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ひ ぐ ら し のく 頃 に ~ 鬼 畜史 ~


第八話~罪滅し~





「そんな! あの悟史君が……? そんなの有り得ません……!」
「監督。私だって信じたくはありません。けど、事実なんです!」

村唯一の医療施設で、私たちは言い合っていた。
魅音たちの隙を突いての脱走。
私はその後、診療所めがけて夜の雛見沢を疾走した。
夜ということもあり、怪訝な表情で私を出迎えた監督だったが、私の必死な顔を見てすぐさま相談に乗ってくれた。
だが、私の突拍子のない話は、監督をすぐに納得させることはできなかった。
当たり前だろう。特に監督は悟史君を治療してきた経歴もあり、悟史君をよく知っている。
その悟史君が、人を陥れるようなことをするなんて、私が監督の立場なら信じられない。
普段は冷静な監督が髪をしきりに掻き分け、眼鏡を曇らせるのを私は初めて見る。
監督は一度大きく息を吐いた後、眼鏡を右の中指でクイッと押し上げて位置を修正する。
これは監督が落ち着くときにする動作。私の情報を裏打ちするように、彼の表情はいつもと変わらなくなった。
私よりも長く生きているだけあって、不備の自体にもある程度慣れているようだ。

「では、質問します。あなたが悟史君の様子がおかしいと感じたのはいつぐらいからですか?」
「悟史君が編入してから三日後ぐらいだったと思います」

沙都子に言われるまで悟史君に何の疑問も持っていなかった。私を撫でてくれた在りし日の彼と全く変わらなかったように感じた。
でも、編入してきた日から悟史君の計画は始まっていたのだ。
まずは私を。次に魅音を堕とす。
こうすることで雛見沢での不祥事を園崎家の権力でもみ消すことを考えていたのだ。なんて冷静で計画的な犯行。
私ですら思わず舌を巻いてしまう。
しかもその計画はたった二日で成し遂げられ、次からはその計画の幅を大きく広げることに成功している。

「次の質問ですが、彼が症候群を再発させているとどうして考えましたか?」
「最初は予感のようなものでした。もしかしたら、彼は何らかの病気を抱えているのかもしれないと。
確信したのは沙都子に教えられた後です。悟史君の放つ鋭い眼光に捉えられたとき、彼が悟史君の姿をしている
別人ではないかと思いました。そしてそのときに症候群を発症してるんだと気付いたんです」

監督には今まで起こった全てを話した。
恥ずかしくもあったが、今はそんな面子を気にしている場合ではない。
最初に騙されて抱き合ったことから魅音に辱められたことまで。
唯一の味方とも言える監督は、それら全ての話を聞いても黙っていてくれた。
静かに私の話に耳を傾け、全てを話した後でも軽蔑したりせず「そうですか……」と呟いてくれた。
それがどんなに嬉しかった事か。
信じてくれるなんて最初は期待していなかった。
一か八かの大勝負。私はその賭けに勝ったのだ。
だけど、流石に悟史君が症候群を再発させているかもしれないという可能性については、彼は疑った。
それは彼の医者としての仕事が完璧ではなかったという事にも繋がるのだから。

「監督。今は最悪のケースを前提として動かなければなりません」
「……ええ、そうですね。詩音さんがここまで話してくれたんです。その決意を無駄にはさせません」

監督はばつが悪そうに頭を掻いた後、椅子から立ち上がると近くの白い棚に近づき、何かを探す。
彼の目は真剣そのもので、彼が私の相談に真面目に乗っていることを覗わせた。
やがて監督は一つのケースを握り締め、私のところまで戻ってきて、椅子に腰掛ける。
見た目にも大きく頑丈そうなケースを監督が開くと、そこには大きな注射器が収められていた。

