落ち着け、クールになれ、前原圭一。
半歩、一歩と後ずさりしていく。立てないので、両手が足の役割をしている。
俺の部屋ほどに狭いこの家では、それだけでもう壁に到達してしまった。
「くぅ……」
頭が揺れている。暗闇の中、視線の固定がし辛い。そのせいで余計に気持ち悪くなってくる。
吐き気に強張らせていた体の力を抜くと、背中がひんやりと冷たく感じた。
思わず、柱に背を預けてしまっていたのだ。
上半身が裸だったため、素肌が直接に触れて震える。
「ワインくせぇ……」
体の内からも外からも濃い葡萄の匂いが立ち上っていた。
「……」
そのとき、この部屋でもう一つの気配が動いた。
「圭一ぃ」
「梨花ちゃん……」
テーブルのワイングラスが二つ、倒れている。しかし畳には垂れていない。
そこで曖昧だった記憶が蘇ってきた。というか、ワイン強烈すぎるぞ……。
何故かかなり年下の梨花ちゃんにワインを振舞われていた俺。
もちろん飲めるはずがなく、グラスが二個用意してあったことにも突っ込み。
『圭一は、お酒が、飲めないのですか?』
いや、飲んだらいけないんだよ、と言わずワインを取り上げなかった数時間前の俺にレナパンほどの衝撃を与えたい。ジュースで薄めているとはいえ、妙に様になる飲み方でワインを流し込んでいく梨花ちゃんのその挑発的な言葉に、俺は安くのってしまったわけだ。
こんなもの。俺を誰だと思ってやがるんだ――。
「うっぷ……」
お酒は二十歳になってから。
その後、すっかり出来上がってしまっていた梨花ちゃんと俺。
饒舌になった者と眠気に襲われていた者がおり、当然俺が後者だった。
俺はついうっかりグラスを倒してしまい、ワインを自分の体に零してしまった。
そこから意識が飛んでいる。限界がきて眠りこけてしまったのだろうか。
「なんで逃げるのですか」
そして目を覚ましたら色々なところを舐められていたわけで……。
服を脱がしてくれたのはワインを零したまま俺が寝てしまったからだと理解しても、舐めるのはいったいどういうことなんだ。首筋や頬にかすかな感触が残っている気がする。はっきりと覚えていないことが口惜しい……ってそうじゃねぇ!
とろんとした目で俺を見ている梨花ちゃん。
薄ら笑いがデフォルトになってしまったようにへらへらしている。
それなのに俺を問い詰める声はきつい。
「逃げないでほしいのですよ」
「く……!」
酔っ払っても性格と顔を使い分けることは達者だった。
四つんばいになって俺のほうにやってくる。ふ、ふ、ふ、と膝の移動にあわせて近づくにつれ、読み取れる感情も増えてきた。好奇心とか期待とか好意とか。
ただグラスを片手に持っている時点で、これからそれらの感情がからかいで含まれるような気がしてならない。
「圭一も舐めますですか?」
「は?」
幼い顔に不釣合いな、誰の心でも透かしてみせるような憎らしい微笑みと。
ふと目がいってしまった首元とワンピースとに挟まれた空間。月が雲間に姿を現したのか、少し明るくなった部屋の中で白い肌とその上に可愛らしく色づいたものを見つけてしまった。
本能的に邪な考えを浮かべた俺の心を本当に見透かしたように、にんまりと、まるでそのことをあっさり許したみたいに梨花ちゃんは笑った。
ワインをぐびぐびと飲み始めた。赤い液体が口元からどんどん溢れていった。それを見ていると、飲んだというよりは口に含んだといったほうが正しいのかもしれない。それでもある程度は飲んだのだろうが。……俺、梨花ちゃんがお酒飲むのにまったくの違和感を抱かなくなっている……。
「……つーか、怖いぞ……」
「んむ?」
そうして赤い液体を垂らしていると、吸血鬼に見える。言わずもがな梨花ちゃんのもともと持つ神秘的な雰囲気ともあいまって、余計に不気味だった。いったい何をするというのか。
と、膝にかかるワンピースの裾をつかみ、持ち上げた。
瞬間、酔った頭に拳骨を食らったような衝撃を受けてしまった。
「ってうわぁ!?」
