前編


どうしてだろう、五年目の夏も、私は恋をしていた。
この恋がどうして生まれたものなのか、私には分からない。
けれどとにかく、気付くと私は彼に向かって手を伸ばし、そして彼はその手を掴んでくれていた。
四年目の夏が無ければ生まれなかった恋かもしれないと、時折後ろめたく思う。
けれどこの五年目の夏は、四年目の夏とはあまりにも違うと思った。
悲しみとは無縁で、ただ毎日、騒いだり、からかい合ったり、笑ったりしていればそれでいい。
あまりにも幸せでひどく眩しい夏だと、そう思っていた。
ただ、時折罪の意識が疼く以外は。


どさ、という音と共に、私はマットの上に倒れこんだ。
狭く暗い体育倉庫の小さな窓から、光が差し込み、その中で埃がきらきらと浮かび上がる。
外で鳴くセミの声を聞きながら、その舞う埃を見た。
「……ねえ圭ちゃん」
私は覆い被さっている圭ちゃんの肩をやんわりと押しながら、なるべく穏やかな声を出した。
「何だよ魅音」
圭ちゃんも落ち着いた声で返す。しかしその割には、いやに汗ばんだ余裕の無い手が、私の体操着のシャツやブルマーのあたりで止まっている。
圭ちゃんがこれから何をしようとしているのか、想像するのは難しくない。
「ここ、体育倉庫だって知ってる?それからね、もう体育の授業は終わったから、用具を片付けて、とっとと教室に戻らなきゃいけないってことも」
「知りたくないって言ったらどうする?」
「考えたくないね」
笑みを含んだ声でそう言い返すと、私を見下ろす圭ちゃんの顔が微かに動いた。
賢そうな目に、どこか切羽詰った色が浮かんでいる。この体勢でここに長居するのはまずそうだ。
「圭ちゃんどいてよ。早く教室戻らなきゃ、皆が探しに来るよ」
「魅音は嫌なのかよ?」
私は少し黙った。するとその沈黙を狙うかのように、圭ちゃんの手が私の腰に回り、ぎゅうっと抱き締める。そして圭ちゃんは私の肩に顔を寄せ、呟いた。
「俺たち付き合い始めてもう一ヶ月だぜ」
「うん、知ってるよ」
私は平静を装ってそう返す。すると圭ちゃんの、熱を孕んだ囁き声は耳元で続く。
「もうそろそろ、許してくれてもいいんじゃねえの」
圭ちゃんの指がそっと動き、私のシャツの中に侵入を果たす。脇腹の部分をするっと撫でられて、私はびくっと震えた。
緊張と恐怖に、身体の奥が冷たくなる。私は動揺していた。
「圭ちゃん、いい加減にしないとおじさん怒るよ」
低い声で呟くと、圭ちゃんが不穏な空気を感じ取って、指を引っ込めた。
「魅音……」
圭ちゃんが残念そうな声を上げる。私は畳み掛けるように言った。
「ねえ聞いて。私ね、圭ちゃんとそういうことする勇気がまだ出ないの。心の整理が着くのを圭ちゃんに待っててほしい。それじゃ駄目?」
「……分かったよ」
私の上から圭ちゃんが渋々身体を退かした。私は安堵して息を吐き、マットから立ち上がった。そして倉庫のドアの方に向かう。
まだ座り込んでいる圭ちゃんが口を開いた。
「ごめんな、魅音。無理言って悪かった」
「いいよもう。早く教室戻ろ!」
そう言いながら、私は圭ちゃんが閉めた体育倉庫のドアを開いた。セミの声が大きくなる。淀んでいた空気が抜け、薄暗かった室内に、一気に昼下がりの太陽の光が入り込む。そのあまりの眩しさに、私は目を細めた。
「ああ、分かってる。……なあ魅音」
「ん?」
私はくるりと振り返る。そして、差し込んだ光に照らし出される圭ちゃんの顔を見た。少し緊張した面持ちだ。
「魅音は、その……初めてなんだよな?」
「え?」
「俺以外の奴とは、付き合ったことないんだよな?だからすげえ慎重になってるんだろ?」
セミがぴたりと鳴き止んだ。
胸の奥をさまざまな感情が、一瞬にして通り抜ける。息が喉の奥でひゅっと詰まる。
私は開け放ったドアの前に立っている。おそらく逆光で、私の表情は窺えない。喉の奥で詰まった息も、圭ちゃんには聞こえない。大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
「何言ってるの圭ちゃん!あったりまえじゃない!」
明るい声でそう言うと、圭ちゃんはほっとした表情を浮かべた。
「だよな。まあ、俺もそうなんだけどさ」
圭ちゃんは立ち上がって、私の方へ歩いてくる。
私と圭ちゃんは、なるべく近い位置で並んで、外に歩き出す。
「レナたちが待ってる。早く行かなきゃね」
「分かってるって。あーあ、早く部活の時間にならねえかなぁ」
「おっ、圭ちゃんやる気だね!今日の罰ゲームはどんなのがいいかなぁ!」
後ろ手で閉めたドアが、ばたん、と音を立てて閉まる。暗く、湿っぽく、埃だらけの汚い倉庫は、再び密閉される。