「最新版のH103という薬物です。雛見沢症候群のL5クラスの患者を、L3クラスまで症状を抑えることが出来ます」
「これを使えば、悟史君を治せるんですか……?」

それなら早くこれを悟史君に打てばいいんだ。それならこの悪夢は幕を下ろす。
だけど監督は私のそんな淡い希望を、ゆっくりと残念そうに顔を横に振って掻き消した。

「……いいえ。残念なことに、これは症状を抑える薬であって、症状を治療する薬ではないのです」
「それでも、悟史君は元通りに生活できるんですよね?」
「はい。一日二本の注射さえ忘れなければ普通の人となんら代わりの無い生活を送ることが出来ます」
「良かった…………」

あの昭和57年の関係を再び取り戻せるのなら、私は何だってしてみせる。
悟史君が好きだということもあるが、あと一つ、今の私にとって重要な大きな支えがあった。
それは沙都子との誓い。
悟史君の言いなりになっていた私を、目覚めさせてくれた沙都子。
でも、沙都子はあくまでか弱い女の子だった。
悟史君の策略にはまり、一人では決して抜け出せない沼の中に沈もうとしている。
私が沙都子に手を差し伸べるんだ。絶対に私が沙都子の目を覚まさせる。
あの時沙都子がしてくれたように、きっと。
だが、それは悟史君という核を取り除いた後だ。
環境を変えなければ、沙都子は決して元通りに戻れないだろう。

「一番の問題は、これを誰が注射するかです。詩音さんの話から推測すると、悟史君はL5クラスに近いようです。
今の彼に近づけば何をされるのか分かりません。それは詩音さん、あなたであっても例外ではないのは既にお分かりですね?」

監督はすでに私が悟史君に注射すると決意していることを汲み取っているようだ。
よく私という人間を理解してくれている。
それにこの出来事はあくまで私たちだけの問題だ。
富竹さんもいないし、元より番犬を呼べるような大事でもない。
そんな環境で監督はただの非力な医者だった。
警察への訴えも考えはしたが、証拠も無いこの状況下で果たして助けてくれるだろうか? ……無理に違いない。
それに、下手をすれば死んでしまうかもしれない今回の出来事に、監督をこれ以上踏み込ませるわけにもいかない。
結局は私たちの内の誰かが悟史君を止めなければならないのだ。そして今動けるのは私だけ。
もしかしたら警察は動いてくれるかもしれない。でもそれは『何か』が起こった後だ。それでは遅すぎる。

「分かっています。それでも私は彼を救いたいんです」

監督は真っ直ぐ私の目を捉えている。私の覚悟を理解した彼の最後の詰問。
彼の真剣な眼差しは言葉よりも確実に私の心に直接訴えかけてくる。
悟史君に注射を刺すことを失敗するのは、すなわち私という人間の生命の危機。
もし生かされても、その先にあるのは悟史君の手による私という精神の危険。
そこまで理解しながら彼は私に問う。
本当に、いいんですね?
それでも私の意志が揺らぐことなどない。
私の存在は彼を救うためのもの。
すでに穢れたこの身体で彼を助けられるのならなんでもしよう。
心に灯された勇気という炎が激しく燃え盛る。
そして勇気を覆っていた恐れは、激しい業火に照らされて消え失せた。
監督は私の心を確かめたあと、私にあの薬物を渡す。
中に入っている透明な液体が小刻みに揺れていた。

「くれぐれも取り扱いには注意してください。間違えても自分に使ったりしないように」

監督の言葉に重々しい印象。万が一にでも、自分に注射でもしようものなら死に至るのではないかと想像する。
きっとこれは症候群を発症した者にだけ効果を発揮する薬物。
そして監督の血の滲む様な努力が完成に導いた貴重なもの。
絶対にこの一本を無駄にするわけにはいかない。
掌の注射器をしっかりと握り締める。
監督はしばらく私の様子を見ていたが、突然何かに気づいたようだ。