晒された素肌から目を逸らそうと、またこの行動の真意を確かめようと、梨花ちゃんの顔を見上げると、少し上気していたように思えた。相変わらず笑みは消さないが。
ちょっと俺の反応を面白がってもいる……。
「な、何してんだよ梨花ちゃんっ」
そんなに大声でもないのだが頭が痛くなる。次いで判断能力が鈍る。
梨花ちゃんは、ワインの雫を指で掬い、それを胸に塗りたくっている。そこまで粘性があるわけでもないので、塗るというのは少しおかしい気もするが。とにかく梨花ちゃんはそうしているということだ。
「ボクのお胸は小さいですが、こうするとちょっと大人っぽく感じるかもですよ……?」
かすかに息切れしているのは、敏感な部分を何度も弄っていたからだろう。両手で引っ張ったり、寄せたり、先っぽには丹念にワインを弾かせて。
「んっ、んっ、んっ」
「……ちょっと、待て」
つまりはあまり楽しんで揉むことのできない(あくまで梨花ちゃん主観。俺はそうは思っていない)自分の胸に何かしらスパイス的なものを含めたかった、とそういうことか。
「さ、圭一に舐めてもらうのですよ、にぱー☆」
ギャップが……! 道徳的な罪悪感が……!
ぎりぎりの一線をそんな健全な笑顔で乗り越えてきちゃだめだろう!
俺が激しい葛藤のうちにいる間も梨花ちゃんは迫ってくる。わくわくとした面持ちで、準備のできた体を俺に差し出そうと目の前に立つ。
「……」
梨花ちゃんの体を滑ったワインは少しだけ下着にまで付着していて、胸だけじゃなくもっと大事なところも舐めることになるんだろうか、と俺はぼんやりと考え始めていた。
その時点で、難攻不落(と俺が勝手に決めている)理性が崩壊してしまったということだ。
梨花ちゃんの細い腰を両腕の中に囲うと、舌が届く距離まで引き寄せた。
小さな乳首をころころと舌先で転がす。なるほどワインの味がした。陶然とした気持ちになってくるのはアルコールに酔うからだろうか、それとも頭上で気持ちよさそうな声を吐き続ける梨花ちゃんのせいだろうか。理性崩壊とはいっても、急にむらむらはしてこない。むしろじっくりと今の時間を満喫したいという気になっていた。
しかしそれは梨花ちゃんの突然の行動によってあっさりと終わってしまう。
頭のてっぺんが突然締め付けられたかと思うとなにやら息が苦しくなり、必死にもがくうちに俺は顔を出していた。梨花ちゃんのワンピースの中から。びりっと聞こえたのは肩にかける部分が破れてしまったからだった。
「あーあ、破れちゃったのです」
「梨花ちゃん……急になんだよ」
「圭一が逃げるからなのですよ」
少し首を後ろに逸らさないと、相手の顔に焦点を合わせられない。それほど近い距離で俺たちは会話をしていた。
「本当はすぐしようと思ったのですが、ちょっと気持ちよかったので今まで待ったのです。だけどもう逃げられないのですよ」
ちょっと、というのは男として引っかかる。
それにしても、密着しているから見えなくても分かるが、こりこりとした硬さがちょうどいい具合に俺の胸を擦っている現状を理解していてそう言うのだろうか。
そう考えて、ざわりとサディスティックな気持ちが芽生えもしたが、すぐにしぼんでいった。それを向けたい相手がまったくの受け入れ態勢不十分、というよりハードルが高いと表現したほうが確実に正解だ。
梨花ちゃんは俺が軽く身じろぎするたびに、「んっ」という声とともに恍惚とした表情を見せていた。きまりが悪そうに俯くのでもなく、照れるのでもなくそうした様子なのは、俺の息子が今どんなに張り詰めているのかも伝わっているからで(さっきから太もものあたりを押し上げている感触がある)、梨花ちゃんの反応を逆手にとり攻める権利など俺にはないことを、梨花ちゃんがよく分かっていたからだった。何しろ俺はどこにも奉仕してもらうことなくギンギンになっているもんで、仕方ない。というか、男の本能としてどうしようもないところではある。
とにかく攻める要素もあったが、それが跳ね返される要素も十二分だったわけで。