圭ちゃんについた嘘が、胸の内側でじんじんと痛みを伝えている。私はそれを無視することに努めた。

私は圭ちゃんが好きだ。
明るいところも、口が上手いところも、正義感が強いところも、熱血なところも、変なところも、全部好きだ。
圭ちゃんは私だけの人だ。初めて手に入れた、大好きで大切な人だ。私は絶対に圭ちゃんを失いたくない。
だから、私は圭ちゃんとするのが恐かった。
かつて悟史とそういう行為に及んだ時、私を待っていたのは、落胆と絶望と罪悪感、そして悟史の失踪だった。
そのせいか、つい思ってしまう。そういう行為に及んだら、また私は何かに裏切られるのではないかと。
そして私は、必要以上に慎重になるのと同時に、こうも考えた。
悟史のことを圭ちゃんに知られたくない。私が犯した過ちを知られて、軽蔑されるのは絶対に嫌だ。

いつの間にか鳴くのを再開したセミの声が、遠く吸い込まれていく空を見上げる。
澄み切った青空の中で、まるで傷痕のように、飛行機雲が細く長く伸びている。
圭ちゃんに嫌われたくない。圭ちゃんの前では一番きれいな自分でいたい。
そう思えば思うほど、私は汚い、嘘だらけの人間になっている気がする。
「魅音、行くぞ」
圭ちゃんが校舎に入る足を止めて、立ち止まった私を振り返る。
「うん!」
私は笑って、圭ちゃんの後を追った。

今年の綿流しのお祭りは、ついこの前終わった。
私がほんの一度卑怯にも悟史に抱かれたあの日、そして悟史が失踪した日から、一年が経っていた。


その日、私、園崎詩音はいつものように、入江診療所に向かった。もちろん目的は悟史くんだ。
地下の悟史くん専用の病室に入る。ベッドでは相変わらず悟史くんが横になって目を閉じていた。
水色の患者用のパジャマ。痩せた白い肌。一年前よりも伸びた髪が、私の目に映る。
それはとても寂しい様子だけど、以前の悟史くんの行方も消息も分からない状況よりは何百倍もマシだった。
たとえ眠り続けているとしても、悟史くんはここに居る。悟史くんの頬をそっと撫でた。青白い、けれどちゃんと生きている。
監督はこの前、悟史くんの身体は順調に回復していると嬉しそうに報告してくれた。悟史くんが目を覚まして私に微笑みかけてくれるのは、そう遠くはないだろう。
私は鼻歌を歌いながら、傍らに置いてある花瓶の水を取り替え、花を取り替えようと手を伸ばした。花は今日新しく花屋で買ってきたものだ。黄色い花びらが、悟史くんの髪の色に似ていて、とてもきれいだった。
花瓶の横には大きなクマのぬいぐるみがある。沙都子宛てのものだ。
そうだ、今日は帰ったら沙都子に何を作ってあげよう。カボチャフルコースは昨日やり終えたから、今日は沙都子の好物ばかりで統一してみてもいいかもしれない。沙都子の嫌がる顔は可愛いが、喜ぶ顔はもっと可愛い。
悟史くんがいつか目を覚まして、沙都子と私の元に帰ってきた時、偏食の直った、頼もしい沙都子の姿を見せてあげるのが、今のところの私の夢だ。
私は口元を綻ばせながら、花瓶を持って備え付けの洗面所に向かった。
花瓶の水を捨て、水道の蛇口を捻る。そして古い花を捨て、新しい花を生けようとした、その瞬間。
「……詩音?」
柔らかく、温かく、穏やかで、何度も夢見たその声が、鼓膜を優しく叩いた。それはまるで、風がそよぐかのように。
生けようとした花が、硬直した私の手から、はらりと落ちる。
世界中の何もかもが呼吸を止めたかような、そして何もかもが呼吸を取り戻したかのような、不思議な強い感覚が、私を麻痺させる。
けれど私は、力を振り絞って、振り向いた。
そこにはいた。目を開いて、身体を私の方へ傾けて、不思議そうな表情を浮かべる、あの悟史くんが。
「……悟史くん」
「詩音。ここは一体……」
「悟史くん……悟史くん、悟史くんっ!!」
涙が溢れた。身体が震えた。身体中の全ての血液が、悟史くんを求めて叫び声を上げた。私は込み上げるたくさんの感情に押し出されるかのように、悟史くんに手を伸ばし、駆け寄った。
「悟史くん…!!会いたかった、会いたかったよ、悟史くん……!!」
「詩音、何で……」
私は戸惑う悟史くんのベッドに突っ伏して、その身体を毛布越しに抱き締めて、泣きじゃくった。
「ずっと待ってたんですよ!沙都子とふたりで…絶対に、また逢えるって信じて…待ってたんです」
「詩音、僕、よく分からないけど…」
温もりが、私の頭の上に降りた。
そしてそれは、穏やかに、ふわふわと、私を撫でる。
あまりにも懐かしく愛しい、悟史くんの手の感触に、胸が熱くなる。
「僕がいない間、沙都子の面倒見てくれたんだね。ありがとう」
悟史くんが微笑む。
どうしよう。嬉しすぎて、幸せすぎて、涙が止まらない。