「でも、これからどこに泊まるつもりですか? 恐らく詩音さんの自宅はもちろん、雛見沢で安心できる場所なんてないでしょう」
「ぁ…………!」

そういえば寝る場所なんて考えてもいなかった。抜け出すことで精一杯で、そこまで頭が回らなかったのだ。
頭を両手で抱えながら寝れる場所を考えている私を見て、監督は微笑みかけてくれる。

「そんなことだろうと思いましたよ。診療所には空きスペースなどいくらでもあります。とりあえず、今日はここにお泊り下さい」

全く持って頭が上がらない。監督にはお世話になりすぎている。
でも今日ばかりは監督の言うことを素直に聞いたほうが言いようだ。
近くのベッドに寝転がると、それまで押さえていた眠気や疲れがどっと押し寄せてきた。
もう、今日はいいよね?
自然と目蓋が重くなっていき、目が閉じられる頃には、私は意識を手放していたのだった――。

翌日の昼間、監督の白い車の中に私と監督の姿はあった。
がたがたと舗装されていない道を抜け、興宮の町が見えてくる。
いつも通りの興宮の風景。仕事に向かう人や買い物をする人が多く行きかい、車が道路に並んでいる。

「詩音さん。見えてきましたよ」
「ありがとうございました。もうここら辺りで下ろしてくれて結構です」

信号機で止まった車から飛び出て、バタン、と扉を閉める。
監督は不安げに私を見て何か言いたげだったが、「頑張ってくださいね」と一言告げて車で走り去っていった。
ポツンと一人興宮に残された私。そこからしばらく自分の家の方向に歩き、家の前の公園で一休みする。
これは吉とでるか凶とでるか。
私が何をしに興宮へ来たかというと、簡単に言えば服を取りに来たのだ。
もちろん私服などではなく、魅音と全く一緒の服だ。
私が考えた作戦は魅音と入れ替わり、悟史君が隙を見せた瞬間に治療薬を注入するという、シンプルだが意外と難しい作戦だ。
まずレナさんと魅音の二人が邪魔である。
レナさんはたまに鋭いことがあるし、魅音は変装の邪魔になる上、沙都子や梨花ちゃまもいる。
そう簡単にいくとは思えないが、私はこの作戦に全てを賭けることにした。
これ以外に思いつかなかったし、私でも悟史君に近づける唯一の作戦だったからだ。
そして最初の問題点が『アレ』だ。
今、私は自分の家の玄関がよく見える公園から家を監視しているのだが、私の家の玄関の前に人がいるのだ。
白い服に、白い帽子、清楚に切り揃えられた髪。それは間違いなく私服姿のレナさんだった。
彼女はきょろきょろと辺りを伺い、何かを探している。探し物は恐らく私だろう。
私が脱走したので、自分の家に帰っているかもしれないと悟史君が見張りを付けた、といったところか。
でも、家に入らないと服を手に入れることができない。

虎穴に入らずんば虎児を得ず、か――。

私はポケットに忍ばせていたスタンガンを握り締め、レナさんに気づかれないように家に近づいていく。
そして私の部屋の階の壁に張り付き、見つからないようにそっと家の前を伺った。
レナさんの様子は先ほどまでと違わず、きょろきょろと辺りを伺っている。
恐らく私の接近には気づいていないはず。
だが――――。

「ねぇ……。そこに居るの誰なのかな、かな?」
「ッ!?」
「隠れてないで出てきなよ。聞いてる~?」

明らかに私に当てた言葉。声にも何か怒りのような感情が含まれていた。
どうする園崎詩音……?
今ここで逃げ出すのか? そんなことしても何の解決にもならないってわかってるじゃないか。
気づかれているのなら選択肢は一つ。

先手必勝!