梨花ちゃんの瞳に揺れ動くものを見つけようとした企みはあっさり頓挫。
かわりに目が泳いでいるのは俺のほうで、それを面白そうに眺めているのが梨花ちゃんというほとんどいつもの構図になってしまった。ついつい腰を引いてしまう。
「キスしますですか?」
いつの間にか梨花ちゃんの細腕が首に巻きついていた。
「き、キスですか?」
なぜ敬語なのかは推してはかるべし。
「ボク、圭一が寝ている間に何度かしましたのです」
「そ、そうなのか?」
「だからその分を取り戻してほしいのですよ」
「プラスマイナスゼロ、みたいな考えだな……」
どっちがマイナスだろう。梨花ちゃんからすれば今の俺はマイナス状態ということだが。
そういえばファーストキスだったんだっけか。……それを覚えていないのは確かにマイナスかもしれない。
「ちなみに十六回なのです」
「それ、何度かとは言えないぞ。……そろそろ開放してもらいたいんだが。逃げないから」
梨花ちゃんのワンピースは当たり前に梨花ちゃんに合っているサイズなわけで、いくら肩紐がぶらぶらになっているとはいっても、俺が頭より下をそこから出すことはできないのだ。
ただそこで問題が生じる。
「ボクが出たほうがいいですか」
「それだとパンツ一枚になっちゃうだろ」
「別にかまいませんですが。……じゃあ圭一が」
「それだと……」
梨花ちゃんの胸やお腹、果ては大事なところにまで至近距離で顔を近づけなければいけないことになり、果たしてわが愚息の暴走をそこで食い止められるのかという……。
「やっぱりこのままがいいのですか?」
「……梨花ちゃんが出てくれ……」
言うが早いか、小さい体を滑らせてワンピースから抜け出した。ぐだぐだな理性のうちに、目を瞑っておくべきという良心を迎え入れようと俺が孤軍奮闘しているのを待つこともなく、梨花ちゃんは裸身を俺の前に晒してしまった。かまわないと言っていたはずなのに両腕で前を隠しているのはこれもまた策略のうちだろうか。確かにそのほうがそそられるものがあったし、隠しているから見ていてもいいのだ、というこちらに都合のいい解釈が出てもくる。
俺のシャツを拾い、すぐに纏ったところを見ると単に恥ずかしかったのかもしれない。しかしそんな俺の期待とは裏腹に、梨花ちゃんはぱたりとこちらに背を向けて倒れてしまった。
「眠くなっちゃったのです……」
こちらのほうがよっぽど年相応だ、というような甘い声を出して梨花ちゃんは寝てしまった。お酒の効果が切れたのか、それとも効き始めたのかよく分からない。
このあまりにもタイミングのよい寸止めは、もしかして今までの一部始終は俺が見ている夢だったのではないかとの疑念を抱かせる。
「梨花ちゃん、あの、き、キスは……?」
なんだかひどく情けない。それが分かってとても恥ずかしい。
「ボクが寝ている間にしていていいのですよ……」
その言葉を最後に梨花ちゃんは寝息を立ててしまった。
気まぐれ女王様の突然の就寝に俺は戸惑わざるを得ない。
「さて、どうしようか……」
胸に抱える破れたワンピース。半分裸の梨花ちゃんと俺。転がるワイングラス。
どう考えても……。
「いろいろとまずいよなぁ……」
もしも起きたときに梨花ちゃんが今夜のことを覚えていなかったらどうしよう。
割と深刻な問題なのだが、どうも身が入らない。というのもまた眠たくなってきたからだった。
梨花ちゃんのワンピースが掛け布団代わりになっている。匂いを嗅ぐなんてこと、俺はしない。だって染みたワインの匂いが強烈すぎるから。というか、早く洗濯でもなんでもしないとまずい気がする。
梨花ちゃんが寝返りをうつ。その寝顔に心を奪われる。
とりあえず八回だけキスをしておいて、後の半分は起きているときにねだることとしよう……。
問題は山積みのような気がするが、それが目下解決すべき一番の山に違いなかった。

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最終更新:2008年07月08日 20:55