『はろろーん、お姉、元気ですか?最近圭ちゃんとはどうなんです?エッチのひとつやふたつはしましたかぁ?』
やけにテンションの高い、詩音からの電話を受け取り、私はうろたえた。
「し、してないよそんなの!」
『ふふ、そりゃそうでしょう。お姉は奥手ですからね。圭ちゃんもそういう色恋に関しては、押し切るタイプじゃなさそうだし』
どうやらかなり機嫌が良いらしい。声も軽やかだし、揶揄する言葉もどこか優しさを含んでいる。
「えーと、詩音、何の用?」
『用が無いと電話しちゃいけないんですか?私たち仲良し姉妹に、そんなルールは不要ですよ!』
私は思わず苦笑した。普段ならこんなこと絶対に言わないはずだ。余程いいことがあったらしい。
「何か嬉しいことでもあったの?すごく気分良さそうだね」
『ふふー、ありましたよ。すっごく素敵なこと』
「へえ、何?」
『秘密です。お姉に言ったら部活の皆さんにも話しちゃうでしょ』
「何じゃそりゃ。てっきりその素敵なことを話したくて、電話してきたのかと思ったよ」
『んー、確かに話したいんですが、やっぱまだ駄目です。でもそのうち分かりますよ』
何だろう。私は思いを巡らせる。沙都子がカボチャを大好きになったとか。沙都子が「ねーねー」って呼んでくれたとか。
「詩音、それは沙都子絡みのこと?」
『ふふ、どうでしょう。あ、私もう用があるんで切りますね。じゃ、さよならっ』
電話はあっさりと切れた。私は受話器をまじまじと見つめる。
一体何があったのだろう。沙都子絡み、と聞かれて否定はしなかったから、そうなのかもしれない。
……もしくは悟史絡みとか。
それを思い浮かべた瞬間、胸がざわざわと波立つのを感じた。
もし悟史が帰ってきて、詩音と会ったら、あの時のことが知られてしまうかもしれない。
受話器を置きながら、私は息を吐いた。
園崎の人間に悟史の捜索は頼んである。手がかりが掴めたら、真っ先に私のところに連絡が来るはずだ。
私は悟史が見つかったら、すぐに事情を説明して、黙っていてもらうつもりだった。
一年前の私の罪。大切な妹である、詩音への裏切り。
卑怯なのは分かっている。許されないのも分かっている。けれど、知られたくない。知られるのが恐い。
私は背中が粟立つのを感じながら、自分のエプロンを強く握り締めた。
その時、婆っちゃが私を呼んだ。私は夕飯を作っていた途中だったのを思い出し、慌てて台所に戻る。
そして、私は詩音の素敵なこととやらを、すっかり忘れてしまった。


私はお姉との電話を切って、自分の口元を撫でた。
唇が笑みの形に緩んでいるのがよく分かる。私の顔は悟史くんが目を覚ました昨日から、緩みっぱなしだった。
私がこうなるのも仕方ない。なんてったって、悟史くんが目を覚ましたのだ。
あの後すぐに私は監督を呼んだ。診察の結果、もう暫く入院をさせて様子を見ることを決めたらしい。
正直すぐにでも連れて帰って、沙都子に会わせてあげたかったが、仕方ない。悟史くんの病気の完治のためだ。
『素晴らしいですよ、詩音さん』
監督は笑顔でそう言った。
『数値も驚くほど下がっています。もう暫く様子を見る予定ですが、これならそう遠くないうちに退院できますよ。詩音さんのおかげです』
私は何もしていない。ただ毎日お見舞いに来ていただけだ。そう言うと、監督はにこにこしながら首を振った。
『いいえ、おそらく毎日そうやって、来ては話しかけていたのが、悟史くんの心の支えになり、回復を早めたのだと思います。これは詩音さんの努力の成果でもありますよ』
その監督の言葉はとても嬉しかった。私が毎日悟史くんに会いに来ていたことは、ちゃんと伝わっていたのだろうか。
だとしたら、こんなに幸せなことはない。
「詩音さん、出発の用意が出来ました。車に乗ってください」
「はいはーい」
私は明るい口調でそう返事して、身を翻す。
すると葛西の口元が微かに綻んだのが見えた。
「何?」
「いえいえ……こんなに嬉しそうな詩音さんは久しぶりだと思って」
「そりゃあねえ。念願の悟史くんの目が覚めたんだもん。当然でしょ」
葛西が車のドアを開く。私はそれに促されるように、車に乗り込む。するとドアが閉まり、車は走り出す。
興宮の町並みが通り過ぎてゆく。不意に葛西が呟いた。
「詩音さん」
「ん?」
窓からバックミラーに視線を移すと、葛西のサングラスが見えた。
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
サングラスは暗すぎて、その向こうの目がよく見えない。
けれど今、葛西の目はきっと優しい色を浮かべているんだろうなと、そう思った。