私は壁から躍り出て、レナさんがいる場所まで一直線に走る。勝負は一瞬で決まるだろう。
まさか飛び出てくるとは予想していなかったのか、彼女は突然出てきた私に驚き、
私は体勢を整えるレナさん目掛けてスタンガンを構える。
電流が鮮やかに迸るのと同時に繰り出されるレナさんの右ストレート。
その一瞬だけスローモーションになる世界。
風を切り裂くレナさんのパンチは私の左頬をかすめ、私のスタンガンは彼女の腹部を完全に捕らえる。
スタンガンの音が鳴り響き、レナさんの悲鳴を遮断した。
がくりと力なく倒れこむレナさん。スタンガンを当てられたお腹を抑えながら私を見据えている。

「詩ぃ……ちゃん……」
「スタンガンのパワーは抑えてあるので、すぐに立てるようになると思いますよ。……縛らせてもらいますけどね」

家の中からビニールの紐を取り出し、いまだに身体の痺れが取れないレナさんの両手両足を縛りつける。
これで動くことはできない。誰かに見つからないように、レナさんを自分の家の中に放り入れる。
さて、魅音の服は…………。がさごそと私のたんすを漁り、発見。
これで用は済んだ。次の計画に入らなければ。
レナさんを家の中に放り入れ、そのまま立ち去ろうとすると彼女の低い声が耳に入った。

「罰なんだよ……」
「え…………?」
「これは悟史君を裏切った私たちのけじめ。私たちには悟史君の願望をかなえる義務がある」
「悟史君を……裏切った……?」

レナさんの言っている意味が分からない。
彼女が悟史君を裏切ったことなどあっただろうか?
うつぶせに伏せたままのレナさんの言葉には何故か達観したような含みがあった。
彼女は誰に言っているのかも分からないほど小さな声で言葉を続けていく。

「あの時私たちにも何か出来た筈なのに結局何もしなかった。……引っ越してきてすぐだったから、なんて甘やかすつもりもないよ」
「………………」
「だからね? 悟史君がもし帰ってきたなら悟史君の望むことをなんでも叶えてあげようって思った」

それは昭和57年の悟史君の失踪を指して言っているのか――。
私は彼女の告白にただただ耳を傾ける事しか出来ない。

「この前教室で悟史君たちに襲われたとき、途中で悟ったんだよ。
『抵抗するのはやめよう。私たちは悟史君を見殺そうとした。結果的には死んでいなかったけど見殺しにしようとした。
ならこれは当然の報いなんだ。彼の憎しみは素直に受け止めて、彼の言うとおりに行動しよう』ってね」
「レナさん……」
「そしたら、なんだか全てがどうでも良くなっちゃった。頭を空っぽにしてたら、その中に快感が流れ込んできて、
私はその快感に無我夢中になった。後は悟史君の従うがままだったんだよ。あははははは……」

自嘲気味に笑い出すレナさん。
知らなかった。
レナさんはレナさんなりに悟史君を救えなかったことに悲しんでいたのだ。
そしてその罪に対するけじめまで自分で行っていた。
レナさんは敵ではない。それが明確に分かってしまった。
私は家の中にあったはさみを取ってきて、それをレナさんの紐に近づける。
レナさんの紐をはさみで切って開放しようとすると彼女は微笑みながらそれを拒んだ。

「そんなことをしたら駄目だよ。私は出来る限り悟史君の力になろうと思ってる。その紐を切ったなら私は詩ぃちゃんに立ちはだからなければならない。だから……ね?このままにしておいてくれないかな、かな?」

彼女の思いを知ってしまったからこそ、この縄を切ってしまうことができない。
レナさんは悟史君の罪滅しをしたい一方でもうこんなことに加担したくないのだ。
私は結局、縄を切らないことにした。
レナさんから離れ、玄関で靴を履く。玄関の扉に手をかけ、扉を開け放つ。
扉を閉めて出て行くときにちらりと垣間見えたレナさんの顔は安堵していて、レナさんの罪悪感を利用している
悟史君を早く元に戻そう、そう強く思いながら扉を閉めたのだった。

続く

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最終更新:2008年06月16日 15:23