある。 石田四郎とて、軍を美化したい気持ちはあったはず、また渡嘉敷で赤松に食料などで世話になったのは事実。 ということで、石田は第三戦隊が企てた事実改竄に反対出来る立場ではない。 おそらく、大町大佐が少しおとしめられるのは、釈然としないが、第三戦隊の事実改竄を黙認しないと日本軍自体がおとしめられるので、第三戦隊の主張そのものに反対する見解は載せない意志がある。 しかし、赤松・皆本等が第三戦隊そのものを美化する意志は石田に比べて非常に強く、それに比較すると石田は単に義理として第三戦隊に迷惑をかけないという程度の意志でしかない。 そのような立場の者は、一般的に、迷惑をかけないつもりの戦史叢書等の記述については注意して矛盾がないことに注意が集中させてしまうがために、そうでない事項について注意が散漫となり、つい、つい間接的に事実改竄を正す糸口をポロリと書いてしまうようなことが起こりうる。 このことは別に説明するつもりですが、とりあえず大町大佐は沖縄本島に向かっていた。 その場合、阿嘉島から北に向かう方法と南に向かう方法がある。   南つまり、渡嘉敷周りで沖縄本島に向かうことになったのは、大町大佐が渡嘉敷を北回りで沖縄本島に向かったのと異なっている。
    阿嘉島から南回りで沖縄に向かった理由は、海流も関係しているのかもしれないが、阿嘉島の野田戦隊がもともと、深夜南回りで沖縄本島に停泊するはずのアメリカ商船を攻撃する計画でそのような訓練を受けていたからであろう。 普通に考えればアメリカ艦船は南から沖縄(慶良間にも)向かう。 そして、上陸直前からアメリカ艦船は九州方面から攻撃をかけてくるであろう、日本の特攻隊などに注意が向くと考えられていたはずである。  そこで夜間、阿嘉島から南回りでつまり、沖縄の南から背後から攻撃すれば、奇襲になる可能性が高まると考えられていたのであろう。  当時慶良間のアメリカ艦隊も南西から侵入したはずで、実際には大町大佐が南回りから沖縄に向かうことは危険であった。 そのような危険を軽く考えたことと、野田隊に北回りの航路の経験がないために南回りが選択されたものであろう。 沖縄本島に向かう以上、マルレが渡嘉敷の海岸線沿いに航行する必然性はない。 通常は米軍を避けながら最短距離が選ばれるであろう。 つまり、大町大佐が阿波連ビーチの海岸線を一周しながら沖縄本島に向かう理由は何もない。時間が余計にかかるだけである。  石田によれば、米軍の砲撃を避けながら緊急避難として渡嘉敷に上陸したとされる。 海上は当然のことながら平坦で隠れる高地も窪みもない。 大町大佐等はとるものもとりあえず、すぐ近くの陸地に上陸し姿を隠そうとしたはずである。 どうして阿波連ビーチの奥深くまでマルレを晒す危険を冒す必要があるのか。 しかも湾内に入り込んだのであれば、第1中隊の隊員が気づく可能性がある。   湾内の西岸がどこを指すのか、湾からみれば東岸しかありえないと考えますが。ただし、阿波連部落中心部からみれば、阿波連湾の凹んだ部分が西岸ということになるでしょう。 そこに大町大佐が上陸したとしても渡嘉志久本部までの時間はあまりかわらないように思います。 大町大佐が渡嘉敷から北回りで沖縄本島に向かったのは、砲撃経験から、南回りで沖縄本島に向かうのは危険であることを悟ったからでしょう。
    -- (和田) 2009-10-27 15:42:01
  • ごめんなさい。少し超えました。続き   い。 通常は米軍を避けながら最短距離が選ばれるであろう。 つまり、大町大佐が阿波連ビーチの海岸線を一周しながら沖縄本島に向かう理由は何もない。時間が余計にかかるだけである。  石田によれば、米軍の砲撃を避けながら緊急避難として渡嘉敷に上陸したとされる。 海上は当然のことながら平坦で隠れる高地も窪みもない。 大町大佐等はとるものもとりあえず、すぐ近くの陸地に上陸し姿を隠そうとしたはずである。 どうして阿波連ビーチの奥深くまでマルレを晒す危険を冒す必要があるのか。 しかも湾内に入り込んだのであれば、第1中隊の隊員が気づく可能性がある。   湾内の西岸がどこを指すのか、湾からみれば東岸しかありえないと考えますが。ただし、阿波連部落中心部からみれば、阿波連湾の凹んだ部分が西岸ということになるでしょう。 そこに大町大佐が上陸したとしても渡嘉志久本部までの時間はあまりかわらないように思います。 大町大佐が渡嘉敷から北回りで沖縄本島に向かったのは、砲撃経験から、南回りで沖縄本島に向かうのは危険であることを悟ったからでしょう。 -- (和田) 2009-10-27 15:47:45
  • >>わださん
    >地図を見れば阿波連湾の西方に渡嘉敷島はなく、海面です。