「詩音、来てくれたんだ」
悟史くんが穏やかな声で迎えてくれた。白い笑顔が眩しい。私も笑いながら、悟史くんのベッドに近付く。
「もちろんですよ。悟史くんが居るところなら、どこにでも行っちゃいます」
「嬉しいこと言ってくれるなぁ、みお…詩音」
私は思わず笑顔を強張らせた。するとすぐにそれを感じ取って、悟史くんが謝る。
「ごめん、詩音。なかなか慣れなくて…」
「いいんですよ。しょうがないですもん」
一年前のあの日、私は悟史くんに、自分が魅音じゃなくて詩音だということを暴露した。
そして悟史くんが発症して意識を失ったのがそのすぐ後。目覚めたのは昨日。
まだ私が詩音だという実感が湧かず、魅音と間違えてしまうのも無理はない。
むしろ昨日、目覚めた瞬間、私を詩音と呼んでくれたことが奇跡だ。
「沙都子は元気?」
「すごく元気ですよ。家事も出来るようになったし。今クラスに前原圭一っていう転校生がいて、その人と楽しく遊んでます」
「えっ、転校生?」
「はい。トラップを教室に仕掛けまくって、それでその圭ちゃんが見事に引っかかってくれるので、とても楽しそうです」
悟史くんはそれを聞くと、心配そうに眉根を寄せた。
「むぅ……沙都子が迷惑かけてなきゃいいけど…」
「大丈夫です。圭ちゃんはそんなことで怒りませんよ。沙都子も圭ちゃんがすごく気に入ってるみたいですし」
「そっか。会ってみたいな僕も…その前原圭一っていう人と、あと沙都子に……」
悟史くんの病気は秘密裏で調査されているものなので、悟史くんが入江診療所に入院していることは公には出来ない。
つまり、沙都子は悟史くんの行方をまだ知らないのだ。
悟史くんも沙都子の顔を早く見たがっている。監督に今度、沙都子をこっそり連れてきては駄目か相談してみよう。
私は少しでも悟史くんの寂しさを紛らわせてあげたくて、口を開いた。
「沙都子、偏食が直ってきたんですよ。カボチャもちょっとなら食べられるようになりました」
「本当に?」
「はい。にーにーが帰ってきたら立派になった自分を見せたいって、すごく頑張ってます」
私はたくさんのことを話した。悟史くんはそれを聞いて、驚いたり、喜んだりした。悟史くんの表情がくるくると変わるのを見て、私はとろけそうに幸せな時間を感じていた。
不意に、悟史くんが目を手の甲で擦った。
「どうしました?眠いんですか?」
「……うん、さっき飲んだ薬の副作用が効いてきたみたい。眠くなってきた…」
「あれま。じゃあ寝ちゃってください」
「うん、ありがとう詩音。詩音のおかげで、全然退屈じゃなくて、楽しくて…」
悟史くんは毛布を引き寄せながら、むにゃむにゃと呟く。私は温かい気持ちでそれを聞く。
「でも、詩音もあの時ぐらい教えてくれればよかったのに…」
「え?」
悟史くんが眠そうな表情で微笑んで、呟いた。
「ほら、あの日バス停で、沙都子をお祭りに連れて行くよう頼んだ時」
何のことだろう。身に覚えが無い。多分それは私じゃなくて、本当の魅音のことじゃないだろうか。
そう思って口を開こうとした時、悟史くんが掠れた声で言った。
「嬉しかったよ。みお…詩音が、僕になら抱かれてもいいって言ってくれて……」
声が喉に貼り付くのを感じた。
聞き慣れないその言葉が、頭の中に不自然に残る。
抱かれてもいい?何だそれ?
「今思うと、僕たちも大胆だよね。あんなバス停なんかで、しちゃうなんて…」
バス停?バス停で何をしたの?
「月が…とても、きれいで…魅音の身体も、とてもきれいで…お互い初めてで、嬉しくて…」
悟史くんの眠そうな、とろとろとした声が、妙な歪みを持って私の鼓膜を刺す。
何これ…何それ……?
身体がどうしてか震えた。気味の悪い寒気が背筋を這う。
「魅音…ああだめだ、詩音、だよね?つい間違えちゃうや…ごめん……しっかりしなきゃ」
悟史くんが、その時のことを思い出したのか、くすぐったそうに小さく笑って、言葉を続ける。

「僕は詩音を抱いたんだよね。あの夜、あのバス停で。」
その言葉を唇から零して、悟史くんは眠りに落ちた。
今はただ、安らかな寝息が、病室に響いている。

魅音が私を裏切った。
それに気付いた瞬間、私の脳天を突き抜けたあの怒りを、私は上手く表現出来ない。
とにかくそれは強烈な憎悪と共に、私の脳みそをぐちゃぐちゃに乱した。
一年前、魅音は私を裏切って、悟史くんに抱かれた。
多分、私が魅音ではなく詩音だと悟史くんに暴露する前だ。
私も薄々、魅音が悟史くんを好きなことには勘付いていた。でもまさか、魅音が私を出し抜くなんて。
身体が震える。血液が沸騰する。
魅音は野球部のマネージャーをしたことも、買い物に付き合ったことも、おそらく全てを自分のものにして、のうのうと悟史くんと寝たのだ。
私が悟史くんをとても好きだと知っていたくせに。あの馬鹿、馬鹿のくせに、こんなところばかりは妙にずる賢くて、卑怯で、劣悪で、神経を疑う。
あの刺青の時だってそうだ。鯛を自分も食べてみたいと、あの日はやけにしつこく絡んできた。
そうだ、あいつはそういう奴だ。なのに私はあいつを信頼して、気を許してしまった。くそ!

悟史くんが眠ってしまったのは幸いだった。
事実を知って、平静を装える自信はない。悟史くんがもし起きていたら、私は悟史くんをも罵倒したかもしれない。それを考えるとぞっとする。
そして悟史くんが、自分が抱いたのは実は詩音だったと、勝手に解釈してくれたことも幸いだった。
当然私は、これを悟史くんにバラすつもりはない。私は悟史くんに最も近い人間で居続ける。これからもずっと。
だからと言って、魅音を許す気には到底ならない。たとえ悟史くんが結果的に私のものになったとしても、魅音が私を裏切っていたのは事実。
私を差し置いて、悟史くんと寝たのは事実なのだ。これを許すはずがない。


私は居ても立ってもいられず、悟史くんが眠りに落ちてすぐに病室を出た。
そして診療所を出て、診療所に横付けしておいた車の窓を叩いた。
運転席で雑誌を読んでいた葛西が、驚いたように顔を上げた。私は「開けて」と怒鳴る。
ドアが開くと、私は勢い良く車に乗り込んだ。
「随分と早いお帰りでしたね」
「まあね。車早く出して」
葛西が怪訝そうな表情で、エンジンを入れた。車は走り出す。
「どこに向かいますか」
「園崎本家」
私は短く答えて、窓の外を睨みつけた。雛見沢の静かな田んぼの並びが、私の心をなぜか苛立たせる。
魅音は今本家にいるはず。問い詰めて、土下座して謝らせてやろう。
あの馬鹿のことだから、すぐに白状するはずだ。そうだ、爪の一枚でも剥いでやるのもいいかもしれない。

そこまで考えて、ふと別の考えが脳裏をよぎった。
……そうだ、もっと効果的な方法があるじゃないか。
突如思い浮かんだアイディアに、思わず笑みが零れる。あははは、すごくいいよそれ。最高。
私は運転席に向かって言った。
「葛西、やっぱり行き先を変えて」
「分かりました。どこにします?」
私は口元を歪めて、言い放つ。


「前原屋敷」


俺は自分の部屋で、ぼんやりと布団に寝転がって天井を見ていた。
考えていたのは、もちろん魅音のことだ。というか、最近魅音のことしか考えられなくて困る。自分でも呆れるほどだ。
付き合い始めてもうすぐ一ヶ月。
最初は楽しい親友って感じだったのに、付き合うようになると、意外と女の子らしいところとか、恥ずかしがりやなところとか、涙もろいところとか、そういうか弱いところばかりが目に付くようになって、正直参っている。
俺は深くため息を吐いた。相当いかれてるぜ、俺。
この前の体育の時は、本当にやばかった。
魅音のシャツ越しに透けるブラジャーの色とか、ブルマーにぴっちりと覆われた尻のラインとか、太ももの白さや、風にそよぐ長い髪や、唇とか瞳とか、太陽みたいな笑顔とか。
そういった魅音の身体のありとあらゆる部分が、視線を惹きつけて離さなかった。
だから、体育倉庫に用具を片付けるために入った瞬間、暗く狭いその隔離された空間で、魅音の存在を至近距離に感じてることをはっきりと意識してしまい、我慢出来ずに押し倒してしまった。
正直、理性で何とか押し止まったことを褒めてほしいぐらいだぜ。でも魅音はそうは思わねえんだろうなぁ。
ああ、やりたい。
そう呟いて、ひとり自己嫌悪に陥る。下半身に脳内を占領されるなんて、情けないぞ俺。そう叱咤すると、別の声が反論する。
しょうがないだろ。魅音があんなに可愛くて、更に言えば発育が良いのが悪い。
確かにそうだ。魅音が魅力的なのが悪い。いや、もちろん嬉しいんだけど。
布団に仰向けになったまま、ちらりと目を動かす。布団のすぐ傍らの机に置いてある、ティッシュボックス。
身体を布団から起こして、俺は唇を舐めた。
一時ぐらいなら、下半身に脳内を占拠されても、責める人間はいないだろう。むしろこれは魅音のためでもある。
有り余った欲望で、魅音を傷つけてしまわないための、まあいわば惨劇を回避する方法ってやつだ。どっかで聞いたことのある言葉だな。何だっけ、思い出せん。まあいいや。
右手が下半身に伸びる。左手はティッシュボックスの方へ。ズボンのチャックに手をかけ、既に硬くなり始めているそれを取り出そうとした瞬間、
「圭一、詩音ちゃんが遊びに来てくれたわよ!」
まさにオカズにしようとしていたその人と瓜二つであり、その人の妹である人物の名前が聞こえた。
そしてその声を追いかけるかのように、足音が近付き、部屋の襖が開く。
「はろろーん、圭ちゃん……って何ですか、そんなに慌てて」
「い、いや。何でもない」
危機一髪。危ねえ危ねえ。
襖を開けたまま、怪訝そうな顔で突っ立っている詩音を身ながら、俺は苦笑いした。
「何だ詩音。遊びに来るなんて珍しいな」
「ふふ。圭ちゃんに会いたくなっちゃって」
詩音が微笑む。何だか魅音の笑顔を見たような気になってしまうから困る。
ふと、詩音が俺の机に目を止めた。
「それ……」
「ん?」
詩音が指差したのは花瓶に差してある花だった。
派手すぎず地味すぎず、大きすぎず小さすぎず、絶妙なバランスで咲いている黄色い花。
「ああ、これか?昨日お袋が買ってきたんだよ」
「へえ…私も昨日、同じ花買いました。きれいですよね、これ」
詩音は指先で花びらに触れた。優しく目を細めているその表情は、穏やかなものだった。
詩音はしばらくそうしていたが、手を花から離すと、何かを振り払うかのように勢い良く俺の方に向き直った。
「圭ちゃん、今日はこれから用あります?」
「いや、ないけど、どうして……」
不意に、視界がフッと暗くなった。
詩音の白い腕が俺の肩に伸びて、詩音の胸が俺の顔に、ぱふっ、と……
「う…あ…っわあああああっ!!」
赤面して動揺した俺は、詩音を突き飛ばした。
突き飛ばされた詩音は、「いったあーい」と言いながら俺を睨んだ。
「圭ちゃん、何するんですかあ?」
「それは俺のセリフだろ!どういうつもりだよ、詩音!」
詩音は悪びれる様子もなく、にやりと笑って言う。よく俺や沙都子や魅音をからかう時に浮かべる笑みだ。それだけで、冗談だとはっきり分かる。
「べっつにー。圭ちゃんがお姉とそっくりの私に誘惑されたらどうするのか、試してみたかっただけです」
床に座ったまま詩音は脚を動かす。太ももの間から、下着がちらちらと見える。くそ、しっかりしろ前原圭一。
「んなこと試すんじゃねえ!」
俺は怒鳴ってそっぽを向いた。すると詩音の、魅音によく似ているけど違う声が耳に届く。
「そんなにお姉が好きですか?」
「当たり前だろ!俺は魅音以外とはそういうことはしねえって決めてんだ!」
きっぱりと言い切ってやる。我ながら恥ずかしいセリフだが、本心なので仕方ない。