    一体何を仰っているのか?
    地図を見ながらものを言ってくださいね。阿波連湾内の西のほうという場所はありますよ。
    http://maps.google.com/maps?hl=ja&lr=lang_ja&oe=UTF-8&q=%E9%98%BF%E6%B3%A2%E9%80%A3&num=50&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

    そのとき第一中隊は何処に居たのか情報は全くありませんが、海岸から退いた沢地の陣地に隠れていたならば広く海岸を見ることはできません。大町大佐一行を発見できなかった可能性があります。米軍の攻撃で阿波連湾西端の岬の哨戒を放棄していたとしたら、湾内のどこに上陸したとしても発見は難しかったでしょう。
    阿波連湾の西とは湾外のことであるという貴方の「勘」は、それを相変わらず強引な論理で押し通すことさえなければ、完全には否定できない「勘」として承っておきます。

    石田氏の手記を書いたときの立場については、私がこれまでに申上げたことをご理解いただいたようで、それは「是々非々」で読むべきと私が申上げたことと殆ど同じご意見になりましたね。

    和田さん、本日のご投稿も長い文章ほど分かり難いの好例ですね。次回から超過文は機械的に削除させていただきます。 -- (ni0615) 2009-10-27 19:32:27
  • 「軍事研究」をどう評価するということですが、地方の県立図書館の在庫では、「軍事研究」の沖縄戦特集は2004年の複数の月に連載され、2005年はほとんど毎月継続的に連載されていたように思います。 ほとんど慶良間諸島の海上特攻関連の記載で2000年頃から沖縄特集として連載されていたのであれば別段どうということはないが、掲載時期が大江岩波裁判の提訴(2005年8月)に近いこと、赤松を擁護する意見が掲載されていたことから、曽野綾子がクライン孝子に依頼して「ある神話の背景」の復刊を企てたことと同様、水面下の原告応援活動の一環と判断出来ます。 曽野綾子の一連の活動が自己宣伝と赤松擁護の強い意志に駆り立てられているものであることは理解されることと思います。 沖縄特集を組んだ筆者についても戦前のイデオロギーに固執する人物であることが、所々の意見から判るものの、筆者の原告というより読者により多くの資料を提供することにより、原告への理解を深めてもらおうとの志が、ささいな原告に不利な情報を取捨選択せず掲載することになり、結果としてその意に反し、原告の主張に疑問を抱かせる情報をも掲載することになったと評価しています。  軍事研究2004/3月号のほとんどが読みとれないとのことですが、第1中隊木村幸雄の回想は細かい字でかなりの長文です。一部引用します。 「赤松戦隊長は・・・・二十時、独断で各中隊に1/3の泛水を命じた。 ・・・・二十一時三十分、船舶団本部より、「敵情判断不明・・・・所在の船舶を撃破しつつ那覇に転進すべし」との命令が届いた。赤松戦隊長は本部に各中隊長・群長を集め、船舶団本部の命令を検討し協議の結果、本当転進に決定、二十二時、全特攻艇の泛水が命令され、戦隊が一丸となって作業に没頭している丁度その時、大町大佐が赤松戦隊長の前に現れた。25日から26日にかけての第三戦隊の永き二日間を整理してみると、・・・・二十四時、大町大佐以下五名、本部に到着( 和田?)」となっている。        「軍事研究」引用されている皆本回想録は一部と思われるが、皆本の「二十二時頃行った。船舶団長が到着されており、・・・・船舶団長の命令によるものと思った。」と「遠藤の回想」とは時間や内容がかなり、異なっています。   以上のような矛盾について私は、赤松隊の戦史改竄の意思統一が成り、実際に戦史改竄が行われるまで、(曽野綾子と赤松隊の名古屋会議のような作戦会議で統一行動が取られることなく)赤松・皆本・遠藤等各人が情報交換や各方面への回想公表をバラバラに事実と嘘を織り交ぜて語ったために起きた混乱ではないかと思います。 戦史叢書は赤松隊による統一的な戦史改竄であると判断しますが、それ以前の資料は比較検討することにより、虚実がある程度わかるものと思います。
    さて、私は赤松の大松大佐丸木船渡嘉敷渡航と勤務隊の橇船渡嘉敷渡航という記述は矛盾であり、矛盾が起きた原因は赤松が早くから、戦史改竄を行う強烈な意志を抱いていたからであろうと述べました。  これについて賛同頂けるのか、それとも、何らかの理由により、その矛盾は赤松の錯誤によるものであるといわれるのか、それとも私の考え及ばない着想でもあるのか、それがわからないと前に進みにくいのですが教えて下さい。
    -- (和田) 2009-10-30 14:23:52
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