「お姉が圭ちゃん以外の男と、そういうことしてるとしても?」
詩音の声が、ひんやりと鼓膜を刺した。部屋の温度が急に下がった気がする。
俺は目を見開いて、詩音を振り返った。詩音はもう、笑っていなかった。

「詩音、それ、冗談だよな?」
「北条悟史くんって知ってますか。沙都子の兄で、一年前の綿流しの日の失踪者です」
北条悟史。会ったことはないが、名前は知っている。
確か叔母から虐待を受けていた沙都子をかばい、身も心もぼろぼろに痛めつけられていたと聞いた。
沙都子は未だに悟史の帰りを待ちわびていると、梨花ちゃんが言っていた。
いつか、強くなった自分を悟史に見せてあげるのだと、日々自分を鍛えているらしい。
「会ったことはないけど、名前だけなら」
「じゃあ、その悟史くんがお姉と付き合っていたっていうのは?」
………え?
………何だ、それ。
思わず、俺は口元を笑みの形に歪めた。信じられない、突然の事態に遭遇した瞬間、人は笑って精神の平静を保とうとする。まさにそれだ。
笑いながら、からからに渇いた喉から声を絞り出す。
「嘘だろ?」
「嘘じゃありません。悟史くんはお姉の恋人です。失踪当時、お姉は随分落ち込んでいました」
嘘だ。
だって魅音は言っていた。
誰かと付き合うのは、俺が初めてだと、そう言っていた。
「馬鹿ですねえ圭ちゃん。それはお姉の嘘ですよ。圭ちゃんはお姉に騙されてるんです」
詩音の甘ったるい声が、俺の身体に毒を落とす。聞きたくなくて、顔を俯ける。
信じたくない。けれど、詩音がこんな嘘をわざわざ俺につくはずがない。
ということは、魅音が俺に嘘をついていたのだ。
悲しみとも怒りともつかない、奇妙な感情が、胸のあたりを抉る。苦しくて、俺はとっさに胸のシャツを片手で掴んだ。
掌が汗でじっとりと湿り、それがシャツに伝わるのが分かる。

「そして、その悟史くんが、もうすぐ戻ってきます」
俺は顔を上げた。詩音のふたつの目が、じいっと俺を観察している。まるで底の無い、どろりとした沼のような目だ。
「悟史くんは今まで、事情があって姿を見せることも、居場所を知らせることも出来ませんでした。
 だから悟史くんがもうすぐ戻ってくることを知っているのは、偶然それを知ることが出来た私と、圭ちゃんだけです。お姉も沙都子も知りません」
感情がまるで読めない冷たい声が、詩音の唇からすらすらと出てくる。俺はただそれを聞くしか出来ない。
「お姉は悟史くんがいなくなり、そのせいで心に開いた穴を埋めるように、圭ちゃんに恋をしました。
 けれど、かつて恋人だった悟史くんが帰ってきても、果たしてお姉の圭ちゃんへの気持ちは変わらないままでいられるでしょうか。
 私はそうは思いません。悟史くんの面影を、圭ちゃんに見出しているところがあるぐらいです。きっと本物が帰ってきたら、代役なんていらなくなります」
背中が粟立つ。腹の底が急激に冷える。俺が好きだと、そうはにかんで言った魅音の笑顔が、まるで幻のように浮かんで消えた。
「お姉はきっと圭ちゃんを捨てる。悟史くんの代用品はもう必要ないと、容赦なく切り捨てる」
「やめろよ…」
「お姉はそういう女です。自分に甘くて、馬鹿で、目先のことにしか頭がいかない。
 悟史くんを好きだったくせに、圭ちゃんが現れたらすぐにそちらに行ってしまったように、悟史くんが戻ってきたら、すぐに飛びつきます。お姉はそういう人間なんです」
「やめろって言ってるだろ!」
俺は怒鳴った。割れるような声が部屋に響き、やがて静寂が訪れた。
詩音は口を閉じ、じっと黙っている。顔を少し下げているせいで、前髪が詩音の目元を隠し、その表情はよく窺えない。
「魅音のことを悪く言うな。魅音はそんな奴じゃない。たとえかつて悟史を好きだったとしても、今はきっと俺を選んでくれる。俺はそう信じる」
胸の奥に残る負の感情を振り払って、俺はそう言い放った。
そうだ、俺は魅音を信じる。魅音はそんな奴じゃない。
すると詩音は微かに口元を歪めて笑った。
「ご立派ですね。でも、これを聞いてもまだそんな口が叩けるんでしょうか」
「……何だよ」
やけに自信のありそうなその口調に、俺はたじろぐ。
詩音は顔を上げて、にっこりした。妙な表情だった。顔の全てのパーツは笑うことを選び、その仕事を全うしてるのに、それは笑顔とは全然違うものに見えた。負の感情が凝縮された、負の表情。
詩音は口を開いた。

「私ね、お姉に悟史くんの子どもが出来たかもしれないって、相談されたこともあるんですよ」
「……え?」
「結局それは誤解だったけど。でも、そういうことになる可能性のある行為を、ふたりはしていたってわけです」
その時、俺の頭の中では、あの体育倉庫での映像が再生されていた。
『ねえ聞いて。私ね、圭ちゃんとそういうことする勇気がまだ出ないの。心の整理が着くのを圭ちゃんに待っててほしい』
そう真剣な表情で言った魅音の声は、どこか強張っていて。押し倒した身体は、微かに緊張で震えていて。
俺は思ったんだ。ああ、初めてなんだな、と。
そして、誰よりも大切にしてやりたい、優しくしてやりたいって、心からそう思ったんだ。
けれど詩音は言う。
「お姉ってね、結構大胆なんですよ。悟史くんとそういう行為に及んだのって、付き合い始めてまだ一週間経ってなかったんじゃないかなぁ。
 あっさりやっちゃうなんて、お姉、すごく悟史くんが好きなんだなって思いました。
 だからもう圭ちゃんとも済ませてるかと、てっきりそう思ってたんですけど……」
詩音が笑みを含んだ声で続けた。
やめろ、もうやめてくれ。
心臓がぎりぎりと針金で締め付けられるかのように痛む。苦しい。考えたくない。
「違うんですよね。それってつまり、お姉はまだ圭ちゃんを完全に受け入れてないってことじゃないですか?
 もしくはまだ、心のどこかで悟史くんに義理立てして、悟史くんが帰ってくるのを待ってるとか……」
俺は衝動的に、机の上の花瓶を掴み、机に振り下ろした。
がしゃあああん、という音と共に、花瓶が割れ、破片が飛び散る。
詩音はようやく黙った。
「お前、何がしたいんだよ」
低い声でそう言って、俺は詩音を睨みつけた。詩音は感情の無い目で俺を見返す。
「私は妨害がしたいんです」
「妨害?」
「私、悟史くんが好きなんです。だからもう、お姉に悟史くんを近付けたくないんです」
詩音は真剣な目で俺を見て、そうきっぱりと言った。
先ほどの無表情ではなくなったことに、俺は少し安堵する。
「なるほどな。でもこれじゃ逆効果だろ?俺と魅音が別れたら、お前にとっては都合が悪くなるんじゃないのか?」
「圭ちゃんはお姉と別れません」
「は?」
余裕に満ちた声で、詩音は言い放つ。
「圭ちゃんはお姉が好きでしょう?悟史くんに奪われたくないでしょう?違いますか?」
俺は唇を噛んだ。
その通りだ。俺は魅音が好きだ。たとえ嘘をつかれていたとしても、俺は魅音を失いたくない。
魅音が悟史にとられるかもしれない。考えただけで、行き場の無い痛みが胸の内で疼きだす。
嫌だ、別れたくない。魅音、魅音……

「どうすればいいか、分かりますか」
詩音がゆっくりと俺に近付く。
俺は何故か動くことが出来ず、じっと詩音が近付いてくるのを見ていた。
やがて、魅音によく似た白い手が、俺の肩に触れる。
「圭ちゃんが、お姉をめちゃくちゃにしちゃえばいいんですよ」
「え……」
詩音が笑う。魅音と同じ長い髪が、目の前でふわりと揺れる。
「閉じ込めて、押し倒して、力ずくで犯すんです」
魅音の声のトーンを少し高くしたような声が、耳の中に流れ込む。
それは俺の脳みそを麻痺させる、優しく、甘ったるく、凶悪な言葉。俺は熱に浮かされたように、ぼんやりと詩音の言葉を繰り返す。
「犯す………」
「そうです。犯すんです。泣き叫ぶお姉の服を引き裂いて、腕を押さえつけて、好きなように蹂躙するんです。
 それこそ、もう二度と悟史くんのところになんて戻れないぐらいに」
魅音と瓜二つの顔が、息がかかるぐらい近くに来る。それは俺の心をかき乱すのには十分な距離だ。

「どうですか圭ちゃん。お姉のあの身体に、自分の汗と唾と精液の匂いを、染み付けたいとは思いませんか?」

魅音、魅音。
魅音が泣いている。泣いて、縋って、俺にやめてくれと懇願する。けれど俺はやめない。嘘をついた罰だ。
俺は魅音の体内を押し開き、精液をあの白い肌にぶちまけ、蹂躙する。
魅音が駄目になるまで、延々と、徹底的に犯し続ける。
やがて魅音は気付くだろう。悟史のところになど行けないぐらいに、めちゃくちゃにされた自分に。
うつろな目をして、精液にまみれた自分の身体を見つめながら、俺のものになってしまった自分の運命を泣き、絶望するだろう。
そして受け入れる。諦める。俺だけを見つめ、俺だけと手を繋ぎ、俺だけのことを考える。
そうすれば、魅音はもうどこにも行けなくなる。俺だけのものになる。

身体が興奮で震える。ズボンの中の性器が痛いほどに勃起しているのが分かる。血が脈を打っているのが腰に伝わる。
そうだ、そうすればいいんじゃないか。世界がぐるりと反転する。あまりにも単純な解決法に、脳みそのどこかが音を立てて弾け飛ぶ。
魅音を征服する。俺だけのものにする。悟史なんかに渡すものか。魅音は俺だけのものだ。誰にも譲らない。あいつを誰にも渡さない。

もちろんこれは独り言ですけど、と前置きして、詩音が口を開く。
「明日、鬼婆は会合で深夜まで帰らないそうです。お手伝いさんもいません。部活をしないですぐ帰れば、それなりに時間はありますね」
明日。そうだ、明日だ。
明日なら俺の両親も仕事で東京に行く。帰りが遅くなっても誰にも咎められない。

「私もう帰りますね。まだ用があるんです」
詩音はまるで何もなかったかのように、平然と笑顔でそう言った。
「ああ、分かった。またな」
「ええ、また」
詩音はくるりと身を翻して、部屋を出て行った。その背中を俺は複雑な気分で見つめる。
詩音。腹は立つけど、感謝するぜ。お前が教えてくれなければ、俺は何も出来ずに魅音を失っていたかもしれない。

俺はふと机を見た。
花瓶の破片が散らばっていると同時に、机から水滴がぽたぽたと畳に落ちている。
そしてその水が滴る先では、先ほどまでぴんと背筋を伸ばして咲いていた黄色い花が、水浸しになって、だらりと横たわっていた。
それは俺に、ぐったりと横たわる魅音の姿を連想させた。
下半身が熱い。俺は先ほど手を伸ばしかけたティッシュボックスに向かって、もう一度手を伸ばし、ズボンのチャックに手をかけた。
今度はもう、遮るものは何もなかった。


前原屋敷から出ると、私はまっすぐ車が停めてある場所に向かった。
「葛西、開けてください」
車のドアが開いた。私は再度車に乗り込む。
運転席の葛西がバックミラー越しに私を見たのが分かった。
「どうしますか?」
「もう一度、診療所に向かって」
「了解です」
車が動き出す。私は窓の外の雛見沢の景色を見ながら考えていた。
先ほどまで、私は怒りで興奮していた。お姉へのあてつけに、圭ちゃんと寝てやろうとまで思っていた。
けれど実際会って、部屋のあの花を見て、考えが変わった。
私は悟史くん以外の人とは寝たくない。でも、お姉への復讐はしたい。
そう思った結果、私は圭ちゃんにやや脚色して捻じ曲げた事実を話し、お姉に酷いことをするよう仕向けることに成功した。
「詩音さん、落ち着きましたか」
「え?」
私は窓から葛西へ視線を移す。
「先ほどまでは、随分興奮していらしたようだったので。どうです、気は済みましたか」
「ふふ、どうでしょう。それは圭ちゃんのこれからの行動しだいかな」
私は笑って言った。確かに怒りは大分薄らいでいた。我ながら、本当に性格が悪いと思う。
まあいいさ。私は悟史くんのお見舞いでもしながら、外側からふたりの様子を窺うとしよう。
せいぜい上手くやってくれ、前原圭一。
「着きましたよ」
気付くと、既に私は診療所の前に来ていた。
私は車を降りて、診療所へと走った。
悟史くん、もう目は覚めたかな。何も言わないで出てきちゃったから、心配してるかもしれない。
私は軽やかに地面を蹴る。風が吹き、森がざわめいている。ああ、ひぐらしがどこかで鳴いてる、とぼんやり思う。
診療所のドアを開けながら、私は背中で、ひぐらしの鳴く声がいっそう大きくなるのを聞いた。


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最終更新:2007年03月10日 01:57